001:雪が降る庭園にて

1/1
前へ
/153ページ
次へ

001:雪が降る庭園にて

 厚い灰色の雲が空一面を覆い、その隙間からは白い雪がチラチラと舞い降りている。そんな屋敷の中庭で私は、いつものように正拳突きを放つ。 「はっ!」  流れるように腕を畳んで、受けを行う為に腕を掲げる。更には左手で手刀を繰り出す。 「はっ!」  突き出した左手の手刀を下げて元の腰の位置へ戻したら、一歩だけ足を下げて前蹴りを放つ。 「しっ!」  吐きだした息が、ふわりと宙を舞い、空へと吸い込まれていく。大気との温度の差から体表からは湯気が立ち上り、身を切るような気温も今は心地よく感じるほどだ。大量の汗が皮膚の表面を滑り落ちていく。  型の稽古が一通り終わった頃。私の下に一人の女性がやって来た。 「エレスティーナお嬢様! 何度言ったら分かって頂けるのですか? その奇妙な踊りは止めてくださいと再三申し上げたはずですが?」  奇妙な踊り違う。前世の国にあった空手という武道の型だよ。という荒唐無稽な説明を、この世界の人にする訳には行かないので、私は彼女の言葉を聞き流した。 「ふぅ。おはよう。ミセス・ウルネリー」  するとウルネリーは、わざとらしく小さく溜め息を吐いて挨拶を返してくれた。 「おはようございます。エレスティーナお嬢様」  そして、その後は何時ものように小言が始まるのだ。 「エレスティーナお嬢様。貴女はこの冬には男爵家の姫として社交界デビューして、そこで婚約者の伯爵家嫡子のランバレット様とご対面なさるのです。それなのに自宅では奇妙な踊りばかり! 社交界で噂になったらどうするおつもりですか?」  それ、もう聞き飽きたよ。こういう時、私の前世に居た国では耳にタコが出来るっていうんだよ? 今じゃ私の耳にも拳ダコ並みに硬いのが出来てそうだよ。  だから私は肩を竦めるだけの返事に留めた。やれやれって、感じでね。  するとミセス・ウルネリーが今度は先程よりも大きくて深い溜め息を吐いた。この世界にあるどの海の底よりも深そうだ。  きっと彼女も、このやり取りには飽き飽きしているのだろう。もしかしら彼女の口にもタコができているかもしれない。  まぁ私は斟酌しないけど。  それにしても領都に帰りたいなぁ。王都は何かと窮屈だ。  それもこれも、この王都の屋敷を預かる家政婦長のミセス・ウルネリーが鬱陶しいからだ。家政婦長とは、小間使いと乳母と家庭教師を除く、全ての女性使用人の最高位だ。  本来、家政婦長である彼女が私の教育に関する事を言う権限はないんだけどね。そういう小言は家庭教師の仕事だから。  しかし私は律儀にも彼女の相手をしている。まぁ心配してくれての言葉だからさ。無視するのもどうかなって思ってね。 「ねぇ、ミセス・ウルネリー? 何度も言ったけど私は結婚なんてする気はないのよ。分かってくださらない?」  そこに小間使いがスススと舞台で黒子が役者に小道具を渡すような素早さでやって来た。そしてタオルを渡してくれる。きっと先程の型の練習で大量に汗をかいている私に気を利かせて持ってきてくれたのだろう。出来る小間使いだ。  私が受け取り体を拭いていると、ウルネリーの三度目の大きな溜め息が聞こえた。まるで肺の空気を全部吐き出した上で絞り出そうとしているかのよう。  私の身体は、まだポカポカと懐炉のように火照ったままだが、外気は冷たく、流れ出た汗は冷え始めている。  ん?  体が冷える? 「あっ! あのまま体を冷やして風邪をひけばよかったんだ!」  出来る小間使い発言は撤回だ。 「小間使いめ。余計なことを!」  私の口から零れ出た呪詛のような本音を聞いたウルネリーは、やはり海より深く山よりも重い溜め息を吐き出したのだった。
/153ページ

最初のコメントを投稿しよう!

30人が本棚に入れています
本棚に追加