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大樹の祭り
「あいしてるわ」
舌足らずな声。ふわふわと頼りない輪郭の頬。幼い娘はとろけるような笑みを浮かべ、短い両腕を伸ばす。ふっくらした頬をすりよせる小さな生物が、ふくらはぎまで届く草を裸足で踏みしめ、彼を抱きしめる。
どこでそんな言葉を覚えたのかと彼は訊いた。
「旅のうたうたいさん」
娘は答える。得意そうに胸を張って。たしかこの娘は末っ子だから誰かにものを教える機会なんて初めてなのだろう。
「いちばん大好きなのを“あいしてる”って言うの」
「そんな事言わないでくれないか」
「どうして?」
「だって……」
彼は沈黙する。
愛。
彼の知るかぎりにおいてそれは何か深い、相互的な営みだった。だから「愛している」という言葉を受けるに相応しいのはきっと他の誰かだ。こうして娘を受け止めることはできても、彼が娘を愛することはありえない。
どう説明したらいいものか迷った挙句、彼はひたすらどうでもいい言い訳に逃げた。
「……語呂が悪いだろう?」
娘は得心がいかないようで、足の指で野の花を蹴る。
「じゃあ、なんて言えばいい?」
「いつも通り。それが一番嬉しい」
「そう? じゃあ……」
娘は彼の胴に腕を回す。何百年という歳月をかけて育った彼の体は、娘の腕には到底おさまりきらない。
「だいすきよ」
硬い樹皮を撫でながら、木に魅入られた娘はそっと告げた。
長く生き過ぎて忘れているが、世界には時間というものが流れている。
「あのね、今度村のおまつりがあるの」
彼の根元でリスと戯れていた娘が、ふいに彼を振り返る。
「白い花のおまつり。あなたの花」
くすくすと笑いがこぼれる。娘の人差し指の先には若い枝。芽もなく葉もなく、慎ましやかな白いつぼみだけが先端に宿っていた。
「ああ、これは……気づかなかったよ」
「それでねそれでね。わたし。そのおまつりでおどるんだよ。木のようせいの使い!」
娘は勢いよく立ち上がった。草の汁の跡など気にも留めず、彼の前でくるくると舞ってみせる。無垢な娘の姿に、彼は、人でいうなら“血の気の引いた”思いを抱いた。
五十年に一度、彼が白い花をつける頃、少女の村では祭りが開かれる。村の少女をひとり“木の精の使い”に選び、村の安泰を祈る。
祭りの後、村の男が少女を連れて彼の前に立つ。彼はその時男が唱える言葉ををそらんじることが出来る。
「“我らを守り賜いし精霊の。精霊の御使いを今。今今只今御許に帰す。我らと汝に安息あらんことを”」
「それなあに?」
何も知らない娘は訊く。人よりも彼を愛する生き物に彼は笑って答えなかった。
精霊の使いは精霊のもとに帰す。村の男が花をつけた枝に七色の紐をかけ少女を吊るし、祭りは終わる。
それは彼にとって時計のようなものだった。男の言葉も吊るされた少女も特に感慨をもたらすものではなかった。
所詮一本の木に過ぎないのだから、せいぜい落雷か何かで倒れるときに村人を潰さなければいいのかな。百年前に初めてそんな感想を抱いた。正直どうでもよかった。
これまでは。
「……今日はもうお帰り。明日また会おう」
「つまんない。もっといっしょにいたいのに」
「言う事をお聞きよ、大好きな子」
少女はもの言いたげなふうだったが、しぶしぶうなずいた。踵をかえして数歩進み、振り返った。
「わたしもだいすき。あのね、おまつりがおわったらずっといっしょにいられるのよ。パパが言ってた」
娘が足音軽く去り、彼は思考に沈む。風が白い花を揺らす。このままちぎれて遠くへ飛んでいってしまえと願った。彼にしがみついていた昆虫がいぶかしげに触角を揺らし、やがて飛び去った。樹液が沸騰しそうな勢いで彼の思考は回転する。
確かに、娘は永遠にあのままで彼の元にいられるだろう。枝に吊るされ体が死ねば。
けれどそれだけは――。
彼は声を張り上げる。羽を休めていた鳥が一斉にはばたいた。臆病なものはそのまま空へ飛び立ち、やがて大柄な鳥が一羽、彼の腕に戻ってきた。
祭りの終りは村の男達と共にやって来る。
先頭に長老らしき髭の老人が立ち、次の男は娘を抱えている。さらにその後に続く者は七色の紐をもてあそび、しんがりを務めるのは目を赤く腫れ上がらせた壮年の男。
娘が彼の根元に横たえられた。赤い糸で花の刺繍が施された衣装をまとい、あどけない寝顔をさらしている。
長老が五十年前と一言一句たがわぬ台詞を唱える。壮年の男が顔を覆った。
白い花をつけた枝に紐がかけられる。長老が娘を抱き上げる。
所詮木に過ぎない彼は、娘を奪い取ることも紐を引きちぎることもできない。
だから、祈った。
輪に娘の頭が通される。紐が細い首に食い込む。
長老が手を離した。
枝がしなり――折れた。
男達が目を丸くする。娘は眠り続ける。
彼は一声ささやいた。
枝に止まっていた鳥達がいっせいに羽ばたき鳴き騒ぐ。
村人はさっと顔を見合わせ、次の瞬間娘と紐を置いて逃げ出した。彼らの慌てふためく様に鳥達が大笑いする。その騒ぎにも関わらず娘は眠っている。
「初めて見たとき、五歳にしては体が大きいねって思ったんだ」
彼は呟く。年を経るうちに、人間の子供の発育は随分とよくなっていた。身長も体重も、格段に。だから彼は祭りの前日娘にこう言ったのだ。
「祭りを楽しんでおいで。めいっぱいご馳走を食べるといい。みんなの前で踊るんならいっぱい飾りをつけなければね。綺麗な石でお洒落するんだ」
そして娘はその通りにした。若くか弱い枝が耐えられないくらいに。
規則正しく上下する、今にもはちきれそうな腹を見ながら彼は微笑んだ。
生き残った生贄はもう村にはいられないだろう。娘を見るのもこれが最後ということだ。
それでもいい。
大笑いしていた大柄な鳥に彼は頼む。
「ねえ、この子を目覚めさせておくれ。それから導いてやって。人のいるところへ」
鳥はにやりと笑いうなずいた。
「今、自分が人だったらって思うよ」
誰にともなく呟く。もしも人だったら娘と共に行けるだろうに。叶わなくても、せめて笑って手を振るくらいできるだろうに。
「君の事が一番好きだよ。今までもこれからも」
彼が人ではない以上、彼が娘の思うカタチで彼女を愛することはありえない。
それでも確かに娘は彼の宝だった。
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