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第9話 不思議な人
話は少し遡る。
3ヶ月前のあの日、オーレリアが目覚めた時、彼はもういなかった。
「全く、どれほど心配しましたことか。あんな弱った身体でよくもまあ市場の外れまで。心臓が止まるかと思いましたよ」
数日後、なんとかベッドに上半身を起こすことができるようになったオーレリアに食事を運んできたリサが話しかけた。
「……ごめんなさい」
リサの表情がふと緩む。
「折角助かった命なんですから、しっかり養生なさって下さい。さもないと私が坊ちゃまに叱られますからね」
「……あの、あの方はどちらへ」
「ちょっと国境のほうへね。この時期にはいつものことでして」
「国境?」
「いえいえ、何でもございません。坊ちゃまが戻られるまで3ヶ月以上ありますから、その間にお体を回復されて、知りたいことはご自分でお訊きなさいませ」
「そう、ですね……」
彼は何者なの? この雪の季節に国境へ? なぜ見ず知らずのわたくしを助けてくれたのかしら。
3ヶ月……長いわ……早く帝都へ向かわなければならないのに……。早く見つけ出すの。もう時間がないのよ。
だが結局オーレリアがほぼ元通りに動けるようになった頃には、すでに館の主の帰還が迫っていた。
傷が癒えるまでオーレリアは客室で横になって過ごすしかなかったのだが、階下の足音や話し声からこの屋敷のことがおぼろげに理解できた。
使用人はリサと料理人と給仕と下働きのメイドという顔ぶれのようで、屋敷自体、かなりこじんまりとした造りだ。
時々出てくるニコロという名はあの人の従者で、今は共に国境にいるのだろう。
主が不在なのと厳しい冬の気候のせいか、屋敷を訪れる者も今はほとんどいなかった。
オーレリアが日常的に言葉を交わしたのはリサだけで、彼女も一見、快活で冗談好きにも見えるのだが、肝心なことはそれとなくはぐらかしてしまうし、時々その青い瞳の奥が暗く翳ることにオーレリアは早くから気が付いていた。
この館の主とリサさんは、ただの貴族と使用人ではないわ、きっと。
その反面、この館の空気はどこまでも明るく温かみに満ちていた。
この土地の冬は相当厳しいらしい。昼でも薄暗く、時々激しい風と雪が窓に叩きつける。
だがそんな中でも、表通りの市場から聞こえてくる民衆の声はどこまでも明るく、常に笑いが満ちている。
ある程度起き上がれるようになるにつれ、よく晴れた早朝に客室の窓を開け放ち、遠くに広がる牧草地や黒々とした森を眺めるのがオーレリアの楽しみになっていった。
触れると切れそうに冷たい朝の空気に身をさらすことで、逸る気持ちを落ち着かせていたのだ。
大体はそこへリサがやってきて、お身体が冷えてしまいますと叱られて、ベッドへ戻されてしまったのだけれど。
少し体調が回復してくると、オーレリアは客室の隣に図書室があることに気づいた。
リサに許可を得て初めて足を踏み入れた時、オーレリアは驚いた。
この決して大きくもなく、使用人もほぼいない屋敷に到底似つかわしくないほどの夥しい蔵書があったのだ。
大半は戦術や軍備に関するものだが、それ以外にも経済、国際情勢、刑法に商法、地方自治や、はたまた農地経営に至るまで。
しかもそのほとんどが人の手によって何度も開けられ読み込まれた形跡があり、あちこちのページに栞が挟まれ余白がなくなるほど書き込みされていて、擦り切れてぼろぼろになりかけているものも少なくなかった。
あの方は、私が知っている貴族や軍人とはまるで違う。明晰な頭脳と奥深い知識を持っている。
一体、どういう方なの。これほどの教養のある方が、なぜこんな辺境の地でこんな慎ましい生活をしているの。
疑問だけが膨らんでいく中、明日あたりには館の主も戻るだろうとリサが話していた午後のこと。
その数日前、たまたま扉が開いていた応接間の前を通りかかったオーレリアは、ふとあるものに目を留めた。
……なんて素晴らしいハープシコード……
それは全体に簡素なこの館の中ではっきりと異彩を放つ存在であった。
猫足の佇まいはどこまでも優美で、全面に寄木細工と螺鈿の装飾が施され、鍵盤は最上級の黒檀と象牙で作られている。
……弾きたいわ。
気持ちを抑えきれず、昼食の時、思わずリサに質問してしまっていた。
「あのハープシコードは……」
リサは驚いた様子もなく淡々と答えた。
「ああ、あれは一年ほど前に坊ちゃまが褒賞として賜ったものですよ」
「褒賞? どなたから?」
「帝妃様から……と、いけない……そうそう、お弾きになって構いませんよ。誰も弾ける者がいないので置きっぱなしになってしまっているのです。弾いてもらったほうが楽器も喜びますから」
帝妃様にお目通りできるほどの力があるなんて、あの方は一体何者なの?
あれほどの褒賞を下賜されるようなんて、何か大きな功績を挙げたの?
考えれば考えるほどわからない……彼は私の味方なのか敵なのか。
千々に乱れる心を落ち着かせるために、その日以来オーレリアはハープシコードを奏でることが日常の一つになっていた。
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