第20話 背中の古傷

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第20話 背中の古傷

 選帝侯領の端、帝国の国境までの旅路は思いがけず順調に進んだ。  雪解けの時期を迎えようとしていた草原を吹き抜ける東風に身体を預けるオーレリアの姿を、いつしかザイラスの目が追っていた。  旅を始めて二日後、二人は国境を流れる川に辿り着いていた。 「少し休憩しよう。馬に水をやってくる。あまり遠くに行かないで下さい」 「ええ」  ザイラスとオーレリアはこの二日間ですっかり打ち解けて、気安く言葉を交わすようになっていた。そして二人はお互いの知性と教養の深さに感服し、深い尊敬の念を抱くようになっていた。  二頭の馬の手綱を取って川面に向かっていくザイラスの背中を見送りながら、オーレリアは木陰に横たわり、全身で大きく伸びをして早春の日差しを心行くまで楽しんだ。  だがザイラスはオーレリアが予想していたより遥かに長時間経っても戻って来ない。オーレリアはふと心配になって立ち上がると川へ向かった。 (遅いわね。大丈夫かしら)  川岸へと続く小道を歩いていると岸辺でのんびりと水を飲むトリスタンとディアナの姿が見える。オーレリアはほっと胸を撫で下ろし、近づこうとしてはっと足を止めた。 「!!」  そこにいたザイラスはシャツを脱ぎ、ほとんど裸に近い姿で水浴びをしていた。オーレリアの頭にかあっと血が昇る。  もともと高貴な身分で、しかもつい最近まで修道院にいた彼女には、成人した異性の裸など当然生まれて初めて目にする衝撃だった。  とっさに木の陰に身を隠して恐る恐る視線を送る。そこにあったのは見事な男の肉体だった。  よく陽に灼けた肌、筋張った首、そこから伸びる肩や上腕や胸板はがっしりと厚く、筋肉はまさに鋼のようだ。  腹から腰にかけても一切の無駄な肉はなく、腹筋の一つ一つがくっきりと割れて、いかに日々鍛錬しているかが窺える。  そしてその身体のあちこちに刻まれた無数の傷跡。 「凄い……」  見てはいけないものを見てしまったようでいたたまれないのに目を逸らすことができず、動悸が激しい。耳まで真っ赤になっていることが自分でもわかる。  だがふとザイラスが背を向けた時、オーレリアは不自然な傷跡に気がついた。  それは明らかに刀傷とは違うもので、肌の表面に斜めに赤黒い筋になって、背中全体に何本も広がっている。 (なんて酷い……あれも戦場での傷かしら?)  目を凝らしてその傷痕をもっとよく確かめようとしたオーレリアだったが、その時、ザイラスが水浴びを終えて川から上がろうとしていることに気付き、彼女は慌ててその場を離れたのだった。 「お待たせした」 「い、いえ……」 (どうしよう、彼の顔が見られない。胸が苦しい……) 「どうかしましたか? 体調でも悪いのですか?」 「だ、大丈夫です! 触らないで!」  肩に置かれたザイラスの手をオーレリアは咄嗟にはねのけたが、すぐにはっとして俯いた。 「ごめんなさい。本当に大丈夫ですから」 「……いや、こちらこそ失礼しました。先を急ぎましょう」  いつもと変わらぬ静かで穏やかな声が有難かった。
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