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――さて……まずやっておくべきは――いや、本当ならもっと早くにしておくべきだったのだが。
「皆さん。一度、身体検査をさせてもらえませんか?」
美夜子の提案に、ガニーが不機嫌そうに返す。
「はぁ? 何のためにだよ?」
「グッドラック以外の誰かが犯人なら、今も何か犯行の証拠になるものを持っている可能性があります」
――既に手放したり、隠したりしている可能性ももちろんある。だがこういうのはやっておくことに意味がある。
「他にも怪しい物品がないか確認しておくことは必要ですから。お願いします、そう時間は取らせませんので」
「……ちっ。わかったわかった。それで気が済むんならやればいい」
ガニーは面倒そうにしながらもメンバーへ指示に従うように言った。
美夜子はその場にいた全員の身体検査を始める。各自で持ち物を取り出してもらった後、美夜子自身の手で衣服を調べて他に隠し持っている物がないかを確認していく。
結論から言うと、劇的な発見と呼べるものはなかった。そもそも全員が荒事に慣れた犯罪者で、重要な取引が行われるという状況となると、皆それぞれ銃だのナイフだので武装していてもおかしくはないので……その観点からすると、〝怪しいもの〟を持っている者はいなかったと言えるだろう。皆、他の所持品はせいぜい財布や自宅の鍵、携帯電話くらいだ。
銃を所持していたのはガニー、キーパー、スパークの三人。ガニーの銃は一階で美夜子に突きつけてきたM10リボルバーで、他の二人はオートマチックのハンドガンを携帯していた。M10リボルバーの回転シリンダーには弾がフルで装填されており、また、自動拳銃の2丁に関してもマガジンの残弾確認孔より確認し、チャンバー内の1発+マガジンの最大弾数まで装填されていることがわかった(自動拳銃はマガジンからチャンバーに弾を送り込んだ後、1発分空いたマガジンに弾を込め直すことでマガジン自体の装弾数より1発分多く装填できる)。銃口から火薬の臭いもしないので、いずれも事件前後の時間帯では使用されていないと見てよいだろう。
ナイフを所持していたのはキーパーとフォックスの二人だ。キーパーは腰に付けたホルスターにシース(鞘入り)ナイフを、フォックスはパーカーの腹ポケットにフォールディング(折り畳み式)ナイフを持っていた。どちらもそれなりの刃渡りである。
「そういえば……フレイムさんは銃を持ってこなかったんですか? 一階にいた時は持っていましたよね」
身体検査をする間蚊帳の外で聞き耳を立てていたグッドラックが視線をこちらに向ける。一階でグッドラックの腕を撃ち抜いたのはフレイムだ。しかし検査をしても彼は何も武器を所持していなかった。美夜子の問いにフレイムは「ああ」と応えて、
「部屋で休むときに枕元に置いといたんだよ。気になって様子を見に来たが、まさかこんなことが起きているとは思わなかったからな、部屋に置きっぱなしだ。必要なら取ってくるが?」
「いや、別にいいです。タミアスさんも武器は自分の部屋に?」
今度はタミアスに向けて尋ねる。武器類を何も所持していなかったのは彼も同じだ。タミアスは赤い鼻をすすりながら頷く。
「そうだな。銃は部屋に置いてあるよ」
「……わかりました。とりあえず身体検査はこれで終わりです。皆さんご協力ありがとうございました」
美夜子はぺこりと頭を下げて言った。大した実入りはなかったが、これでいきなり有力な手がかりが見つかるとはこちらも期待していない。
次に移ろう。事件前後の各メンバーの動きを確認しておかなければならない。
「皆さん、次は話を訊かせてください。入り口の南京錠を最後に掛けたのはフレイムさんでしたよね?」
美夜子が問いを投げかけると、顔に炎の入れ墨を纏った男は「そうだ」と応じる。
「気絶していたグッドラックをここに運び入れた時にな」
「その時のこと、もう少し詳しく教えてもらえますか? できれば、部屋に入るところから」
「は、面倒だなァ……」
フレイムは首の後ろを手で掻きつつ、答える。
「――当たり前のことだが、南京錠と鎖を外さないとこの部屋には入れない。だから最初に見張り部屋のフォックスに声をかけた。肩に担いでいたグッドラックを見せて、『こいつを閉じ込めるから鍵を寄越せ』ってな」
美夜子はフォックスの方を見る。彼は、皆の輪から少し外れたところで、タミアスと何か話し込んでいるようだった。
「はい。じゃあ、そういうことで……」
フォックスが言うと、タミアスが「任せておけ」とでも言うように頷く。
「そこのお二人、どうかしましたか?」
「い、いえ。なんでもありません。すみません」
フォックスは依然として緊張した面持ちだ。タミアスと何を話していたのだろうか……? いや、それはとりあえず後回しだ。
美夜子はフレイムの証言をもう一度繰り返し、フォックスに確認する。
「――あ、はい。下の階でひと悶着あって、それでその人には取引が終わるまで監禁部屋でじっとしていてもらう……とフレイムさんから説明されました。なので、鍵を渡したんです。部屋に運び入れるのを俺も手伝おうとしたんですけど……」
「けど?」
続きをフレイムが引き継ぐ。
「俺が頼み事をしたんだよ。腹が減ってたんで、カップ麺でも作ってくれって。なァ?」
「はい。それで俺は、鍵だけフレイムさんに渡して、休憩室に行って飯の用意をしていました。といっても、湯を沸かしてカップ麺に注いだだけですけど」
美夜子が質問する。
「休憩室というのは?」
「ここから廊下を反対側に進んだ先にある部屋です。簡単なキッチンがあって、食料をまとめて置いてあります」
そういえばガニーも、食事を摂るための部屋があると言っていた。監禁部屋が二階北側廊下の東端だから、反対側というと休憩室は西端にあった部屋だろうか。
「ではフォックスさんは、フレイムさんが監禁部屋にグッドラックを運び入れるところは見ていないんですね」
「まぁ……でもほんの数分でしたし」
その数分でできる何かを部屋の中に仕込んだ可能性もある。
「……俺の動きが怪しいってか?」
フレイムがこちらの考えを見透かすかのように言う。
「何も変わったことはしちゃいねぇよ……。南京錠と鎖を外して、意識のないグッドラックを部屋に運び入れた。それからまた部屋を出て、南京錠と鎖を取り付けた……それで終わり」
「その後は?」
「ガニーに南京錠の鍵を渡しに行った。そう言いつけられていたからなァ」
確かに、ガニーからそう頼まれていたはずだ。そして鍵がガニーに渡された時点で、それ以降から先ほど美夜子たちが監禁部屋に踏み込むまでの間、南京錠は開けることができなかったはずである。
今度はフォックスに尋ねる。
「フォックスさんの方は?」
「カップ麺に湯を注いだので、それをフレイムさんに伝えようと休憩室を出ました。そうしたらちょうどフレイムさんが監禁部屋のドアノブに鎖を巻いているところだったので、そこで声をかけにいきました」
「さっき言っていた、南京錠が掛けられているところを見たというのはそのタイミングですね?」
「そうです。そのままリーダーに鍵を渡しにいくという話もそこで聞いて。フレイムさんは一階に向かって、自分はまた見張り部屋に戻りました」
「見張り部屋の窓から見て、ブリッジさんの様子に変わりはありませんでしたか?」
「いいえ。ちゃんと呼吸しているのはわかりましたし……興奮しているとか、気分が悪そうだとか、そういう変わった様子もなかったと思います……。グッドラックって人も、奥の方に寝そべったままで、意識がなかったみたいですし……」
その時点ではブリッジは無事だったということだ。フォックスの証言が正しいのなら、フレイムが監禁部屋入室の際にブリッジを殺したという線は消える。
「フレイムさんの方は、一階で鍵をガニーさんに渡して、それから二階に戻り休憩室に行ったんですね?」
「ああ。ノビちまうとカップ麺なんて食えたもんじゃないだろ。早足で戻ったとも。休憩室へ戻ったらちょうどタイマーが鳴り出すところだったな」
「タイマー?」
それにはフォックスが答える。
「ああ、休憩室にあるキッチンタイマーです。ラーメンにお湯を入れる時に俺がセットしておいたんで、3分経ったら鳴るようになってました。アラームが鳴り出したのは隣の見張り部屋でも聞こえて、すぐに音が止んだので、フレイムさんがすぐに戻ってきたのは間違いないと思います」
「なるほど……」
フレイムが続きを話し出す。
「ラーメン食い終わったら自分の部屋に戻って、ついさっきまで休んでいた。つっても、熟睡するような時間はなかったけどなァ。目が覚めたらどうも部屋の外が騒がしい。最初はもう一度寝ちまおうかとも思ったんだが、やっぱり気になったんで外に出てみた。聞こえてきた足音から察するに何人かが人質の部屋に向かっていったのはわかったから、ここに様子を見に来たってワケだ」
フレイムはそこで、ふと思い出したように付け加える。
「そういやぁ、ラーメン食ってる途中でスパークが来たっけなァ?」
確かにあの時、フレイムに続いてスパークが二階に上がっていったのを憶えている。彼は腹痛で苦しんでいた。
「水を取りに行ったんだ」
眼鏡の鼻あてを押し上げつつスパークが答える。
「ついでに腹痛の薬を持っていないかフレイムに訊いてみたんだが、持っていないと言われたんでね。冷蔵庫からペットボトルを一本拝借して、休憩室からはすぐに出ていったよ。それから、見張り部屋のフォックスにも訊いてみたが、彼も薬は持っていないとのことだった」
「見張り部屋の方にも行ったんですね。その時、窓の向こうのブリッジさんは見ましたか? 何か気づいたこととかは?」
スパークは腕を組んで考え込む。
「ふむ……一応、視界には入れたと思うが、注意深く観察したというわけでもないからな。あまりはっきりとは思い出せん。だがまぁ……パッと見た感じ、異常はなかったと思う」
「あんな風にブリッジさんがぐったりしていたら、気づいたと思いますか?」
美夜子は頭を垂れているブリッジの遺体を示して尋ねる。スパークはそれについてははっきりと認めた。
「流石にそうなっていたら気づいただろう。人質に死なれては俺たちも困るしな。それに、まずフォックスが異常に気づくはずだ」
……それもそうか。美夜子はフォックスに確認する。
「フォックスさんも、その時のことは覚えていますか?」
フォックスはスパークの方を一瞥した後、美夜子へ向かって頷く。
「はい。スパークさんがやってきて、薬について訊かれたのは覚えています。風邪薬なら自分の部屋にあったんですけど、腹痛用のは持ってなくて……そう言ったら、『そうか』と言って出ていきましたけど」
見張り部屋にも長くは滞在しなかったようだ。美夜子はスパークに続きを促す。
「では、その後は?」
「見張り部屋を出たあたりで、また腹痛に襲われてな。急いでトイレに向かったよ」
その様子も美夜子は目撃している。彼はリビングを抜けて二度目のトイレに向かっていった。
「トイレからリビングに戻ったらすぐにフォックスがやってきて、あの騒ぎだ。後はご存知の通りだな」
証言自体に不審な部分はとくに見当たらない、が……。
美夜子はスパークの全身を見渡してから、尋ねる。
「……ところで、水のペットボトルはどこに置いてきたんですか?」
二度目のトイレに向かう際、彼がペットボトルを持っていたのは記憶している。だが、今の彼は手ぶらで、先ほどの身体検査でポケットなども調べたがペットボトルは見当たらなかった。スパークは言われて初めて思い出した、というような顔をして、
「あー……そういえば。どこかに……多分、トイレに置き忘れてきたんだな。別に大した問題じゃないだろ?」
「……まぁ、そうですね」
フレイム、フォックス、スパークの動きはこれで大体わかった。では次に話を聞くのは……と考えているところで、フレイムの声が聞こえる。
「ひひ……おぉいフォックス。ずっと青い顔してるが、平気かよお前? ここで吐いたりとかは勘弁してくれよ」
フレイムはそう言うと半笑いでフォックスの背を小突いた。フォックスは元気なさそうに「はは……」と曖昧に笑っている。極力死体を見ないようにしているようで、俯きがちだ。
「大丈夫ですか? キツイなら休んでもらってもいいですけど」
美夜子が尋ねると、フォックスが申し訳無さそうに言う。
「……すいません。どうしても気分が優れないので、部屋に戻っても良いでしょうか?」
目の前でブリッジが殺されたショックがまだ残っているのだろう。彼はまだ新人という話だ。慣れていないのなら、死体のある部屋に長くいるだけで参ってしまうことは珍しくない。
「チッ、軟弱モンが……」
ガニーが呆れたように悪態をつく。フォックスは「すいません」と何度も頭を下げている。
もう少し突っ込んでみたい話もあったが、無理をさせても仕方がないか。それで正確な情報を得られなくなる方が困る。美夜子は「わかりました」と頷いた。
「また後でお話を聞かせてもらうことになると思いますが、それまで休んでいてください」
「ありがとうございます……では、失礼します」
フォックスは一礼して監禁部屋を出ていった。聞き取りを続けるとしよう。
「ええと……じゃあ次は、タミアスさん。――そういえば挨拶がまだでしたね。あたしは今回の取引の交渉役として来た、禊屋と言います」
じろじろと美夜子を見ながら、タミアスは卑屈そうに笑っている。
「今までの話は聞いてたし知ってるよ、ナイツの人だろ。へへ、大変だねアンタも」
「はい、本当に……。タミアスさんは先ほど廊下であたしたちと合流したわけですけど、それまでの動きを教えてもらえますか?」
タミアスは赤い鼻先をぽりぽりと掻きながら話し出す。
「動きって言ってもなぁ……。見張り番を終えてから、酒飲んでずっと寝てたんだ。ちょいと飲みすぎたんかな、頭痛くてさっき目が覚めてよ。それで酔い醒ましに廊下に出てたんだ。俺の部屋、窓も付いてねぇからさ。外のほうが冷えて気持ちいいのよ。つっても、この騒動で一気に酔いは醒めたけどな」
「見張り番は、タミアスさんからフォックスさんへ引き継いだわけですね」
「そうそう」
そのあたりは最初に見張り部屋を訪れた時、スパークから聞いた話だ。これも確認しておいた方が良いだろう。
「見張り番の順番はどうやって決めているんですか?」
その質問にはガニーが答えた。
「昨日の夜の時点で俺が指示を出した。人質の見張りと外の見張りとがあるから、そのへん上手く回るようにな」
「タミアスさんの前の見張り部屋の担当は……マンティスさんでしたよね。さっき本人から聞きました」
「ああそうだ」
一応訊いてはみたが、事件に関してそこまで時間を遡る必要があるかはまだ疑問だ。美夜子はもう一度タミアスに尋ねる。
「見張り番を交代するときって、どんな風にするんでしょう?」
「二人揃って覗き窓越しに人質の様子を確認しあって、異常なしと判断してから交代するだけだぜ。フォックスに引き継いだ時も同じだ。変わったことも特には――ああ、そういや、引き継ぎの少し前にアレの世話をしたっけな」
「アレ?」
「トイレだよ。小便」
「ん……あ~……」
「大なら流石にトイレまで連れて行くが、小ならそのまま容器に取って終わりだけどな」
長時間拘束の上に監禁していれば、そういう作業も発生するか。
「ちなみに、その容器って今どこに……?」
「もう処分したけど……えっ、見たかったのか?」
「見たくないから確認したんです!」
気を取り直すように咳払いしてから、
「ええと。ブリッジさんは椅子に拘束されて、口布も噛ませられた状態でしたよね。窓越しで、トイレに行きたがっているのがわかるものなんですか? どうやって意思表示したんでしょう」
「口布をしてあるとはいえ、無理やり声を出そうと思えば出せるだろ? はっきりした言葉にしづらいだけでさ。だから人質には前もってトイレの時は声を出せって伝えてあんだよ。声を出して、見張り番がそれに気づいたらトイレかどうか確認するという手筈になってたんだ。窓越しでもそれくらいの音は聞こえるしな」
他のメンバーにも尋ねてみると、確かにそういう取り決めをしてあったという。
「なるほど……。じゃ、もう一つ訊かせてください。タミアスさんは酔い醒ましのために廊下に出ていたと言いましたけど、どのくらいの時間あそこにいたんですか?」
「そうだなぁ……。正確な時間はわかんねぇけど、多分、5分前後ってところじゃねぇかな?」
「タミアスさんが廊下に出てからあたしたちが来るまでの間、廊下で見かけた人はいましたか?」
タミアスは記憶を引き出そうとするように額に手を当てる。
「えーっと……フォックスが突然見張り部屋から飛び出してきて、その後あんたらを連れてきたくらいだな。他にはいなかったよ」
「間違いありませんか?」
「へへ、だいじょーぶ大丈夫。酔ってたとはいえちょーっと頭いてぇってだけだぜ? 意識もはっきりしてたし」
酔っ払い当人の意見を信じすぎるのもどうかと思うが、一応、廊下で会った時もちゃんとやり取りはできていたし、大丈夫か。
「じゃあ……フォックスさんが見張り部屋から出てきた時、事情は聞かなかったんですか?」
「何かあったのか訊こうとはしたけどよ、スルーされて、階段のほうに走って行っちまった。リーダーに知らせるのが先だと判断したのか、それか、俺が酔っ払ってることわかってたのかもしんねぇけどよ」
それならまぁ、フォックスが無視してまずガニーの元に報告してもおかしくはないか。そもそもパニックを起こしていて、座っていたタミアスに気づかなかったのかもしれないが。
「時系列を整理させてください。廊下に出ていたタミアスさんがフォックスさんの他に誰も見かけなかったということは、フレイムさんはそれより前に食事を終えて自分の部屋に戻っていたんですね。スパークさんも、既に二度目のトイレのために一階に降りてきていた。間違いありませんか?」
フレイムが訊き返してくる。
「タミアスは部屋の前にいたのか? だったらそうだろうな。俺がラーメン食って戻った時には、まだタミアスはいなかったよ」
こちらから更に質問を重ねようとしたところ、事前に察したガニーが補足するように説明してくれる。
「こいつらの部屋は隣同士だ。二階にある個人用の部屋は途中の廊下に連続して並んでた3つの部屋だけで、北側から順にフレイム、タミアス、俺の部屋になってる」
階段から見張り部屋までの南北の廊下に並んでいた3つのドアのことだろう。確かに、タミアスはそのうちの真ん中の部屋の前に座っていた。部屋同士の間隔は狭いからフレイムが部屋に戻った時にタミアスが既に廊下に出ていたら、流石にお互いが気づくはず。フレイムが部屋に戻った後でタミアスが廊下に出てきたという順番で正しいだろう。
スパークも頷いて言う。
「俺も一階に戻る時にタミアスの姿は見ていない。まだフレイムも食事中だったはずだ」
すなわち事件発覚直前の動きとしては……スパークがトイレのために一階に戻る、フレイムが休憩室での食事を終えて部屋に戻る、タミアスが酔い醒ましのため自室から廊下に出てくる、フォックスがブリッジの異変に気づいて見張り部屋を飛び出してくる……この順番ということになる。
これで犯行前後の二階の状況は大体わかってきたが、犯人の動きが依然として掴めない。
監禁部屋の出入り口は板で塞がれた窓を除けばドアの一箇所のみ。そのドアは鎖と南京錠によって封印されていて、更に廊下にはタミアスの監視の目もあった。ブリッジを殺害した犯人はここから脱出したはずだが、一体どうやって?
「うぅん……」
美夜子はため息をつきつつ髪をがしがしと掻く。推理を進めるにはまだ情報が足りない。
「では次は、キーパーさん」
無骨な大男は軽く咳払いして話し出す。
「……俺は取引の金を一旦部屋に置いてからここに来た。それまでは一緒にいたからわかるだろう」
「はい。お金を部屋まで置きにいった部分についてもう少し訊かせてください。キーパーさんの部屋は一階なんですよね?」
「階段のすぐ側だ」
「では回り道というほどでもなくほぼ一直線ですね。そのわりには、ここに来るのが少し遅かったようですけど?」
「……そうか? 金は袋ごと金庫に入れてきたんだ。開けるのに決まった手順があるからその分の時間はかかったかもしれんが……部屋を出てからは走ってここまで来たぞ。大した時間はかかっていないはずだ」
一応訊いてみただけで、実際、問題にするほどの遅れでもないのだが。
「金庫がキーパーさんの部屋にあるんですね。アンバークラウンの副リーダーはあなただと聞いていますが、資金の管理もしているんですか?」
「……それがこの殺しと、何か関係があるのか?」
「一応訊いてみようかなと」
「……なら答える必要はないな」
ガニーが割り込んできて、訝しげに言う。
「おい。ドサクサに紛れてうちの内情探ろうってんならやめておいたほうがいいぜ」
「いや、そんなつもりないですって。ほんとに!」
この程度で睨まれるんじゃ、迂闊に質問もできやしない。
……一通りは話を聞けたし、ヨシとするか。美夜子は皆に向かって言う。
「ありがとうございました。あたしはこれから現場をよく調べてみたいので、皆さんは一旦解散していただいて大丈夫です」
「ちょっといいか?」
スパークが挙手して言う。
「マンティスはまだ外で見張りを続けているんだよな? 俺が知らせてこよう」
ガニーは「おお」と声を上げた。
「そうだった、忘れてたぜ。ついでに、ここへ来るように言っとけ。お前もそれでいいな?」
問われて美夜子は頷く。
「はい。彼にも話を聞いておきたいので」
「じゃあ行ってくる」
スパークが部屋を出ていく。それに続いて他のメンバーも出ていこうとしたが、呼び止めるように美夜子が言った。
「――あ、すいません。念のため、現場保存のため見張りを付けたいので、誰か二人は残っていてもらえませんか?」
「あー、じゃあ……キーパーとフレイム。お前ら頼むわ」
ガニーの指示で二人が見張りに任命される。赤ら顔のタミアスでは頼りないと判断したのだろう、妥当な選出だ。二人いれば、仮にどちらかが犯人でも勝手な真似はできないだろう。
「俺は銃を持ってないが、いいのか?」
フレイムがガニーに対して言う。
「おっと、そうだったな……一応何か持ってたほうがいいか」
「部屋に行って取ってこようか」
「いい、いい、待つのがめんどくせぇ。しゃあねぇから、俺様の愛銃を貸してやる」
そう言ってガニーはM10をフレイムに押し付ける。
「リボルバーは慣れないんだがな……。ま、ないよりゃマシか」
フレイムはそう言ってM10を腰に差した。フレイムとキーパーは見張りのため、それぞれドアの左右に立つようにしたようだ。強面の二人が並ぶとそれだけでかなり迫力があった。
残りのタミアスは、「用事が部屋に戻る」と言って監禁部屋を退出していった。
「さて……じゃ、始めますか」
美夜子は手始めに、遺体についてもう一度細かく調べることにした。先ほどは死亡確認とざっくりした死因の推察をしただけだったから、まだその身体には事件の手がかりが残っているかもしれない。
「ガニーさん、調査の途中で幾つか質問することになると思うので、そのつもりでいてくださいね。余所見しないでくださいよ?」
「あぁ?」
「事件解決のためです。もちろん、協力してくれますよね?」
「チッ……まぁ、わかることなら答えるけどよ……」
ガニーの証言は、信用度で言うなら比較的高いから重要だ。ブリッジが殺害されたと思われる時間、ガニーは自分の目の前にいたことから、犯人の候補としては外して良いだろう。共犯者のような形で関わっているとも思えない。彼がこの殺しを認めているのなら、自分に調査の許可を出すとは思えないからだ。もちろん、様々な理由から嘘をつかれる可能性もあるから油断はできないが。
――美夜子は一通り遺体周りの気になるところを確認し終えた。まず始めに、腹部の傷以外には殴られたり切りつけられたりというような目立った傷は見当たらなかった。ガニーたちが丁重に扱ったというのは真実なのだろう。
そして腹部の傷について。ナイフを抜いて確認してみたが、刺さった状態でも感じた通り、傷はそれほど深いものではない。内蔵など重要な器官に刃先が達しているようでもなかった。ブリッジは中年太りした男性で、脂肪の膜もあるため、この刺し傷だけで致命傷になったとはやはり思えない。
傷口は比較的綺麗で、ナイフを刺した後で捻ったり複数回刺したような形跡はなかった。刺したのは一回だけだ。ナイフは角度的にはやや斜め下に向かって刺さっていたため、座っているブリッジに対し、犯人は立った状態でナイフを突き刺したのだろう。ナイフの刃を顔に近づけ臭いを嗅いでみると、血の臭いに混ざって、微かに苦扁桃臭が残っている。やはり、先ほど見つけた毒薬が使われたと見るのが妥当だろう。
刺さっていたナイフだが、長さは全長で20センチ強。柄より刃の長さのほうが割合としてはやや大きい。抜いたナイフはとりあえず近くの机の上に置いておく。
次は身体を拘束している器具について。これは最初に見張り部屋の窓から覗いた時ととくに変わった様子はない。肩、腰、脛(すね)の三箇所をベルトで椅子に固く縛り付けるようにしてある。これらのベルトも外して確認してみたところ、厚手の革素材でできていて使い込まれた形跡こそあったものの、バックル部分も含めて破損箇所や細工などが施された跡はなかった。
そして先ほど見た、手首を固定するため椅子の後ろ足に結び付けられたロープ。これがなければ腕をなんとか引き抜いてベルトを外すということもできたかもしれないが、これでは無理だ。ロープの結びはかなりキツく、動かす余裕はない。
死亡確認の際に外した目隠しと口布についても、変わった痕跡はなし。口布に強く噛み締めた跡はあったが、これは死亡直前に痙攣した際のものだろう。
違うだろうとは思いつつ念のために遺体の口内も調べてみたが、薬の臭いはしなかった。毒薬は経口摂取ではないということだ。
ブリッジが拘束されている椅子にも目を向けてみる。充分な高さの背もたれがあり、シンプルながら頑丈そうな造りの木製の四脚椅子である。背もたれは左右の端に縦に細長い隙間があるデザインだ。
座面の広さは普通程度だが、ブリッジがやや大柄なために、なんとか尻が収まっているという具合だ。椅子の脚は床に固定などはされておらず、自由に動かせるようだ。ただし脚の先端は太く、拘束されていたブリッジが暴れたとしても倒れそうもない安定感がある。
椅子の後ろ側から眺めてみると、座面の背もたれに近い後ろ側に、傷跡のようなものが残っていることに気づいた。細い糸状のもので何度か勢いよく擦ったような跡だ。それが二箇所、左右のそれぞれ端に近いところにある。
左右の傷跡はそれぞれ背もたれに空いている隙間の内側を通って、そのまま座面の後ろ端に行き、そこから座枠(座面を支えている側面部分)に沿うようにして下側へ伸びている。おそらく座枠後ろ側に糸状のものを引っ掛けた状態で強く引っ張り、その摩擦で傷ができたのだろう。左右でそれぞれ座枠の上下の角に強く力が加わった痕跡があったが、それらは下の角を境に途切れており、座面の裏側までは続いていなかった。
傷の向きも少し気になる。右側の傷は座面の後ろ端へ向かうに連れてわずかに左へ寄っているようだ。また、左側の傷は同じようでありながら逆向き、つまり右へ寄っている。どちらの傷も後ろに向かいながら中央へ収束しようとしている? いや、逆に前に向かいながら広がっているとも取れるが。
椅子自体はそれなりに使い込まれていて他にも細かい傷はあったが、これは独特だ。椅子の他の部分を見ても、そこ以外に同じような痕跡は見当たらなかった。
「ガニーさん、ここに付いている傷なんですけど。いつからあったかわかりますか?」
「傷?」
ガニーは隣にしゃがみ込んで、美夜子が指し示す座面後ろ側の傷を見る。
「さぁ……? 知らねぇけど、多分新しい傷なんじゃねぇか?」
「あたしもそう思います」
見たところ、それほど古い傷には見えない。ここ数日――あるいは今日付いたものかもしれない。事件に関係しているかは、今のところは判断がつかないが。
続いて、ブリッジの正面にある机を調べる。見張り部屋から覗いた時、取り調べ台のように見えたあの平机だ。引き出しなども付いていない簡素な造りの灰色スチール製デスクで、天板の上には先ほど美夜子が置いた凶器のナイフがあるだけだ。机とブリッジの身体の距離は15センチ前後というところ。
美夜子はガニーに質問を投げかけてみた。
「この机ってどういう使い方をするものなんですか?」
「どういうって、普通だぜ。例えば向かい合って話をするとか、何かの資料を見せてそれに関する情報を聞き取るとかな」
「なるほど……」
「拷問に使う時も時もあるけどな。手を置かせて、指を切ったり潰したり」
「うっ……」
「あとは、人質に飯を出す時にも使う。流石に飲まず食わずにはさせられねぇしな。だが原則一日に一回だ。ブリッジにはまだ出してなかったから関係ねぇぜ」
「そうですか……」
ブリッジは食事はしていなかった。それならこれも確認しておこう。
「さっき、睡眠薬や麻酔薬ならあると言っていましたけど、これまで一度でもブリッジさんに使用しましたか?」
ガニーはなぜそんな質問をするのかと、怪訝に思ったようだ。
「使ってねぇ……はずだ。少なくとも俺はそんな指示は出してねぇし、報告も受けてねぇよ。捕まえる時に暴れ出すようなら使うこともあるが、そいつの場合、気づかれるより先に絞め落として運んだからな。使われた形跡でもあんのか?」
「いや、形跡はないですけど。一応訊いてみたんです」
今は手の届く範囲であらゆる可能性を検討しておきたい。とりあえず今のところは、使われた可能性が高い薬物は例のシアン化合物だけということでいいだろう。ただし、毒薬の容れ物は一つとは限らない。あの小瓶以外にも、別の容れ物を犯人はどこかに隠し持っているかもしれないし、殺害に使われた毒はそちらの容れ物に入っていたものという可能性もある。そこは留意しておこう。
「うん……?」
机を下から覗き込んでみて、気づいた。天板の裏面――つまり机下側の中央あたりに何かが貼り付けられている。これはガムテープだ。10センチちょっとで切り取られたガムテープが、ブリッジの身体側から見て横向きに貼られていた。ガムテープの両端は天板裏にくっついているが、真ん中には高さ3センチ前後の隙間が空いていて、小さく湾曲している。
「ガニーさん、これは?」
指し示してガニーに見せる。
「なんだこりゃ? ガムテープ?」
「剥がしてみますね」
美夜子はガムテープを剥がして、近くで観察してみた。接着面の真ん中には薄いラミネートフィルムのようなものが貼られている。これがあったからこの部分だけ接着されず天板裏から浮いていたのだろう。
「……このガムテープ、誰が机に貼ったかわかりますか?」
美夜子はガニーだけでなく見張り役のキーパーとフレイムにも尋ねてみたが、その場の全員が「知らない」という解答だった。「気づいてさえいなかった」、とも。それはそうだろう。見張り部屋の窓からでは天板裏に貼り付けられているものまでは見えないから、こうしてわざわざ近くでしゃがんで覗き込みでもしない限り気づかない位置だ。
なにか重要な証拠かもしれないと、美夜子はしっかり記憶してから元の位置にテープを貼り直しておく。
その時、美夜子のイヤホンへ乃神から通信が入る。
『禊屋。スパークという男は、眼鏡をかけていて浅黒い肌の男で間違いないな?』
「そうだけど……」
『今、スパークとマンティスが見張りを交代した。スパークと少し話をしてから、マンティスは慌てたように建物に入っていったぞ』
美夜子は腕時計をちらりと見て、
「少し話をしていたって……どのくらいの時間だった? それと、スパークさんはマンティスを探し回ったりしていた?」
『いや? マンティスはちょうど玄関前にいたから、スパークはすぐに見つけていたぞ。話していた時間は……そうだな、2分くらいだった』
「ふぅん……りょーかい」
スパークが知らせに行ってから、10分弱といったところ。事情を説明するのに2分かけたとして、外に行くまで5分以上かかっている。少し時間がかかっているようだが……?
……まぁ、後で確認すればいいか。
ガニーに確認しておきたいポイントはまだある。こちらは先ほどブリッジの遺体を調べた時に気づいたことだが、足元に気になるものがあった。
「ガニーさん、もう一つ質問なんですけど」
「あ? なんだよ」
「この穴は?」
美夜子は床へ四つん這いになりながらそれを指して、ガニーに問う。ブリッジの両足の間――踵より少し後ろのあたり、床板に小さな穴が空いているのだ。穴は直径1センチに満たない程度の大きさで、綺麗にくり抜いたという感じではなく、強い力で無理やりぶち抜いたような跡だ。
「ああ、それか。二ヶ月くれぇ前だったかな。マンティスのバカが床に向けて銃を撃ったんだよ。弾が下の倉庫まで抜けちまうとこだった」
「なんでそんなことを……?」
「拷問のとき、脅すためにな。足の間をこう、ばきゅん、と」
ガニーは手でピストルを作り、穴の位置に向けて撃つ真似をする。
「あいつ、トリガーハッピーなんだよ。何かにつけてすーぐ撃ちやがる。見ろよその辺の壁、撃った跡だらけだろ?」
「あー……本当ですね」
この部屋がとりわけ荒れた雰囲気を感じさせる要因は色々あるだろうが、そのうちの一つは壁が銃弾の痕で傷ついているからだ。打ち込まれた弾は全て回収されているようだが、傷や凹みはそのままで無惨だ。壁の位置によって数はまちまちだが、合計すると手の指だけでは明らかに足りないくらいの弾痕がある。
「壁の造りは厚いから多少は多めに見てるけどよ。床は下手すりゃ倉庫まで抜けるからやめとけって言ってあったんだ。それがあのアホ、そん時ゃ軽くラリっててよ。風邪薬使ったオーバードーズで……」
「それで、うっかり床を撃ち抜いてしまった?」
ガニーは思い出すように笑った。
「人質を無駄に殺したりすることがなかっただけ良かったけどな。だから二、三発殴るだけで許してやったよ。やんちゃな部下を持つと大変だぜ」
やんちゃ……でいいのかな、それは。
「そんなことがあった後、誰も床板を取り替えたり塞いだりはしなかったんですね」
「誰もやらねぇだろ、そんな面倒くせぇこと。別にそれで困ることがあるわけでもねぇしな」
「そういうもん……?」
「やる必要があるとしても、そういうのはプラマーの仕事だったからな」
初めて聞く名前が出た。
「誰ですか、それ?」
「うちの元メンバーだ。便利な男でよ、リフォーム屋で働いてた経験があるとかで、よくアジトの修繕や改造を任せてた。ちなみに見張り部屋との間の壁に窓を取り付けたのも、そいつの仕事だぜ。この部屋のドアにもちゃんとした鍵を付けさせる予定だったんだが、その前に消えやがったからな。あれは確か、マンティスがその穴開ける少し前くらいだったか」
「消えたって、どういうことですか?」
「言葉のまんまだよ。俺に断りもなく行方をくらましやがって、ぶち殺してやりてぇが見つける手立てがねぇ。しかも……」
ガニーは言葉を区切ると、苛立ったように「チッ」と舌打ちをする。
「――んなこたぁどうでもいいんだよ。ムカつくこと思い出させてんじゃねぇぞ!」
「えぇ……理不尽……」
それにしても、あの見張り用の窓……まさか元々あんな特殊な構造なわけはないと思っていたが、やはりリノベーションされてできた代物だったか。
「ところで、この部屋の真下は倉庫になっているんですね?」
「ああ。トイレの横にある」
なるほど。後で一階に降りたらそちらも調べに行ってみよう。
とりあえず、遺体の検証はこれくらいで充分だろう。念のために目を凝らしてみたが、遺体の周り一帯の床には他に血痕や汚れなどもない。
美夜子はブリッジの遺体から机を越えて少し離れた正面方向の床上に移動する。そこには、青色の薄汚れたタオルが落ちていた。手に取ってみると、細長い形のスポーツタオルだ。長さは1メートル、幅は40センチほど。所々に血の染みたような跡がある。しかしその血痕はいずれも古いようでだいぶ変色しているから、ブリッジの血液ではなさそうだ。
「このタオルは? なんか、血が付いてるんですけど……」
「それは元々ここにあったもんだな。血を拭いたり、それを拳に巻き付けて殴ったり……まあ、そういう用途だ」
「いつもこんな風に床に放り投げてあるわけじゃないですよね?」
タオルは見張り部屋側の小窓が付いた壁と、遺体のちょうど間くらいの位置にぽつんと置いてあった。部屋に入った時からそこにタオルがあったのは気づいていたし、何かあるかもしれないと気を配っていたので、密室が解かれてから誰も触っていないことは確認済みだ。
「いつもはそこのチェストの上に置くようにしてあるはずだが……」
ガニーが指したのは入り口ドアから見て右奥隅にある、スパークがグッドラックを縛るベルトを取り出してきたチェストだ。
「誰かが使ったんでしょうか? フレイムさんが部屋に入った時はどうでした?」
ドアの横でスマホを弄っていたフレイムが顔を上げる。
「んぁ? そのタオルか? 俺が入った時はチェストの上にあったぜ」
「確かですか?」
「ああ。そいつ――グッドラックだっけか? この部屋に運んできて、下ろす時にそいつの涎が手にひっかかってな……気持ち悪ぃから、そのタオルで拭いたんだよ。だから覚えてる」
「さっきはそんなこと言ってませんでしたよね?」
フレイムはへらへら笑って手を上げる。
「おぉっと、それは失礼……大したことじゃないから説明するのを忘れていた」
大したことかどうかはこっちで判断するんですけど?――などと怒ってもしょうがない。冷静にいこう。
「涎を拭いたって……このタオル自体、血で汚れてるみたいですけど」
「ひひ……血なんか別に気にならねぇさ。それに汚れたところを避けて使えばいいだけだろ?」
「うーん……そう、ですね」
あたしは絶対イヤだけど……と内心で付け加える。
「タオルで涎を拭いた後は、床に放り投げたんですか?」
「いや? そのまま元の場所に置いた」
「そのチェストの上に?」
フレイムは頷く。
「――ということは、フレイムさんが部屋を出た後で、誰かがタオルをここに移動させた……?」
美夜子がまとめると、ガニーが「あぁ?」と疑問の声を上げる。
「誰が? 何のために?」
「…………さぁ?」
美夜子は肩をすくめる。
「グッド君も、このタオルには触ってないよね?」
グッドラックに尋ねると、彼も「知らないっす。触ってないっす」と首を振った。
彼の言葉を信じるなら、残る候補は絞られる。ブリッジは部屋中央の椅子に拘束されていたわけだから、当然チェストの上のタオルを持ってくることはできない。
では、ブリッジを殺した犯人が? しかし……今まで何度も説明されているように、フレイムが監禁部屋を出た後、南京錠の鍵はブリッジが持っていた。美夜子たちが踏み込むまで、監禁部屋には誰も入れなかった――はずなのだが、現に犯人はブリッジを殺害している。その際にタオルで何かを拭き取って、床に放り投げたのだろうか?
美夜子はタオルの臭いを嗅いでみるが、長く洗っていない血の臭いが強く、それ以外の臭いはわからない。付着物を細かく成分調査でもすれば何か発見があるかもしれないが、今できる調査には限界がある。犯人がタオルを使ったとして、「何のために?」という疑問は残る。
とりあえず、タオルのことは留意しておこう。現場にあった物品について確認を続ける。
ドア側の壁の西側――殆ど隅の位置――にはパイプ椅子が閉じた状態で立て掛けられていた。ガニーが先ほど話したように、拘束した相手と向かい合って話す際に使うのだろう。開いて確認してみたが、この椅子には特に気になる点はなかった。
美夜子が次に目をつけたのは、見張り部屋側の壁際、覗き窓のすぐ下あたりに落ちていたものだった。屈んでそれを拾い上げる。蛍光緑色の百円ライターだ。
「ガニーさん、このライターは?」
「拷問用の道具だな。手や足の指を炙るんだ。殴られるよりキツいと感じる奴も多いぜ」
今回の犯行に火を使われた形跡はないが、かといって早々に無関係と断じるのも危険か。
「じゃあ、あっちは?」
美夜子はそう言って次に移る。移動した先の床には長さ30センチほどの長さに切り出された鉄パイプと、それより少し大きく40センチくらいのバールが置いてあった。位置は鉄パイプが北側壁と机との中間あたり。バールの方は北側壁沿いである。
「それも同じく拷問用だ。そっちはわかりやすいだろ?」
ライターよりはそうかもしれないけど。
手に取ってみる。鉄パイプの太さは500円玉の直径と同じくらいだろうか。女の美夜子でも握りやすく、重さもほどほどで振りやすそうだ。全体にわたって表面は荒れた質感で、それなりに使い込まれているようだ。所々にサビだか沈着した血だかが付いているのも見える。棍棒のように相手を殴りつけるには手頃そうだが、左右の切り口は真っ直ぐ平らに切り揃えられていて、刺すことはできなさそうだ。
もう一方のバールはどうだろう。こちらはシンプルな鉄製バールで、先端が鉤状になっている。太さは鉄パイプと同じくらいだが、中身が詰まっている分ずっしりと重い。これで思い切り殴られたら骨くらいは簡単に砕けるだろう。軽く痛めつける時は鉄パイプで、キツくいくときはバールとか、そういう使い分けをしているのだろうか? バールの方も、鉄パイプと同じように使い込まれた形跡があった。
北側の封鎖された窓も念のために確認しておく。窓に張り付けられた複数枚の板切れは、いずれも釘で打ちつけられてしっかりと固定されていて、最近外されたような痕跡はなかった。
「窓を塞いでいるのは、外からこの部屋を見られないようにするためですか?」
「そりゃそうだぜ。それと人質が窓から逃げ出すのを防ぐためでもあるな」
「なるほど……」
美夜子はガニーと話しながら、近くにあったチェストの方へ移動する。先ほど話題になったタオルが置かれていたというチェスト。今、チェストの上には折り畳みナイフだけが置かれていた。ロックを外してボタンを押すと勢いよく刃が起き上がってくるタイプのナイフだ。刃を出して確認してみる。新品ではなさそうだが、目立った汚れなどはない。
「このナイフも拷問に?」
尋ねると、ガニーは手を横に振る。
「いや、それはどっちかってーと作業用だな。痛めつけるのに使っていたのは、主にあっちの方だ」
そう言って、ガニーの身体に刺さっていたナイフ――今は机の上に置いている――を指差す。するとこちらの折り畳みナイフは、ハサミのような役割で使っているということか。確かに凶器に使われたナイフと違ってこちらはポケットナイフくらいのサイズ感で、使いやすそうではある。
チェストの中も物色する。ブリッジの拘束に使われているベルトや口布、目隠し布と同じものが複数の段に分けられて入っているだけで、とくに目新しい発見はなかった。
「ふぅ……」
チェストの引き出しを戻しながら、目にかかった前髪を払う。ふと視線を感じて後ろを振り向くと、グッドラックが不安げな表情でこちらを見上げていた。彼の位置は気を失っていた時から殆ど変わっておらず、今も北側に頭を向け、東側の壁に背を向けて寝そべっている。両手両足縛られているとはいえ身体を起こすくらいはできそうだが、意気消沈してそうする気力すらないのかもしれない。
彼は美夜子と目が合うと気まずそうに言う。
「あっ……すんません。じろじろ見ちまって」
「なぁに? やっぱり不安?」
「いや、それもあるっすけど……禊屋さんがすげぇなって思って」
「へ? 何が?」
「調べる手際とかもそうですし、何よりこの状況で全然ビビってないじゃないっすか。やっぱすげー人なんだなって、改めて思いました」
「お、おお……」
こうも真っ直ぐに尊敬されると、流石に気恥ずかしい。
「ふへっ。まぁまぁまぁまぁ……君も頼れる先輩の背中を見ていずれは立派に――って……」
髪の毛先を弄りながら話していると、グッドラックの背後の壁際に何かが落ちているのを見つける。グッドラックの頭の近く、壁際の床に、それは転がっていた。
美夜子は膝をついてグッドラックの頭越しに手を伸ばしてそれを拾い上げる。胸の下で彼が驚いたように「うおっ」と声を上げた。
「あっ、ごめん急に。驚かせたね」
「でっけ……いやなんでもないっす。何かあったんすか?」
美夜子は手に取ったものを注意深く観察する。
「……これ、銃弾だね」
「銃弾?」
「多分……22口径ロングライフル弾かな」
ロングライフル弾とはいうが、現在では主に拳銃で使われる弾丸だ。小型で威力は小さく射程距離も短いが、発射音が小さく貫通力に優れ、また安価であるという特徴を持つ。そういった特徴から犯罪にもよく使用される。美夜子が拾ったのは、それの弾頭部分。つまりこれは発射された後の銃弾である。発射前なら薬莢と一緒になったカートリッジの状態であるのが普通だ。
弾頭は先端まで金属に覆われているフルメタルジャケットで、その先端部は少しへこんでいた。何か固いものに当たったようだ。
美夜子はガニーに尋ねる。
「これって、もしかしてさっき話してた……」
「ああ、マンティスが撃った弾だろ。あいつ、銃はいつもワルサーPPKを使うからな」
PPKの小口径モデルなら確かに22口径ロングライフル弾を使用する。
「ほれ、そこに薬莢もあるぞ」
ガニーがグッドラックの足元あたりの壁際を指差す。彼の言う通り、薬莢が落ちていた。拾って弾頭と合わせてみるとサイズは一致する。
マンティスが人質を脅すために壁に向かって威嚇射撃をして、薬莢はそのまま銃から排出され床に転がり、弾頭部分は射出されてから壁に激突、その後落下した……ということだろうか。それなら弾頭先端のへこみも説明がつく。
一応、他にも弾が落ちていないか探し回ったが、見つかったのはその一組の弾頭と薬莢だけだった。
「この弾、いつ頃撃たれたものかわかりますか?」
「なんでそんなの気にする? この殺しに銃は関係ないだろ?」
「何が関係しているかはきちんと調べるまでわかりませんから。特に、現場にあったものは何でも重要な証拠たり得ます」
「チッ……はいはい、そうかよ。撃たれたタイミングね……あー……いつだったか、わりと最近あいつに聞き取りを任せたことがあったからその時だとは思うが……」
――ちょうどその時、ドアが開かれた。思い出そうとしていたガニーは、そこに現れた人影を見て手を打つ。
「おお、ちょうどよかった。直接聞いてくれや」
金髪ドレッドヘアの細身の男――マンティスだ。急いで駆けつけてきた、という感じで軽く息を荒げ、表情からは動揺が読み取れる。
「スパークから聞いて来たんだけど……えぇ……マジ? マジで殺されたの? なんで……?」
マンティスは部屋に入ってくるなり、ブリッジの死体を見てそう言った。他のメンバーがそれを知ったときと同様に、困惑している様子だ。ガニーが呆れたように首を振る。
「さぁな。正直言ってわけわかんねぇ。だが、ここにいる禊屋さんが解決してくれるんだとよ」
「禊屋……? ああ、あんたか」
マンティスは美夜子のことをやっと認識したらしい。
「こう見えて殺しの調査には慣れているらしい。ま……俺としちゃ、その男以外に犯人は考えられねぇと思うけどな」
ガニーはグッドラックの方を見て言う。マンティスはいまいち要領を得ないという顔をする。
「なんで……?」
「ん? おお、そうか。お前ずっと外にいたから知らねぇのか。その男、俺に殴りかかってきたんでこの部屋に閉じ込めておいたんだよ。そうしたら、同じ部屋に閉じ込めておいたブリッジが死んだ。フォックスの野郎も、こいつがナイフで刺したところを目撃したって言ってる。間違いねぇだろ?」
「あー……なるほど? それは確かに、間違いないね」
彼はガニーの説明に納得したらしいが、それで終わらせるわけにはいかない。美夜子の方から切り出す。
「すみません、マンティスさん。ブリッジさんが殺されたことの真相を探るためにも、あなたからもお話を訊かせてもらっていいですか?」
マンティスはガニーの方を見て様子を伺う素振りを見せたが、ガニーが渋々頷くのを見て、彼も「わかった」と了承する。美夜子は早速質問に入った。
「マンティスさんが見張りのために外に出てからの行動を、順に教えてもらえますか?」
マンティスは面倒そうに首筋を手で掻く。
「順に……って言われてもなぁ。俺は普通に見張りの仕事してただけだよ。アジトの周りをぐるぐる歩きながら、怪しい奴がいないか注意してた。そりゃまぁ、ちょくちょく座ったりスマホ見たりはしてたけどさ。ほんと、それくらい」
「……じゃあ、スパークさんに呼ばれるまでずっとその感じで?」
「そういうこと。スパークにさっき声をかけられて、『ブリッジが殺されたから急いで監禁部屋に向かえ』って言われた。だから来たんだよ」
「わかりました」
美夜子は次の質問をぶつける。
「マンティスさんが外の見張りをしている最中、アンバークラウンのメンバーも含めて、アジトに出入りする人物を見たりしていませんか?」
乃神とシミズが周囲を監視していたわけだから、そういう人物がいなかったことは既に明らかであるが、一応、聞くべきところは聞いておかなければ。
「いいや、見てないよ。外側の、車に乗ってる眼鏡の人と何度か目があったくらい。あれはあんたの仲間でしょ?」
「そうです」と頷いて、美夜子は更に続けて尋ねる。
「ではまた別の質問です。先ほど、この部屋で発射済みの弾頭と薬莢を発見しました。これです」
美夜子は拾った弾頭と薬莢を手に乗せて、マンティスに見せる。
「22口径のロングライフル弾だと思います。マンティスさんは人質を脅す際に銃を撃つ癖があると聞いていますが、これもあなたが?」
「あー……確か、三週間くらい前に聞き取り任されたんだよね。その時かな。保険会社のお偉いさんで――」
ガニーがマンティスの言葉を遮る。
「余計なこたぁ言わなくて良い。――で、お前がその時撃ったのは、一発だけか?」
「うん。一発だけで泣き出しちゃったから」
「この一ヶ月ちょっとで、この部屋で撃ったのはその一回だけだな?」
「そうだけど……」
ガニーは美夜子に向けて説明する。
「ひと月ほど前にキーパーがこの部屋の掃除をして、ゴミも処分されている。それから今日まで、マンティスに担当させたのはその三週間前の一回だけだ。なら、弾はその時にマンティスが撃ったもので間違いないだろうな」
「わかりました」
これで一通りは確認できたか。あとはアレもしておかなければ。美夜子はマンティスに頼み込むように言う。
「これは皆さんにお願いしているんですけど、身体検査をさせてもらえますか? 持ち物を見せてほしいんです」
「持ち物を?」
マンティスは面倒そうにしていたが、ガニーから無言の圧をかけられて渋々ながら応じた。「しょうがないな」と言いながらスマートフォンや財布などをズボンのポケットから取り出す。腰に挟んでいた銃は、ガニーの言う通りワルサーPPKだった。これも弾はフル装填された状態。他の者と同様に、美夜子も衣服を触って他に何か隠し持っていないかを確認する。
「はいっ……。とくに怪しいものはありませんね」
美夜子の言葉を受け、マンティスはほっとしたように取り出したものをポケットに仕舞う。
「満足した? じゃあ、俺もう行ってい――」
「それで、どうして部屋に寄ったんですか?」
「は……?」
美夜子の言葉の意味をマンティスは把握しかねたようだった。ガニーも同じだったようで、美夜子に尋ねる。
「なーに言ってんだお前? どういう意味だ?」
美夜子は手を軽く振りながら、
「いえ、疑問に感じたことを訊いただけです。マンティスさんは外の見張りに出ていく前、ウェストポーチを付けていましたよね? スマホをそこに入れていたのを見たので。でも今はポーチなんて付けていないし、スマホもズボンのポケットから出していました。それってどこかにポーチを置いてきた、つまりここに来るまでの間に、一度自分の部屋に帰ったってことじゃないですか?」
それにさっきの乃神からの報告――マンティスが建物に入っていったという報告から、既に10分近く経っている。真っ直ぐこの部屋に来たにしては時間をかけすぎだ。
ガニーは美夜子とマンティスの顔を交互に見比べながら、尋ねる。
「あー……そうなのか、マンティス?」
マンティスはやや面食らいながらも説明する。
「あ、ああ、それな。喉乾いてたからさ。部屋に置いてあった水を飲みに一度戻ったんだよ。その時についでにポーチも置いてきたわけ」
「なるほど、そうでしたか」
美夜子はそう言いつつもマンティスの表情を窺った。居心地悪そうにしながら彼が言う。
「何か問題ある?」
「いえ別に。じゃあ、最後に……」
美夜子はマンティスに締めの質問をする。
「この事件に関して、何か気づいたことなどはありませんか?」
「……いや、ないけど」
「本当に、ありませんか?」
「ないって」
強く否定される。少し、躊躇があったような気がしたが……。
「そうですか。――ありがとうございます。マンティスさんは一旦戻ってもらって大丈夫です」
「…………」
彼は腕を組んだまま、何か考え込んでいるようだった。
「おい、どうした?」
ガニーから声をかけられ、マンティスは戸惑ったような反応を見せる。
「ああ……ええと、リーダー。俺はどうすればいい? 一応、外の見張りはスパークが代わってくれてんだけど……」
「なら好きにしろよ。部屋で休むなり、また見張りに戻るなり、どっちでもいいぜ俺は」
「そう。じゃあ、ちょっと休むわ……」
マンティスはどことなく物憂げな様子で部屋を立ち去っていった。……何か引っかかる。彼は何かを知っているのかもしれない。仮にそうだとして、素直に話してくれる気はなさそうだが。シミズが監視の途中で、マンティスを見失っていた時間のこともある。もし、その間に彼が隠れて何かをしていたとしたら……。
……今はとりあえず、監禁部屋の中の調査を済ませてしまおう。美夜子はマンティスに見せた弾頭と薬莢を一旦コートのポケットに仕舞おうとする。
「あっ」
手元が狂った。ポケットを開き損なって、ポロリと二つとも床に落としてしまう。
「いっけね……っと? お……?」
弾頭と薬莢はそれぞれ数回床で小さく跳ねた後、ゆっくり転がっていき……どちらも東側の壁にぶつかって停止した。拾いにいきかけていた美夜子はそれを見て、その場にしゃがみ込んで床に手を触れる。
「ど……どうしたんすか禊屋さん? まさか体調でも悪いんじゃ……」
グッドラックが心配そうに言う。具合が悪くてしゃがみ込んだように見えたらしい。
「あぁいやいや、そうじゃなくて……今の見た? 同じ方向に転がっていったの」
「え? はぁ……」
グッドラックはぴんと来ていないようだ。弾頭と薬莢はどちらも、落とした位置から東側の壁――グッドラックの足元あたりに向かって転がっていった。転がる最中に少々斜め方向にずれはしたものの、概ね真っ直ぐ転がっていったと言って良い。
「ガニーさん。ここの床って、ちょっと傾いてますか?」
「あ? 床?」
「だって、ほら……」
美夜子は弾と薬莢を拾って、もう一度離れたところに置いてみた。落下させる勢いがなくとも、どちらも倒して置くだけで勝手に転がりだす。そして、また東側の壁に当たって止まった。
「あー……確かに少ーし、傾いてるかもなぁ……」
ガニーは腕組みをして、
「で? それがどうした? リフォーム業者のオススメでもしてくれんのかよ」
「違いますけど……何か気になるというか」
美夜子はそれから、何箇所かで同じようなことを試してみた。結果、この部屋の床全体が西側から東側にかけて傾いているらしいとわかった。先ほど見つけた鉄パイプのようなある程度以上の重さ・大きさのものは静止したままで転がらないところを見ると、傾きはほんの僅かなのだろう。それこそ弾丸くらいのサイズ感のものでないと転がりはしないのかもしれない。
「そっちのお二人はどうですか? この部屋の床が傾いてるって、気づいていました?」
美夜子はドア両脇に立つ見張りの二人にも尋ねる。フレイムは肩をすくめて笑う。
「いいや。そんな細けぇことは気にしたことなかったんでね」
しかし、キーパーの方は頷いてこう答えた。
「なんとなくは感じていた」
「なんとなく?」
「マンティスが撃った弾を片付ける時、いつもそっちの壁に寄っていたからな。言われてみれば、と今になって思い出したことだが」
すると、床が傾いているのは以前からなのだろう。経年劣化でそうなったのか、建築当初からそうだったのかはわからないが。
美夜子は眉間を指で押さえ、考え込む。この床の傾きが、密室トリックに利用されていたということはないだろうか――その可能性を検討し始めて、すぐにやめた。それらしい痕跡が見つかったわけでもないし、具体的にどんなトリックかも想像がつかない。
次を調べよう。まだ見ていない箇所は……部屋の手前東側に乱雑に脱ぎ捨てられ小山のようになった衣服だ。ドアの右側にあたる部屋の隅で、タミアスが毒薬の小瓶を見つけたのはこの衣服の上だという話だった。
「これは、ブリッジさんの服ですよね?」
美夜子は服を一枚ずつ手に取りながらガニーに確認する。
「ああ。ここに連れてきてすぐに脱がせた。俺らはいつもそうやってる」
「武器を隠し持っていても無力化できるのと、抵抗させる気力を失せさせて、不意に逃げ出されるリスクも減らせるから?」
「へっ、よくわかってんじゃねぇか」
衣服の小山に手を付けようとして、美夜子は気づく。くしゃくしゃにされたシャツの下の床、陰になった部分に何かが転がっている。拾い上げてみると、それはポケットサイズの消臭スプレーだった。直径2センチあまり、高さは吹出口含めて7センチほどの細長い円筒形である。
「ガニーさん、このスプレーは? これもブリッジさんの持ち物ですか?」
「あん?」
ガニーはスプレーに目をやってから、小首を傾げる。
「さぁ……持ち物は確認したはずだが、それは気づかなかったな。まぁ、ポケットに入っていたのが落ちたんじゃねぇか? 少なくとも、うちのメンバーにそんなもん使う奴はいねぇよ」
衣服のポケットから溢れ落ちた……その可能性はあるだろう。だがスプレーの落ちていた位置は、衣服の小山の西側側面なのだ。そうなると、床の傾きによって部屋のより西側から転がってきて、シャツと床の隙間に潜り込んだ可能性もあるだろう。とはいえ小山の位置から西側を見てみても、その直線上には何もない。ドア側の壁に先ほど調べたパイプ椅子が立てかけられているだけだ。
とりあえず、このスプレーをもっと調べてみよう。有名メーカーの製品で、商品名は美夜子も聞いたことがある。そこらのドラッグストアやコンビニでも買えるだろう。吹出口上のボタンをプッシュして噴出させる形状だ。ラベルの説明には「10秒で悪臭の元を分解! 洗濯物の生乾き臭、汗臭、ペット臭、煙草臭、トイレ臭など何にでもお使いいただけます」とあった。
美夜子はキャップを外してスプレーの吹出口に鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。最後に使われてまだ間もないのか、微かに匂いが残っていた。
「この匂い……」
消毒用アルコールのような香り……先ほど監禁部屋に駆けつけた時、ドアの前で嗅いだあの匂いだ。あの匂いはすぐに消えてしまったが、間違いない。つまりこのスプレーは美夜子たちが駆けつける直前、ドアの周辺で使われたことになる。……何のために?
…………留意しておいて、調査を進めよう。衣服については特に怪しい部分はなかった。コート、ジャケットとシャツ、ズボン、下着に靴下、ベルト。ブリッジは休日、犬の散歩中に拉致されたという話だったが、不自然なものもなさそうだ。
「所持品は別の場所に?」
「財布や時計、スマホ、それに靴まで含めた持ち物は全部、拐った現場近くに捨ててある。発信機の類が付けられている可能性があるからな」
そこは拉致恐喝のプロか、賢明だ。事実、ナイツは携帯電話の位置情報から常にメンバーの動向を確認できるようになっている。
「……じゃあそろそろ、ここ出ましょうか」
ガニーに向けて美夜子が言う。この部屋は一通り調べ終わったし、他の場所にも手がかりはあるはずだ。
「ここはもういいのか。どうなんだ、糸口くらいは掴めたのかよ?」
「う~~~~ん……まだ二、三割ってとこでしょうか」
「……大丈夫なんだろうな? お前があれだけ自信満々に言ったんだぜ?」
「まぁまぁ。調査は始まったばかりですから」
美夜子はグッドラックの方を見て励ますように手を振る。
「じゃ、グッド君、ちょっと別のところに行ってくるね。心細くても泣かないよーに!」
「あ、はい! 行ってらっしゃい! 気をつけて!」
ガニーの方は、キーパーとフレイムに話しかけていた。
「なんかあったらすぐ連絡しろよ。あとその男が不審な動きしたら、すぐに撃ち殺せ」
「ああ、わかっている」
キーパーが答え、フレイムも頷く。……グッドラックも、この二人を前に無茶な真似はしないだろう。
美夜子とガニーは監禁部屋の外に出た。
「――で、どうすんだ?」
後ろ手にドアを閉めつつガニーが言う。
「まず見張り部屋、あと休憩室と倉庫は見ておきたいですね」
「そうかよ。じゃあ手早く――って、何してんだ?」
美夜子は監禁部屋ドアから近いところにあるロッカーの前で屈み込んでいた。東西に延びる北側廊下の東端に置かれた、腰ほどの高さのスチール製スライド式ロッカーだ。横幅は両手を広げた程度。廊下突き当たりの壁には上げ下げ窓が付けられており、その窓下にロッカーが設置されている。ロッカーは引違い戸で、左右どちらの戸にも、横に細長い楕円形をした通気用の穴が上部と下部それぞれに開いていた。
「このロッカーは?」
「掃除用具を入れてある。ま、キーパーくらいしか使ってねぇがな」
掃除担当なのかな……? 他の誰もやろうとしないから、仕方なくやっているだけなんだろうけど。
ロッカー右側の戸をスライドさせて開いてみると、中にはスチール製の大きなバケツが仕舞ってある。そのバケツの中にはそれより一回り小さい蓋付きのプラスチック製バケツ、それと雑巾が2枚入っていた。スチール製バケツが直径30センチほど、プラバケツは直径25センチくらいだろうか。高さはどちらも30センチくらいだ。
調べてみようとスチールバケツごと取り出してみたが、これがやけに重い。スチールバケツは見た目通り掃除用と思われるが、プラバケツの方はラベルを見る限りどうやらそれ自体が粉末洗剤の容器らしい。「洗濯物から床掃除にまで使える万能洗剤」とある。しかも業務用サイズで大容量、そりゃあ重たいわけだ。蓋を開けてみると、中には容器の6割ほどを埋めている洗剤の粉、そして計量スプーンが入っていた。少量を手ですくってみたが、何の変哲もない粉洗剤だ。蓋を閉じて別の物を見てみる。
スチールバケツ及び雑巾は乾いており、掃除のために最近使われた形跡はない。ロッカーの右側には他に何もなく、奥にはまだ半分ほど空いたスペースがあるようだ。ロッカーの左右を隔てる仕切りのようなものはなく、右の戸から覗き込めば左側のスペースも見えるようになっていた。
左の戸を開けて確認していく。こちらにはT字型のモップが一本だけ入っていた。持ち手の部分は長さ50センチほどの棒だが、これは段々式に収納されていて左右に捻ることで伸縮するタイプのようだ。取り出して確認したところ、持ち手の棒は最大で1メートル30センチほどまで伸びた。こちらもモップの毛は乾いている。
美夜子はモップを振り回すようにして確認しながら、ガニーに言う。
「……キーパーさんにも確認してもらいましょう。犯人がこの中から何か使ったかもしれません。あたしやガニーさんが見てわからないものでも、キーパーさんなら気づくことがあるかも」
「言うと思ったぜ……。しゃあねぇな、ちょっと待ってろ」
ガニーがまたドアを開けてキーパーを呼び行く。その間に美夜子はモップの持ち手を縮めてから元の位置に戻し、ロッカーの戸を閉めた。
「――そこを見ればいいのか?」
ガニーと入れ替わりで部屋から出てきたキーパーが言う。ガニーは代わりに見張りをしてくれているらしい。美夜子はロッカーを手で示す。
「はい。それで、なにか気づいたことがあれば教えてほしいんです」
「わかった」
キーパーはロッカーの前に両膝をついてしゃがみ込み、中を確認し始める。
「ちなみに、あなたが最後にロッカーの中を見たのはいつですか?」
「さっき話した、ひと月前に監禁部屋の掃除をした時以来だ。それからはしばらく仕事を休んでいたんでな。ここに来ることもなかった」
「休んでいた?」
「ちょっと怪我でな……。――特に、変わったものはないようだが」
キーパーはロッカーの中を一通り見た後で、美夜子を見て言う。
「なくなっているものとかも、ありませんか?」
「いや、全部揃っている」
「んー、じゃあ……前に使った時から、物が動かされていたりとかは?」
「そう言われてもな……多少動かされたくらいじゃ流石にわからないぞ。いつもモップは左側、バケツと洗剤なんかは右側に仕舞うからそこは変わっていないと思うが」
「ふむふむ……。では、あなた以外で、このロッカーを開けそうな人はいますか?」
「いない。掃除はいつも俺がやっていたからな。他の奴がやっているのは見たことがない」
「そうですか、大変ですね」
「別に……好きでやっている部分もある」
「とりあえず訊きたいことはこれだけです。ありがとうございました」
「もういいのか。それじゃ、俺は戻る」
キーパーは右膝を立て、ロッカーの上に手をかけながらゆっくりと立ち上がる。左膝を庇うような動き……怪我はまだ完治していないのだろうか? キーパーはそれからまた監禁部屋の方へ戻っていった。
美夜子は今度はロッカーの上に位置する上げ下げ窓を確認する。シンプルなクレセント錠で、ロックは掛かった状態だ。サッシ部分に埃が薄っすらと溜まっていることから、窓の開閉は少なくともここ数日は行われていないとわかる。
「おう、なんか発見あったか?」
キーパーと入れ替わりに出てきたガニーが言う。美夜子は振り返り、廊下を歩き出した。
「いえ、特には」
「なんだよまたハズレか?」
「後から何か思いつくかもしれませんし。とりあえず、次いきましょう」
美夜子は続いて、監禁部屋の隣――見張り部屋へ向かう。ドアの前まで歩くと床が鳴った。丁字路の交差点となるこの部分の床はどうもやたら軋むらしい。思ったより大きな音がするので通るたびにびっくりしてしまう。
ドアを開けて見張り部屋に入る。ここには一度入っているが、あの時はじっくり見るような暇はなかった。とはいえ、こちらの部屋は物が少なく、見るべきものは多くはなさそうだ。
北側の壁には棚が置かれてあり、古い漫画と週刊誌が数冊ずつ並んでいる。見張り番が暇を潰すために読むのだろう。棚の上、天井に近い位置には横長長方形の高窓が二つ取り付けられている。縦幅がそれぞれ40センチほど、横幅は1メートルほどだが、はめ殺しになっていて開くことはできないようだ。
そして、東側の壁に取り付けられた監視用の窓――こちらもはめ殺しになっている。そこから、先ほどまでいた監禁部屋の中が見える。軽く押してみたが、びくともしない。材質は厚い板ガラスというところだろう。
フォックスは、ここからブリッジがグッドラックによって刺される光景を見たということだったが……どうにも、彼の証言には怪しいところがあった。後ほど追及してみる必要がある。
窓の手前には、小さな机が置いてある。上には開封済みの飴玉の袋と、飲みかけの500ミリサイズの水のペットボトル。見張り担当者が飲食していたものだろう。水はスパークがトイレへ向かう時に持っていたものと同じ製品のようだ。
フォックスが座っていたパイプ椅子と、その傍らにはプラスチック製のゴミ箱が置いてあったが、菓子の包装などのゴミが少量入っているだけで、これらも特に不審な点はない。
「ガニーさんの方は、何か気づいたことあります?」
美夜子から尋ねると、ガニーはため息をつく。
「なんにもねぇよ。お前も何も見つからなかったならさっさと次行こうぜ」
「あ、その前に。質問を幾つかいいですか?」
ガニーは「なんだ?」と言いながら机の袋から飴玉を取り出し、口に放り込んだ。
「この監視窓が付けられた経緯って? 元々はなかったものなんですよね?」
「あー……ほれな」
口をもごもごさせながらガニーが答える。
「昔、人質が死んじまってちょいと面倒なことになってな。不運な事故だ。拘束に使ってたベルトが人質が暴れた際に緩んだ後、首に巻き付いて首吊りの形になったんだ。見張りは部屋の外にいたから、気づくのが遅れてな」
「それで……」
「見張りを部屋の中に置くことも考えたけどよ。それだとお互い緊張感がありすぎて無駄に疲れちまうらしいんだな。うちじゃねぇが、それで苛ついた見張りがうっかり人質を殴り殺したなんて話もある。要は同じ空間に二人ってのが問題なわけだ。んで、妥協案がその窓。これなら監視を可能にしつつ空間も仕切られているから安心安全。他のアジトでも、人質を閉じ込めておく場所には似たようなもんを作ってある」
意外とよく考えられていた。常に監視される人質にとっては過酷な環境であることに違いはないだろうけれど。
「ま……それで緊張感抜けすぎるやつもいるのが困りもんだけどな。フォックスみてぇによ」
最初にフォックスをここで見かけた時、彼は居眠りをしていたのだった。
「そういえば、フォックスさんは新人ってことでしたけど、それにしてもアンバークラウンの雰囲気とは違った感じですよね。彼を採用した何か特別な理由でもあるんですか?」
「はまよけ」
「なんて?」
ガニーは飴玉をガリッと噛み砕く。
「弾よけだよ弾よけ、盾代わり。それ以外だと雑用係だ。ぎりぎり使い物になるのはそれくらいだしな。伏王会から寄越されなきゃ、俺だってわざわざあんな無能を雇いはしなかったけどよ」
「伏王会から?」
「あいつ、インカジで大負けして借金背負わされたらしい。伏王会の系列店同士がグルんなってハメたんだろうけどな。どうしようもなくなって逃げ出す準備してたところを押さえられて、内臓売るかバイトするか選ばされた。それでちょうど人手の減っていた俺らんところに兵隊として回されてきたってわけよ」
「ああ……そういう事情で」
「戦力にならねぇ奴を寄越されても困るって話だ。ま……ちょうどいい機会がありゃ、使い捨ての駒くらいにはしてやるつもりだけどよ」
哀れとは思うが、助けてやれるほどの余裕はない。
「まったく、同じ新人でもフレイムの野郎とは大違いだ。少しは見習ってほしいぜ」
「確か、フォックスさんの一つ前にメンバー入りしたのがフレイムさんですよね? 彼も同じような感じで?」
「あいつは違う。別口でコンタクトを取ってきたから雇っただけだ。俺も詳しくは知らんが、元々傭兵みてぇな感じで、海外で多くの組織を渡り歩いてきたらしい。正直素性は怪しいが、腕は確かだぜ。この手の仕事にもかなり慣れているようだ。俺らが使ってる銃やナイフは贔屓の仕入先からまとめて買い付けてきたもんだが、あいつは自前で用意してくる。こだわりがあるんだろうな」
「へぇ……」
美夜子は話を聞きながら部屋の壁や床を見渡していたが、特に事件に関係していそうなものはなかった。次の場所に移ろう。
見張り部屋での調査を終え、美夜子とガニーは見張り部屋の西側隣りに位置する休憩室へと移動する。話に聞いていた通り、簡易のキッチンという趣だ。中央には簡素なテーブルセットが置かれている。ここで食事を取ることもできるのだろう。そして、西側の壁には外に面した引違い窓。窓にはクレセント錠が掛かっていた。
「おっ……」
窓から少しドア側に寄ったところに、絵画が掛けてある。綺麗な湖畔の風景画を額縁に収めたものだ。安物のプリント画のようだが、絵自体は優しいタッチで好ましい感じがする。美夜子は絵を指してガニーに尋ねる。
「誰の趣味ですか?」
「最初から俺のじゃねぇって決めつけやがって……。俺が絵好きじゃ悪いかよ、ダメなのかよ」
「いやぁ、だって……違うでしょ」
「違うけどよ……納得いかねぇな、くそ」
悔しがるポイントがよくわからない。ガニーはゴホンと咳払いしてから続ける。
「誰の趣味ってわけでもねぇよ。アジト用にここを買い取ったとき、元から飾ってあった絵だ。大した価値もねぇから、前の所有者が置いていったんじゃねぇか?」
「ふぅん……」
流石に事件とは関係なさそうだ。他の場所を調べよう。
入って奥の北側にはシンク、その隣りにコンロがふた口ある。コンロの片方は空いていて、もう一方には使い古したヤカンが乗せてあった。
東側奥、隅にあたる位置には小型の冷蔵庫が置いてある。中身は水のペットボトルが数本と、紙パックの牛乳が一本、どれも未開封。あとは調味料系のチューブや小瓶が入っているくらいだ。入っている水はすべてが同じ製品で、見張り部屋にあったものもスパークがトイレに駆け込む際に持っていたものも、ここから持ち出されたのだろう。
「ちなみに、皆さんの飲食物は全てこの部屋にあるものから?」
ガニーは手をひらひら振って答える。
「いや、全てってわけじゃねぇ。自分で飲み食いするもんは自分で用意して部屋に置いとくやつもいる。アル中のタミアスは部屋にたんまり酒を持ち込んでるしよ」
「じゃ、牛乳を飲む人はスパークさんの他には誰かいますか?」
スパークがトイレから戻ってくる際に「今朝飲んだ牛乳が悪かったかな」と呟いていたのを思い出す。
「スパークだけのはずだぜ。あいつがいつも自分で飲む分だけ買ってきて、腐るからって共用の冷蔵庫に入れてるんだよ」
「そんなに好きなんですね、牛乳が」
「好きというか、身体のために毎日飲んでるとか言ってたっけな。あいつ酒もタバコもやんねぇし、健康志向の犯罪者なんだよ」
おかしな響きの言葉だが、まぁそういう人もいるんだろう。
美夜子は適当に相槌を打ちながら、近くに置いてあったゴミ箱を覗き込む。主に食品系のゴミが積まれていて、一番上にはカップ麺の空容器、二番目には潰された牛乳パックがあった。前者はフレイムが食べていたカップ麺で、後者がスパークが今朝飲んだという牛乳だろうか。他に気になるようなゴミはない。
冷蔵庫の隣、東側壁沿いには幅広の脚付きキャビネットがあり、こちらの中には上の段に食器類、下の段には日持ちのするカップ麺やレトルト食品などの食料や菓子などが入っている。
「ん……?」
キャビネットの脚の隙間に、何か白い細長いものが落ちているのに気づく。美夜子はしゃがみ込んでそれを拾い上げた。
「なんだそりゃ?」
ガニーが不思議そうに尋ねる。
「ビニールテープの切れ端ですね。粘着力が残っているし、埃の付着も少ないからまだ新しいみたいです」
「ビニールテープ?」
「ここにあったものですかね?」
「白いやつなら確か……」
ガニーは部屋中央のテーブルに近づいていく。テーブルの上には、缶のペンケースを一回り大きくしたようなシンプルな形の道具箱が置いてあった。ガニーが蓋を開けると、確かに白いビニールテープが一巻入っている。残りのテープ量からして半分ほどは使用済みのようだ。道具箱には他にもハサミやピンセット、爪切りなども入っていた。
最近、誰かがここでこの白ビニールテープを使ったのだ。しかし何のために? 美夜子はテープの切れ端が落ちていたキャビネットの下を覗き込むように、床に四つん這いになった。
「あっ……」
美夜子は思わず声を上げる。暗くて見えづらいが、キャビネットで隠れた壁に白ビニールテープが何片も貼り付けられている。……いや、もっと正確に言うのならば。それらのテープは貼り付けられた後で、剥がされかけている。端がべろんと垂れ下がっているものも、完全に剥がれて床に落ちてしまっているテープ片もあった。美夜子が最初に拾ったテープの切れ端もそれらの一部と考えられる。
おそらく、何かがそこに貼り付けられてあった。しかし、それは誰かによって剥がされたのだろう。それも、丁寧に剥がされたという感じではなく、乱暴に引き剥がされたように見える。
キャビネットの脚の高さの分だけ空いた、こうして覗き込まない限り見えない位置の壁だ。そこに何かを隠していたのは明らかである。何を隠していたのか? ブリッジ殺しに関係しているのかはわからないが、可能性はある。
ガニーに説明して、何か心当たりはないか問うと、
「何を隠していたか……? さぁ……想像もつかん。というか、それは俺らの仲間の誰かが隠したってことになるよな?」
「普通に考えればそうでしょうね」
「へそくり、とかではなさそうだよな。チッ……なんだってんだよ、意味がわかんねぇ」
やっぱりわからないか。他の人にも訊いてみた方がいいかもしれない。
テープのことは気になるが、一旦、別の場所へ移動する。休憩室を出ると、美夜子はそのまま向かいの部屋のドアに近づいていった。そのドアは、監禁部屋の窓と同じく複数枚の板が打ちつけられていて封鎖されている。ドアノブには針金まで巻かれて固定されていた。位置としては、一階のリビングの真上あたりだ。
「この部屋は?」
「ここが事務所だった頃は業務用の部屋だったらしいんだが、壁やら床の痛みが他よりひどいんで使ってねぇんだ。反対側にも扉があるが、そっちも同じように入れねぇようにしてある」
その後、廊下を南側に渡り、階段の場所から西側に移動したところにもう一つのドアを見つけたが、ガニーの説明の通り、こちらも板で封鎖されていた。北側のドアと同じく、板やそれを打ちつける釘などに最近手を加えたような痕跡はない。誰かが出入りしたということはなさそうだ。
「じゃ、次は一階に行きましょう」
二階の調査はとりあえずひと区切りついた。一階にも調べておきたい場所があるし、もう一度話を聞いておきたい人もいる。
美夜子は階段へ向かって歩きながら、改めて頭の中で情報を整理する。
ブリッジ殺しの容疑者は、やはりアンバークラウンのメンバーということになるだろう。外部の者が誰にも気づかれずに――乃神たちの監視までついている――このアジトに簡単に侵入できるとは思えないし、ましてや密室内のブリッジを殺すなどというのは言うに及ばない。既に言葉を交わしてきたメンバーのうちの誰かが、グッドラックに罪を被せる形でブリッジを殺したはずだ。――何らかのトリックを用いて。
トリックもそうだが、もう一つ気になるのは犯行の動機だ。ナイツ支部長であるブリッジを殺すことで得をする人間は、確かにいるだろう。犯人自身がそうかもしれないし、そういった人物に依頼されての犯行かもしれない。ではグッドラックを巻き込んだのは、突発的なことだったのか、それとも計画されていたことなのか? この殺しにおける、犯人の目的は何だったのか?
――やはり事件の謎を解き明かすには、まだまだ必要な情報が足りていない……のだが、それとは別に妙な胸騒ぎがする。今回の事件はいつも扱っているものとは様子が違うように感じられるのだ。何か大きな力が背後で動いているような、そんな薄気味悪さがある。
ブリッジ誘拐に関してアンバークラウンに情報を流したと思われる内通者の存在も気になる。この事件に関係しているのだろうか?
…………やめよう、余計なことに気を回しすぎるのは。
ともかく、まずは犯行方法と犯人を特定しなきゃ。せめて調査が終わるまでは、これ以上おかしなことが起きなければ良いんだけど……。
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