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――――5分前。
「おい、禊屋? どうした、応答しろ!?」
車内の乃神は通信を試みるが、返事はない。聞こえてきたやり取りから察するに、おそらく禊屋が倒れた拍子に無線イヤホンが外れてしまって、それで電源が切れたのだろう。
『どうしますか乃神さん? 指示をくだされば我々ですぐに向かいますが』
シミズが言う。
「……いえ、必要ありません。待機していてください」
ガニーの発言からしても、邪魔されないように彼女を足止めしておきたいというだけで、危害が加えられることはないだろう。是が非でもフレイムを押さえるなら今すぐ助けに行くべきなのかもしれないが、それは無謀だ。銃の名手であるシミズはともかく、一緒に行動している二人は優れた戦闘員というわけではない。アンバークラウンを相手にするには戦力が乏しすぎる。自分が加わったとしても大した違いはないだろう。返り討ちに遭うのが関の山だ。
それにシミズたちを監視しているというアンバークラウンの別働隊。あれがどの程度の戦力を保持していて、どう動くかもわからない。シミズたちがアジトへ向かい出した途端に攻撃を仕掛けてくるという可能性は充分にある。
あと考えられるとすれば、奴らの足となる車……そのタイヤをパンクさせるなどして逃走手段を封じること。だがそれも応援が望めない今の状況では悪手だろう。奴らが今度は禊屋を人質にしてより困難な状況となることが予想される。
だからアンバークラウンはこのまま行かせていい。リスクを考慮するなら、どう考えてもそれがこの場では正解だ。フレイムを逃がすことになるのは痛いが、欲を出して無用な犠牲を出すわけにはいかない。
それにしても……黒山羊という犯罪者を探すことが、禊屋が裏社会に身をおいている理由だという話は聞いたことがあったが、黒山羊が絡むとこうまで様子が変わるとは。普段の彼女ならあのような冷静さを欠く行動は取らなかったはずだ。それほどまでに黒山羊という存在が彼女の人生に暗い影を落としているということか……。ここまでやってきたのにフレイムを取り逃がす結果になるのは、彼女にとって耐え難いことなのだろう。
しかし飲み込んでもらわねばならない。他に方法はないのだ。それとも……〝あいつ〟がここにいれば、何か違う答えを出せただろうか。いや、素人が一人増えたところで何になるというのだ、馬鹿馬鹿しい。クリスマスの事件以来、どうもおかしな考えが思い浮かぶことが増えた気がする。以前の自分なら、禊屋に同情するようなこともなかった。
乃神が疲れたように息を吐いたその時――太い銃声が2発、続けて鳴り響いた。
「なんだ……?」
アジトの方からではない。アジトの門を挟んで逆方向――から音は聞こえたように思えたが、車の窓越しにそちらを見ても人影はない。では今の銃声は?――そう思った瞬間、乃神は気がついた。
その方向には、急勾配な下りの坂道があり、その先には手入れがされていない荒れ果てた田畑が広がっている。それらの間に人が住んでいる気配がない古びた民家が一つあるのだが――そこのガレージのシャッターが開いていた。ここに到着して周囲を確認したとき、あのシャッターは閉じていたと記憶している。実は人が住んでいて、開けたのか?
『銃声……それも拳銃じゃなくて、ショットガンみたいな音じゃなかったか?』
『その女の仲間が何かやったか?』
禊屋の襟に取り付けた小型マイクはまだ生きていて、監禁部屋でのやり取りを伝えてくれている。アンバークラウンの連中は銃声に気を取られているようだ。そして、キーパーとフレイムを置いて残りのメンバーは表へ様子を見に出てくるらしい。
その時、スマートフォンに着信が入った。ディスプレイに表示された電話番号は見慣れないものだったが、アリスが調整した迷惑電話自動ブロック機能を信じるなら少なくともいたずらではない。今の状況に則した内容の電話であるかはわからなかったが、出てみるしかあるまい。
「はい」
『夕桜支社の乃神の電話だな? 会長補佐のクサビだ』
「は……? 会長補佐、ですって!?」
ナイツ会長補佐のクサビといえば、乃神も名前くらいは聞いたことがある。ナイツの会長『岸上燐道(きしがみりんどう)』の右腕的存在、組織の実質的ナンバー2。本部の特殊部隊『暗月』の創設者であり、初代隊長でもある元Sランクヒットマン……殺し屋時代の通称は〝真戒(パニッシャー)〟。怪我が原因で荒事を引退してからは、優れた状況判断力を買われ会長補佐の座に収まったということだった。
そんな遥か上の立場にいる男が直通の電話をかけてくるなど、乃神にとってはそれだけで異常事態だった。
『驚くのはわかるが落ち着いて聞いてくれ。今そっちに暗月のダスクという男を送った。奴がすぐに片付けるから、お前らは動かなくていい』
「待ってください。それは、どういう……?」
『ごちゃごちゃ動かれると邪魔だと言っている。今いるそこでじっとしていろ。……いいな?』
クサビの言葉には有無を言わせぬ圧力があった。
「……わかり、ました」
『片付いてからのことはダスクに一任してある。奴の指示に従え』
電話が切れる。
くそ、何なんだ……言いたいことだけ言いやがって、さっぱりわからんぞ! なんで暗月が来ている!? 本部からそんな説明は受けていない!
乃神は苛々しながらも今の話をシミズに伝えようとしたが、その時、例のガレージに動きがあった。古びたガレージに似つかわしくない、美しい白いクーペが姿を現したのだ。クーペはガレージを出るとみるみるうちにアクセルをふかし、エンジン音を轟かせ、タイヤで土を飛ばしながら、凄まじいスピードでこちらへの坂道を上ってきた。
「なっ……!?」
クーペの進路的に、このままでは乃神の車にぶつかってしまう。あの勢いで衝突されたらお互いに命はないだろう。というか、仮にこの車がなかったとしてもアジトの門にぶつかるだけなのだ。あのクーペ、自殺志願者なのだろうか?
「くそっ!」
わけもわからず、乃神は運転席のドアから転がり落ちるように外に出て、クーペの衝突から逃れようと試みた。しかし、その必要はなかった。
坂道を上りきったクーペはその勢いのまま宙へ射出され、そのまま乃神の車、それにアジトの門を飛び越えたのだった。乃神にはその光景がスローモーションで流れるように見えた。
空を走るクーペ、バランスを失ってゆっくり傾きながら、運転席のドアが開く。ドアから白いロングコートの男が飛び出す、空中を舞う男と、墜落するクーペ。男が華麗な着地を決めるのと同時に、クーペがアジトの入口へ、ドアを破壊しながら突っ込んだ。
ちょうどドアから出てきたばかりだった革ジャケットの男の身体は、その巨大な鉄塊に轢き潰されたのだった。
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