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アトラス彗星
「あたしね」
ずっと前を見据えて、彼女は言った。
「別れちゃったの。ダンナと」
僕は横目で彼女の横顔をチラッと見た。
そして、彼女が前を向いたままなのを意識しながら「そうなんだ」とだけ、返した。
彼女の右手が上がって、ビールを口に運ぶ。
僕もビールを手に取り、一口飲んだ。
「あ、見えた、見えた」
彼女の左手の人差し指が、水平線の向こうを指さす。
うっすらとした、白くて細いヘビのような一筋。
「あれが、アトラス彗星?」
「でしょ?」
「すごいなぁ、肉眼でも見えるんだ」
視力の良い人ならきっと、ヘビの頭が光っているのも見えるはず。
「あたし、彗星って初めて見た」
「僕も」
僕らは、堤防の石階段に座っていた。
そうして薄暗い空を眺めていた。
巷で話題の「アトラス彗星」を見るためだ。
噂通り、アトラス彗星は肉眼でも見えた。
ただし前情報がなかったら、見つけられないレベル。
しばらく目を細めて、白いヘビの行方を追った。
そうして空が暗くなるころ、朧げに沈んでいった。
ふたりの間には、空になったビール缶が2つ置かれていた。
僕はそれを手提げ袋にしまった。
カラン、と軽くぶつかる音が合図になった。
「終わっちゃった」
彼女が立ちあがって言った。
「だからね、」
「だから?」
僕も立ち上がり、彼女を見た。
「なんでもなーい」
彼女は僕から視線を外して、くるりと踵を返した。
「帰ろ」
僕は、彼女の後姿を黙って眺めた。
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