美醜聖女は、老辺境伯の寡黙な溺愛に癒やされて、真の力を解き放つ

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「わしがお前を愛することはないだろう」 結婚式の誓約の場で、亡き夫が静かに宣言したセリフを思い出す。 フッ、と高い鷲のような鼻で笑い、彼は愛情なんて欠片も感じられない視線でイザベラを見下ろしてそう言った。 身長が160センチと低い彼女と比較して、花婿のブレイクは背筋がしゃんと伸びた180センチ。 全身からは生きる欲望に満ちたオーラが漂っていて、どう見ても六十歳には見えない。 七十の後半には見えない。白くなり後退した髪はまだふさふさとしていて、元の黒に染め直せばもっと若く見えるだろう。 さすがに声は年相応だったが、どれほど残酷で人の心がない男かと思っていたら、意外にも優しい深みのある低い声だった。 こんな男に、ずっと守り続けた純潔を捧げ、あの節くれだった指が身体を這いまわる夜まで、あと数時間。 吐き気が胃の奥から湧き上がりそうで、ぐっと下腹に力を入れてそれを我慢する。 冬の空のように透き通ったアイスブルーの瞳は、彼の酷薄さを物語っているようだ。 そこに映る豊かな真紅の髪と、深みのあるエメラルドの瞳が戸惑いに揺れている。 これは愛のない結婚だと最初から理解していたのに、いまさらのように告げられると、心が動揺を覚えてしまった。 結婚式は春先に行われた。 イザベラが仕える女神ラーダの神殿でのことだった。 愛と豊穣を司る女神は二人の結婚を祝福してくれているのだろうか? 女神の御前で「愛することはない」などと告白するブレイクの無神経さに、イザベラは呆れる。 これは契約結婚だった。そうあらかじめ知っていたから、特に腹立たしくなることもない。 ただ、ああ、愛されることはないのだ、と胸の内で孤独に嘆息するのみだ。 さらに結婚の趣旨は愛ではなく、神殿を運営する連中が無能すぎて経営は破綻し、莫大な借金を抱えたため、ブレイクがそれを肩代わりする代わりにイザベラを身売りしたのだった。 イザベラを国内でも有数の資産家であるブレイクに差し出すことで、債務がチャラになり、さらに支援金まで得られるという好条件を神殿は彼から引き出していた。 ブレイクは一代で平民から侯爵へと這い上がった成り上がりだが、その生業がまた、イザベラに苛立ちを与えた。 彼は王国の民なら誰でも嫌うような高利貸しだったからだ。 今では銀行をいくつも率いるグループの総帥であり、北の結界を管理する大役を国王陛下から任ぜられている彼は辺境伯。 侯爵と同列の上級貴族の一人だが、その本業は強欲で取り立ての厳しさから悪名高い金貸しなのだ。 王国で、ここ半世紀の間にブレイクから金を借りたことがない人間はいない、と噂されるほど有名な男だった。 「あなた、憶えていますか? あの冬の日を」 無言の遺体となったブレイクの頬を、若き未亡人はそっと撫でてやる。 少しばかり乱れていた髪をそっと直し、その肌の冷たさに悲しみと懐かしさを覚えた。 ブレイクとの出会いは偶然であり、衝撃的で、今から考えてもよく助けたものだ、と思ってしまう。 あの日の彼は傲慢さも尊大な物言いもなく、ただの行き倒れの傷ついた老人だった。 二年前。冬、王都。 その日は神殿が主催する、美と豊穣の女神ラーダへ秋の収穫を奉じる祭りの最終日だった。 王都の東側に位置する神殿の中庭で、大勢の人々が集まり、神殿の管弦楽団が奏でる演奏に身を委ね、女性はドレスをまとい、男性は礼服に袖を通してお洒落を楽しむ夜会が開かれる直前だった。 秋から冬へと差し掛かる夕暮れの空は、東に沈む青と西から這い上がる漆黒に押しつぶされそうになっていた。 薄くも鮮やかな紫色が世界を覆い、太陽が姿を消した空には、新たに月が取って代わって昇っていた。 細く鋭い金色の三日月は、その場にいた人々の肌に寒さを突き刺し、体温を奪っていく。 普段ならば家路を急ぐ人々も、この夜だけは夏の終わりのころのように陽気にダンスを踊り、お酒を飲んで中庭の各所に焚かれた焚火を囲み、秋を無事に終われたことを女神に感謝して過ごすのだ。 神殿が経営する学校の生徒は、裏方として祭りの進行を妨げることなく、各所を管理する神官たちの命令に従って忙し気に動き回っている。 そんな中、イザベラだけは特別な事情で人々の前に出ることを許されず、行事が開催されるときは広大な敷地を覆う城壁の裏門前でやってくる物乞いや、報われない方々に向けて炊き出しを行っていた。 多くの浮浪者が冬を過ごすための食糧や毛布、燃料を求めて列を成し、神殿では寄付金で購入した品々を彼らに施すのが例年の習わしだった。 「配給はこれでお終い。衣類の方もほとんど無くなったし、燃料はこっちが寒さを凌ぐのに分けて欲しいくらい」 神殿の最下層の使用人たち。 元々奴隷だったり、犯罪者だった者が、その罪を許されたり身分を解放されたりして、たどり着く最底辺の場所に紛れて、イザベラは自分の受け持った部署が無事に品切れになったことを確認し、ひとつ頷く。 夜も深まり、ようやく施しを受ける人々の列が途切れたころ、彼はやってきた。 よろよろと大きな体を震わせ、食事を出す受付口にたどり着くことなく、ばったりと道端に倒れ込んで動かなくなる。 「ちょっと! 大丈夫ですか、おじいさん? しっかりして」 「あ、ああ。そこで襲われたんだ。なんてとこだこの都は。いつからこんなに物騒になった」 行き倒れかもしれないと心配して駆け寄ってみたら、老人は傷だらけだった。 「助けてくれ」と彼は懇願する。衣服はそれとなく上品な装いだったものの、激しく争ったのか、着ていた上着の片袖が破れて取れかかっていた。 ブレイク自身の顔や腹部にも大きなアザと出血があり、とても見て見ぬふりはできない状態だった。 けれど、イザベラと一緒に駆けつけたその場にいた神官は、彼の発言を耳にして目を反らした。 神殿は王都にある。王都の報われない人たちを救うのだ。 そうすれば、王国から税金の一部を免除され、さらに褒美として支援金が出る。 だが、王都の外からやって来る人々を助ける術を神殿は用意していない。 たとえ重症を抱えた病人や怪我人であっても、救いの手を差し伸べることはない。無視され、放置されるだけだ……あのときのブレイクのように。 その翌日の朝から、彼はやせ衰えた老人の外見とは裏腹によく食べ、よく寝て、巡礼者向けに出される毎度の食事では飽き足らず、イザベラの分も寄越せといい、腹を満たしていた。 亡夫の死に顔をそっと撫でながら、呆れた声でイザベラはささやいてやる。 それは新婚の夫婦のように、優しい愛に溢れたささやきだった。 「あなた、子ドラゴンのように食欲旺盛で……本当に可愛い人だった。あのころは憎たらしくて仕方なかったけれど。でも、いい思い出ね」 いま彼はもうここにはおらず、女神がいるだろうあちらの世界へと逝ってしまった。 一人残された辺境伯夫人は、ほう、と溜息をもらす。 辺境伯の城がある北の地方は、冬を迎えると温暖な王都とは違い、骨身に染みるまで寒さがしんしんと押し寄せて来る。 遺体を安置している城内に設けられた女神を祀る分神殿は天井が高く、広い空間の中にあるからさらに寒さも深まり、石壁がこれほど憎らしいと思うことはなかった。 腹の芯まで底冷えするのは、夜を迎えようとしているからだろう。 夕方だったはずの窓の外には大きく丸い銀月が浮かんで見える。 夫に最後の別れを果たすと、イザベラは彼の遺体が納められている棺桶の蓋をそっと閉じた。 黒松を使った豪華なそれは、漆黒と黄金に彩られた、上級貴族の永遠の寝床として相応しいものだ。 窓から差し込んでくる月光が、たまたま棺桶の金属部分に反射して、磨き抜かれた鏡のようなそこにイザベラの姿を映し出す。 夜の闇よりも黒く艶やかな腰ほどまである黒髪に、深い苔色の瞳。 双眸は切れ長で狼のよう。豊かな二重の上に長い睫毛が哀愁漂う目元を隠している。 今夜の彼女はダークグレーの喪服を着ていて、豊満な肢体は幾重にも重ねた冬着の上からでも見て取れるようだった。 少年のような肢体だとからかわれた二年前は栄養が足らず、結婚してからの食事は栄養が豊富で、いつの間にかイザベラの肉体は本来の美しさを取り戻していた。 懐かしい。 あのころに戻れるものなら、戻ってしまいたい。 ブレイクのしわがれた低いドスの効いた声で「愛することはない」などと思いとは裏腹な言葉を聞いたとき、自分がああ、そうなんだと素直に納得したことが今でもおかしくて、思い返しては苦笑してしまう。 夫は世間からは嫌われていたが、私には満足な愛を注いでくれた。 ただ、唯一の悲しみとしては、二人の間に子供ができなかったことだけだ。 そして、彼の後継者となるべき人物は……生前、結婚するまでに四度の離婚を繰り返した彼には、子供がいなかった。 このままでは辺境伯家は北の結界を管理するという役割を果たせず、他の貴族に領地と地位を奪われて終わってしまうだろう。 ブレイクの愛したこの領地、この領民、そして、彼の生きた証である辺境伯家。 それらを残すためにいま自分ができることは何だろうか? イザベラは侍女が暖炉に灯してくれた火が室内を暖めていくなかで、静かに思考を深めていく。生前の彼ならば、どうしただろうか? なぜか思い出したのは、食事が足らないと要求する、助けた二年前の彼の姿だった。 「おい、娘!」 後ろから無作法な声が聞こえた。 狭い部屋の中だ。 一人で暮らすには問題ないが、二人だとさすがに手狭に感じる。 そんな室内で彼女を呼ぶ声は年老いた老人のもので低く、神経質なドスが効いていた。 彼の声は何度耳にしても心に陰気を覚える。 部屋の主、イザベラが神殿に勤務する巫女見習いでなければ、たちどころに追い出してしまうくらい傲慢な物言いだ。 「なによ? じーさん」 振り返ると、少女の苔色の瞳に、大柄な男性が映り込む。 白髪で、鋭い目つきを生みだすアイスブルーの瞳は酷薄そうに見えた。 「飯が足りん! この年寄りを飢え死にさせる気か?」 「なにが飢え死によ? ただ飯喰らいのくせに……なんでこんなの、助けたんだろう」 彼の背は年齢の割に曲がっておらず元気そのものだと、イザベラは目を細める。 老人のおかわりの催促は毎度のことで、もうかれこれ十日ほどそのわがままを許してきたが、そろそろ我慢の限界だった。 「ここは神殿だろうが。旅の巡礼者に対して何たる口の利き方だ。女神ラーダも悲しんでおられるぞ」 「確かにここは女神様の神殿だけど! あんたの寝てる部屋はわたしの部屋なの! 何が旅の巡礼者よ、単なる行き倒れのくせに」 まったく、誰の好意で寝泊まりできる場所が用意されたと思っているのか。 彼の感謝のなさに、イザベラは片頬を怒りで引きつらせる。 老人の態度は尊大で、ガラスのような瞳には感謝の欠片も感じられない。 イザベラは腰に手を当てて「ご飯のお代わりはありません!」と怒りを控えめにして叫ぶ。 そこに映るイザベラは少年のように細く華奢な体躯をしていて、濡れ羽のように艶やかな黒髪は耳ほどまでしかなく、左目は蜂にでも刺されたように醜く腫れあがっていた。 「なんじゃい、そこにあるだろうが。ほれ、そこ」 「そこ? これはあたしの食事よ! また奪う気なの?」 ブレイクと名乗った老人は、それでも遠慮しようとはしない。 「あるなら寄越せ」と言いたそうに節くれだった片手をぐいっと突き出して無言の要求をする。 まるで神殿で飼っている竜の子供が催促するような、押しの強い「ぐいっ」だった。 「奪うなどと人聞きの悪いことを言うでない」 「じゃあ、なによ? 見た目に反して食欲だけは旺盛な老人が強欲を満たそうとしているとでも?」 「酷い物言いをする。わしはただ飢えて死にそうだから食事を恵んでほしいとお願いしているだけだ」 「ええ、そうね! 冬のこの季節に神殿の門前で倒れていたあんたを助けたのが間違いだったわよ。食事を毎回奪われるなんて……まるで、竜の子供みたいな食欲だわ」 そうは言うものの、体格のある老人に手のひらサイズのパン一つと牛乳がコップ一杯だけの食事は、どこまでも質素で彼の胃袋を満たさないだろう。  「あーあ、また昼までお腹が鳴るわ」とぼやきつつ、イザベラは自分にも同じ分量しか与えられていない朝食を、トレイごと彼にそっと渡す。 「誰が竜の子供じゃい。こんな貧相な老人の願いも叶えることはできないのか、神殿の巫女は」 「……どこが貧相な老人よ。わたしは巫女じゃないの。巫女は妹で、私はただの巫女見習い。間違えないで、間違えるとみんなが怒るから」  老人はあっという間にイザベラの分を食べてしまった。もっと欲しいと物欲しそうな目をされるが、もうない。肩をすくめたイザベラに向かい、彼は「ちっ」と舌打ちしてそっぽを向く。 「こうして十日間も厄介になっておいてなんだが、どうして皆が怒るのだ? 優秀な妹がいれば、姉としても優遇されるだろう、普通は」 「優遇されていたらこんな場所にいると思う?」  老人の質問に、室内をよく見ろ、とイザベラは大げさに掌を返して見せた。ベッドに横になった状態から食事のときだけ半身を起こして座る彼は、上下左右をじっと見渡す。 「確かに優遇されているようには見えんな」  部屋全体に視線を這わせてから、納得するように言った。 「そうでしょ? だってここは、もともと奴隷たちが与えられていた地下部屋だもの。今では神殿の中でも最下層の使用人が寝泊まりする寮になってるけど」 「……だからか。この部屋は地下にあるとはいえ、なんとなく陰気臭いのは」 「失礼なこと言わないで! 苔とかカビが生えないように換気だってちゃんとしているし、掃除だって抜かりないようにやってるんだから。埃の一つも落ちてないでしょ?」  強欲なジジイが一匹いるけれど、と心の中で付け加えることをイザベラは忘れなかった。彼はその一言が聞こえていたかのように、じろりっとこちらを睨みつける。 「巫女見習いといえば、神殿大学でも優秀な生徒がなるべき役職だ。その生徒がどうしてこんな迫害じみた扱いを受けねばならん」 「さー? どうしてかしら。わたしが目立つ場所にいると嫌がる人もいるのよ。どうでもいいけど、体の調子はどうなの?」  「うむ……」。老人ブレイクはイザベラの困ったような素振りを見て、静かに黙った。あの日からもう十日になる。宿泊させてやってから、ブレイクの回復は子供のように早い。  六十歳か、もしくは七十に近い。それほどの高齢者を年若い女の部屋に泊めたところで、まさか力づくで迫られることもないだろう、とイザベラは思ったし、この十日ほど彼は強欲に食欲を満たしはしたが、性欲を満たそうとはしなかった。  イザベラが着替えを見られないように、ベッドと彼女が寝ることになったソファの間にカーテンを敷いても、覗かれることはなかったし、夜中にカーテンを跨いでやってくることもなかった。  イザベラの部屋に泊めているというのに、神殿は強欲で、ブレイクの宿代をあろうことかイザベラに請求してきたのだ。それは泊まっている間の食費や、さまざまな別途費用すらも付いてきて、彼女の少ない貯蓄に大打撃を与えた。 「銀貨5枚よ。たった十日泊まるだけで銀貨五枚とか、常軌を逸してるわ、ここは!」 「それはわしもそう思うな。強欲にも程がある」 「あのね! 毎回毎回、わたしの食事を奪うあなたに言われたくないの!」 「ふんっ。老い先短い老人をいじめて楽しいか、お前は?」 「このっ……」  ブレイクは、老い先短いどころか、あと一世紀は生き延びそうにしぶとい。彼の口から泣き言を聞いたところで、イザベラは可哀想とも感じない。心が哀れみで動くこともなかった。  そうは言っても相手は老人だ。「いじめるのか」と言われたら、「はいそうですよ」とは言い返せない。  拳を握りしめて我慢すると、老人は悪びれもせずに布団の中に潜り込んでしまった。イザベラには今から夜まで神殿大学での学びや、市内での奉仕活動が待っている。  その合間に彼は、巫女見習いがせっせと貯めたお金で購入したり、図書館から借りてきた本を使って時を過ごしている。優雅なものね、まるでお貴族様みたい。そんな嫌味の一つも言ってやりたくなる。 「わたし、そろそろ行くから。図書館に行くなら、鍵をちゃんとかけてね。盗まれるものなんてないと思うけれど」 「お前の着替え以外ないこんな貧相な部屋に、どこのだれが盗みに入るものか」 「それもそうね。そんな貧相な部屋を提供して、銀貨5枚をせしめ取ろうとしてるんだから、本当に神殿は最悪だわ」 「……ここから出ようと思うことはないのか?」  ブレイクがこちらに向きを変えて質問する。そういえば彼の顎髭もこの十日間でずいぶんと伸びてしまったな、髭剃りを購入しないといけないなどと思いつつ、イザベラは首を小さく横に振る。 「まず行く宛がない」 「両親はどうした?」 「いるけれど、実家に戻っても追い出されるだけよ」 「修行放り出してきたと、怒られるからか?」 「それもあるけれど」 「けれど?」 「この顔がね? 醜いでしょ? 実家に戻ったら、姉と妹の家族がいるの。だから、いい顔をされない」  いつものように腫れ上がった左目を片方の指先で指して、イザベラは言った。ブレイクは「家族?」と不思議そうな顔になる。姉はまだ分かる。イザベラは確か十四歳のはずだ。王国の女性は十六歳で成人を迎える。  それ以前に結婚することは、庶民の間ではあまりない。あるとすれば、それは法律によってさらに若く、十二歳で成人を認められる貴族の令嬢くらいだ。 「家に恥をかかせるなと言われるのが、理由か。実家はどこの貴族だ?」 「……ブレイクには関係ない。早く息子さんたちがやってきて、早くここから出て行くのが、一番よ」  どこか切なそうにイザベラは話題を切り上げた。現状を割り切ることでしか生きていけない彼女の触れてはいけない部分に触れたらしい。ブレイクはそう思うも、質問を変えて口にする。 「この十日間、朝と夜の食事を共にしてきたが、ひどい内容だった。刑務所の囚人にも劣るような質の悪いものばかりだ。どうしてこんな環境に甘んじているんだ?」 「だから、ブレイクには……」 「関係なかったな。すまなかった」 「……っ。謝らないでよ! あなたが悪いわけじゃないんだから。わたしがそうしているだけだから」  珍しく素直に謝った老人に機先を削がれてしまい、イザベラは言葉に詰まった。泣き言を口にするつもりはなかったのに、つい愚痴のように言葉を発してしまい、顔が赤くなる。 「自分で自分を不幸にさらすのが趣味なら、わしは何も言わんが。妹に関係しているような口ぶりだな」 「あの子はそんなことないわ。もう行くから」  イザベラは荷物を手にすると、後ろを振り向かずに出て行ってしまった。 「むう」と、老人はベッドの中で唸る。  枕元に置いた数冊の本を手に取り、それを借りに図書館へ行ったときのことを思い出し、更に唸ってしまった。 『ジェシカ様に比べて、あの子は本当に醜いでしょう? うちは美の女神様の神殿だから、ああいった醜い者でも置いてやるだけで、格が上がるのよ』 『妹様は聖女候補にまでなっているってのに、あの姉はろくでなしだよ。醜いし、魔法の才覚も弱い。片方の目が見えないから、普通の奴ではやらかさないようなミスをしでかす。この前も、神官長の大事にしていた花瓶を落として割ったばかりだ。本当にろくでなしだよ。恥があるならさっさと出て行けばいいのに』 『イザベラがここに来てからもう10年ぐらいかな? 最初のころは妹様よりも魔法に秀でていたんだが、ある日を境に目が腫れてしまって、魔法が使えなくなった。あの子も、ただ存在しているだけで心が辛いだろうな』 『ああ、イザベラ? あの無能で腐った片割れのことか? あれはろくでもない女だよ。いつも片目が見えないからって奉仕を許されてるし』 『あれなあ、ほら、片目だろ? 冒険者の手伝いをして小遣い稼ぎをしてるって噂だ。神殿から規定の給金をもらっているのに、目が見えないって理由で、奉仕を免除されているらしい』  奉仕。  神殿に仕える者はその身を犠牲にして、人々の役に立つ仕事をしなければならない。無償で。 『だけど、これは噂だけどな。あの二人は双子だから、よく似ている。髪の色や目の色が違うが、並べたらそっくりだ。だから、美しい妹様に悪い印象がつかないように、上が配慮してるって話だ』  配慮。  有能だと噂の妹ジェシカは美しく、聖女候補にまでなっている。  人々の目に付く場所で奉仕させると、まかり間違ってイザベラをジェシカと見間違う人が出る可能性がある。だから、神殿はイザベラを密かに隠しているのだという。妹を際立たせるために。 『そうは言っても、あの子は結構優しい。気立てのいい子だよ。負けん気が強くて言葉が荒いから、なかなかそう見えないがね』  この部屋がある階に住む他の使用人たちはそんなことを言う。  妹のジェシカは才能に溺れるあまり、自分よりも立場が下の者たちを侮辱したり、時には手を挙げたりする差別をするという。  だが、姉のイザベラを悪く言う者はいなかった。  みんなが彼女の容姿を話題にし、不憫だと言い、妹を引き立てるためにこんな地下に押し込められても文句ひとつ言わず耐えていることを褒め、そして最後にはけなした。 『嫌なら出て行けばいいんだよ。それができないあの子は、やっぱり弱いんだろうな。妹に甘えているんだろ。本当に嫌だったら残ったりしないからね』  それは正しい、とブレイクは思った。  人間はどんなに我慢強い者であっても、本当に嫌ならばその場所から身を引くものだ。  妻や子供、両親や親戚、仲間など、捨てていけない存在があればまだどうにか耐え、生き抜く道を模索するだろう。他人から見ればイザベラは冒険者の手伝いなどもできるし、治癒魔法も使える。  神殿で長く居続ける理由にはならないと、みんなが思ったとしても、それは間違いではない。  立ち去れない者にはそれなりの理由がある。  王族や貴族や、何がしかの地位にある者、生まれながらに与えられた責務から逃れられない者などがそれに当たる。少なくとも、イザベラに与えられた公的な使命はないはずだ。 「分かる者にしか分からんということか。10年は長い……女神も酷なことを成される」  老人は、この神殿のどこかで信徒たちを見守っているはずの女神を探すかのように、じっと地下から天井を眺めていた。 神殿学校での講義が終わったのは昼過ぎのことだった。イザベラには、その後本日の奉仕活動として、寒風が吹きすさぶ冬空の下で、神殿裏の排水溝に溜まった泥を掻き出すという任務が割り当てられていた。 その時間まで一時間ほど余裕があったので、イザベラは朝食だけでは足りずお腹を空かしているだろうブレイクのために、購買部でパンと飲み物を購入して部屋に戻った。 「なんだ? 昼食か。少ないな」 「文句言わないで。あなたの宿代を先払いして、私の財布にはもうお金が残ってないの。それで我慢してちょうだい」 「……なら仕方ないな」 「ちゃんと返してよ? 本当にもう、着替えるからこっち来ないでね」 作業着に着替えるため、カーテンを引く。ベッドからブレイクが動く気配はなく、ただ声だけがやってきた。 「わかっていると言っているだろう。銀貨5枚どころか10枚は払ってやる」 「はいはい。そんなにお金持ちだったらこんなところにいないでしょ」 返事をしながら、イザベラはさっさと着替えを済ませ、カーテンを開けた。老人はパンを半分頬張り、残りを彼女に突き返してきた。 「何よ?」 「半分こだ。代金はちゃんと払うから心配するな。私は本当は金持ちなんだ」 「はいはい、この十日間でそのセリフは聞き飽きたわよ。それより、息子さんはいつ来るの?」 「今日か明日には着くと思う」 「そう。でも、どうやってそれを知るつもり?」 彼がこの場所に仮住まいしていることを、ブレイクの息子たちは知っているのだろうか? なんとなく心配になって尋ねたところ、彼はあの乱暴な最中でも手放さなかった、片手に光る指輪を取り出して見せた。 「え? もしかして通信魔導具? そんな高価なものをどこで手に入れたのよ。まさか本当に……」 イザベラの手が震える。老人の指を飾るそれは、見た目にも高価な銀細工であり、さらにそこに通信機能を備えた魔導具ともなると、軽く金貨数枚はする代物だった。 自分の年収の数倍もする貴重な品物を前に、イザベラの両目は驚きで見開かれた。彼女の反応を面白がるように、ブレイクは自慢げに鼻を鳴らした。 「どうだ、素晴らしいだろう? こんな高価なものを持っている私のことを貧乏扱いするのか?」 「だって、どこから盗んできたの? そんなもの!」 「失礼な奴だな! 最初から身につけていたではないか」 「知ってるわよ! でもただの指輪だと思ってた。それほど小さいものは市場にも滅多に出回ってない。冒険者たちの手伝いをして働くことがあるけれど、Cランクの中級冒険者でもなかなか手にしない代物よ? あなたみたいな行き倒れの老人が身につけているのはどう考えてもおかしいでしょ」 「失礼な奴だな! これは私がずっと持っていたものだ。おかしいといえば、お前こそ、そうやって冒険者の手伝いができるくせに、なぜこんな場所にずっと住んでいる? いつでも出ていけるだけの腕を持っているはずだ。治癒魔法も使える」 問われてイザベラの顔は曇った。「あなたには関係ない」というお決まりの言葉が繰り返されるだけだ。 ブレイクは試しに提案してみた。もしここを出ていけるほどの金額が手に入ったらどうするのか。そんな興味が湧いたからだ。 「仮に私が金貨百枚を払ったとしたらどうする? 出て行くのか?」 「はあ? あなたがそんな大金を用意できるとも思えないけれど……無理よ。妹がいる」 「妹がいるから出て行かないのか? それとも出て行けないのか、どっちなんだ?」 「はあ……せっかく気分がいいから昼食を持って来たのに、こんなに嫌な気分にされるくらいなら、あなたを助けるんじゃなかった」 もうこの話はうんざりだと感じ、イザベラはカーテンを引いて出て行こうとする。その背中にブレイクの質問が刺さった。 「本を借りに行った。みんながお前のことを悪し様に言う。それほど妹が大事か?」 「……大事よ」 「腐った片割れと言われても平気なのか? 実の姉にそんな悪口を吐く妹だぞ?」 「あの子のことを悪く言わないで! ジェシカはまだ世間を知らないだけ。冒険者たちに混じったり、家のない人々と交わったりして奉仕活動をしてきた私と違って、あの子は外に出たことがないの」 「だがそれは、姉を口汚く罵る原因にはならんだろう」 「他の子には目標があるから仕方がないわ。これ以上この話題について言及するなら、出て行って」 カーテンの向こうから聞こえてくるイザベラの声には、どこか後悔が含まれていた。なぜ自分が悪いと思い込んでいるのか。その理由がなんとなくわかるブレイクは、それ以上の追求をやめた。 「心配せんでもあとしばらくしたら出て行く。息子たちから連絡があれば、早々にな」 「そう。それはいいことね。あなたもこんな悲惨な場所から早く光のある場所に戻るべきよ。家族がいるなら」 「もう行くわ」と言って、イザベラは扉の向こうに消え、室内には妙に重たい沈黙が支配した。それを打ち消すように、指輪が小さく音を鳴らすと、ブレイクはにやりと顔を歪めた。 肌に突き刺さる寒風に耐えながら、凍えるほど冷たい水の中に長靴を浸して、排水溝の泥をスコップで掻き出す作業は、孤独になるには最適なものだった。 胸の高さまである地上に向けて、ざっ、ざっとスコップで溜まった汚泥を放り出す単純な作業が一時間も続くと、腰が痛みだす。 イザベラが泥で汚れた手で触れないように気をつけながら、右手を使い左目のまぶたにそっと触れると、赤く腫れぼったいそこから朱色の眩い輝きがこぼれ落ちていく。 溜まった汚泥が視界に見える範囲でみるみるうちに浄化され、朱色の光が消えたあとには清潔な水が流れる、ぴかぴかに輝く排水溝が残っていた。 「工事をしたての新品みたい……やりすぎたかしら」 一緒に働く誰かがいたら決してできない行為を、イザベラは辺りに人がいないのを確認してから密やかにやってのけた。 彼女が使った先ほどの魔法は通常の浄化魔法ではなく、神聖魔法に属する高級なもので、神官クラスの高位魔法を使える人間でなければ起こせない奇跡だった。 見る者が見れば、それとわかる高位魔法。もし妹のジェシカがこの場にいて、先ほどの奇跡を目の当たりにしたら、きっと顔を真っ赤にして黙り込み、その場をさっさと後にするほどの素晴らしいものだ。 「ラーダ、やりすぎよ。これじゃ、誰かに見られたらバレちゃうじゃない」 ぼやくようにイザベラが呟くと、左目の閉じたまぶたの隙間からまた朱色の光が薄く漏れた。一瞬、周囲に煌きが満ちると、排水溝は先ほどよりも薄汚れた状態に戻ってしまった。 「うーん」と、泥だらけの全身をあちこちと見直して、イザベラは困った顔になった。清潔な腕を額に当て、大きく天を仰ぎ、文句を零した。 「だから……私を綺麗にしたらダメだってば。ラーダ、そろそろ慣れてくださいよ……ああ、もう。自分で汚さないと能力のことがバレるじゃない」 スコップを持ち上げ、排水溝の上に手をついて全身を引き上げる。排水溝の両脇に溜まった汚泥を少し手に取ると、それで服を適当に汚してごまかすことにした。 作業が終わり、備品を倉庫に戻してから、使用人専用の風呂で体を清め、自室へと戻る。まだ濡れている髪をタオルで拭きながらカーテンを開けると、ベッドにいるはずの彼の姿が消えていた。 「ブレイク……?」 図書館にでも行ったのかとも思ったが、ずさんな性格の彼がベッドを整えたことなどこれまで一度もなかったのに、今はきちんと布団が整えられ、その上には折り目正しく畳まれた毛布が載っている。 「どういうこと?」 近寄って確認すると、寝床の内側に置かれた枕の上には、一通の茶色の封筒が置かれていた。手触りの良いそれは、高級な紙が使われている。どう見ても、あの偏屈な老人の手にできる品物とは思えない。 もしかして、しばらく顔を合わせていない妹からの手紙かとも思ったが、記載された「イザベラ」という宛名は男性の手によるもので、神経質そうだが丁寧な筆致だった。 裏返してみると、送り主の名前が「ブレイク・アルデハート」と書いてある。中を確認すると、手紙が収まっていた。世話になった、との一文が書かれている。さらに同封されていたもう一枚の紙を見て、イザベラは言葉を失った。それは高額な金額を支払う場合に使われる小切手で、書かれている金額を見てイザベラは絶句した。 「金貨千枚? え? どうなってるのよ!」 思わずゼロの桁数を数え間違っていないか確認する。間違いない、金貨千枚だ。こんな大金、一生かかっても手にできる額じゃない。今の薄給のままなら、人生を三度も自由に気ままに生きていけるだけの金額がそこには書かれている。 あまりの衝撃に現実を直視できず、言葉が詰まり、その場でよろめいてベッドにぺたんと尻餅をつく。これは何かの悪い冗談だ。そう思っても、振出人の名前は「ブレイク」になっている。 小切手は振出人の名前がなければ利用できないし、銀行が小切手帳を発行してくれなければ使うこともできない仕組みだ。おまけにチェックも入っていない。換金する時、銀行の窓口でチェックありで換金しようとしたら、必ず振出人に確認が行く。それが入っていないということは、どこの金融機関でも換金し放題ということだ。 「ああ……悪い冗談よ、こんな仕打ち、あんまりだわ。ねえ、ラーダ? これは嘘だって言って?」 イザベラの問いかけに対して左目のまぶたからは、「それは現実だよ」と返事をするような気がした。有名でも幻でも、悪い嘘でもなく、あの男は、たった十日間世話をしたその代価として、言葉以上の大金を残していった。 嘘でしょ? 無理だって。こんな大金受け取れないわよ……おまけに振出人の名前。これが一番、冗談になってない。 振出人が名前を記帳する場所にあった名義は「ブレイク・アルデハート」。押印された家紋は、王国を魔族から護る四大結界を守護する一族の一つ、北の結界を運営するアルデハート辺境伯家のものだった。 アルデハート家当主は元々、平民だった。高利貸しとして一代で莫大な財を築き、王国有数の大富豪として知られている。その経営の才覚を先代の辺境伯に見いだされ、入り婿として辣腕を振るってきたと聞く。 もう一つ悪いことに、現在の辺境伯は齢七十を越える老人だとも聞く。いろいろな情報が、頭の中で錯綜し合致しては、イザベラを心理的に追い込んでいく。 突然、大金が転がり込んで来たから動揺しているのではない。王国を守る四大結界を管理する人間の一人だということが、重大な問題なのだ。 「……どうしよう、ラーダ」 イザベラは震える声で左目に語りかける。ラーダというその名前は、神殿が祀る女神のもの。そして、この神殿こそ四大結界を管理する一族や団体のなかで最も重要な役割を担う、王都を守護する結界を管理しているからだ。 「あなたがそこにいることを知られたら、何もかもが終わり……あの子に恨まれてしまう」 恐ろしい未来を考えてしまい、わなわなとイザベラは肩を抱いて震える。四歳のあの日、神殿にやってきた数か月後のことだ。イザベラはある事故で眠っていた女神の本体を、左目に宿してしまったのだ。 その膨大な魔力に肉体が耐え切れず、彼女の左目のまぶたは醜く腫れあがり、いつしか顔の真ん中を中心として左右対称に、妹と同じほど美しい右半身と醜い左半身が同居するようになり、イザベラは「美醜令嬢」と揶揄されるようになった。 身に宿した魔力があまりにも膨大で、幼い彼女の才覚では溢れる力を制御できなかった。さらに大きな力は体内で奔流となり荒れ狂い、わずかに開いていた魔力を放出する穴のようなものを、奔流が壁となって塞いでしまったために、イザベラは魔法が使えない状態に陥った。 彼女の身に起きてしまった幸いにして不幸な出来事を見抜き、適切に処置できる能力を持つ魔法使いは、神殿にはいなかった。 今でこそ女神ラーダと会話をすることで、いくばくかの奇跡を起こせるようにはなったが、本来持っていた能力はどこかに消えて失せてしまった。 そんな悲惨で過酷な状況の中で、妹の方が新たに魔法の才覚を開花させてしまったのだ。偉大なる奇跡の力をその身に秘めているとはいえ、所詮は他人から与えられた能力。 自らの力で才能を花開かせた妹を、イザベラは誇りに思っていた。ジェシカに聖女として栄光の道を歩いてほしかった。 しかしそのためには、いくつかの条件があった。その一つが、女神が神殿から遠く離れないこと。 妹の才能は女神の力が溢れる神殿の中でこそさらに花開いていく。美しくみずみずしい大輪の華を彼女が咲かせるまで、イザベラはどんなに差別され虐げられても、神殿から長い期間離れるわけにはいかなかったのだ。 妹の成功を夢見る姉として、今の不遇は女神を宿したことの試練だと割り切ってきたのだ。自分が不幸になっても、妹が幸せになるならば。誰からも賞賛を得ることのできる聖女になれるのであれば、どんな試練ですらも乗り切ってみせる。 その思いがイザベラの心を強くした。あの子の成功を見るために、この秘密を隠し、どんな苦難でも歯を食いしばって生き抜いてきたのに。 「ラーダ、どうしよう……。私、あの子に恨まれたくない。お姉ちゃんが女神様を宿していたことを秘密にしていたなんて知られたら、ジェシカは絶対に私を許さない」 辺境伯は代々、その身に魔眼を受け継ぐと聞く。ありとあらゆる真実を見抜くその眼は、空間を制御し、結界のほころびをたちどころに癒すという。 「そんなもので見抜かれた日には……どうしよう。彼は、私たちのことを知って消えたのよ。そうじゃなきゃ」 こんな大金を残していくはずがない。この金額はいわば、同じ結界を維持することを運命づけられた仲間に対する、辺境伯からの励ましのようなものだとイザベラは推察した。 嫌な予感が脳裏を突き抜ける。左目に焼けるような感覚が走り、次の瞬間、部屋の扉が軽くノックされた。 灼熱の痛みが脳を焼きそうになる。女神が何かを知らせようとしているらしいが、ラーダの力が膨大すぎて、イザベラには何が何だか理解できない。 「っ……ッ! はいっ……」 どうにか痛みをこらえて我慢を続けると、女神がようやく宿主の限界を察したのか、力を止めてくれた。息も絶え絶えになりながら平常心を装って扉の向こうに返事をする。 「イザベラ、いるのか。神官長がお呼びだ、すぐに来いとおっしゃられている」 扉の向こうから男性の声がする。知り合いの神殿騎士の一人だとわかった。神官長がこのタイミングで呼びつけるなんて……。 イザベラの背中に悪寒が走った。ぬるっとした嫌な汗が全身を覆っていく。 肚の底から冷え込む寒さを我慢しながら、イザベラは迎えに来た神殿騎士のあとに続き、神官長の部屋へと向かう。その足取りは重く、絞首台に上がる死刑囚のように小刻みに震えていた。 「イザベラ・ローズベルドです、入ります」 挨拶をして中へと足を踏み入れる。入ってすぐ、扉の向こうには大きな窓があり、手前で燦燦と降り注ぐ陽光を浴びながら、一人の男性が執務机に向かい、なにやら書き物をしていた手を止めてこちらを見上げた。 長と名のつく者が身につけることを許される朱色のローブ、その下には仕立ての良い開襟シャツと暖かそうな青いセーターを着込んだ彼は、真っ白な木綿のシャツに黒いスカート、藍色のジャケットをまとったイザベラとは比較にならないほど贅沢な身なりをしていた。 「来たか、遅いぞ。腐った片割れが、私を待たせるとはいい度胸だな!」 神官長はまだ若い四十代、小太りで背が低く、老人のように後退した頭髪は薄く、頭皮が執務机の後ろにある窓からの陽光を反射して、眩しい。 きらっと輝くそれから視線をずらしつつ、「何でしょうか、神官長」とイザベラは小動物が鳴くような声を出した。 「お前の罪を問おうと思ってな」 「罪……? ああ、花瓶の件ですか?」 「それだけではない!」 「ひいっ!」 彼は拳を固めて執務机の上を叩いた。上に並んでいたインク壺やペン立てが、軽く浮き上がる。 その勢いに思わず片目を瞑り、肩を引くと彼はイザベラの怯えた様子を見て満足したのか、「腐った片割れが」ともう一度言い、机の上に肘をつき顎を乗せた。 「いいか、イザベラ。お前の罪は巡礼者でもない者をこの神殿に寝泊まりさせたことだ。しかも、十日間も!」 ズキリと、心臓が見えない手によって掴まれたように感じた。胃の奥がキリキリと痛み、思わずうえっとそれを吐き出しそうになる。 凄まじいストレスを感じて、眼の奥にぐっと力が入り、頭のどこかで耳鳴りがした。神官長は傍目にも動揺する彼女を見て、「屑が」と侮蔑の言葉を吐きだす。 彼の態度があまりにもあからさまに小馬鹿にしてくるものだから、イザベラは「あれ?」と違和感を感じた。恐怖に凝り固まった全身から、不思議と力が抜けていく。彼女はいつものお小言かなと思い、緊張の面持ちを和らげた。 こう言った時、下手な言い訳は逆効果になる。事実のみを述べてやり過ごすのが一番賢い、とイザベラは知っていた。 「あっ、あれはちゃんと神官様の許可を得て……」 「黙らんか!」 「うひいっ!」 イザベラは怒鳴り声に再び首を竦める。意地悪や嫌味、罵りの言葉を浴びせられるのには慣れているが、男性の怒鳴り声だけは苦手だ。 まだ実家にいた子供の頃、父親が母親を怒鳴りちらしては、拳で殴っていたのを見てきたからかもしれない。無意識のうちに、理不尽な暴力というものを恐れるようになってしまった。 ……冒険者たちに混じって魔獣と戦うことなんて何も怖くないのに。凶暴な魔獣と戦うよりも、人間の男性のほうがよほど怖い。魔獣は生きるために戦うが、人間の男は己の愉悦を満たすために暴力を振るう。それは受け入れがたいものだった。 「巡礼者は巡礼者のために用意してある宿泊施設に案内しなくてはならない」 「そ、それはそうですけど。でも宿代がないって」 「……お前、先払いで立て替えただろう? 金貨5枚も」 「そ、そうです。はい……立て替えました」 「立て替えたならどうしてその施設に案内しない?」 「案内しないんじゃなくて、順序が逆です」 「どういうことだ?」 「ですから、その……最初、お金がなくて行く当てがなく、夜を過ごせなかった。だから、仕方なく私の部屋を貸しました。そうしたら、宿代を請求された……んです」 イザベラが怯えながら事情を説明すると、神官長は申し訳程度に生やした口ひげをなぞりながら、「ああん?」と訝しげに言った。 「宿代を請求されて立て替えてやれるなら、その時点でお前の部屋を貸すことを止めて、宿泊施設に案内するべきだったのではないのか? どうなんだ!」 「うひっ、ですから! そうしようとしましたけど! 部屋が空いてないって……それに老人ですよ、おまけに血だらけになって神殿の裏門で倒れていたんです。助けないのは……その……」 「その、なんだ?」 「その――女神ラーダの教義に反する、かと」 おずおずと上目遣いに申し述べるイザベラの左目が、瞼の内側だけかすかに朱色に染まった。そこに宿る女神ラーダは、イザベラの言葉を「そうだそうだ」と肯定する。 だが、神官長はそうではなかった。彼にとって、ブレイクを泊めたことなど本当はどうでもよかったのだ。後ろに控えた本当の目的をイザベラに承諾させるための、方便に過ぎないのだから。 「女神様の教えを、まだまだ若造のお前が、語るのか。世も末だな……こんな、姉は出来損ない。妹は聖女候補という双子が生まれたのも、女神様の思し召しかもしれん」 「と、言いますと?」 「お前に一つの試練を与える」 「うえっ」 試練? 試練って何? これはいつものお説教とか、延々と数時間も続く苦痛の奉仕を与えられるのとは、何か別の新しい体験のような気がしてならない。神官長はどこか誇らしげな顔をして胸を張る。 「試練だ。不細工な上に魔力もなく、人の花瓶を割るような無能で、神殿から給金だけをいただいて奉仕活動から逃れている給料泥棒。最低最悪のろくでなしのお前だからこそできる、素晴らしい試練だ」 「……そこまでこき下ろすことはないんじゃ?」 ちょっと言い過ぎな感がしたので、それとなく文句を言ってみる。神官長は死んだ魚のようなぎょろりとした目を向けて、イザベラを睨みつけた。 「何か言ったか?」 「い、いえいえ、何も言っておりません。それで、試練とは?」 両手のひらを縦にして左右に振り、イザベラは慌てて自分の言葉を打ち消す。そんなことだから、いつまで経っても成長せんのだお前は、と小言をぼやきながら、彼は一枚の書類を机の引き出しから取り出して、イザベラの前に置いた。 「何ですか、これ?」と質問しながら、見ることができる右目を近づけて、書類の内容を読み取る。そこにあるのは、イザベラも幾度か見たことのある書類。婚姻届のひな型が置かれていた。 「……神官長は私と結婚したい? 奥様がいらっしゃるのに?」 思わず早合点して訝しげな視線を向けるイザベラに、神官長は顔を赤くした。「誰がお前のような出来損ないと! 私にはよくできた可愛い妻がおるわ!」と、大声で否定されて、イザベラは涙目になる。  それならば、誰が誰と結婚するというのか。  誰かと誰かをくっつける恋の橋渡しをやれとでもいうのだろうか、まったくもって見当がつかない。 「むっ、ごほん。……いまこの神殿は未曽有の経営危機にある」 「は? いきなりなんですか? わたしの預金なんてもうないですよ、あの老人のせいで全額使い切りましたから」  お金の話は、まったくの素人のイザベラだ。  もしかして、ブレイクが置いて行ったあの小切手を奪おうというのだろうか、と邪推した。しかし、現実はもっとひどかった。  しかしその目は、獲物に狙いをつけた猟犬のように今にも襲いかかろうと爛々と輝いていて、とても不気味だ。  神官長は「馬鹿か、お前は」とまた侮蔑の言葉を吐き、呆れ顔で言葉を続けた。 「我が女神ラーダの神殿は、王都の結界を管理する役割を国王陛下から命じられている。だが、それの維持には莫大な費用が必要となるのだ。近年、導入した魔導具のおかげで人員を整理できたが、結界を維持するために必要な魔鉱石が値上がりしていてな……」 「はあ……?」 「まあそんなことはどうでもいい。とにかく結界の維持は、神殿の経営を圧迫する。借財がかさみ、このままでは破産寸前だ。そこで我々は、他の結界を維持する者たちに支援を求めた」  分かりやすく言うと、借金の肩代わりを求めた、ということだろうか。  他の三団体はそれぞれ、西の勇者が所属する総合ギルド、南の賢者の塔、北の辺境伯家となっている。  団体の規模からしても、女神の神殿は四者のなかで最大級で、もちろん資産も最高額を有している。  つまり、その経営が破綻するということは、王都の結界がなくなるということだ。  王国を護る東の結界そのものがなくなると、東側にある大森林から魔獣が押し寄せてくるだろう。  ほどなくして、王国は壊滅に至るかもしれない。  その危機を免れることができるとすれば、国内では第二の規模だが、世界各地に関連団体がある総合ギルドか、北の辺境伯家しかない。  辺境伯家は、ブレイクが築いた資産だけでも国内有数の富豪に数えられる。その領地などを併せたら、国内では女神神殿に匹敵する規模の富豪といえるだろう。 「まさかの、辺境伯様? とか?」 「ああん? なぜお前がその事を知っている?」  死んだ魚の眼が迫ってきた。  ただの思いつきです、と、あわあわとなりながら肩をすくめて見せる。彼の目つきは苦手だった。 「……まあ、我が神殿と同規模の資産を有するのはあそこくらいだ。誰でも思いつく話だな……。その辺境伯から返事が来たのだ」 「それとこの婚姻届とどういうつながりが?」 「彼の言い分はこうだ。現在、神殿では魔導具による結界の維持ができている。神殿がやるべきことは、その管理を万全にすることだ。人員を削減し、高位の神官など魔力の高い者を、他の魔族と戦争をしている地域へと派遣すべきだ、とな」 「ああ……そういう……え? でも、だからなんでこれですか?」 「話を最後まで聞かないのがお前の悪いところだ。少しは頭を回してみろ。神殿の中で辺境伯の言うように魔力の強い人間で、お前とつながりのある者は誰がいる?」  ちょっとだけ考えて、その答えはすぐに出た。  妹だ。ブレイクは優秀な妹のジェシカを望んでいるのだろう。そういうことか、と腑に落ちる。納得がいく結論のような気がした。 「……ジェシカ、ですね」 「ああ、そうだ。腐った片割れでないほうの、双子の聖なる片割れ。ジェシカだ」 「そこまで言わなくても」  能力が高い妹を辺境伯家に嫁がせることで、その家はさらに魔力の高い子孫を生み出すことができる。  まさか、ブレイクのような高齢の男性がジェシカや自分のように十四歳の少女を望むこともないだろう。  彼が言っていたように、息子たちの誰かが夫になるのかもしれない。  妹はまだ未熟だ。聖女になれるまで神殿から離れるべきではないし、自分と離れては彼女の成長が遅くなる。  妹が聖女としての才能を開花するまで、少しばかり待ってはもらえないだろうか、ブレイクに懇願してみようか。  そんなことをイザベラが考えていると、神官長は驚きの発言を繰り出した。 「かといって、ジェシカは有能な少女だ。いずれは聖女となり、この神殿の長となるべき逸材だ」 「ええ、そうですね。姉としては誇らしい限りです」 「そこでだ! 双子のお前が、行けばいいということになった」 「……は?」  つまりそれは偽りの花嫁になるということだろうか?  神に仕える神官ともあるまじき、不正だとイザベラは驚きに目を見張った。 「相手は双子の片方を望んでいる。正しくは、優秀な双子の片方をよこせと言ってきた。お前も昔は優秀だったそうだな? 今は腐った片割れだが」 「……そんな、相手を欺くようなことをして、もしばれたらどうするつもりですか」 「問題はない。さっさと婚姻してしまえば、相手も離婚はできん。この国では王族以外、重婚は犯罪だ。法律でそう決まっている。ついでに女神様は一度結婚してしまったら離婚することを認めないと、教義で語っておられる」  そういった教えを下した覚えはない、と左目に宿る女神が怒っているのが、なんとなくイザベラには見て取れた。  女神ラーダが地上に降臨してから、二千年ほどの時間が経過した、と神話では言われている。  その間になにかがあって、女神は神殿の横の方にある小さな祠の中で、女神像に形を変えて眠っていた。  神殿のベランダが崩落し、そこで遊んでいたイザベラが落下したところに、女神の祠があった。  祠は落下時の衝撃で破壊され、長い眠りに就いていたラーダの女神像が左目にぶつかってしまい、何の因果かイザベラは女神をその身に宿すことになった。 「女神様がそう決められたかどうかはわたしには分かりません」 「女神様が決めるかどうかは関係ない。神殿を経営する我々が決めたことだ。お前はこれまで十年間、ただ飯を喰らい、寝起きする場所を与えられ、さらに教育まで施されてきた。神殿に養われてきたも同然だろう?」 「つまり、恩を返せ、と」 「そういうことだな。結婚する相手は辺境伯だ」 「えっ――ッ!」  それでは妹が、あまりにも可哀想だ。  ブレイクは悪い老人ではない。だけど歳が離れすぎている。それにジェシカの高慢な性格と、ブレイクのあの人を人とも思わないわがままな性格は、火と水のような関係だと言ってもいい。  いや、むしろ火に油を注ぐ形で、早々に離婚する可能性だってある。  イザベラにはまだ老人を敬うという美徳があるが、ジェシカはあくまで能力至上主義の権化のような性格だ。  強欲で尊大な億万長者であり、結界を維持している偉大なる魔法使いのブレイクを、最初は尊敬するかもしれない。  だけど、彼がこの十日間もの間、姉の家に厄介になっていた理由をもし知ってしまったら、ジェシカはどうするだろう?  街中で物取りに襲われて血まみれになり、財布まで奪われて一文無しになった彼が、偉大なる魔法使いとは、どう見ても信じられない。  彼の豊かな魔法の才能は息子の誰かに受け継がれていて、今ではただの貧相な老人になってしまったのではないかというのが、この時のイザベラの予想だった。 「どうだ? 妹はお前の自慢なのだろう? その妹が、七十を越える老人の妻になるなど、姉としてはどうだ? 納得がいくか? 妹が幸せになれると思えるのか? どうなんだ」 「……あの子は、ジェシカはまだ修行の途中です。神殿に残り聖女となるべき存在です……」  結婚してしまったら、ブレイクは自分がこの王都に残ることを、許してくれるだろうか?  拒絶され、北に無理やり連れられて行くなら、女神が宿る左目をえぐり出して、あの祠に祀るしかないのかも。  自分のことはどうでもいい。  すべてはあの子のため。妹の成功のためなら、お姉ちゃんは片目を失ってもいい。イザベラの覚悟はできていた。 「ではお前にこの結婚に対しての異論はないな?」 「あちら様が文句を言われないのであれば……」 「それなら話は早い」  神官長は満足そうにニタリ、とほほ笑むと、両手を軽く打ち鳴らす。  扉の向こうには待ちかねていたかのように十数人の侍女や女司祭が立っていて、イザベラの身を別室へと案内する。  それから数時間後、まだ十四歳の少女は、その身には少しばかりぶかぶかだが、美しいデザインの純白なドレスに身を包み、新郎の待つ神殿の一室へと足を運んだ。  信徒たちが結婚式を挙げるためのその場所では、これまた真っ白なスーツに身を飾ったあの老人ブレイクが不敵な笑いと共に、待ち構えていた。 「女神様の恩寵は、そこにあったようだな」 「やっぱり、このことを……」 「だが、安心しろ。わしがお前を愛することはない。ついでに、誰にも秘密を漏らすこともせん。それを今ここで誓おう」 「……妹が聖女になるまで、待っていただけるのなら。王都に住まわせて欲しいの」  そう提案すると、ブレイクは「ふむ」と意外そうな顔をした。  イザベラの願いはすべて妹に向いている。彼女を悪しざまに言う発言も、周囲からたくさん耳にしてきた。 「そこまでして、お前は妹が大事なのか? この場に参列すらしていないのに」  急な結婚。大した準備も、心の支度もできないままに、イザベラはその場所にいた。  彼らの立つ祭壇の下段には、神殿の経営陣と神官や司祭たちが数十人、この政略結婚が成功するようにと祝いに訪れていたが、どこにも実妹ジェシカは見当たらない。 「……大神官様たちが隠しているのだと思います。ごめんなさい」 「なぜ、謝る?」 「わたしたちの、女神神殿の誠意が。あなたから与えられた好意に対する恩返しが、こんな裏切りだなんて、恥ずかしくて……情けない」 「それは違う」 「え?」  老人はまた不敵に微笑んだ。あくどい笑みはここでも光っている。  だが、そこには神官長のような悪辣なものはなく、表現がおかしいけれど、優しさの内包されたあくどさだった。 「わしは最初から双子の優秀な方と条件を出した。それは今目の前にいる」 「でも、わたしはなにも優秀なんかじゃ……」  ひそひそと話をしている間に、神父はさっさと進行を早め、あっという間に指輪の交換。そして、愛を誓い合う誓約のキスの瞬間が来てしまった。  ブレイクは幼い花嫁のベールを取り、大きな白い手袋に包まれた両手で、イザベラの頬を優しく包んだ。  彼女が目を閉じてつま先立ちになり身長差を埋めるようにすると、彼もまた膝を折り、その視線を下げる。  周囲から見えないように、新郎は新婦の頬にそっと口づけを交わして、静かに告げた。 「この世に女神を宿すことのできる者など、そうそういるものか。女神に愛されたお前こそ、わしの嫁に相応しい。どんな不遇に合っても、己を犠牲にして妹を優先し続けてきたその気高き心こそ、本当の聖女が持つものだ」 「それは妹が……わたしじゃない」 「結婚しておくれ、イザベラ。この世間から忌み嫌われたわしの元ならば、お前は誰の目を気にすることなく、自由に生きていける」 「どうしてそんなこと言って誘うの? 自由になれるなんて、もう望んでないのに」  腫れあがったまま涙腺も枯れてしまったはずの左目から、熱いものが頬を伝う。  右目からも、同様にして涙が溢れて留まることを知らない。 「それは、お前が十年間、ずっと無償の愛を妹に注ぎ続けて来たからだよ。もうその役目は全うされた」 「だけどあの子はまだ聖女になってない」  もう一度、優しさの溢れるキスを頬に受けて、イザベラはより一層、涙を流した。  誰にも真実を語ることができないのはとても辛いことだ。  認められることもなく、謂れのない差別を受け、人知れず枕を濡らしたこともあった。  言葉の暴力に晒されるうちに次第に心は固くその扉を閉ざしてしまい、ジェシカに「腐った片割れなんて死ねばいいのに。私の将来の邪魔でしかないわ」と直接罵られた時には、もう悲しみすら覚えることがなかった。  ああ、そうなんだ、と軽く流す程度にしか、胸に響かない。  人の心を無くしそうで、でも、妹の大成を見届けたくて、ここについ残ってしまった。  拭えない罪悪感もあった。  女神をこの身に宿したという、どこか優越感に似たものも、それを大きくした。  不遇にその身を置くことで、自分に言い訳の道を残して生きてきた気がしてしまい、いつも後悔に苛まれた。  ジェシカが聖女になるために、ここにいなければならないのだと、もしかしたら心を偽ってきたのかもしれない。  神殿にいれば最低限の衣食住は保障され、小遣い程度の給金があり、学ぶことも出来て、生きることに不安がないからだ。  口実を作りその状況に甘んじることで悲惨な自分に酔ってきた可能性もある。  どれも醜い感情。  腫れ上がった左目よりも醜い、ただ臆病な自分が勇気を持って決断することを止めていただけの話。  だけどそれは、例えば成人してまともに働くことのできる大人が、自らを病人と偽って社会の保護を受けているのだとしたら、犯罪とそしられてもおかしくない。  けれどもイザベラはまだ十四歳だ。  世間一般で言えば成人までにあと二年もある。本当なら周りの大人や、心ある誰かが、世間の心無い一言から彼女を守ってやらなければならなかったのだ。 「ここは女神の神殿だ。離れた場所に行ったとしても、お前の妹が聖女になる位の手助けを、女神はしてくれるだろう。自ら悪だと決めつける必要はない。悪かったのはお前ではなく、それを見抜き助けの手を差し伸べることを怠った無能な神官どもだ。あいつらは、仮にも女神に仕える高位の魔導師なのだから」 「そんなにわたしを良いように言わないで。あなたの言ってることは間違ってない……けど」 「自分を許せない、か?」  慣れないつま先立ちのまま、足をぷるぷると震わせて、イザベラはコクンっと素直に頷く。  その仕草は大人を演じることを自身に強いてきたものではなく、年相応の可愛らしいものだった。 「これからは北の地から、妹のことを見守ればいい」 「……何かあれば駆けつけても?」 「もちろんだとも。お前の好きなようにしていい。どんなことでも、何をするにつけても、お前が正しいと信じてすることを、わしはすべて受け入れる。どんなことでもだ」 「魂に賭けて?」 「もちろん。我が存在の全てに賭けて。細胞の一片に至るまで、お前を裏切ることはしない」  女神をその身に宿した者との約束は、神と交わす契約に等しい。  そこまで言ってくれるのならば――。  イザベラはしわくちゃの老人とキスを交わす。  ほんの少しだけ彼を信じてみてもいいという気持ちになった。初めてのキスは、なんだか煙のような味がする。  多分これはあれだ。彼がイザベラの部屋の外に出ている時に吸っていた、煙草の味だ。  これから先、長生きしてもらうためにも、健康を損なうものは禁止しなくては。 「それならばあなたを信じます」  こうして、二人は夫婦となった。  ベールを下ろし、控室に移動してから最初の願いをイザベラは口にする。それは禁煙とこの神殿をすぐに出て行きたいということだった。  夫は禁煙命令に難色を示したが、どうにか受け入れた。妹に会いに行かないのか、と訊かれるが今はその気になれない、と返事を返す。神殿の上層部が勝手にやった判断でも、辺境伯家に嫁ぐことは貴族の女として、逆にジェシカの嫉妬を煽りかねない。  これ以上、姉妹の仲を面倒くさいものにしたくないから、いずれ時期を見て王都へ来る際に報告しようと思った。  辺境伯様へと向かう途中の魔導列車の中で、イザベラは夫から驚きの発言を耳にしてしまう。  息子達がいるというのは彼の方便で、実子のように慕ってくれる部下がいるだけで、彼に家族はいない。  本当に孤独な老人だったのだ。  最後までよく分からない事が一つある。  それは彼があの日、出会ったあの日に血まみれで神殿へとやってきたことだ。 「あーあれか」 「あれかって。あれも嘘だったの? 怪我は本物だったのに」  もしもこれまで騙されてきたのだとしたらブレイクに対する見方を反転させなければ。  目を半分にして正直に言いなさい、と冷たい妻の視線を受けて、彼は言い訳をするように語り出す。 「あれは違う。本当に襲われた。神殿から支援をして欲しいと頼まれたが、いろいろと怪しいと思っていた。わしは若い頃に辺境伯家に養子に入ってから、たまに王都に来る程度だ。半世紀前と今とでは、神殿の実態も変わっているだろう。だから、巡礼者の真似をして、中から本当の姿を見ようとした」 「それで、あんな目に遭ったなんて、ね。ついてないわね」 「普段から人に嫌われるのには慣れている。そういう人生だったしな。最後に本物の宝物を手に入れることができた」 「……金貸しって人種は、本当に言葉巧みに人の心を操るのね? 今だけはそれを信じてあげてもいい」  そう言ってキスを交わしたことを、イザベラは思い出す。  今でも若気の至りだったと、反省することしきりだ。結婚という異次元のイベントに心ここにあらずだった。  だが、ブレイクはいい夫だった。言葉通り、彼はなんでもやってくれた。どんなことでも受け入れてくれた。  溺愛されたと言っても過言ではないと思う。それは真実だ。そして、最良の存在だった。 「わたしの左目に宿っていた女神様を解放して、この身を自由にしてくれたのも、あなた。妹が聖女になり神殿で権力を持てるようにと後ろ盾になってくれたのも、あなた。最後の最後まで約束を違えない人だった」  けれども、来年の春にまた王都に行こうという約束だけは、果たせずじまい。  もしも、若い頃の彼が目の前に蘇り、その手を差し伸べてくれたら、どれほど幸せだろうか。  辺境伯家に婿入りしてきたころの彼は、まだ二十七歳だったという。  若い頃の写真に写る彼は才気あふれる青年で、年老いた彼とは全く別人。  思わず、惚れ惚れしてしまうほどにいい男だった。  あの頃の彼が今もしも蘇ってくれるなら。  女神様、ラーダ。  あなたを宿したこれまでに免じて、わたしの我が儘を聞いてくださいな。  願ってはいけないと分かってはいるが、奇跡がもしも起こるなら。  女神がそれを許してくださるのなら、とついつい心の底で念じてしまう。 「そんなこと許されるわけないのに、ね」  一人寂しく呟く未亡人の言葉を裏切るように、棺桶の中でカタンと、何かが動く音が聞こえた。  じっと地下から天井を眺めていた。
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