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アンバークラウンのアジトである中屋馬工務店から、東へ1キロほど離れた地点に古びた三階建ての公民館がある。5年前に閉館されてそのままの建物だが、今、その三階に二人の人間が入り込んでいた。
「おっ! 禊屋ちゃん出てきたー!」
前髪にピンクのメッシュを入れている細面の女は、開けた窓から高倍率の双眼鏡で覗きながら興奮した声を上げた。着ているのはダメージ加工のされた黒Tシャツに紫のミニスカート、それに赤いフード付きコートを羽織った20歳くらいの女である。
彼女が覗いているのは、ちょうど中屋馬工務店の建物から出てきた美夜子の姿だった。後ろにグッドラックを連れている。
「あらら? 表情が暗い気がする~。あっ、もしかしてアンバークラウンの連中が死んじゃったから? あんなのが死んだ程度でへこんじゃうなんて、気苦労多そうで心配だナ~。
でもでも、アンニュイな禊屋ちゃんもかわいいよねぇ~! 前に弁当屋で会ったときよりもっと美人になったかな? 失恋すると女は綺麗になるって、どこで見たか忘れたけど満更でたらめでもないのかもね。ほんと、惚れ惚れしちゃうほど綺麗な子。そりゃあ、黒山羊サマもご執心になるわけだよ。んっふふふっ」
女は美夜子を双眼鏡越しに見つめながら、口元を歪めて笑う。
「おいグリム。その気色悪い実況をやめんか」
その場にいたもう一人の人間。渋茶色のジャンパーを着た白髪交じりの男が言う。顔つきは30半ばほどだが、それ以上に老成した雰囲気を漂わせていた。窓辺に立っている「グリム」と呼ばれた女と違って、男の方は退屈そうに畳に寝転がっていた。畳があるのは茶道教室などで使われていた部屋だったからだ。
「見たいもんが見れたならさっさと帰るぞ」
「ままま、ちょっと待ってよ……。あっ、そうだ。兵士どもは撤収させとかなくていいんだっけ?」
「もうとっくに引き上げさせたわい。黒山羊から命令が出てすぐにな」
「ひゅーっ。流石は黒龍の旦那」
話しながらもグリムは双眼鏡を覗くのをやめようとしない。
美夜子は車の前で乃神と話している。既に通信が切られてしまっているため、ここから見ているだけでは具体的なやり取りはわからないが、グリムにもそれがアジト内で起こった事件に関わる報告なのだろうという程度は推測できる。かなりヘヴィな体験をしたからか、疲れたような様子を見せる美夜子に、グリムはますます歪な欲求を募らせた。
吸血鬼を思わせる長い八重歯を口元から覗かせて、嗤う。
「あぁ、もう、どんな表情でも絵になるんだから! アレの時はどんな顔をするんだろう。うふふ、気になるなぁ……こんなにかわいい子の中身がどうなってるのか!」
「おい。黒山羊のお気に入りだ。勝手に手を出すと殺されるぞ」
「いやだな、旦那。わかってるって。アタシだってその辺はわきまえてる。もちろん我慢するよ……チャンスが来るまでは、ね」
グリムはその日が来ることを想像して、舌なめずりをした。
「チッ……異常性欲のシリアルキラーめ」
「ちょっとぉ。そんな品のない言い方やめてよ――って、あ~。車の中入っちゃった」
車内に入られてしまうとここからでは美夜子の姿を見ることはできない。仕方なく、何か他に面白いものはないかと周囲を見て回る。すると、工務店二階の窓辺――廊下の東側突き当りにあたる位置に、人影が見えた。グレーの髪をした、白ロングコートの男だ。監禁部屋から出てきたところのようだ。
「ダスク……って言ったっけ。あんたの参戦は流石に予想してなかったよ。予定通りならアタシたちで焔(ほむら)を取り返すことになってたんだけど……お陰でちょ~っと面倒くさいことになっちゃったなぁ。ムカつく野郎だよ……」
恨みがましく双眼鏡越しに睨みつけていると、不意にダスクが顔を上げ、グリムと目を合わせた――ように見えた。
「わぁっ!?」
グリムは驚いて双眼鏡を取り落とす。
「どうした?」
黒龍が不思議そうに尋ねる。グリムは誤魔化すように笑いながら双眼鏡を拾い上げた。
「あはは~、いや別に? くしゃみしただけ。なんでもないない」
「妙なくしゃみするのう、お前さん……」
グリムはもう一度双眼鏡で同じ場所を覗きこんでみたが、既にダスクの姿は見当たらなかった。グリムは苦笑しつつ小声で自らに言い聞かせるように呟く。
「さ、流石にないよナ~? この距離でバレたってことは……」
「何か言ったか?」
怪しむ黒龍に向かってグリムは手をひらひら振る。
「なーんにも! よっしゃあ、さっさと帰ろうぜ旦那。もたもたしてるとナイツの連中、ここまで来ちゃうかもだし?」
「俺は最初からそう言っとる」
グリムは片隅に置いていたボストンバッグに双眼鏡を放り込むと、それを肩にかけながら黒龍に尋ねる。
「それで? 結局さぁ、黒山羊サマ的に今回のミッションって成功? あの様子じゃ焔の奴は助けるにしても消すにしても、しばらくお預けだぜ」
「紫電(しでん)ならともかく、俺たちでは暗月の相手はちと荷が重いからのう……。とはいえ、禊屋のテスト自体は上々だ。充分成功じゃろう。焔の方は……何か考えがあるようなことを黒山羊は言っておった」
「考えって?」
「俺も詳しくは知らされとらん」
「ふ~ん? それならいいけど。――紫電の旦那といえば、例の作戦にも出るんだよね? 今夜だっけ?」
身体に付いた埃を払い、立ち上がりながら黒龍が答える。
「そうだ。しかし紫電も酷使されとるのう。それだけ黒山羊に信頼されておるということか」
「紫電の旦那ばっかずるいよナ~! アタシだって沢山殺したかったのに! 結局こっちは出番なしだしさぁ! マジ最悪!」
グリムは羨ましそうに言って頬を膨らませる。
「禊屋ちゃんの顔が見られたのだけが収穫だよ。――あ~、今からでも黒山羊サマに言って、あっちに組み込んでもらうように頼もっかなぁ?」
黒龍は呆れたように肩をすくめた。
「やめとけ、邪魔になる。焦らずともそのうち出番は回ってくるじゃろ。その時を楽しみにして、今は充電しておけ」
「う~ん……」
グリムは顎に人差し指をあてしばらく悩むように唸り声を上げていたが、やがて納得して、朗らかに笑った。
「ま、それもそうだね~。黒山羊サマの計画ってやつは、かなり血を必要とするみたいだし……殺す機会なら幾らでもあるか。――アタシは、できればかわいい女の子がいいなぁ!」
「ついていけんわい……」
二人は話しながら公民館を立ち去っていった。
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