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第四章『ランダム・ロックド・ルーム』
美夜子が階段を降りている最中、イヤホンに通信が入る。
『禊屋。伝えておくことが幾つかある。今話して問題ないか?』
乃神の声だ。美夜子は襟のマイクに向かって小声で話しかける。
「大丈夫、どうぞ」
『本部からは今のところ何の連絡もない。ブリッジの件はまだ気づかれていないと見て良いだろう。そちらの進捗はどうだ?』
「うーん。正直、まだまだってとこかな」
『焦ってミスされた方が問題だから言いたくはないが、あまりモタモタしている余裕はないぞ。このことがバレて本部に介入されるようなことになったら取り返しがつかなくなる。こちらもなるべく誤魔化す努力はするが……』
「わかってるって、そっちはよろしくね」
乃神は『それと……』と言って、少しの間を置いて続ける。
『アンバークラウンのメンバーに関する、追加の情報が入った。それも共有しておく。まずはスパークという男の経歴についてだ。奴は過去、中華系半グレ組織傘下の窃盗団で、運転手をしていた。しかし、半年前のクラブ店員殺傷事件を機に幹部メンバーが一斉逮捕されたことで、所属していた組織が事実上の壊滅』
「ああ、あったね。そんなこと」
組織の規模も大きく、結構なニュースになっていたはずだ。
『スパークはうまく潜伏し逮捕を免れたようだが、それからアンバークラウンに入るまでの動きは不明だ』
「ふぅん……他には?」
『これは一応の報告になるが、フレイムという男についてだ。奴の過去に関しては、こちらでは何も掴めなかった』
「何も?」
『少なくともナイツのデータベースに奴に関連する情報はなかった。ガニーが言っていた通り、海外で活動していたのならこちらに情報が伝わってこないのも納得だが……その話が真実だという保証もない』
「フレイムさんが経歴を偽っているってこと?」
『その可能性はあるという話だ。何らかの事情で顔や名前を変えているのかもしれん』
「ふむ……」
それも頭に入れておこう。
『あとは、マンティスのことだ。阿科支部と情報共有してわかったことだが、奴には多額の借金がある』
「そうなの?」
『奴は借り入れに、阿科地区内にあるナイツの系列店を利用していたようだ。顧客情報にある顔写真のデータが一致したから間違いない。マンティスの方がうちの系列店であることを把握していたかどうかはわからないが……借金の額はおよそ1200万』
「そりゃなかなかだね。原因は?」
『担当者の話だと、奴はギャンブルでの浪費癖があって度々借りに来ていたらしい。大口の融資はそれが初めてだったらしいが』
また派手にやらかしたものだ。もう階段を降りきって一階には到着していたが、そのまま壁際に寄って話を続ける。
「でも、いくら怪しい商売してるうちの店だって、そんな額の融資は簡単にはしてもらえないでしょ。担保があったのかな?」
『奴が趣味で集めている高級車を数台担保にしたらしい』
「よくやるよ……」
『問題はその支払期日が3日後になっていることだ。3日以内に金を返せなければ担保が取られる』
「彼はすぐに大金が欲しい事情がある……ってことだね」
そもそもマンティスは、その額を返せるあてがあったのだろうか? もしそのあてが外れたら、彼は諦めて担保である車のコレクションを手放す気になれるのだろうか?
「それ、ちょっと気になるかも。こっちも突っついてみるよ」
『気をつけろよ』
乃神からの通信が切れる。
「何の連絡だ?」
美夜子の話が終わるのを待っていたらしいガニーが尋ねる。
「ちょっとした情報提供です」
「俺には教えられねぇってか?」
今の話は、組織の内情を探られるのを嫌うガニーには教えないほうが良いかもしれない。
「ガニーさんだって、なんでも教えてくれるわけじゃないでしょう?」
「ふん……」
「――という話をしたばかりでなんですけど、ちょっと突っ込んだ質問していいですか。無視したかったら、ま、それでも構いませんけど」
「……一応聞いてやるよ」
では聞いてもらおう。何だかんだで多少は打ち解けてきたような雰囲気もあるが、出会った当初から感じている通り、ガニーは警戒心が強く、頭も回る男だ。彼が隠したがっている情報を引き出すことは、決して簡単ではない。
ここからは駆け引きだ。美夜子が切り出す。
「アンバークラウンの要求した一億ですけど、その分け前って決まってるんですか?」
「本当に突っ込んだ質問してきやがって……」
「アンバークラウンのメンバーが7人。それに外にも監視係の別働隊が何人かいるって話しぶりでしたよね。もちろん均等に分けるわけじゃないでしょうけど、背負うリスクと比較したら、一人あたりの貰いは案外大したことないんじゃないですか? やってることがやってることだけに、準備にもそれなりに経費がかかったでしょうし」
ガニーは含みのある笑みを浮かべて返す。
「……確かにな。お前の言ってることはごもっともだぜ」
美夜子はガニーの表情、声色、言葉の選択を吟味する。そして察する。
「……そうか。他に〝あて〟があるんですね?」
「ノーコメント」
充分だ。今の反応からして、ガニーにはおそらく、まだこの件で金を引っぱり出せるあてがある。
「今回の一件にはスポンサーがいるんじゃないですか? ブリッジさんの誘拐に際して、あなたたちに色々と情報を与えたのもその人たちだったりして。で、仕事が終わったら追加の報酬がある」
「ノーコメントだって言ってるだろ」
「この際だから言っておきますけど、あなたが第三者から情報提供を受けていたのは間違いないと思っていますよ。今回のこの取引に関しても、ナイツがどう動くかある程度把握していたはずです」
「おう待て待て待て! 勝手な妄想で話を進めてんじゃねぇ!」
ガニーは慌てて話を遮ろうとする。対して美夜子は両腕を組み、余裕そうに微笑んだ。
「言っておきますけど、妄想なんかじゃないですよ。他ならぬガニーさんの言葉で、あたしはそれを確信したんですから」
「なっ……何だと?」
「あたし、基本的に一度見聞きした内容は忘れないんですよね。だからはっきり覚えていますよ。ブリッジさんの死体を見つけた後のことです。グッドラックがブリッジさんを殺したように見える状況を見て、あなたはこう言いました。『話が違うじゃねぇか』、と」
正確にはこう――「――話が違うじゃねぇか。それになんで取引に来たナイツの人間がブリッジを殺すんだよ。ああ?」
ガニーは要領を得ないという顔をする。
「……それの何が問題なんだよ! 身内を助けに来たはずの奴がそいつを殺しちまったんだから、『話が違う』って言ったのはおかしくねぇだろ!?」
「ガニーさんはその後、こう続けました。『それになんで取引に来たナイツの人間がブリッジを殺すんだよ』。重要なのは、ここの『それに』の部分です。仮にこの接続詞がなければ、あなたが言う通りの意味で問題はありません。ですが、『それに』があることによってニュアンスに違いが出てくる。先に述べた内容に、並べて付け加える形になるんです。『それに加えて』と言い換えればわかりやすいですね。つまり、『話が違う』というのは『なぜ取引に来たナイツの人間がブリッジを殺すのか』とはまた別の内容に係っているはずなんですよ」
「あっ……」
ガニーはようやく自分の失点に気づいたようだった。正直なところ、些細な言い間違いだと主張されればそれ以上の反論は難しかったのだが、今の彼の反応は決定的だ。
「あなたは、今日の取引に関しても事前に何らかの情報を得ていたんです。しかし、ブリッジさんが殺されてしまったことは予想外で、情報通りではなかった。だから、そこに対する『話が違うじゃねぇか』なんです。――そういうことですよね?」
「…………なんっ……なんなんだよ、クソ!」
ガニーはうんざりしたようにため息をつくと、美夜子をびっと指さして言う。
「……お前キモいんだよ! マジでよぉ!」
「てへへ」
「てへへじゃねんだよ、てへへじゃ。いちいち人の言葉尻捉えやがって……陰湿ツッコミ女め」
「陰湿ツッコミ女!?」
こっちだって好きで細かいことにツッコんでいるわけじゃない。
ガニーは少しの間葛藤していたようだが、やがて不承不承ながらも話し出す。
「……少しだけなら教えてやる。だが、この話が終わったらもうそれきりだ。それ以上何を訊かれても俺は答えない。だからお前も訊くな」
「うーん……」
「いいな!?」
「はいはい、わかりましたわかりました」
まあ、戦果としては上々だろう。
「……確かにお前の言う通り、スポンサー……というか、依頼人はいるよ。情報を提供されていたのも当たりだ」
「やっぱり」
「今日の取引に関しては、『ナイツは必ず取引に乗ってくる。金を受け取るだけだから簡単に終わるだろう』と聞いていた。それでも一応警戒はしていたつもりだけどよ。まさかこんなことになるとは思わねぇだろ」
それに対する『話が違う』だったわけだ。これはほぼ予想した通り。
「仕事が終わったら追加報酬もある約束だ。一週間以内には振り込まれる手筈になっている」
「こんな状況になっても、払ってくれるんでしょうか?」
「それは問題ねぇ。先方のリクエストにはもう応えているからな」
「リクエストって?」
「…………」
ガニーは黙ってそっぽを向く。そこまで教える気はない、ということだろう。
今回の誘拐が依頼人の手引によるものだとすると、きっかけとなったセクキャバ店の事件も俄然疑わしくなる。先に美夜子が推理した通り、誘拐の真の動機を隠すためのカモフラージュとして仕組まれた事件であった可能性が高い。
もっとも、これに関してもガニー自ら答えることはないだろう。それが真実であったとしても認めれば立場を不利にするだけだ。
「――わかりました。教えてくれてありがとうございます」
美夜子はガニーから少し離れて、また小型マイクに向かって話しかける。
「乃神さん、聞いてた?」
『ああ。ガニーの語った話が真実だとするとやはり……』
「情報を提供した彼らの依頼人は、ナイツの動きを知ることができる。それは間違いないよね」
『おそらく依頼人の目的はアンバークラウンにブリッジを誘拐させることだろう。それによって何らかの利益が得られる立場にあると考えられる』
それが一番ありそうな線か。とはいえ、それだけでは該当する範囲が広すぎて絞りきれそうにない。
『本部との交渉には使えそうな情報だが、まずはブリッジ殺しの犯人からだな。お前はこのまま調査を続けてくれ。こちらで何かわかったらまた連絡する』
「おっけ」
通信を終えて、美夜子はガニーに近寄る。
「じゃ、気を取り直して一階の調査始めましょっか」
「ちっ……飄々としてやがる。それはいいけどよ、どこから調べるんだ?」
「んーと……」
美夜子は北側に延びる廊下の向こうを指す。奥に黄色いカラーコーンが数本立てられているのが見える。
「あのカラーコーンが置いてあるあたり、床が腐っているって話でしたよね? 近くで見てみたいんですけど」
「いいけど、別に何もねぇぞ」
話しながら歩き出す。二階と同じように、南北に渡る廊下には東側に3つの部屋が並んでいる。
「ここの部屋は誰が使っているんですか?」
「階段に近い方がキーパー、真ん中がマンティスだ。一番奥は……」
「手前の床が腐っているから、使ってないんでしたよね」
カラーコーンの場所まで辿り着く。そこから先は確かに床板が変色しており、周辺は独特な木の腐った臭いもする。試しに腐った床板につま先だけ乗せてみるが、少し体重をかけただけでぐにゃりと沈む感じがして確かに危険そうだ。少し奥には誰かが踏み抜いたらしい穴が空いていた。
「その穴。ひと月くらい前に、キーパーが踏み抜いてな。そこそこ大きな怪我しちまって。危ねぇからこの辺りはもう立ち入り禁止にしたんだ」
キーパーの足の怪我はそれが原因だったのか。
「じゃあ、それまではここの部屋も使っていたんですか?」
「スパークの部屋だったな。今は向こうに移ってる」
ガニーは北側を指す。二階と同じように、北側には東西に渡る廊下があるのだろう。ここを直進できないということは、そちらへ回るにはリビングを経由しなければならない。
「奥の方の、あれは?」
床板の腐ったエリアの奥に、灰色の金属っぽい扉が見える。
「向こうにちょうど防火扉があったからそれで通路を塞いでる。向こうは曲がり角だし、コーンだけ置いてあっても余所見してたらうっかり入っちまうことがあるかもしれねぇだろ? 物理的に塞いじまったほうが安全だ」
「なるほど、そうかもしれませんね」
この建物の防火扉は、使用時以外は壁に収納されているタイプだ。二階の廊下にも同じ位置――丁字路の交差点に設置されていたし、階段の出入り口でも見かけた。
「……オッケー、じゃあ向こうに回ってみましょう」
美夜子とガニーは一度階段の場所まで引き返し、それから改めて西側の廊下からリビングに入った。ここを経由して向かい側のドアから出ていくことで、北側廊下に移動することができる。リビングの様子は先ほど美夜子たちが離れる前――すなわち事件が発覚する前と変わってはいないようだ。
もう一方のドアに向かう途中で、美夜子はある一点に目を留めて止まった。ガニーが気づいて声をかける。
「どうした?」
「ちょっと気になって」
美夜子は、ここに来て最初にガニーと向かい合って話したソファとテーブルのある場所に移動する。そして、美夜子が座っていた方のソファの端のあたりに注目すると、そこに手を伸ばした。
「おい、何してんだ?」
「ここ、フレイムさんの撃った弾が当たったところなんです……取れた!」
ソファに埋まった弾をほじくり返して摘出する。監禁部屋で見つけたのと同じ、22口径ロングライフル弾の弾頭だ。グッドラックの腕を貫通してソファに命中したので、血液が付着している。
「これも22口径……」
フレイムが使っていた銃はM&P。多くのバリエーションが存在する銃で、使用する弾丸もまちまちである。その中でもフレイムが持っていたのは22口径ロングライフル弾を使用するタイプということになる。監禁部屋で見つかった弾も同じ種類だった。使用する拳銃は多いから珍しい弾丸というわけでもないが、偶然の一致だろうか。とりあえず、これは回収しておこう。
弾をコートのポケットに仕舞いながらふと目を下ろすと、ガニーの座っていたソファに近いところの床に、潰れたトマトが落ちているのを見つける。美夜子が座っていたソファからでは陰になっていて今まで気づかなかった。トマトが落ちたのは、おそらくグッドラックが撃たれた際のことだろう。彼は一度テーブルに倒れ込んだので、身体がトマトの積まれたバスケットにぶつかって、そこから転がり落ちたのだ。
落ちているトマトはゼリー質の中身が崩れ出ていてべちゃべちゃで、原型は殆ど残っていない。床に落ちた後で更に勢いよく踏み潰されたということがわかる。
「あーあぁ、勿体ねぇ」
ガニーが潰れたトマトを見て言うと、それを避けながらテーブルに近づき、バスケットの中でまだ無事だったトマトを手に取った。
「踏んじゃったんですか?」
「俺じゃねぇぞ」
ガニーはトマトにかぶりつきながら答える。よほど好きなのだろうが、よく一日にそう何個も食べる気になれるものだ。
「あいつが撃たれた後、俺に掴みかかってこようとした時だ」
グッドラックのことか。確かに彼はあの時怒りで足元を気にしている余裕などなさそうだった。
他に何かないか足元を探してみると、テーブルの傍らにキャップ帽が落ちているのを見つけた。こちらは覚えている。グッドラックがフレイムに殴られた際に落としたものだ。
戻った時に返しておいてあげるか。美夜子はキャップ帽を拾い上げ、アジャスタ部分をショートパンツの後ろ側のベルトループに通しておく。
他には特に見るべきものもなかったので、そのままリビングを北側のドアから出る。すると北側廊下の西端に出る形になるのだが、すぐ左側には裏口と思しきドアがあった。そして正面――二階で言うと休憩室の位置――にもドア。
「そこはスパークの部屋だな。例の腐った床前の部屋が使えなくなったから空いていたこっちに移った。で、向こうがフォックス」
もう質問する前に教えてくれるガニーは、そう言いながら右手側奥の部屋を指す。南側から繋がる廊下を遮る防火扉と向かい合うようにまたドアがあった。こちらは二階で言うと見張り部屋の位置になる。
「更に奥のドアの付いてないとこが倉庫、一番端がトイレだな」
「じゃあ、とりあえずこっちからチェックしましょう」
美夜子は手近な裏口から見て回ることにする。シンプルなアルミ製の開き戸だが、鍵の部分が少し特殊だ。ガニーに尋ねてみる。
「この鍵は?」
「オートロックになってんだよ。アジトのセキュリティは高いに越したことはねぇ。前に俺がプラマーに頼んで、錠ごとしっかりしたやつに取り替えさせたんだ。センサー付きのやつな。玄関のドアも同じだぜ」
既存のドアに後付けするタイプのオートロックだ。本来内鍵が設置されている場所にはインターホンくらいの大きさの黒いボックスが取り付けられている。このボックス内にオートロックを制御する装置が入っているのだろう。中心のややへこんだ部分にはサムターンのツマミが付いていた。
「ホテルの個室と同じだ。内側からドアを開ける時は鍵は必要なくて、自動でロックが外れる。だが外から開ける時は鍵が必要になる」
「その鍵を持っているのは?」
「俺だ」
ガニーはズボンのポケットから鍵の束を取り出す。金属の輪に数本の鍵がついていた。
「えーっと、これだな。スペアはねぇからこれだけだぜ」
ガニーが鍵を一本選び出し、美夜子に見せる。
「ちょっと試してみてもいいですか?」
美夜子は鍵を受け取って、裏口のドアを開けた。ガニーの言う通り内側から開ける際にはロックは自動で外れるようだ。一度外に出て、外側からノブを回してみる……今度はロックが掛かっていて、ドアは開かない。オートロックは正常に作動しているようだ。一度外に出たら中から開けてもらうか鍵を持っていない限り締め出されてしまうということになる。
この裏口は殺人の現場である監禁部屋からは離れているが、現場の真下である倉庫に近く、建物の出入口であることから事件に無関係とも断じきれない。よく確認しておく必要があるだろう。
鍵を使ってドアを開け、中に戻ると美夜子はガニーに質問した。
「もしもオートロックの電源が切れたら、ドアの開閉はどうなるんですか?」
「ドアが閉まっている状態ならロックされたままになるはずだ。あとは普通のドアと同じだな。内側からはこのサムターンを回して開ける」
そう言ってボックス中心部にあるサムターンのツマミを指す。
「一応言っておくけど、事件時に電源が切れてたかも~なんて想定、する意味ねぇぞ」
「どうしてですか?」
「このオートロックシステムは電源が切れると自動で俺のスマホに通知が入るように設定してあんだよ。電池切れした場合でもそうだし、誰かが電源スイッチをオフにした時も同じように通知が入る」
「じゃあ、ガニーさんのスマホにその通知は入ってないんですね?」
「少なくともここ数ヶ月はな」
「それに」とガニーは更に続ける。
「さっきセンサー付きだって言ったろ? 誰かがドアに変な細工しようとしたら検知して、それも通知が入る。例えば――」
ガニーはドアを開けて、錠のボルトがある面を手で押さえた。5秒ほどすると、黒いボックス――装置部分から「ピーピー」とエラー音が鳴り出した。ガニーが手を離すと音は鳴り止む。
「こういうことすると、俺のスマホにはすぐ通知が入るってわけ」
ガニーがスマホの画面を見せる。通知には「動作エラー 『裏口』に異常な動作を検知しました」とある。
「『裏口』ってのは設定する時に付けたここの鍵の名前だな。同じシステム使ってる玄関の方はそのまま『玄関』だ」
「なるほど。そのエラーを知らせる通知もなかったんですね?」
「同じくここ数ヶ月はない。いたって正常に動作していたと言い切れるね」
実際、ドア周辺には内側、外側ともに細工の痕跡は見当たらない。美夜子は少し考えて、
「じゃあ例えば……内側からこのドアを少し開けておいたとします。後で玄関から外に出て回り込み、この裏口から入るということはできると思いますか?」
「無理だろうな。ドアを開けっ放しで30秒以上経つとエラーになるように設定してある。ドアを開けてから全力で走ったとしても間に合わんだろ」
「それなら、サムターンを回してドアのロックだけ開けておくというのは?」
「それもない。このサムターンな、オートロックの作動中は手動じゃ動かねぇようになってんだよ。無理に動かそうとするとエラーが出る。電源を切らないとロックだけ開けておくのは無理だ」
「電源を切らないと内側から手動でロックを開けることはできない。電源を切ると、通知が飛んでしまう……。なるほど、堅牢ですね。――今話したオートロックの仕様、他のメンバーの皆さんも把握しているんでしょうか?」
ガニーは頷いた。
「ああ。知らねぇで通知鳴らされてもイラつくからよ。面倒でも全員に説明してあるぜ」
まとめると、このオートロックのドアは内から外に出るには容易いが、外から内へ入る手段はかなり限られる、ということになる。
「わかりました、ありがとうございます。……ちょっと気になったんで、外を調べてみますね」
美夜子はドアから外に出てみた。空を見上げる……日暮れにはまだ多少時間があるようだ。未だ緊張の続く状況ではあるが、外の空気を吸うと幾らか気分がすっきりした。冬場の山の近くだからか、乾いた草木の匂いが心地よい。
「さみぃさみぃ! おい、外を調べる必要なんかあんのかよ?」
美夜子に続いて出てきたガニーは、開いていたジャケットをきゅっと閉めるように縮こまっている。上は素肌にジャケットを羽織っているだけなのだからそりゃ寒くて当然だ。
「そんな恰好だと風邪ひきますよ? 中で待っててくれていいですけど」
「バカ言うな。俺はお前の監視役だっつってんだろ。それにお前の恰好だって大概じゃねぇか? そんな太もも丸出しの短パンでよ。冬場でもミニスカにしてる気合の入った女子高生とかがいるけどよ。あれでももうちょいお淑やかだぜ」
美夜子はジトッとした目つきでガニーを睨む。
「あのー、すごぉく余計なお世話です。これはお洒落でやってることなんで、慣れたら寒さなんか問題になりません」
「ほーん、そういうもんかね?」
うそ。めっちゃ寒い。
「それにこういう恰好してると、ガニーさんみたいなスケベが油断してくれるから楽なんですよ?」
「べ、別に油断してねぇし!」
否定しようと喚くガニーを無視して周りを見渡してみるが、外の見張りをしているはずのスパークの姿は見当たらない。こちらからは目の届かない、建物正面側や反対側にいるのだろうか。美夜子は襟元のマイクに向かっていう。
「もしもし。どっちか、今見張りに出てるスパークさんを見てる?」
『こちらからは見えない位置です』
シミズが言う。少し遅れて、乃神が答えた。
『スパークならこちら側にいる。玄関前の階段に座って、一息入れているようだが』
「怪しい動きとかはなかったかな? 長い時間姿が見えなくなったりとかは?」
『マンティスと交代してからは、ゆっくりと事務所の周りを回っていただけに見えたが? 視界の都合で姿が見えない時間はあるが、それでも3分以上空くようなことはなかったはずだ』
続いてシミズが言う。
『私の方も同じような感じです』
再び、乃神。
『どうした、何か不審な点でもあったか?』
「いや、それならオッケー。ありがと」
通信を終えると、美夜子は辺りを見渡す。
ドアから出て正面方向には敷地を囲むブロック塀に寄せるように古びた鉄パイプやトタン板などの資材が置かれている。工務店として使われていた頃の名残りだろう。
ドアから右手側の壁際はスパークの部屋にあたる。窓が付いているが、外から木の板が打ち付けられていて封鎖されており中の様子は見えない。板は打ち付けられてからだいぶ時間が経っているように見えた。
「この窓は?」
「ああ、ここを使い始めた時から窓ガラスが割れてたんだよ。だから板で塞いである」
「なるほど…………」
相槌を打ちながら今度は左手側を見ると、建物外壁に沿ってエアコンの室外機が置かれている。やや大きめだから、リビングの空調用だろうか。室外機は全体的に赤錆が付着しておりかなり古く、長い間使われていないようだ。
「あれ?」
美夜子は気になるものを見つけた。室外機の上部分、平らになっている場所に手で触れる。……土だ。乾燥していない、まだ新しい土が付着している。よく見れば足跡のようにも見えた。美夜子はそこからゆっくり視線を動かしていく。室外機の隣には、雨樋のパイプが取り付けられている。そこから上に昇ると、裏口及びスパークの部屋の窓にかかる庇(ひさし)の切れ目に接する。その庇の上は、二階の休憩室だ。ここからその窓が見える。
「……シミズさん、ちょっと確認」
美夜子は改めて質問する。
「今そっちから、あたしの姿、見えてないよね? 建物の北西側にある裏口近くにいるんだけど」
『いえ、私の位置からではそこは見えないです』
シミズの位置から建物西側は見えない。門の外側で待機している乃神の視点でも、敷地を囲む塀の奥側は見えない。ここが両方の監視の死角になるというのは事前にわかっていた通りだ。とはいえこんな事態になるとは予想できたことではないし、後悔しても仕方ないが……ここにも目があればもっと楽ができたかもしれない。
「何だ? 何か見つけたのかよ」
ガニーが興味ありげに近寄ってくる。
「ここ、土が足跡のように見えませんか?」
室外機の上を指して言うと、ガニーは首を傾げつつも、
「まぁ……見えなくもねぇな。それが?」
「まだ新しい土です。もしこれが足跡であるなら……――へっくしゅっ!」
くしゃみ――鼻をすすりながら美夜子は裏口へ移動する。
「とりあえず戻りましょう。ここで長話すると死にます」
「そこまでじゃねぇだろ……」
鍵を使って裏口から建物に入ると、美夜子はほっと一息ついた。
「それで? さっき何を言いかけたんだよ」
ガニーが催促するように言う。美夜子は髪をくしゃりと掻きながら、
「……はぁ、まぁ、ぶっちゃけめんどいんで、後で説明します。今話してもどうせ二度手間になるんで」
「お前さ、何か段々てきとーになってきてねぇ?」
「調査は真面目にやってますよ。ほんとに…………」
そう言いながら、廊下を見渡す。それから美夜子は目を少し細めて、
「ガニーさん。先ほど言っていた4箇所――スパークさんの部屋、フォックスさんの部屋、倉庫とトイレ。この北側の廊下に接する部屋はそれで全部ですよね?」
「ああ、さっき通ってきたリビングを除けばな」
「その4箇所って……人が外へ出入りできるようなドアや窓はありますか?」
「うん? えーっと、そうだな……いや、なかったはずだ。さっき話した通りスパークの部屋の窓は塞いであるしな。小さな窓が付いてるとこはあるけどよ。人が通れるサイズじゃねぇ」
もしあったとしても、それらの位置から外の監視の目を誤魔化すことは難しいだろうから念の為に聞いてみただけだ。だがそうなるとやはり、誰にも見られずに外へ出るには裏口かあそこを使うしかないということになるか。
「ありがとうございます。次は、防火扉の方を見てみましょう」
「お、おいっ! 何だよ今の質問は、意味を教えろよ」
ガニーを無視して、東西に延びる廊下を中程まで歩く。そこで右に折れる通路を塞ぐように防火扉が閉まっていた。作りとしては一般的な、スチール製で中にくぐり戸が付いているタイプの防火扉。この向こうが先ほど見てきた、床が腐っている場所だ。美夜子は防火扉の中にあるくぐり戸のハンドルに手をかけてみた。
「んっ……あれ? 開かない?」
構造的に押し開ける形になるはずだが、体重をかけて押してもくぐり戸はびくともしなかった。その様子を見て、ガニーが言う。
「前に俺も触ってみたけど、開かねぇよそこ。古くてろくに整備もされてねぇからな。建付けが悪くなってんじゃねぇか?」
「前っていつ?」
「防火扉を閉めた時だ」
くぐり戸に細工されたような痕跡はない。ガニーの言う通り、単に老朽化で開かなくなった線が濃いだろう。
「まぁいいかと思って、そのままにしてある。そこを通ったら危ねぇから塞いだわけで、別に開かなくても問題ないしな」
確かに。本来の用途である防災という面から見れば赤点以下の有様なのは間違いないが。
「防火扉全体を元の位置に戻すとしたら、どうすればいいんでしょう?」
「ええっと……ほら、ここだ。ここのラッチを押してロックを外してから、押して戻せば良い」
防火扉の右端に付いているラッチを押すと、カチッと音がしてロックが外れたのがわかった。左側の壁に防火扉が収まるようになっているのだろう。扉を押すと、かなり抵抗を感じるが一応ゆっくりとは動く。しかし、ギギギギ……という耳障りな金属の軋む音が鳴った。
「うーるさっ! ……かなり響きますね」
「ああ。俺が閉めた時もリビングにいた連中が何事かと出てきたよ」
頭がギリギリ通れるほどの隙間ができたところで、美夜子はそこに屈み込んだ。頭だけ突っ込んで向こう側を見る。防火扉の向こうは先ほど見た南北に渡る廊下側で間違いない。床の腐りに関しても同様だ。ここしばらく誰も通っていないことは明らかで、廊下に埃が積もっている。防火扉が押し戻された分だけ、一緒に埃が移動して堆積した形跡があった。それは美夜子が動かした位置にぴったりと一致する。
頭を引っ込めて、防火扉を先ほどと同じ閉まった状態に戻す。閉める時にも大きな軋み音が鳴り響いた。扉が閉まると自動でラッチが動いてロックがかかるようだ。
「くぐり戸は開かない、扉自体も開け閉めすると大きな音が鳴る……事件前、あたしたちがリビングにいた間にこんな音は聞こえなかった。誰もここを通っていないことは間違いないですね」
埃の積もり方を見ても同じことが言える。誰かがここを通ったのなら、身体ごと通れるようにもっと大きく扉を開いたはずだ。ガニーは、納得したようなしていないような中途半端な顔で言う。
「そのために調べてたのか。何か意味あんのか、それ?」
「んー……微妙ですが、なくはないですよ」
この北側廊下と、南側の個人部屋及び二階への階段への行き来はリビングを経由しなければならない状況だった。もしもブリッジの殺害前後に誰かがここを通っていたのなら、リビングにいた美夜子やガニーに見られないようにしたというのが理由だろう。よって犯人を絞るための重要な手がかりになったかもしれないが、今調べたようにこのルートは使われていないとわかった。それに今は、二階へ移動する『別のルート』の可能性も浮上している。
美夜子は防火扉の向かい側にあるドアを指して言った。
「そこがフォックスさんの部屋ですね?」
「ああ。またあいつに話を聞くのか? さっき現場で聞いた分でもう充分じゃねぇか?」
「いや、全然足りません。ガニーさんは彼の証言がおかしいと思いませんでした?」
「おかしい? あいつがうじうじしてて要領を得にくいってこととは別にか?」
ガニーが鼻で笑って言う。美夜子は「や、そういうんじゃなくて」と手をひらひら振ると、そこから人差し指を立てて話し出す。
「フォックスさんに頼んで、グッドラックがブリッジさんを刺した時の様子を再現してもらった時のことです。彼は、ブリッジさんの正面に立ってすぐにナイフで刺しましたよね?」
「それのどこがおかしいんだ?」
「ブリッジさんの正面には、机がありました。実際に刺されていたのは机の天板の高さよりちょい下のお腹の部分。それで向かい合うように正面から刺すというのは机が邪魔になるはずで、不自然です。やろうと思えばできなくはないでしょうけど、横から、あるいは背後から手を伸ばすようにして刺したほうが楽ですよね。あるいは、先に机をどけておいても良いでしょう。でも、フォックスさんの動きにはなかった」
「……それは、確かにそうかもしれん。だがなんでそんなことに?」
「おそらく、フォックスさんはそこまで具体的に想像できなかったんだと思います。刺した時の状況を再現しろと言われて、最初に浮かんだイメージの通りにやっただけで……」
「ちょっ……と待て。ってことはあいつは――」
美夜子は得意げに微笑んで、人差し指をガニーへ向ける。
「はい。きっと、フォックスさんは殺人の瞬間を目撃していない。でも状況的に考えて犯人はグッドラックしかあり得ないと考えたから、『グッドラックが刺した』と証言しただけなんです」
「……確かめてみる必要はあるかもな」
ガニーが促すようにドアに向けて顎をしゃくる。美夜子はそれに応えてドアをノックした。
「フォックスさん? 禊屋です、また話を聞かせてほしいんですけど」
しかし、部屋の中から応答はなかった。
「……寝てるんですかね?」
体調が良くなさそうだったし、休むと言って部屋に戻っていったからその可能性はある。試しにドアノブを回してみると、鍵がかかっていてドアは開かなかった。
「おい、俺だ! さっさと開けろ!」
ガニーが乱暴にドアを叩く。しかしそれでもフォックスの返事はなかった。
「チッ、これだけ騒いで起きてこねぇとこ見ると、部屋にはいねぇのか? ――もしかすっと、トイレかもしれねぇな」
ガニーが廊下端にあるトイレを指して言う。一応確認しておこうか。トイレは男女で二つに分かれていて、それぞれのドアにそれを示すマークがラベリングされている。アンバークラウンは男だけの組織だが、これは元の工務店事務所として使われていた頃の名残りだろう。男女ですぐ隣同士の設計は如何なものかと思うが……。
「フォックスさん、いますか?」
男子用トイレのドアをノックするが、反応はない。ドアを開けて中を見ると、普通のタンク式トイレが一つ設置されている。空間の広さも個人用トイレと変わりない。正面の壁には横長の高窓が付いていたが、先ほどガニーが言った通り、人が通れるようなサイズではない。
視線を落とすと、床に水のペットボトルが転がっていた。500ミリサイズで、中身は三分の一ほど減っている。おそらく、スパークが置き忘れたものだろう。本人もそのように言っていた。
念のために隣りの女子用トイレも覗いてみるが、男子用と同じトイレ――長年使われていないようで埃塗れである――があるだけで特に変わったものはなかった。
「トイレじゃなかったか。じゃあどこ行ったんだ、あいつ? あーもう、めんどくせぇから動き回んじゃねぇよ……」
ガニーがぼやくのを聞き流しながら、美夜子は顎に人差し指を当てて考える。
「……ガニーさん。彼に電話してみてもらえませんか?」
「電話ぁ? ったく、しょうがねぇな……」
ガニーはため息をつきながらも、スマホで電話をかけ始めた。耳に当てて、数秒経過する。
「……コール音はするけど、出ねぇな」
「ちょっと待って、そのまま呼び出して!」
美夜子は早足でフォックスの部屋のドアまで戻る。ドアの前で様子を窺うと、部屋の中から振動音が聞こえるのがわかった。きっとスマホのバイブレーションだ。遅れてガニーがやってくる。
「おい、どうした?」
「中でスマホのバイブ音が聞こえます。フォックスさん、部屋にいるのかも」
「はぁ!? 居留守ってことか? ふざけやがって」
「……もしかすると、動けない状態なのかもしれません」
「動けない?」
「マスターキーみたいなもの、持ってないですか? この部屋のスペアキーでもいいんですけど」
「いや、そういうのはねぇよ。鍵の付いてる部屋は全部、対応する鍵は一本ずつしかないんだ」
唯一の鍵をフォックスが持っているなら、ドアを蹴破るしかないか。最悪の状況である可能性を考えたら、それも仕方がない。古いドアだから充分いけるだろう。
そう考え始めたところで、ガニーが提案するように言った。
「そこまで気になんなら、倉庫から回りゃいい」
「倉庫から?」
「フォックスの部屋は隣りの倉庫とドアで繋がってんだよ。元が印刷室だったから、大量の紙を運び入れやすいようにってことじゃねぇか? そっちのドアは鍵も付いてなかったはずだ」
「行きましょう!」
美夜子は急いで倉庫に入った。ついてきたガニーが入り口横の電灯スイッチを入れてくれたお陰で明かりがつき、中の様子がわかる。少し埃っぽいが、思ったよりは綺麗に片付いている印象だ。倉庫入り口を南側として、東側と北側壁沿いにそれぞれ物を雑多に詰め込んだ棚が置かれている。そして西側にはフォックスの部屋に繋がっているであろうドアがあった。ただし、ドアの前を塞ぐように大型のコンテナボックスが置かれている。幅は縦横ともに約1メートル、高さは60センチほどだ。
「このコンテナボックスは?」
美夜子が問う。ガニーは埃っぽさからか、くしゃみをしてから答えた。
「それか? 予備の武器なんかを入れてる箱だ」
「いつもここに置いてあるんですか? 行き来の邪魔になりそうですけど」
「そこのドアは普段から使ってねぇんだ。だから問題ねぇよ」
なるほど。元の工務店事務所だった頃はともかく、今はわざわざ倉庫からフォックスの部屋に移動する理由もないだろう。
「……でも、誰かが最近このボックスを動かしているみたいです」
美夜子はコンテナボックスの角あたりの床を靴のつま先でコツコツ叩く。そこには角に沿うような形で埃の跡が残っていた。それもボックスの位置から少しずれている。
おそらくこういうことだろう――その埃の跡が形成されるまでボックスは同じ位置にあったが、つい最近動かされた。その後、元の位置に戻されたがその際に少しずれてしまったのだ。
「誰かが動かした……って、誰だよ?」
「さぁ……」
美夜子は質問には答えず、コンテナボックスを動かす。それなりに重いが、一人でも充分に動かせた。ドアの邪魔にならない程度に手前まで引き寄せた後、美夜子はドア左側に付いたノブに手をかけた。ドアは普通の木製開き戸で、こちらからは押し開ける形になる。しかし――
「……開かない?」
いや、そんなはずはない。こちらのドアに鍵はついていないとガニーが言っていた。実際、ドアにそれらしいものは見当たらない。だが、ドアを開けようと力を込めるとかなりの抵抗を感じる。ドアの向こうに何かがつっかえて開かなくなっているようだ。
「ガニーさん、ちょっと手伝ってもらえますか?」
「んぁ? お、おお」
ぼけっと見ていたガニーにもドアに手を添えてもらって、一緒になって強く押す。するとドアがわずかに開いた。
――目に見えたわけではない。臭いを嗅いだわけでもない。しかしドアが開いた瞬間、美夜子はそれを感じ取った気がした。部屋の中で渦巻いていた、薄暗い死が噴き出してくるのを。
美夜子はすぐにそこから中を覗き込む。
腕――人の左腕が、力なく垂れ下がっているのが見えた。左手は床に手の甲を付けていて、手の平が見える。その人物はドアに背中をくっつけるようにして座っていた。ここからでは顔は見えないが、服装からしてフォックスに間違いないだろう。
「フォックスさん? 大丈夫ですか?」
美夜子は彼の肩に指先で触れながら尋ねる。しかし――やはり、返事はなかった。ドアの隙間に手を限界まで差し込んで、彼の腰元に触れてみる。ドアと腰の位置は、ほぼ密着しているようだ。首や手首に触れられれば脈を確認できるのだが、そこまでは手が届かない。
「……」
手を戻し、一度ドアを閉めて、美夜子は口元に手を当て思案し始めた。これは、思ったより厄介な事態かもしれない。
後ろで様子を見守っていたガニーが声をかけてくる。
「おい、フォックスの野郎はいたのかよ?」
「ドアを背にして倒れているみたいです。呼びかけても返事がないので、意識がないか……もしかしたら――」
「し、死んでるってのか!?」
「……確かめたいところだけど、ここは慎重にいくべきですね」
ドアを開けるにはフォックスの身体をどかす必要がある。無理やりドアを押し開けて、それで何か手がかりが失われるようなことになったら取り返しがつかない。フォックスを襲った人物がまだ中にいる可能性もある。取り逃がしたり襲われたりする可能性を考えたら、先に可能な限り部屋の中の様子を調べておきたい。
「……あそこから見てみます」
美夜子はドアの上を指差す。そこには通気口が設置されていた。通気口の横幅はドアと同じくらい、縦幅は20センチちょっとだろうか。そこには水平方向に伸びた円柱のバーが4本、一定の間隔で据え付けられている。横ジマの形に通気口を覆うような形だ。バーの直径は3センチ、間隔はそれぞれ2センチというところ。そこから侵入することはできないが、バー同士の隙間から部屋の中を覗き見るだけなら充分可能だ。ドアの隙間から覗くよりも詳しく中の状況を把握できるはず。
美夜子はコンテナボックスをもう一度ドアの前に移動させて、それを足場とした。そうするとドア上の通気口はちょうど美夜子の顔の位置にくる。
「ん?」
その時、美夜子は少し気になることがあったが――とりあえず今は置いておいて、バーの隙間から部屋を覗き見た。部屋の中は特に荒らされた形跡などはないようだ。また、フォックス以外の人間がいるようにも見えない。
しかし、ここからだとバーに阻まれて頭を向こう側に出すことはできないため、真下のあたり――手前のドア付近は死角になっている。そのため、フォックスの身体は両脚くらいしか確認できない。バーを取り外せないかと触ってみたが、通気口の枠と一体化していて、枠自体も壁にかなり頑丈に固定されているようだ。枠は各所を太いネジで取り付けられていて、いずれも長年の間に蓄積されたであろう錆びがネジの周りをぎっちりと埋めてしまっている。工具があっても取り外すのには苦労するだろう。
仕方なく、スマホをバーの間に通して映像を撮ることにした。それなら死角になっている場所まで目が届く。
撮影した映像を確認すると、フォックスの状況はすぐに明らかになった。
「……見てください」
美夜子はガニーにスマホを渡してその映像を見せる。
「マジかよ……なんでそうなる……?」
それを見たガニーが愕然として呟く。
頭上から見下ろす視点――フォックスはドアに背中を預けた体勢で、両足を前に出して座っている。頭を右斜め下に項垂れるようにしており、胸には、ナイフが突き刺さっているのが見えた。監禁部屋で身体検査を行った際、彼が所持していたものだ。傷口付近は出血の赤い染みが服を汚しているのがわかる。
彼が死んでいるのかは、近くで確認してみなければわからないが……その身体は既に、生気を失っているように思われた。
美夜子はコンテナボックスから降りて言う。
「やっぱり廊下側のドアを破りましょう。フォックスさんの身体をドア越しに無理にどかすのは現場保存の面から考えてリスクがあります」
「向こうのドアは壊してもいいのかよ?」
「一応、そっちには不審物や仕掛けのようなものは見当たらなかったので……マシなはずです」
「わかった。ちゃっちゃと開けちまおう」
二人は再び廊下側に戻る。ガニーは倉庫の棚から取り出したバールを使って、手際よく鍵のかかったドアをこじ開けた。
「ありがとうございます。じゃあ入りましょう。あ、勝手にモノに触らないでくださいね」
そう言いながら美夜子が入室する。「うるせぇな、わかってるよ」とガニー。
ドアノブの美夜子は足元に注意しながらフォックスの身体に近づくと、首筋の脈の有無と瞳孔反応を確認する。結果は予想した通りだった。
美夜子は少し声を落として言う。
「……死んでいます」
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