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第21話 冷たい雨
その翌日のこと。
明日にはいよいよ国境を超えるというところに来て、それまで順調すぎるほどであった二人の旅路に突然、暗雲が立ち込めた。
昨日までの春の訪れを告げるような明るい陽気が一転し、午後になると急に鉛色の雲が空を覆い、やがて冷たい雨が降り始めた。ずぶ濡れになり、ぬかるんだ道に馬の足を取られ、身体が冷えてゆくのに合わせたかのようにお互いの心に冷たい風が吹き、知らず知らずのうちに会話が刺々しくなった。
とうとうザイラスとオーレリアの間で口論が始まってしまった。きっかけは何だったのかももう思い出せないような一言だったのだが、オーレリアの口から思わず出てしまった言葉が二人の間を凍り付かせた。
「貴方、それでも漆黒の死神と呼ばれた騎士なの? 戦場で何をなさってたの?」
その瞬間ザイラスの顔がさっと白くなったのを見て、しまったと思ったのだが、もう後悔しても遅かった。
ザイラスがトリスタンの手綱を引き、オーレリアのほうにゆっくりと向き直った。
「ご、ごめんなさい。違うんです」
だがザイラスは厳しい表情のまま何も言わず、そのまま再び背を向けてしまった。結局そのまま二人とも一言も言葉を交わさず、旅を続けるしかなかった。
その日の暮れ、運良く森の中で狩猟小屋を見つけることができたので、そこで一夜を過ごすことにしたのだが、そこでも言葉を交わすことも、目を合わすこともなく、気まずい雰囲気のまま眠りについたのだった。
(どこからか呻き声がする。聞き慣れた声だけど、こんな絞り出すような声は聞いたことがないわ……)
「ザイラス! どうなさったの!?」
その声の主が誰なのかに気付き、はっと眠りから覚めたオーレリアは跳ね起きて、床に寝ているザイラスに駆け寄った。
「う……あ……来るな……」
普段と様子が違う。全身に冷汗をびっしょりかいて、酷くうなされている。悪夢を見ているようだ。
「退却……しろ……駄目だ……もど……れ……」
「ザイラス! しっかりして! ここは戦場ではないわ。目を覚まして!」
(くそ……背中が焼けるように痛い……駄目だ、奴らが来る……俺を殺しに……報いを受けさせるために……誰か、誰か助けてくれ。この悪夢から目覚めさせてくれ……何故だ、なぜこんなに寒いんだ……)
「!?」
「目が覚めましたか」
目を開けると、琥珀色の瞳がザイラスを見降ろしていた。
さっきまであんなに寒かったのに、今はなぜか暖かい。それに背中の痛みが和らいでいる。
正気に戻ったザイラスはうつ伏せの状態でオーレリアの膝の上に寝かされていたのだ。慌てて起き上がろうとしたのだが、白い手がそっと肩を押しとどめた。
「まだ横になっていたほうが良いわ。背中の痛みは少しは治まりましたか?」
「これは、石……ですか?」
背中にじんわりと温かく重いものがいくつか載せられている。
「ええ、そう、火で温めた石を布でくるんだものよ。父もよく冬になると古傷が痛んで、母がこうして温めていたの。母の実家は医学に明るい一族だったそうで、私もいくつか民間療法を教わりました。まさか役に立つ時が来るとは思わなかったわ」
「国王ご夫妻がそんなことを……」
「……本当に仲が良かったのです。娘の私が恥ずかしくなるぐらい。だから母は、父を一人で死なせることがどうしてもできなかったのでしょうね」
しばらくするとザイラスが起き上がった。
「お見苦しい姿を見せてしまいました。もう大丈夫です。……有難う」
オーレリアが手渡した水を飲み終わる頃には、もうすっかりいつものザイラスに戻っていた。
顔色が良くなったのを見届けて、オーレリアはザイラスの前で静かに跪いて頭を下げた。
「どうなさいましたか?」
「昼間のわたくしの非礼、お詫びします。決して口にしてはならないことを申しました」
「お止め下さい。あれぐらいのことで謝罪など必要ございません」
「許して下さる?」
「許すも許さないも、気にしておりませんよ。たぶんお互いに疲れていたんだ。もうこの話は止めましょう。さあ、笑って」
ザイラスの瞳がいつもと変わらず穏やかで優しいことにほっとして、オーレリアも微笑んだ。
「お訊きしても良いかしら」
遠慮がちに尋ねる。
「何か」
「戦場の夢を見ていらしたわね。……昼間のわたくしの言葉で辛い記憶を思い出されたのでしょう? それはたぶん……その背中の傷と、私の父に関係あることなのではありませんか?」
「……」
「ごめんなさい。この前川で偶然見てしまったの。あれは戦場での刀傷ではないわ。貴方にそんな傷を負わせたのは、わたくしの父ですね?」
ザイラスは暫くの間、黙って暖炉の火を見つめていたが、やがて静かに答えた。
「貴女の洞察力にはいつも驚かされる」
「差し支えなければ、話して下さらない?……わたくし、貴方のことを何も知りません。ただ父の言葉だけを頼りに一方的に助けを求めて、貴方も何も言わずに引き受けて下さった。なぜ? とても危険な賭けなのに。貴方と父の間には何があったのですか?」
ザイラスがつと立ち上がって、自分の外套をマリーアの肩にかけた。
「今日は冷えます。長い話になりますから、これを」
そして再び暖炉の前に座って火を見つめながら、ゆっくりと話し出した。
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