第二章『フェアな取引』

1/1
前へ
/18ページ
次へ

第二章『フェアな取引』

 美夜子とグッドラックは中屋馬工務店入り口の正面、少し離れたところで車を降りた。  グッドラックが取引現場に持ち込むのは、腰右側のホルスターに差してあるデトニクス・コンバットマスターと、そのマガジンを2本だけ。多くの武器を持っていっても一人では扱いきれないし、相手を不用意に威圧してしまう恐れがあるためだ。  グッドラックが持つデトニクスは名銃と評されることも多い、コンパクトながら威力の大きい45口径ピストルである。支社の射撃場で一通りの銃を試し撃ちしたところ、彼の一番のお気に入りになったらしい。ちなみにグッドラックの銃の腕前は、乃神曰く、「悪くはない」とのこと。 「あれはないんすか? 銃の先っちょに付ける、サブレとかなんとか……」 「それじゃビスケットだろ。サプレッサーのことか?」 「そうそれ! あれかっちょよくないっすか? 何のために使うやつだったか忘れたけど」 「サプレッサーは銃の発砲音を抑える装置だが、今回は必要ない。密集した住宅街ならともかく、ここは開けていて民家も離れている。それに発砲する必要が出た時点で発砲音を気にする余裕はないだろうし、サプレッサーを付けると銃の長さや重量バランスが変わる関係で咄嗟の取り扱いが難しくなる場合もある。お前にはまだ早い」 「そうっすか? 付けてみたかったんだけどなぁ」  ――などと、グッドラックと乃神が緊張感のないやり取りを交わしたのが数分前。彼のデトニクスは基本の構成のままだ。  美夜子のほうは取引用に黒色のアタッシュケースを手に提げている。今回の取引は現金でという指定だ。一億円の重さは約10キロ、ケースに入れているだけ持ちやすいからまだマシだが、それでも非力な美夜子にとってはキツいものがある。それに、重さに関しては今は別の問題もあった。  これ、歩くと結構くるんだよなぁ……。腰を伸ばすように軽く背伸びをする。 「やっぱそれ、俺が持ちましょうか?」  グッドラックが心配して声をかけてきたが、美夜子は「大丈夫」と返す。 「そんなずっと持ち歩くわけじゃないしね。それにいざという時は、あたしより君が自由に動けたほうが良さそうだし」 「そう……っすか、わかりました」  まあ、昔の自分ならこの状態で10メートルも歩いたら倒れていたかもしれないが、流石に今はそんなことはない。 「では、健闘を祈る」  運転席にいる乃神の声が、イヤホン越しに聞こえる。美夜子はシャツの襟元に仕込んだ小型マイクをオンにして返事をする。 「はいよー」  グッドラックが同じようにして、 「行ってきます!」  威勢よく言う。乃神はこのまま車内で待機、建物の正面を捉える位置から必要に応じて指示を出すことになっている。シミズたちは建物の裏手――北東側から監視しているため、挟み込むような形だ。  工務店正面の門へ近づこうと歩き出したところで、「ザザッ――」とイヤホンからノイズ音が走った。美夜子は足を止める。 『どうした? 忘れ物か?』  歩き出したと思ったらすぐ立ち止まった美夜子を、運転席の乃神が怪訝そうに見てくる。 「玄関の鍵かけたか急に心配になって」 『諦めてくれ』 「真面目に答えないでよ、うそうそ。今イヤホンからノイズが……グッド君のは大丈夫?」  グッドラックは「いえ、俺のはなんとも」と答える。 『通信は問題なし、セキュリティにも反応はない。こちらでは異常を確認できないが……イヤホンの故障か? 予備ならあるぞ』  乃神の声はクリアに聞こえた。美夜子たちが任務で用いる通信機器にはアリスがチューニングした特別製のセキュリティソフトが搭載されている。市販のものより遥かに柔軟且つ強固な安全性を提供してくれる代物らしい。トップクラスのハッカーでも突破するのは難しいとか。乃神や薔薇乃もその信頼性は認めているから確かだ。それが反応していないのなら、ハッキング等の心配はないということだろう。 「んー……大丈夫。一瞬、回線が乱れただけだと思う」  気を取り直して、歩みを再開する。敷地を隔てる門の向こう側にいた大柄の男は、こちらが車を降りたあたりで気づいていたようで、じっと立ったまま睨みつけてくる。 「あいつ、めっちゃ睨んできてますけど……」  グッドラックが美夜子にだけ聞こえる声で言う。 「警戒してるだけでしょ。いきなり殴りかかってきたりはしないから大丈夫だって」  美夜子は前を向いたまま返して、そのまま歩み寄る。 「こんにちはー」  門越しに美夜子が挨拶をすると、大柄の男はゆっくりと近づいてくる。近くで見るとなかなかに威圧感がある。短髪で岩のような無骨な顔つき、それに身長2メートルはありそうな巨漢だ。着ているジャンパー越しでも筋肉で盛り上がった腕や胸が存在感を放つ。情報によれば、この男のコードネームはキーパー。シミズの言っていたとおり、資料にあった写真と同じ顔だ。見たところ手ぶらだが、腰の後ろにはハンドガンを差しているということだった。 「……あんたたちは?」  ドスの利いた声がキーパーから発せられる。 「ナイツの者です。約束の時間通り、ですよね?」  男は美夜子とグッドラックを順に見てから、スライド式の門に手をかけた。古いせいか、やや滑りの悪くなった滑車がガラガラと耳障りな音を立て、門が開かれる。 「……入りな」 「どうも」  敷地内に足を踏み入れる。正面に木造二階建ての事務所。向かって右手側には元は作業場だったと思われる建物がある。大きな音がして振り返ると、キーパーが門を再び閉めた音だった。 「こっちだ」  キーパーが先導する形で事務所へ向かって歩き出す。作業場の方へ視線を向けると、入り口のシャッターは開け放たれたままになっていて、中にはバンタイプの車両が2台とバイクが1台停まっているのが見えた。ガレージとして使っているのだろうか。作業場の大きさは大したことはないので、今入っている車両だけでギリギリだ。  事務所の方は、短い階段を上った先に玄関がある。キーパーが事務所建物の玄関ドアを鍵で開け、美夜子たちも一緒に中に入る。キーパーが靴を脱がずに上がっているので、こちらも土足で良いだろう。建物内は外観の印象よりも全体的に古びている。床は暗褐色のフローリングで、木材が所々ささくれだっていた。壁紙も部分的に剥げていたり薄汚れていたりしているのが目立つ。元の工務店が廃業してからそれなりの期間が経っていて、荒れているのだろう。アンバークラウンが根城としているからには電気や水道は通っているのだろうが、わざわざリノベーションまではしなかったようだ。  キーパーに連れられて入った、応接間を兼ねたリビングのような広い部屋には、大きなソファが幅広のテーブルを挟んで向かい合うように置かれていた。 「約束の客を連れてきた。……じゃあ俺は見張りに戻る」  キーパーはそう言うと、また玄関のほうへ戻っていった。 「禊屋さん、ガニーだ」  グッドラックが小声で言う。部屋の中には、アンバークラウンのメンバーと思しき男たちが三人いた。一人は腕組みして立っている浅黒い肌で眼鏡の男。一人は壁に寄り掛かるようにしているスキンヘッドで顔にタトゥーの入っている男。  そして最後の一人――向こう側のソファに座っていた男が、出迎えるように手を広げて言う。 「よーうこそ、いらっしゃいナイツの人。あんたが……禊屋、だっけ?」  彫りの深いラテン系の顔つき、頭髪は茶色の癖毛。資料の写真で見た、ガニーの姿と一致する。見た目の印象は30代半ばくらいに見える。シルエットは細いが筋肉質で身体のバランスは良い。目立つのは彼のやや変わった服装で、下は普通のジーンズだが、上半身は素肌に直接黒い革ジャケットを羽織っていた。……屋内とはいえ寒くないのかな。  美夜子は一歩前に出て軽く頭を下げる。 「こんにちは、初めまして。ナイツから来た禊屋です。あなたがガニーさん?」 「そう。俺がこのアンバークラウンのリーダーだ。――で、そっちの雑魚っぽいチンピラは?」  ガニーはグッドラックにニヤついた視線を向けて言う。 「あ?」  グッドラックは相手を睨む。 「今の、俺のことか?」 「他に誰がいんだよ、馬鹿かお前」 「なんだと――」  美夜子はグッドラックの前を遮るように手を上げる。 「彼はグッドラック。私のボディガードです」  そう言って、グッドラックにアイコンタクトを送る。この程度の挑発は挨拶みたいなものだ、いちいち相手にすることはない。グッドラックは美夜子の言わんとすることを察したのか申し訳無さそうに頷くと、怒りを収めたようだった。 「ああそう、ボディガードね。そりゃいるよな」  ガニーは興味なさげに言ってから、美夜子のほうを上から下までじっくり眺める。 「――それにしても、女だとは聞いてたが、思った以上にイイ女が来たもんだ。ナイツが高級デリヘル嬢をおまけに付けてくれたってわけじゃねぇよな? 一発ヤらせてくれんなら、一億のうち10万くらいは割引してやってもいいんだぜ? なぁ!」  ガニーとその仲間たちが笑い出す。 「禊屋さん、こいつら……」  不快そうにしたグッドラックが耳打ちするように言う。 「気にしない気にしない」  こうした手合を相手にすることなど珍しくもない。その都度怒っていては身が持たない。 「皆さん、残念ながら私はそういう役柄ではなく、今回の取引を任されたエージェントです。ですが、コールガールの派遣サービスもナイツは取り扱っております。この機会にご紹介させていただいてもよろしいですか?」 「ハッ、ここぞとばかりに営業かよ」  ガニーはくだらなそうに笑う。 「いらねぇよそんなもん。あんた取引の話に来たんだろうが」 「わかりました。では取引の話を始めましょう」  これで本題に入ることはできた。まずひとつ目の工程はクリアできたというところか。  そこで、美夜子たちが入ってきた玄関側のドアとは別の、向かいにあるドアからまた新しい男が現れた。その派手な金髪ドレッドヘアの男は灰色のパーカーを着ており、腰にはポーチを巻いている。スマートフォンを弄りながら部屋に入ってきたのを見て、ガニーが叱責した。 「遅ぇぞマンティス。いつもクソがなげぇんだよお前ぇは」 「あ? ああ……もう始まってた? ごめんごめん。続けて」  男は興味なさそうに部屋の隅に移動して、スマホ弄りを再開した。メンバーの中では比較的若い部類に入りそうだが細身で頬もこけており、不気味な印象だ。彼のことは資料に載っていた。古参メンバーのマンティス……Bランクのヒットマンで、優れた身体能力によるアクロバティックな動きと、ハンドガンを駆使した殺しを得意とする。射殺する際、必要以上に相手に弾を撃ち込む残虐な性質があるという記載もあった。  これでアンバークラウンのメンバーはここに4人集まった。だがまだ他にも姿を見せていないメンバーがいるかもしれない。 『禊屋。まずはブリッジの安否を確認しろ』  イヤホンを通して乃神の指示が聞こえる。言われずともそうするつもりだってば。 「まず最初に――」 「最初に、謝罪の言葉を聞かせてもらおうか?」  ガニーが割って入ってくる。 「謝罪?」 「はーぁ? 言われねぇとわかんねぇのかよ? 誠意の欠片もねぇな、ナイツは! これだから大手様ってやつはよ!」  ガニーは大げさなリアクションを取って、とびきり偉そうな態度を取る。 「……今回の誘拐はあなた方にとって、こちらの行為に対する報復である、という話ですか?」 「そうだ。そもそも今回の件、最初に仕掛けてきたのはてめぇらだ。まずそっちが俺の大事な大事な部下を殺したよな。で、こっちがクレーム入れてもまともに取り合っちゃくれなかったんで阿科支部の支部長を拐った。そうすりゃ流石に耳を傾けざるを得ねぇだろ?」 「なるほど確かに。それで、賠償金としての意味も含めた身代金一億円、ですか」 「ま、それは正当な要求として……当然謝罪の言葉はあるべきだ。そうだよな? おおそうだ、ついでに土下座もしてもらおうかなぁ?」  やれやれ。わかっちゃいたけど面倒臭いやつ……。 「この野郎……」  グッドラックが微かに聞こえるくらいの声でボソッと呟くのが聞こえる。お願いだから、もう少し我慢してね。  さて、土下座して謝るのは簡単だが……それでは相手に主導権を握られてしまう。本部としては穏便に済ませることが第一なのだろうが、ただ相手の言いなりになるだけではきっと状況を悪くする。今後の展開のためにも、ここは少し強気で当たるべきだろう。 「一つ確認なんですが、そちらの要求された一億円は、最初に亡くなられたアンバークラウンの方の死に対するケジメという認識でいいんですよね?」 「……ああ、そうだが。それが?」 「ですが、そちらに阿科支部の支部長を誘拐されたことへの対応とそれに伴う各事業の滞りによって、うちは既にかなりの損害を受けています。ざっとした見積もりですが、誘拐から半日時点でおよそ3000万のマイナス……今はもっと増えているでしょう。それほどのポジションの人間を拐ったことの意味は理解しておられますか?」  実際の赤字額なんて知らないからそれっぽい数字を言ってみただけだ。適度なハッタリは交渉テクニックということにしておこう。  ガニーは鼻で笑う。 「意味だぁ? 知らねぇよそんなの。さっき言ったように、うちは最初からそっちにクレームを入れてたんだ。それを無視していたそっちが悪い。誘拐したことで発生した損害とやらも、そちらさんの責任だろ?」 「残念ながら、それは無理筋ですよ」 「……なに?」 「誘拐で発生した損害はそれだけではないからです。あなた方はブリッジの誘拐に際して、二人のボディガードを殺害しています。二人とも阿科支部の構成員です。事実はどうあれ、クレームを通すためだけに二人もの人間を殺して更に支部長クラスの人間を誘拐するのは明らかにやり過ぎですよ。こちらが要求通り一億を払うなら、そちら側にも、少なくとも二人の死に対するケジメを取ってもらわないとフェアじゃない。そうでしょう?」 「……言うもんだねぇ。あんた」  ガニーはゆっくりとソファから立ち上がり、美夜子まで数歩の距離まで近づいてきた。そして、彼の右手が動く。 「――あなたは銃を抜く」  美夜子が言い終わると同時に、ガニーは腰からS&W M10――シンプルなリボルバー銃――を抜き、銃口を美夜子へ向けた。 「……っ!」  動作を直前に指摘され、ガニーは戸惑ったようだ。 「でもそれは単なる脅し。今私を殺せば今度はその報復を受ける。ナイツを完全に敵に回す形になって、準備しておいた建前も全部無意味になってしまう。あなたは撃たない――そのリスクを理解できるから」 「……べつに怪我ぐらいさせたっていいんだぜ」  引き金に指を置きながら、銃口を美夜子の足元へ向ける。 「それで気が済むなら、やってみればどうですか?」 「ふん…………」  ガニーは肘を曲げ銃口を上に向けたかと思うと、銃のグリップを使って横から振り抜くように美夜子の顔を勢いよく殴りつけた。美夜子は衝撃で尻餅をつくように倒れる。 「てめぇッ!!」  目の色を変えたグッドラックがデトニクスを抜き、ガニーに向けて構える。 「ストップ! 必要ない!」  美夜子が叫んで制止する。周りにいたガニーの部下たちも揃ってグッドラックに向けて銃を構えている。ここで撃ったら歯止めが効かなくなってしまう。 「大丈夫だから、銃はしまって」 「……くそっ」  グッドラックは悔しそうに口元を歪ませながらも、銃をホルスターに戻した。  美夜子はひとまず胸を撫で下ろすと、殴られた額に手を当てる。額の端を切ったらしく、垂れてくる血をコートの袖で拭った。痛みはあるが、傷自体は大したことなさそうだ。腕や足を撃たれたなら少ししんどかったが、こんなのは怪我のうちには入らない。  結局、撃って大怪我を負わせたら相手が生きていようが取引どころじゃなくなるわけで、ガニーもそれがわかっているから殴るだけで済ませたのだろう。  ガニーは手振りで部下たちに銃を下ろさせると、ソファに座り直した。そしてテーブルに置いてあるバスケットから、積まれている生のトマトを一つ掴んで齧る。バスケットにはまだトマトが5、6個積まれていた。彼の好物なのだろうか。 「……わかったよ禊屋」  ガニーはなにやら思案しながらといった様子で口を開く。 「欲張りは通じねぇって言いてぇんだろ、お前は。いいさいいさ、この際、腹割って話そうや。まどろっこしいやり取りは抜きにしてよ」 「……あたしもそう提案しようと思っていたとこです」  美夜子は立ち上がり、身体の埃を払った。イヤホン越しに声が聞こえる。マイクは常時オンにしてあるので、こちらから報告せずとも乃神は音で状況を判断できた。 『……あまり肝が冷えることをしてくれるな。上手く牽制できたから良かったものの……』  乃神はそう言うが、途中で止めようとはしなかったあたり、一応こちらのやり方を信用してくれているのだろう。  確かに一つの賭けだった。相手につけ上がらせないよう強気に出るのはいいとして、挑発しすぎて暴発させたら元も子もない。  美夜子はガニーの向かい側のソファに座り、アタッシュケースを足元に置く。 「……さっきはああ言いましたけど、あくまでそういう主張もできるということを示したまでです。ナイツの見解としては、別にあなた達に殺された二人の分のケジメを取ってもらおうという気はありません。少なくとも、今のところは」  ガニーはトマトを齧りながら頷く。 「わかってるよ。あんたたちは、伏王会で幹部やってる兄を持つ俺の存在が鬱陶しくて下手に手が出せない。だから、これ以上の被害を出さないなら大人しく金を渡して事態を収めようってことなんだろ?」 「それがあなたの狙いなんですよね?」 「へっ、さぁな」  流石に言質を取られるような真似はしないか。 「安心しろよ。俺たちはとりあえず一億が手に入ればそれでいい。今後こっちからナイツに手を出すつもりはねぇし、活動拠点も変える予定だ。元々、阿科は長居しすぎたんで、そろそろ頃合いかと思っていたとこでな」 「そうですか、それは安心できます」  取引のためとはいえ相手をアジトに呼び込むくらいだから、場所を移す予定だというのはある程度真実味があるが……その他を信じられるかどうかは保留だ。 「ところで……腹を割って、ということならついでに訊かせて欲しいんですけど」 「なんだよ?」 「あなた達に情報を提供しているのは誰ですか?」  ガニーの眉がぴくりと動いた。僅かに空気が緊張したのを感じる。 「情報を提供? 何のことだ?」 「何のことだ、はないでしょう。いるはずですよ。あなたの部下がうちの系列店で死んで、その隠蔽が行われたことをあなたに伝えた人物が」 「……さぁ、どうだったかね」 「むしろ、その時点から計画のうちだった可能性もあると思っています。あなたは部下に指示を出して店でトラブルを起こさせ、そこを、あなたと共謀する者――おそらくその手下が――どさくさに紛れて殺すことで今回の伏線とした。トラブルの対応をした用心棒は、都合よく行方不明になっているみたいですしね。死んだ部下の人がどこまで知らされていたかはわかりません。でも情報提供者のほうは、もしかしたら誘拐計画にも関わっているかも」  彼らが誘拐の際にブリッジの行動を予測できていたことからも、その線は濃厚だ。  ガニーは薄く笑ってから、訊き返す。 「証拠はあんのか?」 「残念ながら、ありません」 「じゃあそれくらいにしておくんだな。悪いことは言わねぇからよ」 「…………」  美夜子は慎重にガニーの様子を観察する。  探りを入れるつもりで吹っかけてみたが、この反応は、どうだ……? 的外れだったら激怒されてもおかしくはないと思うが、意外なほど冷静だ。いや、正解かそれに近かったとしても怒るフリくらいするべきだ。それすらしないのは、なぜだ?  ……冷静なんじゃなくて怒るフリをする余裕もない、のか? それほど追及されるとマズいと思っている? いや、まだ判断するのは早いか。  ガニーは話題を切り上げるように言う。 「そんじゃあよ、さっさと始めちまおうぜ。取引」  情報提供者――内通者と呼んだほうがいいか――のことは、探りだけは入れておくよう指示されてはいるが、深追いする必要はないとも言われている。とりあえずはこのくらいでいいか。  美夜子は制止するように手を出す。順序が入れ替わってしまったが、取引の前にこれは済ませておかなければ。 「待ってください。取引の前に、ブリッジが無事であることを確認させてください。彼はどこに?」 「上だ。心配せずとも、怪我もさせちゃいねぇよ」  そう言ってガニーは人差し指を上に向ける。二階の部屋に閉じ込めているのだろう。 「見せてください。でなければ取引はできません」 「チッ……わーかったよ。しゃあねぇな」  齧っていたトマトの残りをヘタごと飲み込むと――そんな食べ方をする人は初めて見た――、ガニーは面倒臭そうに立ち上がった。近くにいた部下たちに向かって言う。 「おう、誰か――スパーク、お前でいい。ついてこい」 「ああ、わかった」  浅黒い肌で眼鏡をかけた男が動く。歳は30前半くらいか。グレーの地味なトレーナーを着ており、体格は普通。他に特徴としては、眼が大きくてよく動いている、というくらいか。事前に読んだ資料の中に、スパークというメンバーのことは書いていなかった。おそらく最近入ったメンバーなのだろう。  美夜子は置いていたアタッシュケースをまた手に取って、グッドラックと二人でガニーとスパークについていく。最初に入ってきた南側のドアからリビングを出ると、廊下に出て東側へ進む。そのまま進むと正面に部屋のドアがあった。廊下はそこで北側に折れて、まだ幾つか部屋が連なっているようだったが、二階への階段はその反対側の南端にあった。一度踊り場で折り返して上る普通の階段だったが、こちらもやはり古くなっているようで、段を上るごとにギシ、ギシ、と木の鳴る音がした。 「禊屋さん」  階段を上りながら、先導するガニーたちには聞こえないようにグッドラックが小声で話しかけてくる。 「さっきの……大丈夫すか? 頭……」 「頭大丈夫かって? グッド君それはちょっと……」 「あ、いや、すんません、そうゆー意味じゃなくて……」 「うそうそ。これくらい全然平気」  グッドラックは「そうすか、良かった」と頷いて、 「俺、こんなんでいいんすかね。なんか全然役に立ってない気が……」 「いてくれるだけで効果あるんだよ。もしあたしだけだったらもっと舐められただろうし、もっとひどいことされてたかも」 「はぁ……そうなんかな。それでも禊屋さんなら一人でなんとかしちゃうような」 「弱気なこと言わない、ほら!」  グッドラックの背中をどんと強く叩いて活を入れる。彼は「う、うす!」と気合を入れ直したようだった。  階段を上りきる。そこから廊下は西側に短く、北側に長く伸びていて、北側の廊下には右手にドアが3つ並んでいた。ドアの間隔からしてそれぞれの部屋は小さめだ。 「こっちだ」  ガニー達について廊下を北側へ、突き当りまで進む。そこにはまたドアがあって、手前の床を踏むとギシ……と軋む音が鳴った。床材が古くなっているのだろう。突き当たりからは更に丁字路のように左右へ廊下が伸びている。ガニーは右――東側の廊下を指して言った。 「あっちの部屋だ。あの部屋にゲスト様を閉じ込めてある」  東側の廊下は少し伸びたところで行き止まりになっており、そこには腰くらいの高さのスライド式ロッカーが置かれていて、その上が窓になっていた。そこより少し手前の左手側に両開きのドアがある。あの部屋に閉じ込められているのだろう。よく見ると、そのドアノブ部分には何か長いものが何重にも絡まっていた。 「鎖で固定してある……?」 「あの部屋、元々は会議室だったらしいんだが、ドアに鍵がついてねぇんだよ。だからあれで代用してんだ」  ガニーはしかし、そちら側には行こうとせず、目の前のドアのノブを回す。 「――で、こっちが見張り部屋」  見張り部屋とは? その疑問は部屋に足を踏み入れてすぐに解消された。入って右手側、つまりブリッジが閉じ込められているとされる部屋のある側の壁面に、およそ50センチ四方の小さな窓が取り付けられている。なるほど……この部屋の窓から、隣の部屋の人質をいつでも監視しておけるようになっているのだ。 「禊屋さん、見てください。あれ……」  グッドラックが窓の向こうを指差す。窓から見える光景は、異様なものだった。  全裸のやや太った男が、こちら側――小窓の方を向くようにして椅子に縛り付けられている。取り調べ室で使われるようなコンパクトな平机が椅子より手前に置いてあるため、男のみぞおち辺りから下は隠れていて見えないが……胸や腕など身体の数カ所を、黒く太いベルトで椅子に固定されているようだ。両腕もぴったり身体の横にくっつけられる形で固定されているようで、殆ど身動きできない状態である。更に、目隠しに黒い布を巻かれ、口にも厚手の布を噛ませられている。口の布は発声の抑制と自殺防止用とを兼ねたものだろう。  男は身体つきや肌の質感からして中年だ。特徴的にもブリッジのそれと一致する部分が多々ある。本人と見て間違いない。……それにしても、「怪我もさせちゃいねぇ」ということだったが、まさかここまでの監禁拘束っぷりとは。見えず、動けず、相当なストレスのはずだ。今、彼が大人しくしているのは、支部長の座につくだけはある強靭な精神力のお陰か、それとも単に消耗しているだけなのか。遠目からだと死んでいるようにも見えるまであるが、顔は項垂れることなくしっかりと前を向いているし、呼吸で口元の布や胸が動いているのでそれは大丈夫そうだ。こちらの騒ぎが向こうに聞こえているかどうかは、彼の反応からは判断できない。 「ひでぇな……ここまですんのかよ」  グッドラックが忌々しげに呟く。美夜子は頷いた。 「用心深い連中ならここまでしてもおかしくないね。人質を裸にさせるのは抵抗する気力を削ぐのに有効な手段でもあるし」  向こうの部屋を観察する。元は会議室というだけあって、部屋の広さはそれなりのものだ。電灯は点いていて部屋の中を見渡すには充分だが、少し薄暗い気もする。あとは木目の壁の所々に、血の跡のような汚れがあるのが気になるが、窓越しでははっきりとはわからなかった。 「チッ……」  ガニーが舌打ちするのが聞こえて、意識をそちらに戻す。窓のほうが気になって後回しにしてしまったが、見張り部屋というからには見張りを担当する者が詰めているはずだ。ガニーの視線は、窓の近くでパイプ椅子に座っている男へ向けられていた。  灰色厚手のパーカーを着たその男は、壁に頭を預けてもたれかかるようにして眠っているようだった。小さないびきが聞こえる。  ガニーは眠る男の側に近づくと、その座っている椅子をいきなり蹴飛ばして倒した。当然、眠っていた男は派手な音と共に勢いよく床に倒れ込む。 「――うらぁッ!! なに居眠りこいてんだボケがッ!!」 「ひぃっ……す、すみません! すみません!!」  怒号を飛ばすガニーに対し、居眠り男は床に手をついて平謝りしている。男は若く、まだ20代前半くらいに見える。身体は華奢、顔つきは童顔で気弱そうだ。そこらの大学生の中に紛れていても不自然ではなさそうで、今まで見てきたアンバークラウンのメンバーの中では異色と言える。彼もまた、事前に読んだ資料の中にはいなかったメンバーだ。 「テメェは見張り番すら満足にできねぇのか!?」  ガニーはうずくまるようにしている男に対して、何度も蹴りを入れている。 「やれやれ……困ったものだな。どちらも」  ガニーが怒鳴り散らすのを一歩引いたところで見ていたスパークが呟く。どうやらこちらに話しかけているようだ。 「えっと……スパークさん、でしたね」  スパークは眼鏡のフレームをクイッと上げる動作をして、 「失礼。うちのリーダーは見ての通り怒りっぽいんだ。収まるまで少し待ってもらえるか?」 「ええ、でも……やりすぎなんじゃ?」 「止めようなんてしないほうがいい。下手に仲裁すると殺される」 「そんな――」 「そんな馬鹿な、って思うよな? でもそれで仲裁しようとした奴が怒鳴られてる奴とまとめて殺されたのを見たことがあるよ、俺は。しかも古参の仲間曰く、珍しいことでもないらしい。リーダーは悪事のセンスと決断力には優れているが、そういうとこが難点だな。……アンバークラウンは頻繁にメンバーの入れ替わりを行う組織だ。それくらいは調べてあるんだろ?」 「まぁ……」  入れ替わりって、そういう意味か。仲間でも、ガニーの気分次第で簡単に殺される……。 「中には普通に仕事でヘマして死ぬやつもいるらしいがね。俺としてはリーダーの怒りを買わないように気をつけてさえいれば、金払いはいいし不満はない。多少は緊張感もあったほうが良いだろう」  その程度で済ませられるのも異常といえば異常だと思うが。 「……怒られている彼は?」 「彼はフォックス。最近うちに入ってきた新人のうちの一人でね。若いからかもしれんが、まだまだ未熟なところが多い男だ。今も監視の当番中に居眠りしていたようだな」 「新人の方、他にもいるんですか?」 「ああ、下にいただろう? スキンヘッドの恐ろしい顔したやつが。フォックスよりは先輩だが、あいつも新入りだよ。名前はフレイムだ」  スキンヘッドで、顔にタトゥーを入れていた男のことだ。フレイム……言われてみれば、タトゥーの形が炎のように見えたかもしれない。 「フォックスが入ってきたのがひと月ほど前。フレイムは二ヶ月ちょっとになるか? フォックスと違って奴のほうは歴戦のワルだな。色んなことに手慣れている様子だし、銃の扱いに関しちゃうちで一番だろう。期待の新人だよ。まぁ、かくいう俺もフレイムよりひと月ばかり先輩なだけなんだが」  苦笑するスパーク。その話通りならスパークもアンバークラウンに入ってそれほど月日は経っていないことになる。ナイツの資料に彼の情報が載っていなかったのも不思議ではない。 「先程、監視の当番という言い方をしていましたけど……ってことは交代で人質の見張りを?」 「ああ、この部屋でな。フォックスの前はタミアスが当番だった。更にその前はマンティスだったかな」 「タミアス……というのは? 下にいた人の誰かですか?」 「いや、あいつは今部屋で寝ているはずだ。あんたと顔を合わせる機会はないかもな」 「そうですか」  ところで、ガニーの怒りはまだ収まらないようだった。 「この前のタタキん時も立ち位置間違えて俺を危険な目に遭わせたの、忘れたわけじゃねぇよなぁ!? 弾よけにもならねぇ見張りもできねぇ、いったい何ならできるんだよお前はぁッ!」 「すみません……すみません……」  フォックスは何度も蹴られながら、泣き出しそうになりながら謝っていた。無関係とはいえ、流石に見ていて痛々しい。  すると、グッドラックがつかつかと歩き出し、ガニーの腕を掴んだ。あっという間のことで、美夜子が止める暇もない。 「もうやめろや。充分だろうが」  ガニーを睨みつけ、腹立たしさを押し殺したような声で制止する。だが、相手もそれで素直に頷きはしない。 「あー……? んだガキ? 身内の教育に、よそもんの雑魚が口出してんじゃねぇ」  恐ろしい形相で睨み返されても、グッドラックは怯みもしなかった。 「うるせぇよ。なにが教育だ、そんまま殺しちまう勢いじゃねぇか。やりすぎだっつってんだよ」  グッドラックは掴む手に力を込め、ガニーの腕を捻り上げるようにする。 「ちっ……いっっってぇな!! 離せクソがっ!!」  ガニーは振り払って、痛む腕を押さえる。 「クソガキが……!」  ガニーはグッドラックに憎悪を剥き出しにしている。まさに一触即発――マズい、これは非常にマズい。 「グッド君――」  美夜子は呼びかけ、手でバッテン印を作ってジェスチャーを送る。 「あっ……やべっ」  グッドラックはそこでハッとして、一瞬の躊躇の後、キャップ帽を脱ぎ捨て勢いよく土下座の体勢を取る。 「し……失礼しました!! その、お詫びに、指詰めますんで! ど、どうか許してください!」  そんな、任侠じゃないんだから……勢いで言えばいいってもんではない。 「…………」  ガニーはしばらく土下座するグッドラックを見下ろし、何かを思案していたように見えたが――やがて呆れたようにため息をついた。 「……いらねぇよ、んなもん。次はねぇぞ」  それから未だ床に伏せながらようやく顔を上げたところだったフォックスに振り向いて言う。 「フォックス……テメェも、次なにかヘマしやがったら殺すからな!」 「は、はい……」  美夜子はほっと胸を撫で下ろす。意外とすんなり矛を収めてくれて助かった。  ガニーはだるそうに窓の方へ手を向け、美夜子に説明する。 「――で、あそこにいるのがブリッジだ。元気そうだろ。直接見せてくれなんて言うなよ、鍵開けんのめんどくせぇんだから」 「大丈夫です。顎のホクロと福耳、鼻にある小さな傷跡の形が一致しているので、よく似た他人ということはないでしょう。本人だと信じます」  ガニーは満足そうに頷く。 「オーケー。じゃあ下に戻って、さっさと取引といこうぜ」  ガニーとスパークが部屋を出る。美夜子たちが続こうとすると、フォックスの絞り出すような声がグッドラックを呼び止めた。 「あ、あの……ありがとうございました」  グッドラックは眉をひそめつつ足を止めて、 「礼言われるようなことしてねぇよ」  そう言うと、振り返りもせずに部屋を出た。  部屋を出て一階に戻る途中、グッドラックが謝ってくる。 「すんません! 俺、やらかしちまった……」  キャップ帽のつばを深く下げ、申し訳無さそうにうつむいている。なんと声をかけたらいいものか、美夜子は困りつつもなんとか言葉を返す。 「まあまあ……気持ちはわかるよ。見ていて気持ちいいもんじゃないしね、あんなの」 「それでも抑えなきゃなんねぇ場面だった。わかっちゃいたのに、気がついたら身体が動いちまってて……あーっ、クソ!」  ガニーに対しても、自分に対しても苛立ちがあるのだろう。グッドラックは帽子を外して髪を掻き乱す。 「まず落ち着こう、ね? 首の皮一枚繋がったから、大丈夫でしょ、たぶん」  それにしても、イヤホンを通して乃神から指示が飛んでいてもおかしくなさそうなものだが、グッドラックはそれをも無視してしまったのだろうか。と思ったところで、通信が入る。噂をすれば、だ。前を歩くガニー達とは少し距離が空いたため、小声なら会話しても問題ないだろう。右耳のイヤホンを手で押さえる。 『禊屋。さっきは危なかったな。取引は続けられそうか?』 「なんとかね」 『そうか。先程からグッドラックのチャンネルに呼びかけているが反応がない。音は拾えているが、イヤホンが通信不良のようだ』 「ああ、道理で……」 『お前のほうは問題なく聞こえているか? さっきノイズが入ったとか言っていただろう』 「ああ、こっちは全然平気。あれからノイズも入ってないし」 『それならいい。ともかくその旨、グッドラックに伝えてくれ。こちらからも指示は出すが、お前のほうでも奴を上手くコントロールしろ』 「簡単に言ってくれますなぁ」 『任せたぞ』  彼の方を見ながら話しているせいで、グッドラックが怪訝そうにこちらを見てくる。美夜子は自分のイヤホンを指差して、 「君のイヤホン、調子悪いって。乃神さんの声聞こえてないっしょ?」 「え? あー……言われてみりゃ、そうかもしれねぇっす」  一応、インカムアプリとの再接続で改善しないか試してみたが、無駄に終わった。スマホで確認したところ電波の受信状態が悪いというわけでもなさそうなので、アプリの問題ではなくワイヤレスイヤホンが故障しているのだろう。もしかしたら急に復活するかもしれないということで、一応イヤホンは付けさせたままにしておく。  そうこうしている内に、一階に降りてきた。 「あれ……何すかね?」  グッドラックが何かに気づいて、廊下の先を指す。階段を降りてすぐ、北側の廊下の先のほうだ。言われて美夜子が見てみると、薄暗くて少し分かりづらいが、廊下の真ん中あたりに何かが置かれている。 「黄色いカラーコーン……かな。通行止めにしてある?」 「ああ、確かにそんな感じっすね。でもなんで――ああいや、今はどうでもいいっすね。すみません、行きましょう」  少し移動して、美夜子たちは先程のリビングの前まで戻ってきた。ドアを開けようとしたところでまた通信が入る。 『禊屋、外にいたキーパーが建物の中に戻った。腕時計を気にしていたようだったから、見張りの交代時間なのかもしれん』 「了解」  小さく呟いてからドアを開けて中に入ると、先に到着していたガニーは、タトゥーの男――フレイムとなにやら話をしているところだった。 「――じゃ、そういうことで。頼んだぜ」 「あー、任せておけ」  ガニーはそそくさと彼の席であるソファに戻っていく。フレイムに何か頼み事をしていたらしいが、いったい何を……?  美夜子がフレイムの方をじっと見ていると、向こうがこちらの視線に気づく。 「なんだ……俺の顔になんかついてるか?」  黒い炎のタトゥーは左目の周囲から左側頭部にかけて広がっている。綺麗に剃り上げられたスキンヘッドもだが、下唇と顎の間にピアスを付けているのも、個性的な見た目だ。見た目の印象だけで言うと、アンバークラウンのメンバーの中では彼が一番コワい。どうも見た目からは推測しづらいが、年齢はおそらく30前後というところだろう。 「……いや、かっこいいタトゥーだなって」  フレイムの質問に対し、美夜子は適当に思いついた言い訳を返す。 「ほぉ……そうかそうか。センスあるね、あんた。ひひ……」  じっとりとした口調で言って、悪魔のように口角を吊り上げた微笑みを浮かべるフレイム。心にもないことを言ったのだが、なんだか思ったより喜ばれてしまったような気がする。  ソファのガニーが催促するように手を叩く。 「ほら禊屋! 早く始めちまおうぜ!」 「あ、はい」  美夜子は向かいのソファに座り、グッドラックはその傍らに立った。 「では取引ですが――」  美夜子が言いかけたところで、リビングのドアが開く。入ってきたのはキーパーだ。乃神の連絡通り、外から戻ってきたらしい。 「邪魔して悪い――おい、マンティス。もう時間だ、交代しろ」  リビングの隅でスマホを弄っていた金髪ドレッドヘアの男が顔を上げる。 「あー……そっか。俺の番だったね。だる……」  マンティスは面倒臭そうに言うと、腰に付けていたポーチにスマホを仕舞ってキーパーに近づき、手を差し出す。 「鍵ちょうだい」 「ほら。外は静かなもんだったが、警戒は怠るなよ」  渡したのは玄関の鍵だろう、それを受け取るとマンティスはキーパーの入って来たドアへ向かう。するとガニーが戒めるように言った。 「またサボって車イジってんなよ!」 「わーかってるって」  マンティスは鬱陶しそうに手をひらひら振りながら、部屋の外へ出ていった。 「――外の見張り番の交代ってだけだ。あんたらの気にするこっちゃねぇよ」  ガニーが言う。こちらとしても、無駄話で余計な時間はかけたくない。 「では――」  再び美夜子が切り出そうとすると、今度はスパークが割り込んできた。彼は深刻そうな顔をして、軽く許しを請うように手刀の形に手を出す。 「すまん、リーダー。ちょっと席を外す。どうも朝から腹の調子が良くなくてな」  ガニーは面倒臭そうに手を振る。 「うるせぇな。トイレくらい勝手に行けや」 「悪いっ」  そう言って、スパークは早足気味にリビング北側のドア――キーパーが入ってきた側のドアとは反対側にある――から部屋の外に出ていった。  美夜子は今度こそ邪魔されないようにタイミングを見計らう。 「……続けても?」 「おう、悪いな。自由な部下どもでよ。さっさとやってくれ」  美夜子はアタッシュケースをテーブルに置き、ロックを外して開いた。 「では、約束通り……現金で一億、こちらになります。どうぞ」  札束で詰まった中身がガニーに見えるようにケースを回転させる。 「ふぅん……おい、キーパー。頼む」  ガニーが声をかけ、ソファの脇に置いてあった大きな空の麻袋を掴むとキーパーへ投げるように渡した。キーパーは袋を受け取ると、続いてテーブルのアタッシュケースを一旦閉じて抱え持つ。そのまま少し離れた位置まで移動すると、床の上に座り込んだ。 「悪いが、一応検めさせてもらうぜ。それと、中身の金だけいただくことにする。ケースのほうは何が仕込んであるかわかんねぇからな」  ガニーの言葉に頷く。なるほど、ごもっともではある。札束が本物できちんと金額分揃っているか、ケースに発信機や盗聴器などが付いていないか……信頼できる相手同士の取引じゃないのだから警戒するのはむしろ当たり前だ。  キーパーはケースから札束を一束ずつ手に取り、指先で弾くようにぺらぺらと紙幣を数えている。数える手付きは慣れたもので、銀行員のそれと比べても遜色ないほどだ。数え終わった札束は麻袋の中に移していく。 「時間がかかりそうですね」 「キーパーの野郎は見た目に似合わずああいう細けぇ作業が得意だが、それでも30分くらいはかかるだろうな。――ま、ゆっくりしてくれや」  ガニーはテーブルのバスケットからトマトを掴んで、美夜子に見せる。 「あんたもどうだい」 「結構です」 「うめぇのに」  ガニーはトマトを齧る。 「子供の頃、近所にトマト農家があってよ。うちは食うもんにも困るくらい貧乏だったから、よく兄貴と一緒に盗んで食ってたんだよ。思い出の味ってやつだなぁ」  30分……ただ無為なお喋りに付き合う義理もない。ラインは見極めつつ、軽くぶつけてみるか。 「……お兄さんですか。仲が良かったんですね。今もそうなんですか?」 「仲良し兄弟だったらどうだってんだ?」 「アンバークラウンは少し前まで伏王会と契約関係にありましたよね。仕事を回してもらうこともあったんじゃないかと」 「ハッ、回してもらう、ね。むしろ俺たちを使って楽ができただろうぜ、あいつは」 「助けていたのはむしろあなたのほうだと?」 「そうさ。いっつも偉そうにしやがって、ムカつくんだよあいつ。それに仕事の度に仲介料とかぬかして山ほど持っていきやがる。だからこっちから切ってやったんだ。伏王会の庇護なんぞなくとも俺らは充分やっていけるからな」  彼の言葉が真実なら、伏王会とアンバークラウンが契約を切ったというのが見せかけだけのものではないということになる。もしも裏ではまだ繋がりがあるのだとしたら、今回の事件を共謀して起こしたという可能性もあったが……。まあ今の言葉自体、こちらを惑わすブラフの可能性もあるか……。  もう少しだけ、踏み込んでみよう。 「――なるほど。でもそれなら、契約を切ることをお兄さんは渋ったんじゃないですか? 重要な戦力を失う羽目になってしまうんだから」 「…………ふん。別に、俺らがノーと言ったらあいつも無理強いはできねぇよ」  答えるまでに間があった? それに、一瞬だけ視線が下がったように見えた。今までと違ってはっきりとした感触だ。……今の答えには、何か裏がある。触れてほしくない、隠したいことがあるのだとしたら……それはなんだ? 「そんなことより……お前の話を聞かせろよ」  ガニーが無理やり話題を切り替えるように言う。いつの間にか「あんた」から「お前」呼びになっている。焦りで地が出たか? ……ともかく、これ以上さっきの話題にこだわるのは危険そうだ。一旦様子見に回ろう。 「お前なんでこんな仕事してんだ? 金が欲しいなら他にいくらでも手はあるだろ。とくにお前みてぇな女はよ。ん?」  ガニーはニヤつきながらトマトを齧る。こちらを見る目つきがいやらしいのは気のせいではないだろう。  付き合う必要のない質問だが、流石に無視するのは角が立つか。 「この仕事をしているのは、目的があるからです。その目的が何かは、秘密ということで」 「あっそう……じゃ、別の質問。男はいるのか?」 「は?」 「男はいるのかって訊いてんだよ。……あー、そこのガキがそうなのか?」  ガニーはグッドラックの方を見てあごをしゃくる。グッドラックは、不快そうに相手を睨みながらも黙ったままだ。先程の一件で懲りたのかもしれない。  美夜子はため息つきたくなる気持ちをなんとか抑えて、返す。 「ええっと……彼は仕事上のパートナーというだけです」 「じゃ、今はフリーなのか? 勿体ないねぇ、こんな上玉が……へへっ。悪いことは言わねぇ、ナイツなんてヤベェ組織にいるのはやめてさっさと男見つけてのんびり暮らしたほうがいいぜ。そのキレイなツラとでけぇ胸がありゃ、いくらでも引っ掛けられんだろ?」  美夜子は僅かに眉根を寄せた。 「……お言葉ですけど、危険なことくらい承知の上でここにいますから。あたしは目的を遂げるまで退くつもりはありません」 「ふぅん……いいねぇ。諦めなきゃなんとかなるってか? 多少頭は回るようだが、やっぱりまだガキだな。へへっ、まぁ……俺はそういう生意気な女もそそるけどよ?」  そう言うとガニーはさっきと同じようにヘタごとトマトの残りを飲み込む。それから革ジャケットのポケットから煙草の箱を取り出した。そこから一本取り出すと、グッドラックに向かって言う。 「おい――お前、火つけろ」 「なっ……はぁ?」  グッドラックはまず戸惑い、それから苛立ったように相手を睨む。次に、助けを求めるように美夜子を見てくる。それに対し美夜子は困ったような顔をしながら頷いた。  さっきの一件もある。かわいそうだが彼にはしばらく大人しく振る舞ってもらおう。 「まじかよ……」  小声で嘆くように言いながらも、グッドラックはズボンのポケットから100円ライターを出してガニーへ近寄る。ガニーは煙草を咥えて待ち、ソファに対して斜めから寄ってきたグッドラックがライターを点けた。その瞬間――突然、ガニーがソファへ倒れ込むように吹っ飛んだ。 「いってぇな! 何しやがるッ!!」  ガニーが叫ぶ。グッドラックもぽかんとしているが、美夜子にも一瞬何が起こったのかわからなかった。ガニーがいきなり殴られた――いや、そうではない。自分で「殴られたふり」をしたのだ。そして倒れながら、微笑を浮かべている。  罠だ――美夜子が感覚的にその微笑の意味を理解したのと、『それ』が起こったのはほぼ同時だった。 「あ……? なにして――」  戸惑いながらもグッドラックがガニーに手を伸ばそうとした瞬間、「パンッ」と音が鳴って――その右腕を何かが貫き、血の飛沫が飛んだ。 「ぐぁッ……!?」  グッドラックは持っていたライターを落とし、テーブルの上に倒れ込んだ。彼の身体に弾き飛ばされたバスケットから、数個のトマトが転がり落ちる。 「サンキュー、フレイム。助かったぜ。相変わらず良い腕してるね」  ガニーがニタニタと笑いながら言う。 「良いってことよ。仲間を助けるのは当然だろ? ひひ……」  ガニーの斜め後方に立っていたフレイムは、自動拳銃――S&WのM&Pだ――を構えている。フレイムがグッドラックの腕を撃ったのだ。 「悪く思うなよ。いきなり殴りかかってくるほうが悪い」  ガニーはグッドラックを見下ろして言う。グッドラックはまだテーブルの上で痛みにもがいていた。  イヤホンから乃神の声が聞こえる。 『禊屋、何があった!? グッドラックがガニーを殴ったのか?』 「違う! 彼はただ煙草に火をつけようとしただけ、殴ってなんかない!」  ガニーと乃神の両方に向けて美夜子は言う。ガニーは両手を上げ、こちらを馬鹿にしたようにひらひら振った。 「そういうことかよ……上等だ、この野郎……ッ!」  グッドラックは起き上がってガニーに詰め寄ると、左手でガニーのジャケットの襟を掴み、痛みなどお構いなしに撃たれたばかりの右腕を振りかぶった。  いけない、それは駄目だ! 美夜子が止めようとするも、間に合わない。 「だったら本当にくらわせて――がっ」  ソファの向こう側から近寄ってきていたフレイムが、銃のグリップ底部でグッドラックの側頭部を勢いよく殴りつける。グッドラックは再びテーブルの上に倒れ、今度は意識を手放したようだった。被っていたキャップ帽がずり落ちて、床に落ちる。 「かわいそうに。弱いくせに頭も悪いのか……」  フレイムは銃をホルスターに収めながら言うと、今度はガニーに尋ねる。 「で、どうするんだ。こいつは?」 「まず武器を取り上げろ。それから縛り付けてその辺に転がして――ああいや、やっぱりこうしよう。上の部屋に閉じ込めとけ。途中で目を覚まされてもうるさくなくて済む。――なぁに、金の勘定が終わったらブリッジと一緒に返してやるよ。少しの間、大人しくしておいてもらうだけだ」  後半は美夜子に向けて言ったものだ。  ……警戒はしていた。だが、まだどこかでこの男の悪辣さを甘く見ていたのかもしれない。自分のミスだ。自分がもっと上手くやっていれば、新人のグッドラックが撃たれるような事態にはならなかったかもしれないのに。  美夜子はガニーを真っ直ぐ見つめる。 「……さっきの彼の行いへの仕返しのつもりなら、随分と器の小さいことをするんですね」  怒りを抑えなければならない状況だということは理解しつつも、言葉にそれが滲み出る。 「誤解だよ禊屋。俺に歯向かう奴は絶対に許さないというだけだ。むしろ、殺さないだけ感謝してほしいね。お前ならともかく、奴のような雑魚を殺したところで、どうせナイツは動かない。取引さえ無事に終わるなら見て見ぬ振りをする。だろ?」 「どうでしょうね。あなたの動きが目に余るようなら――」 「いいや。動かねぇよ」  事実、グッドラックがここで殺されたとしてもそれだけでナイツ上層部がガニーへの制裁を決定するとは思えない。取引が終わってブリッジが戻ってくるなら、下っ端に多少の犠牲が出たところで構いはしないだろう。今回の誘拐計画からしてガニーは、ナイツが穏便に解決しようとするラインのギリギリを攻めてきているのだから、この自信も当然と言えば当然だが……これは単に彼の知識や経験からくる推測なのだろうか? その自信の拠り所となる、なにか確信めいたものがあるような気がする。  フレイムがグッドラックのホルスターからデトニクスを抜き取った。 「これは回収~っと」 「おう、フレイム。そいつは通信用の機材を持ってるはずだ。一応、それも取り上げておけ」  フレイムはガニーに言われた通り、グッドラックの身体を探る。そして見つけたイヤホンとマイク、それにスマートフォンを奪い取る。 「そこの棚の中にでも放り込んどけよ」 「はいよ」  フレイムは取り上げたそれらをリビングの壁際に置かれた棚の中に投げ入れた。 「あれで、外の仲間に情報を送ってたんだろ?」  ガニーに訊かれて、美夜子は頷く。 「……あたしたちはたった二人であなたたちのアジトへ入るわけですから、それくらいは当然だと思います。事前の約束でも禁止されてはいませんでしたので」 「安心しろ、別に咎めようってんじゃねぇよ。むしろ相手がナイツなら、それくらいしてなきゃ逆に不安になるってもんだね」  正面の乃神はともかく、裏手側のシミズたちのことまでは把握していない可能性もある。ここは下手に情報を与えないほうが良いだろう。  ちょうど乃神から通信が入る。 『禊屋。厄介なことになったが、とにかく、金の確認が終わるまで大人しくしておくことだ。取引さえ終われば任務は達成、グッドラックも無事に戻ってくる』  そんなことは言われずともわかっているが、問題は、相手が大人しくしていてくれるかだ。 「じゃ……さっさと運んじまうかねぇ」  フレイムがグッドラックの身体に触れようとするのを、美夜子が止める。 「待って。腕の止血だけさせて」 「ひひ、お優しいことで……」  美夜子はグッドラックの右腕の傷を確認する。前腕部――手首と肘のちょうど真ん中あたりを撃ち抜かれていた。弾丸が綺麗に抜けているようだからまだ良い方か。撃たれ方や使用される弾丸によっては腕ごと使い物にならなくなることもあり得た。ハンカチを取り出して、傷口を圧迫するように強めに巻く。簡単ではあるが何もしないよりは良いだろう。  ガニーの方を見ると、彼は自分のスマホの画面を覗きながらまたトマトを齧っていた。 「それじゃ運ぶぜ。よっこらせ……っと」  フレイムは消防士などがするようにグッドラックの脇の下から首を差し入れ、膝裏を腕でロックして彼の身体を担ぎ上げる。この方法だと身体が安定する上に搬送者は片腕が自由になるのだ。誘拐を専門とするアンバークラウンならこれくらいの技術はあって当然なのかもしれないが、フレイムは手慣れているようだ。グッドラックは体格大きめで筋肉質だから結構な体重があるはずだが、フレイムは涼しい顔をしている。 「おうそうだ、フレイム」  ガニーがふと思いついたように言う。トマトを飲み込んでから、 「戻る時ついでに監禁部屋の鍵、持ってきてくれよ」 「ん……それじゃこいつを閉じ込めた後、鍵をあんたに渡せばいいか?」 「そうだ。今日はもうあのカスの顔を見たくねぇ」 「あぁ……? フォックスのことか? また何かやらかしたのかよあいつ。わかった、持ってくる」  フレイムはグッドラックを担いで、南側のドアからリビングを出ていった。監禁部屋というのはブリッジが閉じ込められている部屋のことだろう。あの部屋のドアは鎖で封鎖されていた。さっきは近くで見なかったからわからなかったが、多分、鎖を南京錠などで繋いでいるのだろう。で、その鍵は見張り部屋にいるフォックスが所持していると。  フレイムが出ていき、これで部屋の中には美夜子とガニー、そしてキーパーだけになった。ガニーが、札束の確認作業を続けているキーパーに向けて言う。 「おいキーパー、あとどれくらいかかる?」  キーパーは作業の手を止めず、袋に札束を放り込みながら淡々とした口調で答える。 「まだかかるぞ。今4割くらいだ」 「じゃあまだ時間はあるな」  ガニーは向かいのソファから立ち上がって、美夜子の隣へ移動してきた。 「……なんですか」  美夜子は警戒しつつ、ソファに座る位置をずらして離れる。 「まぁまぁ。あとせいぜい20分くらいの付き合いなんだ。仲良くしようぜ」 「……別に仲良くする必要はないと思うんですけど」 「いいぞ禊屋。大人ぶってるよりそうやってツンケンしてたほうが俺の好みだ」  ガニーは無遠慮に美夜子の髪に触れる。 「――もうわかってんだろ? 今、俺がお前に何をしようが守ってやれるやつはいねぇんだよ」 「あたしが外の仲間を呼ぼうとするとは思わないんですか?」 「そうしたら駆けつけてきた奴から順に殺してやるよ。外の仲間だってほんの数人なんだろ?」  こちらに仲間が少ないことを知っている……ブラフの可能性もあるが―― 「へっ、ブラフじゃねぇぞ。わかってんだよ。表の車と、裏手の山に数人。お前の仲間はそれだけだ。こんな場所だから爺婆以外がいたら目立つよなぁ」 「……外にも目があるんですね」  ガニーが先ほどスマホを見ていたのは、その報告だったのだろう。 「お前らがそうしたように、俺らだって何の準備もしてないわけねぇだろ?」  外のどこかからこちら――ナイツ陣営の動き――を監視している人物がいる。一億分の金を検めたのは、偽札などを警戒してというのもあるだろうが、彼らアンバークラウンの別働隊がどこにナイツの人間が潜んでいるかを確認するための時間稼ぎも兼ねていたのだ。シミズたちから怪しい人物がいたなどという報告はまだないが、こちらの目に触れないように隠れ潜んでいるのだろう。周囲一帯をカバーしていると考えると、少なくとも10人程度の数はいる。抑止力としての戦力だろうから、こちらが妙な動きをしなければ向こうも動きはしないはずだが……。  別働隊がいるということ自体は予想していなかったわけではない。今回の取引を最後にこの場所から去るつもりだとガニーは話していたが、取引直後の安全確保は不可欠である。人質が戻ったのを契機に、組織力で勝るナイツがアンバークラウンを皆殺しにしようとする可能性だって向こうは考えたはずだから。別働隊の主たる役割はそのための保険……取引を終えた後、ガニーたちが安全にこのアジトを離れられるだけの時間稼ぎ要員というところか。黙って見逃せばそれでよし、手を出そうとすればナイツ陣営にも少なからず犠牲者が出る……そういった駆け引きだ。残った別働隊が捕まって組織の情報を吐かせられたら元も子もないので、別働隊はアンバークラウンの正式メンバーではなく一時的に雇われただけの人材だろう。 「こっちはどっちだっていいぜ。仲間が死んでもいいなら、抵抗してみるか?」  ガニーが傲慢な態度で言ってのける。美夜子の髪を撫でていた手が、今度は太ももに移動した。肌の質感や肉付きを堪能するように無骨な手が動く。美夜子はただ、目を細めてそれを眺める。そう……痛みや不快感は眺めるだけでいい。  他に手段はなし……。こうなっては仕方ないか。  乃神の通信が入る。 『禊屋。必要ならシミズさんたちが向かう手筈になっている。その時は事前に決めた合図を送れ』 「……必要ない。あたしが対応するから」  襟元のマイクに向かって答える。ガニーは下卑た笑みを浮かべた。 「いい心がけだ」  美夜子はソファへ強引に押し倒され、シャツ越しに胸を強く揉まれる。 「ちょっ……痛い……っ!」 「へへっ……これくらいすぐ慣れる。安心しな、女を快くするのには自信があるんだ」  ガニーは美夜子の首元に顔を埋め、息を荒くしながら首筋に舌を這わせる。 「お前みてぇな女ぁ喰えるなんてラッキーだぜ。こいつはナイツに感謝するべきだな」 「……そうでもないよ」 「あん?」 「残念だけど、サービスタイムは終わり」  ガニーの動きが止まる。いつの間にか美夜子が左手に握っていた銃が、脇腹に突きつけられていたからだ。9mm口径モデルのコルト・ディフェンダー、主に護身用に用いられるコンパクトなオート拳銃。コートのポケットに入れておいたのを、ガニーの隙を突いて抜いたのだった。 「夢中になっちゃってかわいい。これくらい備えてないわけないでしょ?」  美夜子が不敵な笑みを浮かべるのを睨みつけながら、ガニーはゆっくりした動きで顔を上げる。 「……撃てねぇだろうがお前は。俺を撃ったら取り返しがつかねぇぞ」 「撃ったらね」  美夜子は言い終わると同時にガニーの股間を膝で蹴り上げた。 「はぐっ!?」  思い切り蹴ったら殺してしまいかねないから、金的は軽く打つのが重要だ。それでも男をしばらく動けなくするには充分な痛みになる。美夜子は更に、左腕を外向きに振り抜き、銃のグリップで相手のこめかみを殴りつける。ガニーはソファから転げ落ちるように床にうずくまった。 「ぐっ……てめぇ……」  ガニーは悶絶しつつ美夜子を睨みつける。 「こんなことして、ただで済むと思ってんのか!?」 「思っているし、あなたはそうしなければならないの。あなたはもう、あたしに何もできない」  美夜子は立ち上がって相手を見下ろすと、自分の首元に銃口を向けた。 「もし次に余計なことをすれば、あたしは躊躇なく死を選ぶ」 「ハハッ……それで脅してるつもりかよ?」 「できないと思ってる? それとも、隙を突いて銃を取り上げるつもりとか? ――じゃあ、いいもの見せてあげる」  美夜子はシャツのボタンを上から外していく。 「あっ……なっ!?」  ガニーは『それ』を見て流石にたじろぐ。  美夜子のはだけたシャツの隙間から覗くものは、豊満で均整の取れた肌白い胸を包む黒の下着、柔らかさを感じさせつつすっきりとしたくびれのあるウエスト――それと、ショートパンツの腰元に挟んである縦長直方体の物体。その物体はフィルムに包まれていて、3本のケーブルが上端から下端に繋がっていた。  美夜子はそれを指して言う。 「問題です、これはなんでしょう? はい正解、プラスチック爆弾セムテックス。重さ1.5キロ分あるから、この部屋くらいの広さなら丸ごと吹き飛ばせる。起爆する条件は3通りで、どれか一つでも条件を満たすと即爆発します。一つは、あたしが死ぬこと。あたしの胸の中には制御装置と連携された発信機が入っていて、それが心臓の鼓動を感知できなくなると信号を送ってこの爆弾を爆破させる仕組みになっている。二つ目は、決められた手順以外でこの爆弾の信管を外そうとすること。ちなみにケーブルを抜いたり切ったりしても同じ。そして最後の三つ目……これは秘密。当ててみてのお楽しみってことで」  美夜子は無邪気にも見える笑みを浮かべた。 「――どう? これでもまだヤりたい?」 「そ……その爆弾が本物だって証拠はねぇだろうが!?」  その指摘に美夜子は指を鳴らす。 「うーん、確かにないね、冷静で素晴らしい! じゃあ試してみなよ。死ぬかもしれないけど」 「くっ……ぐっ……」  怯むガニーに、美夜子は近寄りながら言う。 「好き勝手するのは勝手だけど、そっちにもそれなりのリスク踏んでもらわないとね。こっちは死ぬ覚悟してるんだし、それがフェアな取引ってもんでしょ?」 「禊屋ぁ……!」  ガニーは今にも掴みかかってきそうなほど憎悪を剥き出しにするが、実際に手を出そうとはしてこなかった。 「その辺にしておけよガニー。巻き添え食うのは御免だ」  先ほどからこちらのことには無関心に作業の手を動かし続けていたキーパーが、ようやく口を出してきた。 「そもそも、その女は手を出すには危険すぎる。金が入ればまた女なんかいくらでも買えるだろ。死んじまったら元も子もないぞ」 「チッ…………言われなくてもわかってんだよ、んなこたぁよ!」  ガニーは先ほど自分の座っていたソファを八つ当たりで蹴りつけた。しかし存外に重かったのか、傷ついたのは彼の爪先の方だったようだ。深く息を吸い込んで痛がっている。 『――上手いハッタリだったぞ、禊屋。流石だな』  ソファに座りシャツのボタンを留め直している最中、乃神からお褒めの言葉をいただく。これが乃神の用意していた、相手を牽制するための『奥の手』だ。  ガニーが指摘した通り、この爆弾は偽物だ。正確に言えばプラスチック爆弾そのものは本物だが、中に仕込んだ起爆装置――雷管が偽物になっている。セムテックスのようなプラスチック爆弾は粘土のように形を変えられる上に衝撃や振動に強く、また、火を直接近づけても不景気な燃え方をするだけで爆発することはない。爆発させるにはそれを引き起こすための雷管が必要不可欠なのだ。もしもハッタリで騙し通せなければ、ガニーの好きにされていた可能性は充分にあった。  土壇場で上手くいったとはいえ、これを出し惜しみしたのは失敗だ。最初にこの手札を切っておけば、グッドラックが撃たれるような事態にはならなかったかもしれないのだから。ギリギリまで使うのを控えたのは、相手の失言を誘うためだった。いざとなれば相手を殺せるという慢心や油断があれば口を滑らせることもあるかと思ったのだが、そう上手くはいかなかった。いや――彼らの反応も考察の材料になると思えば、少しは収穫はあったが。 「――それより、外も監視されているみたいだから気をつけて」  乃神に忠告を出す。 『それも聞いていた。こちらからでは監視役の姿は確認できない。かなり離れた位置から見張られているのかもしれん。これからはその前提で動く』 「シミズさんの方はどう?」  続いてシミズの声が入る。 『すみません。周囲の警戒はしていたのですが、見張られていることに気づけませんでした。今もこちらからでは位置を特定できません』 「シミズさんでも気づかなかったってことは、相手はプロかもしれないね」 『一定の練度があることは確かかと。ですが、今すぐこちらに何かしてくる気配はありません。警戒はしつつ、引き続きアジト周りの監視を続けます』 「わかった」  向こうが積極的に行動を縛るつもりなら既に乃神やシミズは捕縛されているだろう。そうしないのは単にそこまでする必要がないと判断したか、あるいは向こうも必要以上に緊張感を加えて交渉を破局させたいわけではないということか。  北側のドアが開く音がする。振り向くと、スパークが戻ってきたところだった。 「今朝飲んだ牛乳が悪かったかな……うん? 何かあったのか?」  出ていく時と比べて雰囲気の変化を感じ取ったのだろう、スパークが尋ねる。 「あれ……金髪の彼は? フレイムも」  見渡して、二人がいないことに気づいたようだ。ガニーが面倒くさそうに説明をする。 「フレイムが監禁部屋に連れて行った。閉じ込めてある」 「なんで?」 「俺を殴ったから」 「殴ってませんけどね」  美夜子が割って入って訂正する。 「よくわからんが、あの部屋にいるのはわかった」  スパークが中途半端に納得したところで、今度は南側のドアからフレイムが戻ってきた。 「遅ぇんだよ……」  ガニーがまた八つ当たりする。 「は? あー、何に怒ってるか知らねぇけど……ほら、言われてた監禁部屋の鍵だ」  フレイムは苦笑いしながら鍵をガニーへ渡す。 「……おう、ご苦労」  ガニーはそれをジャケットのポケットに仕舞って、また自分のソファに座り込んだ。フレイムが付け加えて言う。 「ああそれと、ガニー。昨夜から寝てないせいで流石に疲れた。飯ぃ食って少し休むが、いいよな。用があったら呼んでくれよ」 「好きにしろや。どうせこの取引もすぐ終わる」 「悪いね」  フレイムはまた南側のドアからリビングを出ていった。それに続くように、スパークが言う。 「俺もちょっと、上に水を取ってくるかな」  ガニーはもう疲れたのか返事もせず、手をひょいと一度振るだけだった。スパークが同じく南側のドアから部屋を出ていく。  それからしばらくの間、リビング内は静かだった。ガニーはこちらにちょっかいをかける気をすっかり失くしたようで、つまらなそうにスマホを弄っている。 「あの」  静寂を破って美夜子が声をかける。ガニーは嫌そうな表情で顔を上げた。 「……なんだよ」 「上にご飯を食べるところがあるんですか?」  相手は落ち着いたようなので、こちらも話し方は元に戻しておく。雑談から繋げて内情を探れないだろうか。 「……ここが工務店の事務所だった頃、休憩室として使われてた部屋があんだよ。それを今も同じような使い方をしてる。小せぇけどコンロがあって、共用の冷蔵庫も置いてあって……買い置きの食料品も多少はな」 「ふぅん……アンバークラウンのメンバーは、いつも同じ場所で過ごしているんですか?」 「いいや。俺らは仕事の時だけ集まる。今回みたいなでけぇ仕事のときは、計画の打ち合わせも含めて数日泊りがけになるってだけでな」  メンバーは基本、仕事の招集があった時だけ集まると。おそらくここ以外にも似たようなアジトはあって、状況や仕事内容によって集まる場所を変えるのだろう。 「泊りがけになることもある、ってことは寝室もここに? ざっと歩いてみた感じ、小さな部屋は幾つかありましたけど」 「元役員室だの元サーバー室だの、ちょうど良い感じの空き部屋が幾つかあったからな。中には使えねぇ部屋もあるが」  メンバー分の個室があるのだろうか。 「使えない部屋、っていうと?」 「一階の廊下、見なかったか? 床板が腐ってるとこがあんだよ。部屋の目の前で危ねぇからそこは立入禁止にしてる」 「あー……黄色いカラーコーンが置いてあった場所」 「そうそれ……って、俺はなんでこうもべらべらと話してんだ?」 「あたしに言われても……あ、教えてくれてありがとうございます」  ぺこりと頭を下げる。ガニーは舌打ちしてまたスマホを弄りだした。 「ムカつく女だな……。さっさと終われよ、もう」 「終わらせたいのは山々なんですけど……」 「……まだかよキーパー!」  今度は、妻の長い買い物に焦れる旦那のように催促をし始めた。 「もう少しだ」  奥さんの方はどっしりと動じず作業を続けている。見たところ、もう終盤だろうか。あと10分程度あれば完了するだろう。  南側のドアが開いて、スパークが入ってくる。片手に500ミリサイズの水のペットボトルを持っていた。彼は緊迫した表情で早足にリビングを横断し、 「すまん。またトイレだ」  再び北側のドアを出ていった。彼の腹痛は次の波を迎えたらしい。お気の毒に。 「あ、そうか」  美夜子が気づいて言う。 「トイレは向こう。でも階段側からは直接トイレに行けないんですね? 廊下の途中で立入禁止になってる区間があるから、このリビングを経由しないとトイレに行けないんだ」  ガニーが頷く。 「そうだよ。めんどくせぇけど、しょうがねぇ」  古い建物で長年手入れされてなかったようだから、そういう部分があっても不思議じゃない。普段住まいにするには不便さが堪えそうだ。  それからの10分ほどは、特に会話もなく経過した。リビングには、キーパーが黙々と作業する音だけがあった。そろそろ終わる頃だろうか――美夜子がそう思ったとき、イヤホンに通信が入る。 『禊屋さん。こちら、シミズです』  シミズの方から通信が入るのはここに来て初めてだ。何かあったのだろうか。 『こちらは待機場所から監視を続けていたんですが、ちょっと気になることがありまして……。少し前に、マンティスという男が見張り番に出ましたよね』  キーパーと交代で外に出ていった男だ。乃神と同じく、シミズもマイクを通して音でこちらの状況は把握している。 『その男、外に出てきてからしばらくは建物の周りをうろちょろしていたんですが……少し前から姿が見えないんです。もう10分近くになるかと……。建物を挟んで向こう側はこちらから死角になっているので、乃神さんにも連絡したところ、あちらからも姿が確認できないらしく……」 「……敷地の外に出ていった可能性は?」  美夜子はマイクを手で覆い、一応、ガニーには聞かれないように話す。 『塀の外側は開けていますし、敷地から出ていたら私たちか乃神さんのどちらかが気づくはずです。だからそれはないと思うんですが』  それなら考えられるのは……マンティスは敷地の中で、シミズからも乃神からも見えないような位置に留まっているということか? まあ、ブロック塀が取り囲んでいることもあって外から覗く場合は敷地内はあまり見通しが良くなさそうだし、ガレージ代わりの作業場など、死角になりそうな場所はいくらでもある。 『あっ、待ってください!』  シミズが慌てたように言う。 『マンティスがまた現れました。さっきと同じように敷地内を歩いて……見た感じ、とくに変わった様子はないようです。単に、物陰で立ち止まっていただけなのかもしれません。失礼しました』 「わかった。また変に感じたことあったら報告して」 『了解』  外の見張りは二時間交代という話だったから、座って時間を潰すこともあるだろう。そこが物陰で見えづらい位置だったというだけ、というのはありそうなことだ。だが……少し気になる。 「よし、終わったぞ」  キーパーがパンと手を打つ。取引で渡した一億の勘定が終わったようだ。 「問題なしだ、ガニー。きっちり一億、揃っている」  キーパーの報告を受け、ソファに横になっていたガニーは怠そうに身体を起こした。 「おう……ご苦労さん。そんじゃ、ついてこいよ禊屋」  ガニーに促され美夜子が立ち上がったところで、北側のドアからスパークが戻ってきた。トイレに向かっていた先ほどとは違って表情は晴れやかで、両手で腹をさすっている。 「お、どこか行くのか?」  スパークにガニーが答える。 「取引は成立だ。人質を解放してやんだよ。お前も腹の調子が戻ったんならついてこい」 「ああ、もう大丈夫だ。多分な」  その時、南側のドアが大きな音を立てて開かれた。飛び込むようにリビングに入ってきたのは、フォックスだった。 「あ……? てめぇ、こんなとこで何してやがる? 見張りはどうしたんだよ、見張りは!」  ガニーが苛ついた声で叱責する。フォックスは真っ青な顔で、息を切らしていた。ここまで走ってきたようだ。 「はぁ……はぁっ…………あっ……あの……」  フォックスは喘ぎながらなんとか言葉を繋げた。 「さし……刺した。刺したんです、あの人が」 「はぁ? 何言ってんだ、お前?」 「あ……あの、金髪の人が! 刺したんですよ、ブリッジを!!」  ……え? 「気を失っていると思っていたのに、急に起き上がって……ブリッジに近づいて、刺したんです!」 「そんなわけ…………おい、マジで言ってんのかよ」  何度も頷くフォックス。緊迫した表情を見てガニーも流石にただならぬ事態であることを察したようだった。 「チッ……行くぞ! 急げ!」  ガニーがドアから出ていこうとするところで、キーパーが叫ぶ。 「ガニー! 俺はこの金を一旦、部屋に持っていってから向かう!」 「わかった、そうしてくれ」  キーパーを置いて、ガニー、フォックス、スパーク、美夜子の順で部屋を出ていく。廊下を走って移動する途中、乃神の声がイヤホンから聞こえる。 『禊屋、今のは何だ? ブリッジが刺されたとか聞こえたが、まさかグッドラックが――』 「わかんない! 今その部屋に向かってるから、また後で!」  美夜子はとりあえずそう言って、階段を駆け上り、二階の廊下を移動する。  まさか、そんなはずはない。何かの間違いだ。だって、そんなの意味がわからない。  途中、誰かが廊下にいるのが見えた。階段から続く南北に渡る廊下、その右手側に並んだ3つのドアの内、真ん中のドアに背を向けてぼんやりとした表情であぐらをかいている男がいた。 「んぁ……? おお、どーしたんすかぁ、大勢で。なんかあったんですか?」  男はこちらに気づいて、顔を上げる。歳は30後半くらい、短髪の痩せ型でくたびれた雰囲気の男だった。薄っすらと赤ら顔で、かなり酒の匂いがする。目も充血しているところを見ると、酩酊状態なのは明らかだ。 「タミアス。おめぇーこんなとこで何してんだ?」  ガニーが尋ねる。タミアスといえばスパークと話したときに出た名前だ。今まで姿を現さなかったのは部屋で休んでいるからということだったはずだが、何のために廊下に座り込んでいたのだろう。  タミアスはへらへらと笑いながら答えた。 「酔い醒ましですよぉ。俺ん部屋、窓がねぇからさぁ。ここのほうがひんやりして気持ちいいんだ」 「けっ、アル中が。いいからお前もついてこい。非常事態だ」  タミアスはシャツ襟の後ろを掴まれ引き起こされる。彼はいまいち状況を理解できていなかったようだが、下手に質問するとガニーを怒らせると判断したのか素直に後ろからついてきた。  廊下の北側突き当りを右に曲がり、監禁部屋の前に到着する。部屋の中から物音などは聞こえない。美夜子はドアを調べようと先頭に乗り出す。 「……?」  監禁部屋のドアの前にきた途端、微かな異臭が鼻をつく。匂いは殆ど消えかけているのか、意識して嗅ぎ取ろうとしても正体ははっきりしないが、例えるなら消毒用アルコールのような匂いだ。その場で気がついたのは人より嗅覚が良い美夜子だけのようだった。だが、辺りを見ても匂いの発生源がわからない。  ――いや、今はそれよりこちらが優先だ。美夜子はドアを注意深く観察した。  両開きのドアだ。材質は木のようだが硬くて頑丈そうな造りである。特殊な装飾などはされていないし、ガラスも入っていない至って普通のドアだ。ドア同士の合わせ目、その左右にそれぞれドアノブが付いている。ドアノブの形は金属製の棒状の取っ手で、これも太く頑丈そうである。  ガニーが説明していた通り、ドアそのものに鍵は付いていないようだった。その代わりに、二つのドアノブの内側を通して長い鎖が何重にも巻かれている。鎖の輪の両端が合わさるところで、南京錠の掛け金を通して固定されていた。鍵の代わりとしては充分すぎるほど強固なロックだ。  鎖の巻き方はシンプルなもので、途中で結んだり交差したりはせず6周分ぐるりとドアノブに巻きつけられている。  南京錠のほうは拳ほどの大きさで、安物ではないしっかりした造りなのを感じさせる。こちらもとくに不自然な点はない。  試しにドアを押してみると、当然ながら鎖が邪魔をして開けられない。僅かに隙間は広がるが、ギリギリ手の指が2本入るかというところ。この鎖と南京錠がある状態では、このドアからの出入りは不可能だとしか思えなかった。隙間から覗き込んでみると、直線上の正面に机が置かれており、その右横で椅子に腰掛けた人が見える。左側にある見張り部屋の小窓の方を向いているから、こちらから見えるのはその人物の左側面だ。人物がブリッジであることは間違いないはずだが、部屋の照明が薄暗くて細部まではわからなかった。 「ガニーさん、鍵を!」 「わかってる!」  ガニーは慌てながらもジャケットのポケットから取り出した鍵を南京錠へ差して回す。すると掛け金が飛び出して片側に隙間ができたので、ガニーは錠を鎖から抜く。ガニーが鍵と錠を一旦ジャケットのポケットに仕舞うと、美夜子は割り込むようにして鎖を外しにかかる。少しでも早く部屋の中――グッドラックとブリッジの様子を確認しなければならないと、気が急いていた。  鎖はキツく巻かれていたのと重さもあって外すのに少々手こずったが、その間も、部屋の中からは依然として物音などは聞こえなかった。……嫌な予感がする。 「よし、開いた!」  美夜子が鎖を外し終わると、間髪を入れずガニーがドアを叩き破らんばかりの勢いで押し開いた。美夜子は鎖を床に置いてから、ガニーに続いて足を踏み入れる。  ――監禁部屋の中は、概ね、先ほど見張り部屋の窓を通して見た時と同じだった。  元々は会議室だったと聞いていた通り、広さはそれなりのものだ。目測ではあるが入り口から見て幅は8~9メートルほど、奥行きは6メートルくらいはありそうだ。  明かりは点いているが少し薄暗い部屋に、壁には古い血痕のような染み。窓から覗いた時はよく見えなかったが、部屋の床にはちらほらと物が転がっている。物騒なものもあるようだ。おそらく、ここは人質を監禁しておくための部屋であるのと同時に、捕らえた者に拷問を施すための部屋でもあるのだろう。  部屋の左側には見張り部屋の窓。警察の取調室にあるようなマジックミラーではなく、こちらから覗いた場合も同じように向こうの部屋が見えるようだ。  ドアの位置から見て奥、北側の壁にはまた別の窓――こちらは覗き窓ではなく、シンプルな引違い窓――があったようだが、内側から木の板を打ち付けて封鎖されているため、外からの光は遮られている。  部屋に入ってすぐ右の壁付近、手前寄りのところに、グッドラックが倒れていた。彼は頭を奥側、顔を壁の方に向けたまま横になっていて、表情は見えない。起きているのか、気を失っているのかもわからなかった。  グッドラックのことも気になるが、それは一旦後だ。今はそれより、もっと重大な異常がこの部屋の中で起こっていた。 「どういう状況だ?」  後ろのドアが開いて、遅れて到着したキーパーが入ってくる。急いで来たらしく、軽く息が荒い。部屋に入ると、彼もこの部屋の異常にすぐ気づいたようだった。 「おい、まさか……」  一点を見つめて、キーパーが呟く。その視線は、彼らが監禁していた人質に向けられている。  ブリッジは、先ほど窓から見た時と〝一部を除いて〟同じ状況だった。部屋の中央で、全裸で椅子に縛り付けられ、目隠しや口の布、身体の前に置いてある小さな机も、そのままである。  先ほどと違っているのは、彼が力なく項垂れていること。そして――彼の腹部に、ナイフが突き立てられていたことだ。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加