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<第三章>第19話 旅の始まり
長い夜が明け、旅支度を済ませたザイラスはオーレリアを伴って厩舎へ向かった。
「まさかとは思いますが、馬に乗れないなんていうことはございませんね?」
悪戯っぽく笑いながら横目でオーレリアの顔を窺う。
「ご自分の目で確かめられるが良い」
オーレリアも負けていない。
「トリスタン、いい子だ。今日から長旅になるぞ。よろしく頼むな。殿下はこちらのディアナにお乗り下さい」
「ディアナ、なんて綺麗な馬」
「ディアナは美しいですが、少々頑固でございます。無理に従わせようとなさらず、彼女の意思を尊重して扱って下さ……」
言いかけたザイラスの目に意外な光景が映った。
「何か?」
ディアナに顔を寄せ、たてがみを撫でながらやさしく話しかけていたオーレリアが振り向く。
「驚きました。ディアナは気難しくて、あまり人間と親しくなろうとしないのですが、もう仲良くなってしまわれた」
「私にはそうは思えないが」
「では問題ありませんね。そろそろ出立しましょう。日が昇ると市場が混雑して城門までたどり着くのに時間がかかる」
「承知した」
二人はひらりと馬に跨り、裏門から静かに往来に出た。
ついに旅が始まったのだ。二度と引き返せない長い旅が。
人気のない市場を半分ほど抜けたところで、それまで沈黙していたオーレリアが口を開いた。
「選帝侯殿」
「何でしょう?」
「……サラに黙って屋敷を出てきて問題ないのですか? その……心配するのでは」
「手紙を置いてきました。大丈夫、サラは分かってくれます。今までもふらっと長期間留守にしたことも、死体みたいな姿で戻ったことも何度もありますから」
「なら良いが……貴方の従者はひどく怒っているだろう」
「ニコロですか? まあそうかもしれませんが、彼とも長い付き合いですし、殿下がお気に病む必要はございません」
「……信頼しているのだな」
そう呟いたオーレリアの横顔を見て、ザイラスの胸がちくりと痛んだ。
きっと長い間、お一人で耐えてこられたのだろう。幼い少女がある日突然両親を失い、弟とも引き離されて、胸に大きな秘密を抱えて。
正直なところ、ザイラスはまだオーレリアの言葉を完全に信じたわけではなかった。だがその琥珀色の瞳の奥に宿る孤独の影には嘘はない、そう感じさせるものがあった。
巧みな手綱さばきで並んで馬を並足で歩かせながら、ザイラスはオーレリアのほうへ顔を向け、静かに声をかけた。
「殿下、お願いがございます」
「?」
「私のことを選帝侯殿と呼ぶのはお止め下さい」
「以前にもそんなことを言われていたが」
「あまり呼ばれ慣れていないのです。ザイラスと呼んで頂けませんか」
「承知した、ザイラス」
「恐れ入ります」
「ではわたくしのことも殿下ではなくオーレリアと。それと敬語も不要です」
「しかし」
「わたくしも臣下に接するような口調は止めますから。お互い遠慮していては旅を続けられないでしょう?」
「……貴女がそう望まれるのなら、そのように」
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