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第2話 選帝侯の屋敷
ザイラスの屋敷は、領都の中心から少し外れた、静かな運河の畔にある。
凡そ選帝侯ともなれば、宮殿と見まごうような広大な屋敷に手入れされた庭園、贅を尽くした調度品と地下のワイン庫、そういったものを思い浮かべるだろう。
だがザイラスの屋敷は、選帝侯の住まいと呼ぶには憚られるほどに小じんまりとしたものだった。
もちろん貴族の館なので庶民の家とは比べるべくもないが、最近領都で羽振りをきかせる大商人や古い地主のほうが、ザイラスより数倍も豪奢な生活をしていた。
これには理由があるのだが、今は少し置いておこう。
少しでも傷への負担にならぬよう、速足で馬を歩かせ、ザイラスは屋敷の玄関にたどり着いた。
手綱をニコロに任せ、少年を抱いて足早に歩を進める。
「リサ! どこにいる! 早く来てくれ!」
「お帰りなさいませ坊ちゃま……まあどうしたのですかこれは!」
厨房のドアをのんびりと開けながら玄関ホールに出てきた小柄な中年女性が、ザイラスが抱えているものに気づいて大声を上げた。
彼女はリサ。数少ない使用人の一人だ。
使用人とはいえ、ザイラスがまだ十代の青年だった頃から仕えており、その信頼関係は親子、いやそれ以上と言っても過言ではない。
また正式に学んだわけではないが民間医療に詳しく、戦場で傷を負って帰ってくることも多いザイラスにとってはこの上なく頼れる存在だ。
「東の城壁で拾った。理由はわからんが酷い怪我をしている。手当てを頼む。あと何度も言っているが坊ちゃまは止めろ」
「これは酷い……すぐに寝室を用意しますね。ニコロ、地下室から薬草を」
「あいよ」
ニコロは全て心得たような顔で頷き、地下室へ向かった。
少年を抱えたままリサについて階段を上り、客用の寝室に入る。
「出血が酷いな」
気がつくと少年の粗末な上着だけでなく、ザイラスの外套までもが真っ赤な血で染まっていた。
「後は私がやっておきますから、坊ちゃまはまず体を洗って来て下さい。埃と血で大変なことになってますよ」
「だから坊ちゃまと……まあいい。後を頼む」
百戦錬磨の常勝将軍も、リサには逆らえない。
汚れを洗い流し、部屋着に着替えたザイラスが寝室を覗くと、少年は白いリネンの夜着をまとい、寝台に横たわっていた。
出血と痛みのせいだろう、呼吸が荒く、時々苦しそうに顔を歪めている。
階段を上がってくる足音がして、リサが入って来た。
「傷口を縫合して止血はしましたが、ちょっと傷が深いですわね。内臓をやられてないと良いのですけれど」
「そうか。助かりそうか?」
「……正直、何とも言えませんわ。あとは彼女の……」
「か、の、じょ!? 女か!?」
思いもしなかったリサの言葉にザイラスは慌てふためいて大声を上げると、その寝台に横たわる青ざめた顔を改めてまじまじと眺めた。
「あら、お気づきにならなかったのですか? 全く坊ちゃまは」
「そうだったのか。まさか、女とは……だがなぜあんな恰好を?」
「さあ、何か訳がおありなんでしょう。直接お訊きなさいまし。……助かればの話ですが」
「……理由はどうであれ、女性にこのような怪我を負わせるとは許し難いな。下手人は必ず見つけ出す。レーゼンヴァルト選帝侯領内でこんなことをしでかしたことを後悔させてやらんと」
「それでこそ、我らが領主様」
「ははは……しばらく面倒をかけるが、よろしく頼む」
「勿論でございますとも。お任せ下さいませ」
リサと別れ、書斎に向かったザイラスの足元に柔らかい毛が触れた。
白猫と茶色の縞猫がザイラスの膝に前足を掛けて何か言いたそうにしている。
「おいで、ミリー、アンバー」
ザイラスは二匹を抱き上げ、柔らかい腹の毛に顔を埋めた。
小さな小さな「にゃあ」という鳴き声とゴロゴロと喉を鳴らす音が低く響く。
「彼女、か……」
思いもよらない出来事が、ザイラスの胸に、何か古い記憶とも思い出とも言い難いものを蘇らせていた。
あれは、いつだっただろうか……
夜は更けてゆく。
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