「ただいま」と言ったら「お帰り」と返して

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 元々、私と直矢は、遠矢も含めて幼馴染だった。  どちらの家も共働きだったため、近所の学童保育に預けられ、一緒に夕方まで勉強して、一緒に家に帰って食事をしていた。  私と直矢は同い年で、遠矢は五つ下。私が直矢と恋愛していたのを、遠矢が見守っているのがデフォルトになっていた。 「ずっと一緒にいたのにさあ……まさか三日で未亡人になるなんて思ってもみなかったんだけれど」  ウェディングドレスを着たのはつい三日前。そのときが幸せの絶頂だった。  真っ白な年不相応のプリンセスラインのドレスが一転。真っ黒な喪服に着替え、こうしてしめやかに喪主を務めている。  直矢はいきなり心臓発作になって、そのまま死んでしまった。たまにあるらしい。原因不明の心不全が。直矢も典型的な原因不明な心不全により亡くなった。  いきなり死んでしまったことで、私の心は凪いでいた。  一緒にいるのが当たり前だった人が、結婚した途端に死んでしまったのだ。ここで大泣きすればよかったのに、細々とやらなきゃいけないこと、やらないと駄目なことが私を追い立てて、泣く暇をちっとも与えてはくれなかった。  本来、死亡手続きというものは、喪主の後追いを防ぐためのものだったらしいが、今の私は後追いはしないから、せめてきちんと直矢を看取らせてほしくて仕方がなかった。  ずっと一緒だった大事な人なんだ。ちゃんと悲しませてほしい。ちゃんと悔やませてほしい。 「電子バンクの解約方法ってどれ!?」  ……本当に細々としたやり取りのせいで、とうとう耐えきれなくなった私は、自分の貯金を切り崩して、全部司法書士にやってもらうことにした。そうでもしないと、私は泣く暇さえ与えられなかったのだから。 ****  あれだけ細々としたやり取りを金の力で解決したあと、私は残りの人生をどうするべきかと考え込んでいた。  忌引きでしばらくは休みだ。あとはどうしよう。  気晴らしをする気力もなく、なにかを食べる気にもなれず、私は部屋に横たわる。この部屋はよそよそしい。直矢と一緒に結婚前にどんな家具を買うかと、あれこれと家具屋を回って買い集めたものだ。  大きなテーブル。椅子は三つ。タンス、クローゼット、カーテン。  まだ思い出をつくる前に、思い出のほうが先になくなってしまったのだから、家具に思いが染み込まないんだ。  もうなにも飲まず食わずだったら、彼のもとに行けるだろうか。私がそうぼんやりと虚ろな目で天井を眺めているときだった。  急にチャイムが鳴り、我に返る。 「は、はーい!」  玄関の魚眼レンズを見て、少し固まった。  やってきたのは遠矢だった。 「よっ。寿葉ちゃん。まだ休み?」 「……遠矢。どうしたの? 大学は?」 「うーん、しばらく教授が学会で休みなんだよな。だから休み。それより寿葉ちゃん食事食べた? 俺腹がペコペコなんで」  そう言いながら持ってきたものに、私は思わず二度見してしまった。  牛タン弁当。有名牛タンチェーンの、牛タン弁当だった。中は牛タンの塩焼き食べ比べセットに、ご飯に、わずかばかりのお新香と、とにかく牛タンを食べるための弁当だ。匂いが際立っているところからして、まだ出来たてだ。  その匂いを嗅いだ途端に、ギュルルと腹の虫が鳴った。現金にも程がある。  その音を聞いて、瞬間に遠矢はニヤリと笑った。 「ほら寿葉ちゃん食べな。俺も食べるから」 「うん……ああ、飲み物ないね。すぐお茶出すから」 「いいよ。どうせ兄貴のことだから、冷蔵庫に烏龍茶のペットボトル無茶苦茶入れてんだろ。それ持ってくるからさ」  遠矢はうちの新婚家庭にまだ馴染みがない癖して、直矢の癖は熟知していた。あっさりと烏龍茶を取り出してきて、ふたりでそれを分けていただきはじめた。  焼きたての牛タンのコリコリとした食感は、どうしても白米に合う。お新香の甘塩っぱさ、烏龍茶の無愛想な苦み。全ては牛タンを食べるためにあり、あれだけ悲壮感が漂っていたのに、あっという間に牛タン弁当は空になってしまった。 「……ごちそうさま」 「ごちそうさまあ。やっぱりこの店の牛タンおいしかったよなあ。寿葉ちゃんもうすっかり空っぽじゃん」  にやにやと笑われて、私は居たたまれなくなる。 「ごめんなさい……がっついて」 「なんで寿葉ちゃんが謝るの? じゃあ、ゴミ回収。たしか下のゴミ捨て場、常設だよね?」 「うん。そうだけど……」 「なら俺が捨ててきます。寿葉ちゃんはステイ。また遊びに来るから、そのときはお茶用意しておいてね?」 「う、うん……」  遠矢は昔から要領のいい子だった。  私や直矢が考え込んでいるような問題も、横からひょっこりと顔を覗かせたと思ったら、最適解を叩き出して、悩んでいた私たちに対する嫌味かと文句を言ったら、「考え込み過ぎ」とヘラヘラと笑って去って行く。  今は彼のその訳のわからないほどのヘラヘラさに、救われたような気がした。
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