第四章『ランダム・ロックド・ルーム』

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「――死後30分から1時間ってところかな」  時間的には美夜子たちが二階で調査をしている頃だ。少なくとも一階に降りてきたタイミングよりは前に死亡していたと考えられる。  隣で美夜子の検分を見ていたガニーは、不可解そうな顔をしていた。 「さっぱりわかんねぇ……。なんでそいつが死ぬ? 俺の勘違いじゃなけりゃ、この部屋も密室だったってことになるよな? 自殺か?」 「う~ん……」  それはこっちだって教えてもらいたい。  美夜子が頭を掻きつつ唸っていると、乃神から通信が入る。向こうはこちらのやり取りを聴いているわけだから当然その確認は入るだろうとは思っていたが、事態が更に厄介になったことを伝えなければならないのは気が重い。 『禊屋、また死体が出たのか?』 「あー……うん」  美夜子はイヤホンに手をあてながら話す。 「死んだのはフォックスさん。詳しいことはこれから調べるところ」 『また問題が増えたか……わかった。とにかく――待て。電話が入った』  通信が切れる。今優先される電話というと、コトブキか本部からの連絡だろうか。悪い報告でなければ良いが……。  ……心配してもしょうがない。こちらでできることをやろう。  まずは、部屋が密室だったかどうかの検証だ。こじ開けられたドアを確認しにいく。握り玉型のドアノブの中央にサムターンの内鍵が付いているタイプだ。こじ開けられた際に錠のボルト部分が破損しているが、外側、内側ともに細工をされたような痕跡はなかった。  試しにサムターンのツマミを動かしてみると、折れて半分になったボルトが引っ込んだ。確かに鍵は掛かった状態だったようだ。ただし駆動部が錆びついているのか動かすのに若干の抵抗感がある。また、ドアノブ中央はやや窪んだ形状になっていてサムターンのツマミを覆っているので、部屋の外からドアの隙間に針金などを通し、サムターン回しの要領で鍵を掛けるというのは不可能であると見てよいだろう。入室の際は一応、ガニーが余計なことをしていないか注意していたが、彼にも怪しい動きはなかったから彼が操作したという線も当然ない。 「……こっちのドアは鍵が掛かっていて、フォックスさんの遺体は倉庫側のドアを塞いでいた。他に、人が出入り可能な窓などもなし。そして犯人が身を隠せそうな場所もない。密室の条件は満たしていますね」 「あーでも、ほれ……上手くやりゃあ、フォックスの横から、ドアに身体を滑り込ませることはできたかもしれねぇぞ?」 「いや、それは無理なんです」  美夜子は手をひらひらと振って否定する。 「遺体の腰とドアは殆ど離れていなかったんです。人が通れるほどのドアの隙間を作ろうとするなら、遺体はドアからもっと離れた位置でないと」 「とすると、やっぱ自殺か。自分でナイフを刺して倒れるしかねぇってことだろ?」 「シンプルに考えるならそうですが……」  この状況で、そう簡単に結論を出していいとは思えない。自分の胸に――しかも服を貫くほどの勢いでナイフを突き立てて死ぬなど、かなり勇気のいる自殺方法であるように思えるが、気弱に見えた彼にそんなことができたのだろうか?  美夜子は部屋の中をぐるりと見渡した。フォックスの部屋には最低限のものしか置かれていないようだ。まず美夜子が着目したのは、北側壁際に配置されたシンプルなデザインの机だ。天板の下に引き出しが一つ付いており、傍らにパイプ椅子が一脚あった。机の上には、水のペットボトルとスマートフォンが置かれている。先ほどガニーが電話をかけたスマホだろう。  机の引き出しを開いてみると、中には鍵が一つ入っているだけだった。 「この部屋の鍵だな。見覚えがある」  ガニーが言うならそうなのだろうが、一応鍵が合うかどうか確かめてみる必要はあるだろう。  先にスマホから調べてみようと美夜子は手に取り、電源ボタンを押してディスプレイをオン状態にする。画面ロックは掛かっておらず、メモアプリが開かれたままになっていた。 「っ……!」  そのメモに書かれた内容を見て、美夜子は小さく息を呑む。 「ガニーさん、これ見てください」  ガニーが横からディスプレイを覗き込む。メモには数行の書き込み。それは、罪を告白する文書だった。 『申し訳ありませんでした。ブリッジを殺したのは俺です。  ある組織に唆されて、金のために殺しました。あの帽子の男の仕業に見せかけるつもりでした。でも考えが甘かった。  俺が犯人だということはすぐに見抜かれるでしょう。どうせ助かる道もありません。潔くここで幕を引くことにします』 「……なんでしょう、これ」  美夜子は眉根を寄せ、顎に手を当てながら言う。その隣でガニーは呆れたように嫌味な笑顔を浮かべた。 「そりゃお前……見たまんま、フォックスの遺書だろ? これで奴が自殺した理由もわかったじゃねぇか」 「え……そうでしょうか? 本当にそう思います? これがただの遺書だって、そう見えるんですか?」 「ああ!? 何が言いてぇんだ? 無駄に勿体ぶってると犯すぞコラ!」 「ひえっ……荒くれもんすぐキレる……」  美夜子は軽く咳払いして、ガニーに説明する。 「ええと、これでフォックスさんが自殺した理由がわかった……と言っていましたよね。確かに、ここには『早々に犯人だとバレるだろうから自殺します』というようなことが書いてあります」 「だろ?」 「でも、それっておかしいんです。そもそもあたしは、フォックスさんが何かを隠しているとは思っていたけど、ブリッジさんを殺した犯人だと疑っていたわけじゃありません。だって、フレイムさんがグッドラックを運び入れた後、監禁部屋の南京錠を開ける鍵はガニーさんが持っていたんですから、フォックスさんは現場に入る機会がなかった。当然、被害者を殺害することもできなかったはず」 「うぅむ……そりゃあそうだけどよ」  ガニーは腕組みして唸るように言う。 「――じゃあ、何かトリックを使って殺したってことじゃねぇのか?」 「その可能性自体はなくもないですけど……だったら、普通ここに書きませんか? どうやって殺したのかを」 「か、書かない奴もいるだろ? 精神的に、そんな小難しいこと書く余裕がなかったのかもしれねぇじゃねぇか」 「小難しい……そうですね。あたしなんかが想像もできないような複雑なトリックならそうかもしれません。でも、フォックスさんは自分の犯行がすぐに露見すると予想したから死んだんですよね? それなら殺害方法はむしろ単純だったと考えられませんか?」 「そう……かもなぁ」 「少なくとも、フォックスさんは現時点で犯人だと疑われるようなポジションじゃなかったんです。こんなタイミングで諦めて自殺するのは不自然ですよ」  美夜子は、フォックスの隠し事に関しては後で詳しく訊けば良いと思っていたから、監禁部屋で話を聞いたとき彼の証言の矛盾に気づいても、その場で追い詰めるようなことは言わなかった。だから彼自身も疑われているなどとは考えていなかった……と思うのだが。 「――というわけなので、これは〝捏造された偽の遺書〟である可能性があります。他殺の線も含めて、もっと調べてみる必要があると思うんですけど」 「……まぁ、好きにしろや」  遺書のメモ以外に何かないかと、スマホを調べてみる。先ほどのガニーからの不在着信の履歴が残っていたので、これがフォックスのスマホなのは間違いない。今日の分の履歴にあるのはその一件だけで、他に誰かと通話をした形跡はなかった。  スマホのアプリ利用歴を見ると、最新は「Blockade」という暗号メッセンジャーアプリになっていた。これは美夜子も利用したことがある。非営利団体によって開発された高セキュリティを謳ったアプリで、通信間で情報が暗号化されるので監視・流出のリスクが低いとされている。利用登録に必要なのは電話番号と名前だけなので、適当なアカウント用の名前と専用の番号(極論、他人の番号でも使えてしまう)を用意すれば万が一に情報流出があったとしても個人を特定するのはほぼ不可能だ。また、その特性上、法的な証拠としても採用されづらい。  ガニーに確認してみたところ、アンバークラウンの仲間同士で連絡をする時に使っていたらしい。アプリを開いてみるとトーク画面が幾つか作られていて、メンバーと個別にやり取りすることもできるし、グループチャットで全員に話しかけることもできるようになっていた。  最新のメッセージはこれだ。 『さっきの話、もう少し詳しく打ち合わせしておこう。後でそっちに行く』  一対一の個別トークでタミアスから送られてきているメッセージで、時間はつい数分前。既にフォックスは亡くなっていたはずの時間で、美夜子が見るまで未読になっていた。  監禁部屋で聞き取りをした際、タミアスは小声でフォックスと何か密かなやり取りをしていたようだった。メッセージに書いてあるのは、おそらくそのことだろう。  美夜子には既に、彼らが交わした約束についてある程度見当がついている。後でこちらに来ると言っているから、その時に捕まえられるだろう。向こうが正直に話してくれるかは……こちらの対応次第かもしれないが。 「ん……?」  美夜子はスマホを見つめながら眉をひそめる。タミアスからのメッセージとは別に、もう一つ気になるところがあった。  今日送られてきたメッセージの中に一つ、消去されているものがあるのだ。このアプリの仕様からすると相手側がメッセージを削除したか、時間設定付きメッセージだったかのどちらかということになる。  時間設定付きメッセージというのはこのアプリが持つ補助的な機能の一つだ。時間設定をしておくとそのメッセージは送信された後、相手が読んだかどうかも無関係に、設定した時間が経過した時点で自動で消去される。手動操作か時間設定かのどちらにせよ、メッセージを削除すれば、送信時間の表示も合わせて消えるのだが、お互いのトーク画面には『◯◯からのメッセージが消去されました』という表示が〝消去から24時間の間〟は残るようになっている。  フォックスとその相手とのトーク画面には、その時間設定付きメッセージが消去されたことを示す表示が残されているだけだった。他のメッセージは残っていない。つまり、今までやり取りした全てのメッセージが消去されているか、これが最初……今までその相手とやり取りをしたことがなかったかのどちらかということだ。メッセージを送信してきた相手の名前欄には、こう記されていた。 『Mr.B』 「……ガニーさん。この『Mr.B』って人に心当たりは?」  美夜子はスマホの画面を見せながら尋ねる。ガニーは片眉を上げ首を傾げて、 「あぁ? ミスター……ビー? なんだそりゃ? ミスターエーもいんのか?」 「いや知りませんけど……。今より前、24時間以内に何かしらのメッセージをフォックスさんに送り付けてきて、消去しているんです」 「知らねぇよ。スパムか何かじゃねぇのか? それ、電話番号から検索できるようになってるから知らない奴からでも送られてくることあるんだよ」 「スパムなら、メッセージ消去はしないと思うんですが」 「なら単に人違いで、挨拶でも送った後でそれに気づいたとか?」 「まぁ、それなら……」  それはあり得る。事件が起こっていなければそれで納得して終わりだっただろう。だが、そうではなかったとしたら?  例えば、アンバークラウンの中のメンバーの誰かが作ったアカウントである可能性がある。謎の人物Mr.Bを騙って、フォックスに何かしら働きかけようとしていた可能性は? それなら、メッセージを消去したのは、このように第三者の目に触れることを警戒したからかもしれない。Mr.Bなる人物は、フォックスが死んでスマホを見られることを予期していたのだろうか?  他のメッセージもチェックしてみるが、他に事件に関係していそうなやり取りは見られなかった。送信時間が24時間以内ということしかわからないMr.Bからの消去メッセージを除けば、この数時間で送られてきたのは先程見つけたタミアスからのメッセージだけのようだ。  更に、スマホに入っているものをざっと見て回るが、こちらも気になるものはとくに見当たらない。「Blockade」とは別のメッセンジャーアプリも入っていたが、こちらはここ数日はやり取りした形跡がなく、トーク相手も私的な友人が数人だけのようだ。他にもゲームや公共料金支払いアプリなどが入っていることを鑑みると、仕事用と私生活用でスマホの使い分けはしていないのだろう。  ここから得られる手がかりはこのくらいか。とりあえず、Mr.Bについては留意しておこう。フォックスのスマホをコートのポケットに仕舞って、美夜子が言う。 「フォックスさんの死が他殺だったとしたら、犯人がこの遺書を捏造したことになります。スマホのロックはおそらく脅して開けさせたか、指紋認証なら殺害後に死体の指を使って開けたのかもしれません。そして遺書を書いた後、誰かに見てもらうためにロックを解除した状態でここに置いた」 「ふぅん……」  ガニーは顎髭をさすりながら美夜子へ質問する。 「……もし他殺だってんならよ、フォックスはなんで殺されたんだと思う?」 「断定はできませんけど――」  美夜子は話しながら、今度は机の引き出し内に置かれていた鍵を手に取り、こじ開けたドアの方へ移動する。 「口封じの可能性が高いと思います。彼が重要な何かを目撃していて、それを証言されることを危ぶんだ犯人が先手を打った」 「ってことは、ブリッジを殺した奴と同じ犯人か?」 「それは……まだ考え中です」 「あん?」  美夜子はドアを開け、廊下に半身だけ出て外側から鍵を差し込むと、錠が作動するのを確認した。ガニーが言っていた通り、この部屋の唯一の鍵で間違いなさそうだ。しかし、鍵の置かれていた場所が気になる。机の引き出しの中だなんて、いかにも密室であることを強調しているかのようなわざとらしさがある。自殺する時にそんなことを意識するとは思えないが……。 「なぁ、二人を殺した犯人が別人だってことがあり得んのかよ? 共犯者がいるってのか?」 「それも含めて、考え中です。今のところ――」  美夜子はドアを閉めて戻ると、状況を整理してガニーに伝える。 「まず、少なくともグッドラック君がフォックスさんを殺すことはあり得ない、というのはわかりますよね?」 「む……まぁ、な。フォックスが死んだのは俺たちがブリッジ殺しの調査を始めた後のことだ。その時間――今も、あいつは二階の部屋でキーパーとフレイムの二人に見張られている。奴には殺せねぇ」 「そう、絶対的なアリバイがあるんです。それを踏まえてブリッジさん殺しに立ち返ってみると、同一犯とするには不自然な点があります。ブリッジさんの殺害は、グッドラックが疑われる状況を意図したものであることは明白でした。それにも関わらず次の殺しでは、犯人はフォックスさんこそがブリッジさんを殺した張本人であるとして、自殺に見せかけて殺している。主張が一貫していないんです」 「だがそりゃあ、同一犯だとしてもあり得る話なんじゃねぇか? 犯人にはどうしてもフォックスを殺さなきゃならねぇ理由があった。お前の言う通り口封じのために、主張を変えてでも殺さないとマズイって判断したのかもしれねぇだろ? ……あ? いやいや、待てよ。というか――」  ガニーは何かに気づく。 「さも当然かのように言っていたが、グッドラックがブリッジ殺しの濡れ衣を着せられたってのはお前の主張でしかないだろ? 確かにグッドラックにはフォックスは殺せねぇだろうよ。だがブリッジ殺しに関しては、状況的にあいつしか容疑者がいねぇのは変わらねぇ」 「ちぇ、気づかれたか……」  できれば触れずにいきたかったのだが、そう都合良くはいかないか。今度は美夜子から問う。 「じゃあ、仮にグッドラック君がブリッジさんを殺したんだとすれば、フォックスさんが殺された理由はなんだと思うんです?」 「……共犯者がいるのかもしれねぇ。俺の組織のメンバーの誰かが、グッドラックと内通していたんだ。グッドラックが見張られて動けない状況でフォックスを殺す。そしてあの遺書を残す。そうしてグッドラックに助け舟を出そうとしたんじゃねぇのか?」 「どうでしょう。彼に共犯者がいたのなら、最初の殺しの時点で協力すれば良かった。あんなリスキーな状況でグッドラック君が殺す必要はなかったと思いますけど」 「それは……そうかもしれねぇけどよ。何か事情があったのかもしれねぇだろ」  美夜子は腕組みしながら考える。 「まぁ……どちらにせよ、まだはっきりしないところが多いので結論は出せませんよ」  ガニーに答えながら、他に部屋に怪しいものはないだろうかと、美夜子は視線を巡らせる。  西側壁際の床に直接敷かれたままの布団は彼が寝る時に使っていたものだろう。毛布と掛け布団は乱雑に投げ出されている。ざっと調べてみたが寝汗か何かでうっすら湿っているくらいで、他に気になる点はない。  布団の傍らにはリュックサックが置かれている。中身は財布や市販風邪薬の小箱、腕時計にボトル入りのガムなど。こちらも手がかりになりそうなものはなかった。  もちろん、遺体も詳しく調べておく必要がある。美夜子はフォックスの胸元に刺さったナイフを一瞥した後、遺体の状況を確認していく。  フォックスは頭を項垂れ、目は眠ったように閉じている。遺体の両腕は床にだらりと垂れ下がって、手の平はどちらも上を向いていた。  下半身はスニーカーを履いた両足を前に出しているが、膝は軽く曲げられていて、緩やかなガニ股というか、あぐら座りのなりかけのような座り方だ。右足のスニーカーが右側面を床につけているが、接地面に靴紐を巻き込んで結び目が解けてしまっている。解けた靴紐は一度胴体の方向に数センチ伸びて湾曲した後、今度は足のつま先側へ向かって先端を伸ばしていた。  フォックスの身体とその後ろのドアの間は数センチしか空いていない。その僅かな隙間も、大部分は先ほど美夜子とガニーでドアごとフォックスの身体を押しのけてできたものだろう。とても人が出入りできるような隙間ではなく、フォックスの身体をこれほどドアに密着させておきながら、犯人がここから出ていくのは不可能だ。  フォックスの服装は生前見ていたのと変わりない灰色厚手のパーカーにジーンズ。ナイフはパーカーを貫通して、刃をかなり深くまで侵襲させており、胸の傷周囲に血の染みができている。目立った外傷は胸の傷以外には見当たらない。この厚いパーカーごと胸を突き刺すには相当な勢いが必要だろう。ナイフの刃は胸に対して少し下から突き上げるような角度……これも対面する相手から刺されたと考えるとしっくり来るが、自分で刺す場合でもやや前屈みになっていたとするならそれもあり得る。  刺さったナイフに鼻を近づけ匂いを嗅いでみたが、苦扁桃臭はなかった。遺体の様子から見ても今回は毒ではなく、シンプルな刺殺の線が濃い。 「お……っと?」  近くで見て気づいた。血とは別に、パーカーの肩部分に染みのようなものが見える。触れてみると、油のようなぬるっとしたものが指先に残る。指を鼻先に持っていき嗅いでみた。……臭いからすると潤滑剤のような合成オイルだろうか。  染みの一つ一つは直径1センチ前後の小さいものだが複数箇所に渡って点々としている。確認できた染みはパーカーの左右の肩から脇の周りに集中していた。それも正面だけでなく背中側にも見られる。油の付着した何かがパーカーに触れたのだろう。それもぐっと押し当てられたというよりは、さっと擦ったような形だ。それで結果として点々とした跡を残した……という感じである。 「ふぅん……?」  美夜子は納得半分、疑問半分といった様子で息を漏らす。  遺体が寄りかかっているドアの上を見ると、最初に美夜子が倉庫側から覗き込んだ通気口がある。先ほど確認した通り、通気口を遮るバーはしっかりと固定されていて取り外しはできないようになっていた。そのため、犯人がそこを通って出ていったとは考えられない。バーとその周辺は綺麗なもので、近くで見たときにも傷などの痕跡は見当たらなかった。ただし、そこには無視できない違和感がある。綺麗すぎたからだ。  先ほど倉庫側から通気口を覗いた時に気づいたことだが――バー部分には埃が付着していなかった。通気口の枠部分には多少なりとも埃が積もっているのに対して、バーはいずれも昨日今日――少なくとも数日内に拭いたばかりのようにつるりとした状態だったのだ。つまりごく最近、誰かがこの通気口に触れたのだろう。バーだけ掃除したというのは不自然だ、何か理由があったはず。それは、フォックスの死に関係したものなのか? 「ふっ……そーいうことか。わかっちまったぜ、禊屋」  同じように通気口を見上げていたガニーが、何やら得意げに笑っている。 「わかったって、何がですか?」 「そりゃ決まってんだろ? 仮にフォックスを殺した犯人がいたとして、そいつがこの部屋から抜け出す方法よ」 「……聞かせてもらっても?」  待っていましたと言わんばかりに、ガニーは自信満々に話し始めた。 「いいか? 部屋の出入り口は二つだ。廊下側のドアは鍵が掛かっていて、俺がこじ開けるまで閉ざされていた。廊下側ドアに対応する唯一の鍵は部屋の机の中。もう片方、倉庫側のドアには鍵はついていないが、代わりにフォックスの死体が出入りを妨げていた。  だが俺は倉庫側のドアからなら犯人は部屋を脱出できたと考える。そもそも、ドアの外に置かれていたコンテナボックスに動かされた形跡があったことから、誰かがそこを出入りしたのは明らかだ。ここで重要なのが、あの通気口」  ガニーはドア上の通気口を指して言う。 「犯人はフォックスを殺した後、その死体にロープを括り付けた。これは後で抜き取りやすいように結んだりはせず、両肩に通して身体を支える程度のもんだろう。そしてロープの先端は両方とも通気口を通して外に出しておいた。次に、死体とドアの間のスペースにある程度余裕を持たせた状態で犯人は倉庫へ出る。  部屋の外に出たら、通気口から出しておいたロープの先端を両方とも引っ張った。そうするとロープを通された死体はドア側に向かって斜め上方向に引っ張られることになる。ドアに腰が密着するほどくっつけてあったわけだから、多分、尻が床から浮き上がる程度まで引っ張り上げてから、ゆっくり下ろしたんだろう。するとちょうど、俺らが見つけた時のようにフォックスはドアに背を預けて座った状態になる」  今度はフォックスの足元を指す。 「この動きはこいつの右足の靴紐からもわかる。おそらく床に擦れて靴紐が解けちまったんだろう。解けた靴紐の根本から先端に向かっての流れに注目してみろ。一度胴体の方向に向かった後、曲がってから今度はつま先側に向かってるだろ?  まず死体がドア側に引き寄せられたことで、靴紐が解けた。これだけだと靴の位置の動きからして、床に垂れた靴紐は真っ直ぐの形で引っ張られる。この時点で、靴紐はつま先側へ伸びているだけだ。その後、ドアに密着するように引っ張り上げられた死体が下ろされた時、それに合わせて靴の位置も少しだけ戻ったことになる。それで解けた靴紐の中間部分に、胴体側へ曲がるカーブができたんだな。両足が真っ直ぐじゃなく、がに股っぽくなっているのもそのためだろう。死体が下ろされる時、足と床が擦れて抵抗がかかり、膝が曲がったんだ。  ――というわけで、充分に死体を引き寄せてドアに密着させたら、ロープの先端の片方だけを引っ張って死体から抜き取り、ロープを回収する。……どうだ? これで密室殺人の完成ってわけよ。ま、これで自殺の可能性が消えたってわけじゃねぇが、他殺でも説明は付けられる。そうだろ?」 「…………」 「……おおい、なんか言えよ」 「いや……なんてゆーか……思っていたよりちゃんとした推理で驚いていたところです」  ガニーはパチンと手を打つと、得意顔で美夜子へ人差し指を向ける。 「へっ……甘く見んなよ、マジでよっ?」 「実はあたしも大体同じことを考えていました。でも、その推理には現場の状況と矛盾してしまう部分があるんです」  ガニーのご機嫌顔がスッと引っ込む。 「はぁ? どこが矛盾してるってんだよ?」 「ロープで死体を引っ張る……それって、かなり強い力が必要になりますよね」 「ここにいる男どもならできねぇこたねぇだろ? フォックスの体格はせいぜい平均くらいってところだしよ」 「その点は問題ないと思います。ただしその方法だと、さっきガニーさんが言ったようにドアに向かって真っ直ぐ引き寄せるわけじゃなくて斜め上へ引っ張り上げる形になりますよね。その際、通気口を越えて上方向に引き上げるには足場も天井も高さが足りません。なので必然的に通気口部分を支点にして引っ張ったはずなんです。死体から犯人の手元にかけて、通気口を頂点としてロープが山なりになる形ですね。問題はそれによる負荷。そうやって死体を移動させると、ロープが接触する通気口の一部に強い摩擦がかかるはずなんです。でも通気口の枠やバー部分にそういった傷跡はまったく見られませんでした」 「む……ぐぐ……」  ガニーはしかめ面で通気口を睨みつける。 「じゃあ……そうだ。ことが終わった後、通気口そのものを別のものに交換したんじゃないか?」  発想は悪くないと思うが、それも既にあり得ないことがわかっている。   「通気口を留めておくネジ穴には古い錆びが溜まっていました。あの感じでは少なくともここ数年は交換されていないはずです」 「……マジかよ」 「マジなんです。でも怪しくもある。通気口の枠部分には埃が幾らか積もっているのに対して、バー部分は掃除したばかりみたいにつるっつるでした。だから、犯人が通気口に何か仕掛けた可能性は充分にある……。バー自体はしっかり固定されていましたから、死体の重さにも耐えられると思うんです。今言ったような問題があるだけで……」  ガニーは舌打ちをして腕組みをすると、そのまま黙り込んでしまった。  彼の推理は躓いてしまったが、逆に言えば、今挙げた問題点さえクリアできればいいということでもある。そのためのヒントがまだ何か残っているかもしれない。もう一度よくフォックスの身体を調べてみよう。  まだよく見ていなかったフォックスの背中側を探ってみると、ジーンズの尻ポケットに何か入っていることに気づいた。取り出すとそれは、手の平サイズほどのキッチンタイマーだった。白色で上半分が液晶ディスプレイになっている。下半分は蓋が付いていて、下端のヒンジを支点に開くようになっている。蓋の中にはタイマーを設定するためのキーが幾つか付いていた。また、右側面には細長いボタンと小さな丸いボタンが一つずつ付いている。 「これ、もしかして休憩室にあったタイマーですか?」  ガニーに見せながら尋ねると、彼は頷く。 「おお、そうだぜ。確かスパークが持ち込んでいたやつだ。どうせここじゃカップ麺かレトルトくらいしか食わねぇんだしスマホのタイマーで充分じゃねぇかと思うんだが、使う奴は使ってるみてぇだな」  タイマーの話はフォックスがフレイムのためにカップ麺を用意したというくだりで出てきていた。休憩室で見かけなかったから気になっていたが、フォックスが持っていたのか。 「……ってか、何でこいつはそんなもんポケットに入れてんだ?」  そう、それだ。何か理由があって持ち歩いていたのだろうか? 「タイマーの普段の置き場所は?」 「休憩室のテーブルか、冷蔵庫に貼っつけてあるかのどちらかだな。磁石付きなんだよそれ」 「ふぅん……」  タイマーの裏面を確認すると、白いビニールテープが貼り付けられていた。3センチほどの切れ端である。その周りを触ってみると、そこにもテープが貼られていたらしく、まだ粘着剤が残っている。  テープの下にはタイマーの操作方法を記したシールが貼られていた。それによると、このタイマーの機能は以下の通りとなる。  ・最大99分99秒までアラームの設定が可能。  ・アラームが鳴ったら右側面のリセットボタンを押すことで停止可能。アラームが鳴り出してから停止されないまま10分が経過すると自動で停止する。  ・右側面の小さな丸いボタンはタイマーのカウントを一時停止するためのボタン。もう一度押せばカウントを再開する。  ・音量キーで4段階のレベルにアラーム音量を調節でき、初期設定はレベル2である。  ・リピートキーを押すと前回設定した時間でアラームを再設定する。アラームが鳴る前に取り消しをした場合は履歴として記録されない。  美夜子はタイマーの蓋を開いて「リピート」と表記されたキーを押してみた。するとディスプレイに10分ちょうどのアラーム設定が再現され、カウントダウンを開始する。美夜子は指を口元にあて、眉をひそめる。 「直前に設定したアラームが10分……」 「……? それがどうかしたのかよ?」  ガニーはそれが意味することにまだ気づいていないようだ。  ディスプレイの端の方にはスピーカーのマーク、その隣に「4」と表示されている。美夜子は一旦そのアラーム設定を取り消し、今度は数秒で設定してみた。すぐにアラームが鳴り出す。ジリリリリ……と、やかましい音が部屋を埋め尽くした。美夜子は予想以上の音量に驚いて、 「うわわっ、うるっさ!」 「何してんだ! さっさと切れっ!」  ガニーも顔を背けるようにしながら言う。その言葉さえも聞き取るのがやっとだった。美夜子は慌ててリセットボタンを押してアラームを停止する。 「ええっと……このタイマー、普段もこの音量で使われていたんでしょうか?」 「んなわけねぇだろ、こんなうるさくねぇよ。スパークやキーパーが使っているのを見たことがあるが、もっと控えめな音量だったはずだぜ」 「やっぱそうですか。これ、音量レベルが最大の4に設定してあるみたいですね」  ガニーは「あぁ?」と訝しげにする。 「最大だぁ? そんなの、耳の遠くなったジジイくらいしか使わねぇだろ」 「それか、もっと広い場所で使うことを想定したボリュームなんでしょうね。……これを設定した人は、そのどちらでもないと思いますけど」 「どちらでもないって、それ以外の使い道なんざ……いたずらくらいしか思いつかねぇぞ?」  美夜子は口元に笑みを浮かべると、手でピストルを作ってガニーを指す。 「ニアピンだと思いますよ。とはいえ単にからかうためじゃなくて、明確な目的があったはずですが」 「???」  まだピンと来ていない様子のガニーを放っておいて、フォックスの遺体の調査を続ける。  また気になるものを見つけた。彼のパーカーは首の後ろがフードになっている。そのフードの中に、小さな針金が入っていたのだ。 「これ、何だと思います?」  フードの中から針金を取って、ガニーに見せる。  鈍い銀色の細い針金で、楕円形に曲がっていた。ただし、楕円形で言うところの長径に沿ったラインの一箇所が切断されている。例えるならアルファベットの「C」のような形だ。真っ直ぐ伸ばせば20センチくらいになるだろう。  ガニーはじっと見て、 「……切った針金?」 「それは見ればわかります」 「なんか、糸みてぇなもんが付いてるな。ともかく、そういう道具に見覚えはねぇぞ」  針金の切断された部分には、毛羽立った糸のような、ごく小さな白い繊維が付着していた。綿繊維のようだが、フードやその他フォックスの衣服とは質感も色も異なっている。フードの中に溜まっていたゴミが絡みついたのか? それとも……針金に元々付着していた――つまり、先端をどこかに引っかけるなどして繊維が付着するようなことになったのか?  この針金、いったい何に使われたのだろうか? なぜフードの中に入っていた? いや、待った……。 「……ぬるぬるする」  ガニーが「は?」と声を上げたが、美夜子は無視して針金の感触を確かめた。……やはり、手触りがぬるぬるする。油……潤滑剤が塗られているのだ。臭いもフォックスの服に付着しているものと同じだ。 「ガニーさん、この針金って倉庫にあったものだったりします?」 「んー、確かに針金の束なら幾つかストックがあったと思うが。そういや色もそんな感じだ。同じもんかもしれねぇ」 「じゃあ、潤滑剤はありますか?」 「潤滑剤? あるぜ、スプレーのやつが。ここ、古くてあちこち錆びたり建て付け悪くなったりしてるからよ」  オッケー……おそらく犯人はフォックスを殺すつもりで部屋を訪れた。彼を殺した犯人の動機が今考えている通りなら、トリックはこの建物内で手に入るものだけを使って実行されたはずだ。  切断された針金はハンカチに包んでコートのポケットに保管しておくことにする。ここはもう充分だろう。後で確認できるように現場の写真を何枚かスマホで撮影してから、美夜子が言う。 「倉庫の方へ行きましょう。調べておきたいことがあります」  念のためフォックスの遺体はドアの前から動かさないように、廊下を経由して再び倉庫へ。  ガニーの言う通り、倉庫の中では束の針金、潤滑剤のスプレーが見つかった。それに、通気口に通せる細さで頑丈さもありそうなワイヤーロープも。ロープは丸く束ねられていて20メートルくらいはある。 「……ここにある道具。何かが誰かに持ち出されたとしたら、わかると思いますか?」  美夜子はワイヤーロープを触りながらガニーに尋ねる。 「ごっそり丸ごと持っていかれたならともかく、少し減った程度じゃわからねぇだろうな。色んな奴が使う可能性があって、どれだけ使ったか記録取ってるわけでもねぇし」  ガニーの言う通りで、いずれも充分なストックがあったため、犯行に使われたかどうか、残った量から判別することはできなかった。針金とロープの残っている分には使われた形跡がないため、犯人が持ち出したとするなら、それは別の場所に隠されたということになるだろう。ここには針金やロープを切断するための工具も揃っているので、必要な分だけ切り出して持っていくことはできた。  他に見つけたものとしては、棚に置いてあった薬品類。袋分けされている睡眠薬の粉末、アンプルに入った液状の麻酔薬、個包装された新品の注射器がそれぞれ幾つか置いてあった。これらは誘拐や監禁の際に使われるのだろう。その隣には怪我の治療用と思しきガーゼや包帯、消毒薬や絆創膏などがまとめて置いてある。いずれも充分な量があるようだ。  次に、美夜子はフォックスの部屋のドア前に置かれたコンテナボックスを調べ始める。箱の外側にはとくに変わった痕跡は残っていない。蓋を開いて中を覗くと、ガニーの言っていたとおり、武器の類が色々入っている。ナイフやスタンガン、様々な種類のハンドガン、中にはアサルトライフルというようなものまで、それぞれが個別のケースに収められている。各種弾薬も揃っており、アンバークラウンが武闘派のグループであることを改めて思い知らされる。しかもこれで予備というのだから驚き呆れる。これだけの武装を揃えられるのは、やはり伏王会のサポートを受けていたからだろうか。 「ちょっとした戦争ができそうなくらいあるじゃないですか。ドン引き」 「はは。何だよ、いきなり褒めて」 「褒めてない。……てかこれ、こんなところに置きっぱなしでいいんですか? あなた達、今回の件が終わったらアジトを移動するんでしょ?」 「ん……そうだったな」  ガニーは髭を撫で、僅かに眉をひそめながら言った。 「忘れてたぜ。まぁ必要な分はもう車に積み込んであるからいいんだ。ここにあんのはかなり使い古したもんばかりだしな。あまり荷物が多くてもしょうがねぇんだよ、こういうのは」 「そうなんですか……?」  そうだとしても、これだけの武器弾薬を簡単に置き去りにできるものだろうか……? 何か理由があるとすれば、先ほど聞いた依頼人絡み……? 莫大な報酬が約束されているから、これくらいは投げ捨てても構わないと? もしかすると装備面でのサポートも受ける予定なのかもしれない。気にはなるが、ガニーに問いただしたところではぐらかされるだけだろう。  コンテナボックスを調べ終わると、美夜子は天井を見上げてガニーに言った。 「この上がちょうど監禁部屋っていう話でしたよね? マンティスさんが床を撃ち抜いた穴がありましたけど、流石にこっちの天井までは抜けてこなかったみたいですね」  倉庫の天井に弾痕は見当たらなかった。 「そりゃゴツいライフルで撃ったとかならともかく、拳銃じゃな」 「天井裏を確認しておきたいんですけど、あの点検口は開きますか?」  倉庫の真ん中あたりに、天井裏へ上がるための点検口が付いている。ガニーは同じように見上げて、 「……試したことはねぇけど、多分開くんじゃねぇか? そんなとこまで見るのかよ?」 「だって、すぐ上が監禁部屋なら、犯人がそこから何かしたかもしれないじゃないですか」  美夜子は倉庫の隅に置いてあった脚立を点検口の下まで運ぶ。脚立は所々錆びは付いているが使うには問題なさそうだ。倉庫は全体的に埃っぽいところだが、この脚立には埃が積もった様子はない。誰かが使ったのだろう。 「誰か、最近この脚立を使いましたか?」 「昨日の夜、キーパーが古くなった電灯を替えるために使っていたのを見たぜ。そこの廊下の電灯だ」  そう言ってガニーは倉庫の外を指す。 「そうですか……」  美夜子は脚立を点検口の下にセットし、開き止め金具を掛けて固定した。 「支えておいてもらえます?」 「へいへい……」  ガニーが脚立を支え、美夜子が脚立を登る。点検口のロックを外し、そこだけ区切られた天井板を押し上げるように開く。 「うぇっ……げほっ」  天井裏に顔を出すとより一層埃っぽい。美夜子はスマホのライトを点けて周囲を確認する。一階と二階の間の天井裏だから、手を伸ばせばもう監禁部屋の床板に手がつくほどの高さしかない。柱と梁、電気配線などが密集していで身体を入れるほどのスペースはないし、埃の積もり具合からしても誰かが天井裏を移動した形跡はない。  例のマンティスが撃ち抜いた穴は、点検口の直上に見える。視線を下げると倉庫の天井板と梁の隙間に、埃を被った22口径ロングライフル弾の弾頭が転がっていた。床を貫通した後ここでずっと放置されていたのだろう。 「――確か……尋問したのはガニーとマンティス、それにあんただったよな?」  上から声が聞こえる。これはフレイムの声だ。 「ああ、そうだ。それがどうかしたか?」  こちらはキーパーの声。何の話だろうか? 「その時、ブリッジは何か仄めかしたりしなかったのか? 殺される理由になりそうなことをよ」  キーパーの方から足音。どうやら立ち位置を少し変えたようだ。 「……いや。ただ――――を聞いただけだ」 小声でよく聞こえない。グッドラックがいるから、聞かれないようにフレイムに近づいたのだろう。美夜子は聴覚も嗅覚と同じく良い方だ、集中して聴けば大まかな流れくらいは把握できるだろう。  今のは……「ただ頼まれたことを聞いただけだ」、そんな風に言っていた気がする。ガニーが言っていた、今回のブリッジ誘拐の依頼人から頼まれた……ということだろうか? 彼らはブリッジから何かを訊き出そうとしていた? 「ふん、――そもそも――――が怪しいんじゃねぇの? なんで――」 「その――――ガニーが説明――だろう」 「まぁな……。でもよ、誰も――ねぇんだろ?」 「珍しい話でもない。余計な詮索するな。俺たちはガニーに従うだけだ」  そこでキーパーの声がはっきりとする。どうやら話をそこで打ち切る気になったらしい。 「へっ、わかったよ……」  フレイムがそう返して、話はそこで終わったようだった。  ……聞き取れた会話の断片から、本来のやり取りを考えてみる。  まずフレイムの言葉。「そもそも」「怪しいんじゃねぇの?」「なんで」――意味のある言葉として聞き取れたのはこの三つだ。直前のキーパーが言っていたことが依頼人からの頼まれごとなのだとしたら、フレイムのこれらの言葉も依頼人に関するものだと考えられないだろうか? フレイムは依頼人への疑念を表明したのかもしれない。とすれば、「なんで」というのは「なんでガニーは仕事を受けたのか?」というような文になりそうだ。  次のキーパーの言葉はどうだ? 「その」「ガニーが説明」「だろう」、聞き取れたのはこれだけだが、これは比較的再構築がしやすいように思える。「そのことなら、ガニーが説明していただろう」、おそらくこれで文意に大きな違いはないはずだ。ガニーには依頼人の仕事を受けた特別な理由があったのかもしれない。  次はまたフレイムの言葉。「誰も――ねぇんだろ?」、間には何が入る? キーパーの言葉を受けて「まぁな。でもよ」ときてからのこれだ。これまでの流れを前提とするなら、ガニーが依頼人の仕事を受けた、すなわち信用した理由を説明していたというキーパーに対して「まぁな」と返した。しかしそこから「でもよ」と更に、フレイムが考える「依頼人が信用できない理由」を付け足したのだろう。  そして次のキーパーの言葉、「珍しい話でもない」。おそらく、アンバークラウンにとっては珍しい話ではない……というニュアンスか。グループではなく裏稼業全体を指しているのかもしれないが。  ……わかった。おそらくフレイムの言葉は「誰も会ったことがねぇんだろ?」だ。「ガニーが説明したような理由があるとはいえ、直接の面識がない怪しい相手の依頼を引き受けて良かったのか?」ということをフレイムは言いたかったのだろう。推測でしかないから、確実にそうだとは言えないが……。 「おい、まだか? いつまで支えてりゃいいんだ?」  下からガニーが催促する声が聞こえる。ここはもう充分だろう。美夜子は点検口を閉じ、脚立を降りた。 「やっと終わったか。おせぇからケツ揉んでやろうかと思ったぜ」 「蹴りますよ?」 「で、何か発見あったのかよ?」 「まぁ……あったといえばありましたけど」  ガニーが依頼を引き受けた理由が気になるが、依頼人のことは既に釘を差された後だ。素直に答えてくれるとは思えない……が、試すだけ試してみようか。 「実は今、上の部屋から話している声が聞こえて――」  「ブリッジへの尋問で何を聞いたのか」ということから迫るのは……直接的すぎるか? そこはとりあえず伏せておこう。あくまで依頼人の素性だけに狙いを絞り、断片的にしか聞こえなかったという部分は隠して、補完した内容をガニーに伝える。どこか間違っているなら指摘されると思ったのだが、ガニーは小さくため息をつくだけだった。 「ったく、迂闊な野郎どもめ……」  ガニーの反応を見る限り、少なくとも不自然には思われていないようだ。 「――確認しておきたいんだが、名前は聞いたのかよ。依頼人様の」 「実はそれも聞こえちゃって」 「言ってみろ」 「え~っ、と…………うにゃにゃにゃさん?」 「なんて?」 「…………ん~ふふ、忘れちゃいました」 「お前な?」  流石にこんなハッタリは通じないか。盗み聞きした内容ははっきり聞こえなかったとはいえ、二人とも具体的な固有名詞は出していなかったように思う。まさか床下から盗み聞きされるとは思っていないだろうが、万が一グッドラックに聞かれた場合を考えて、そこは気をつけていたのかもしれない。  ガニーは少し安心したように言う。 「……名前を出してねぇならギリセーフか。フォックスといい、コンプライアンス意識ってやつが欠けてやがる」 「フォックスさんも何かあったんですか?」 「……ブリッジを拐ってくる時にちょっとな。あいつに車の運転をさせてたんだが、もうすぐアジトに帰りつくってところであのバカ、話の流れで無用心にも依頼人の名前を口に出しやがったんだよ。後部座席にブリッジがいるのにだぜ? 信じらんねぇよ。ブリッジがまだ気絶していたから良かったものの……」  ブリッジは誘拐される際に絞め落とされて気絶していたという話だった。それを聞いて美夜子の脳裏に一つの考えが浮かぶ。 「……それ、もしかしたらブリッジさんが名前を聞いていたという可能性はありませんか?」 「あ? どういうことだよ?」 「動機に関わる話です。その時に、ブリッジさんが実は気絶から目を覚ましていたとしたら……」 「狸寝入りしてたっていうのか? いや、そんな風には見えなかったけどな」  拉致誘拐のプロが言うならそうなのかもしれない。 「それなら、その時でなくても構いません。ブリッジさんが拐われてからここに監禁されている間、どこかのタイミングでアンバークラウンの誰かから、依頼人の名前を聞いていたとします。そのことで、口封じに殺されたとは考えられませんか?」  ガニーは腕を組み、少し考えてから言う。 「仮にそうだとして、俺にそれを伝えないで勝手に殺した理由はなんだ?」 「自分のミスを隠すためかもしれません。自分がうっかり名前を漏らしてしまったせいで計画が台無しになってしまうとしたら、グッドラック君に罪を着せた上で殺す理由になりませんか?」 「確かに、依頼人の名前は伏せておくように注文はあった。わざわざ言われずとも、トラブルの元になるからこういう時は名前を出すことはないようにしているけどな。もしお前の言うように誰かがミスで名前を漏らして計画を破綻させたのなら、俺はそいつに責任を取らせるだろう。それを避けるために殺したってんなら、許せねぇが理由としては理解できる……が、どうもしっくりこねぇ」  曖昧だがガニーは否定的なようだ。 「そもそも俺たちも依頼人の計画については一部分しか知らねぇんだよ。依頼人の名前がブリッジに伝わったとして、それがどう影響するのかなんてわからねぇ。致命的なことになるのかもしれねぇし、実は大した問題じゃないってこともあり得る」 「でも、わざわざ名前を伏せるように注文があったのなら、深刻な問題になり得ると判断するのが普通なんじゃありませんか?」 「そうなんだけどな……だが、ありゃあどちらかというと…………」  ガニーはそこで言葉を飲み込むと、頭を掻く。 「――っていうかよ、動機なんざどうでもいいんじゃねぇか? 殺す理由があったところで、殺す機会がないんじゃどうしようもないんだぜ?」 「そうですけど……今なにか言いかけませんでした?」 「さぁな」  いや明らかに何かはぐらかしたでしょ……とは思うものの、ガニーの言う通りではある。密室内のブリッジを殺す方法を解き明かさない限り、動機を説明しても意味はない。  とりあえず、美夜子は別の角度から質問してみることにした。 「ちなみに……チームの誰も会ったことがない相手からの依頼を引き受けた理由って、何だったんですか?」  ガニーは鼻で笑う。 「さりげなく訊いてみたってとこだろうが、無駄だ。依頼人に関する情報はもう渡さねぇって言ったろ?」 「まぁまぁ、そこをなんとかなりません?」 「もっかい乳揉ませてくれんなら、考えてやってもいいけどよ~?」  ガニーはにやけながら、美夜子の胸の前で手をワキワキ動かす。 「本当に教えてくれるなら……」 「えっ」  美夜子は目を細めて、意外そうにするガニーの顔を見上げた。 「教えてくれるんですよね? 違ったらさっき押し倒されたときの十倍ひっぱたいて、アレも蹴り上げますけど」 「あー、いや。考えてみるって言っただけだから……無理なもんは無理だ! がはは」  ほんとに殴ったろかこいつ。 「はぁ……もういいです。そろそろ出ましょう」 「もういいのか? ここを調べた成果はどうなんだよ?」 「んー……」  美夜子は斜め下に視線を落としながら、髪を掻く。 「半分は順調、もう半分は……ある意味では発見はありました」 「んぁ? 何の謎掛けだ?」  ガニーはその発言の意図を尋ねようとしたようだったが、その前に美夜子が続ける。 「ところで質問なんですけど、ブリッジさんを拐って連れてくる前、監禁部屋は誰でも入れる状態だったんでしょうか?」 「お? おう。そうだな。俺たちは一昨日の昼からここに集まって準備を始めていた。それから昨日夕方にブリッジを拐ってくるまでの間、監禁部屋には鎖も鍵も付けちゃいなかったし、見張りも立ててねぇ。入ろうと思えば誰でも入れただろうよ」 「なるほど。逆にブリッジさんをここに連れてきた後は、南京錠の鍵を預かっている見張り部屋の担当者、それとグッドラック君を運び入れたフレイムさんくらいしか監禁部屋に入る機会はなかった……という認識で良いですか?」  ガニーは頷く。 「他のやつをわざわざ部屋に入れる理由はねぇからな。それで問題ねぇんじゃねぇか? ――あーそうそう。言ってなかったと思うが、そん中にゃ俺とキーパーも入ってるぜ。拐ってきたブリッジはまず俺とキーパー、それとマンティスで監禁部屋に連れていったんだ」  そうだと思った。その三人で尋問をしたという話を先ほど聞いたばかりだ。 「あの拘束を施した後、マンティスに鍵を預けて見張り部屋を任せた。そっから先はお前の知る通りだ」  先ほど盗み聞いた話とすり合わせるとガニーとキーパー、マンティスがブリッジを監禁部屋に連れていき、拘束をした後で尋問を行い何かしらの情報を得たということだろう。それから先……見張り部屋の担当はマンティス、タミアス、フォックスの順だった。 「わかりました。教えてくれてありがとうございます」  そう言いながら倉庫を出ようとして、美夜子は足を止めた。前を歩く美夜子が急に立ち止まったので、ガニーはつんのめりそうになる。 「おい、何――」 「しっ……」  美夜子は人差し指を口の前で立て、もう片方の手を耳の後ろに添えた。  倉庫の入り口にはドアが付いていないので、廊下の音が聞こえやすい。……足音、誰かが近くまで来ている。近づいてきていた足音は一度止まった後、引き返すように遠ざかったようだ。  追うように廊下に出ると、リビング側へ戻ろうとする男を見つける。タミアスだ。 「待ってください」  呼び止められたタミアスは、フォックスの部屋を通り過ぎたあたりで振り返り、美夜子とガニーの姿を見て気まずそうな表情を浮かべる。先ほどはまだ顔が赤かったが、酔いはだいぶマシになったようだ。 「おっ、おお。リーダーと……ナイツの人かい」 「タミアスさん。そろそろ来る頃だと思っていました。待っていましたよ」  美夜子は片手を腰にあて、ニヤリと笑う。 「待っていた……?」  タミアスは緊張したような面持ちになった。 「ところで今、倉庫の方を覗こうとしていましたよね? 何か用があったんじゃないですか?」 「い、いや。明かりがついてっから誰かいるのかなと思っただけで」 「ふーん……じゃあ、本当は何をしにここに来たんですか?」 「ト、トイレに……」 「いや、トイレは奥の方ですよ? 帰ろうとしていたように見えましたけど」 「それは……」  タミアスは口ごもってしまう。するとガニーが苛ついたように怒鳴った。 「おい、てめぇ何か怪しいな? なんでここに来たのかって訊いてんだよ!」 「ひっ……お、落ち着いてくれよガニー。俺はただ、フォックスの様子を見に来ただけなんだ。ほら、体調悪そうにしていたから心配になっちまってよ」 「ほぉ……お前がそんなに奴のことを気にかけていたとはな」  ガニーは疑いの視線をタミアスへ向ける。それに同調するように美夜子が言った。 「実はあたしたちもさっきまでフォックスさんの部屋にいたんですよ。――あれれ? でもおかしいですよねぇ? さっきあたしが声をかけた時、タミアスさんはフォックスさんの部屋を通り過ぎて帰ろうとしていましたよ? 彼が心配なら、すぐ部屋を訪ねればいいのに」 「あっ、いや……」  タミアスと美夜子たちはちょうどフォックスの部屋のドアを間にして立っていた。美夜子はたじろぐタミアスを更に追い詰めていく。 「タミアスさん、正直にいきましょ? フォックスさんと秘密の打ち合わせをするために来たんですよね? でも、誰かに聞かれると都合が悪いから、あたしたちが隣の倉庫にいるとわかって一旦仕切り直そうとした。違いますか?」 「……なんでそう思うんだよ?」  隠しておくのも手だが……この状況では説明したほうが話が早そうだ。美夜子はフォックスの部屋のドアを開けて、中の様子をタミアスに見せた。 「えっ……? なっ……!?」  フォックスの遺体を見て、タミアスはまず困惑し、続いて怯えたような表情を浮かべた。その反応が生のものなのか、それとも演技なのかは見ただけでは判別できないが。 「あたしたちが来た時、既にフォックスさんは死んでいました。あなたが来るとわかっていたのは、彼のスマホに残されていたあなたからのメッセージを見たからです」 「し、死んでるって……フォックスは、殺されたのか?」 「……それはまだ調べているところです」  そう言って美夜子はドアを閉めた。今は必要最低限の情報だけ渡して様子を見る。 「タミアスさん。あなたがフォックスさんに送ったメッセージはこうです。『さっきの話、もう少し詳しく打ち合わせしておこう。後でそっちに行く』。さっきの話、というのは? いったい何の打ち合わせをするつもりだったんですか?」 「…………あんたにゃ関係ない話さ」 「ダメダメ、それは通りませんよ」  美夜子は人差し指を振りながら言う。 「さっきってことは、ブリッジさんが死んでいるのを見つけた前後のことであるのは間違いないでしょう。そこで話した内容が、あたしに――事件と無関係であるはずがない」 「うっ……!」 「そういえば、監禁部屋で皆さんからそれぞれの動きを教えてもらおうとした時、タミアスさんとフォックスさんは何か内緒話をしていましたよね。話っていうのはそのことなんじゃないですか? あの時、二人は口裏を合わせて事件に関するある事実を隠した。そうでしょう?」 「へ、へへ。あまり調子に乗るんじゃねぇぞ? ある事実ってなんだ? 俺たちに、隠す必要があることなんてねぇよ!」  タミアスが何かを隠していることは明らかだ。悪あがきに悠長に付き合うこともない、手早くケリをつけよう。  美夜子はタミアスを冷静に見つめ、淡々と話し出す。 「二人が隠している事実とは、フォックスさんの実際の動きに関することです。フォックスさんは、見張り部屋でグッドラックがブリッジさんを刺す瞬間を見ていたと言いました。でも、それは嘘。なぜならフォックスさんは、その瞬間、見張り部屋にいなかったから」 「なに……っ?」  驚きの声を発したのはガニーだった。 「どういうことだ、禊屋? フォックスの野郎が見張り部屋にいなかったってのは……」 「犯行はフォックスさんが見張り部屋を離れた僅かな間に行われたんです。だからフォックスさんの説明には不自然な点があった。実際には見ていない場面を想像で語ったからです」 「さっき言っていた、正面からナイフを刺したのはおかしいってやつか」  美夜子は頷く。 「そう。そしてフォックスさんが見張り部屋を離れたのなら、当然それをタミアスさんは目撃していなければおかしい。タミアスさんの部屋の前の廊下、見張り部屋のドアがよく見える位置に座っていたんですからね」 「そうかもしれんが、こいつはあの時まだ酒に酔った状態だっただろ? フォックスが出ていくのを見逃したって可能性はあるんじゃねぇか? 俺らと合流したときと同じく自分の部屋のドアを背に座っていたとしたら、階段側……見張り部屋とは逆の方向を見ていたってこともあり得る」 「ゼロとは言いませんが、それは考えづらいと思います。理由は二つ、まずあの時タミアスさんの意識ははっきりしていたようですし、本人も少し頭痛がするだけだと言っていました。注意力はそれほど低下していなかったと思います。二つ目は見張り部屋の手前……三方向の分岐点となるあの部分の床は通るたびに軋んで大きな音が鳴りますよね? だからたとえタミアスさんが逆方向を見ていたとしても、そこを誰かが通れば音で気づいたはずです」 「……確かにそうかもな」 「でもあたしが尋ねた時、タミアスさんからそんな話は一切出てこなかった。それどころか、フォックスさんが一階に降りていくまではずっと見張り部屋にいたかのように話してくれました」 「そのことをフォックスの野郎に口止めされて、口裏合わせてたってことか……」  ガニーは威圧感のある視線をタミアスに投げかける。 「お、落ち着いてくれよガニー! そいつの言ってることはただの憶測だ。よくわからんが、フォックスの説明がちょっとおかしかったってだけだろ? それだけでそんな――」  美夜子は首を横に振る。 「いいえ。もちろん他にも根拠はあります。なぜフォックスさんが部屋を離れたのか、あたしにはわかりますよ。その理由は――これです」  コートのポケットから、キッチンタイマーを取り出す。 「フォックスさんのズボン、そのお尻のポケットに入っていました。フォックスさんは見張り部屋でこのタイマーのアラームを聞いたんです。見張り部屋の隣にあたる休憩室の壁には、白いビニールテープで何かを貼り付けたような跡がありました。このタイマーの裏面に同じテープの切れ端が付着していたことから、壁に貼り付けられていたものはこれでしょう。おそらくこういうことがあったはずです。  フォックスさんはアラームの音を壁越しに聞いて、何事かと思い休憩室へ向かった……そしてビニールテープで貼り付けられたタイマーを剥がしアラームを止めた。タイマーは元々休憩室にあったものですが、慌てていたからか手に持ったまま見張り部屋に戻ったんでしょう。その際にブリッジが死んでいるのを見つけてしまったから、タイマーを休憩室に戻すタイミングがなくお尻のポケットに入れて、そのまま忘れていたんだと思います」 「……くっ」  タミアスは苦み走ったような顔で美夜子を睨みつける。 「……そんな仕掛けを、誰が何のためにやったってんだよ?」 「順当に考えるなら、ブリッジさんを殺した犯人でしょうね。殺す瞬間を目撃されないように、フォックスさんを見張り部屋から引き離す必要があったはずです」 「ぬぅ……」  タミアスは低い唸り声を上げながら考え込んだかと思うと、ふと目を見開いた。 「……まだわかんねぇ」 「何がですか?」 「あんたは、そのタイマーが休憩室の壁に貼り付けられていたんだろうって説明したよな? でもそれってよ、事件とは無関係なただのいたずらかもしれないぜ?」 「何の意味もないただのいたずらだと言うんですか? いや……それは考えづらいですよ。そもそも誰かがそんないたずらしたという根拠でもあるんですか?」 「それは……まぁ、ねぇけどさ……。でも可能性はゼロじゃないだろ? 確かにフォックスは壁に仕掛けられたタイマーのアラームを止めたのかもしれない。だが、それが事件の直前だったってなぜわかる? ブリッジが死ぬよかずっと前にフォックスはタイマーをポケットに入れていたのかもしれねぇじゃねぇか」  ……そう来たか。必死に考えて反論を絞り出したのだろうが……。 「残念ですが、それは無理があります。フォックスさんはフレイムさんが食べるカップ麺を用意する際にタイマーのアラームをセットしています。そして、そのアラームの音を見張り部屋から聞いている。アラームは一階から戻ってきたフレイムさんにすぐに止められたので、フォックスさんは触れていないんです。その話は監禁部屋でタミアスさんも聞いていましたよね?」 「あっ!」  タミアスは「そういえばそうだった」、とでも言うようにハッとした。 「フォックスさんがタイマーをポケットに入れたのはその後であることは間違いないんです。つまり、殺人が発覚する直前のタイミングしかない。  ちなみにこのタイマーにはアラームのリピート機能が付いていて、直前のアラームを再現して設定することができるんです。あたしたちがこのタイマーを見つけてすぐリピート機能を使ったところ、アラームは10分に設定されました。アラームが鳴る前に取り消した場合は履歴として残らないので、直前に10分の設定でアラームは確かに鳴ったはずなんです。カップ麺を作るのに10分待つ人はいません。この10分の設定が使われたのは、壁にビニールテープで貼り付けられた時――フォックスさんを誘い出すための陽動作戦だったと考えられます。  それともう一つ。あたしたちが見つけた時、タイマーのアラーム音量は最大の4に設定されていました。さっきも話したようにアラームは通常の音量でも休憩室から見張り部屋まで聞こえることはフォックスさんの証言からわかっています。最大音量なら壁越しとはいえかなりうるさかったでしょう。そうしてフォックスさんは、悪いとは思いながらも見張り部屋を離れてしまった。犯人の思惑にまんまと乗せられてね」  美夜子の推理に対し、タミアスは流石に無謀な主張を引っ込めざるを得ないと判断したようだった。 「…………わ、わかった。正直に言うよ。フォックスは確かに部屋から出てきた。休憩室からアラームの音が聞こえてきて、それを止めに行ったんだろう。俺はそれを廊下に座って……見ていた」 「やっぱり、そうだったんですね」  そこでガニーがタミアスに掴みかかる。 「おいコラっ! なんでそんな大事なこと黙ってやがった!?」 「ひぃっ! いや、だって……そ、そうだ。フォックスはすぐにアラームを止めて見張り部屋に戻っていったんだよ!」 「すぐって、どれくらいだよ?」 「じゅ、10秒くらい? あんな短い時間でブリッジをどうこうするなんて無理だ! だから――」 「だから黙っていても問題ないだろうと思ったってか? ふざけやがって……」  フォックスはすぐにアラームを止めて見張り部屋に戻った? ……いや、そんなはずはない。 「タミアスさん。あなた、まだ嘘ついてますよね?」 「はぁ!? ううう嘘って、なんのことだよ……!?」  タミアスはしどろもどろになっている。 「このタイマーはビニールテープで壁に貼り付けられていたはず――あたしは確かにそう言いましたけど、その貼り付けられていた場所がどこだったかは言っていませんでしたね。実はその痕跡を見つけたのは、キャビネットの下の僅かな隙間でした。部屋をさっと眺めたくらいじゃ見つけようもない場所に隠してあったんですよ。そもそもタイマーがそんな風に隠してあると想定していたわけでもないでしょうから、フォックスさんは簡単には見つけられなかったはずです。部屋を埋め尽くすほどの大音量で鳴っている分、音で場所を探るのも難しかったでしょうね。しかもビニールテープは何重にも貼られていて、剥がすのも一苦労だったと思います。これはどう考えても、10秒程度で収まるはずがない。最大限早く見積もっても、1分はかかったと思いますよ」 「うぅ……っ」 「見張り部屋を1分以上離れていたとしたら、ブリッジさんが殺される瞬間を見逃していてもおかしくない。見張り役としては重大な過失です」  ガニーがタミアスの胸ぐらを掴んだまま睨みつける。 「……そうなのか?」  タミアスは顔に冷や汗を浮かべながら、ぎこちなく頷いた。ガニーがタミアスの顔面を殴る。殴られた方は短い悲鳴を上げながら派手に倒れ込んだ。 「ちょちょ、ガニーさん抑えて!」  美夜子は慌てて声を上げる。ガニーは殴った手に付いた鼻血を振り落としながら言った。 「わかってる、殺しゃしねぇよ。まだ訊くことがあるからな。……おいタミアス、お前もわかってんだろうな? この先一つでも嘘ついてみろ、ケツから食事する人生送るハメになるぜ」 「ひぃぃっ! す、すみませんでしたぁ……!」  タミアスは恐れ慄いた声を上げ、土下座をする。鼻血を拭うこともせず床に額を擦り付けていた。ガニーが言っていることがどういう状態を指すのかはよくわからないが、とにかくタミアスは彼の脅しに心の底から怯えたようだ。 「まず最初に答えろ。フォックスと約束していたことってのは何だ?」  ガニーの問いに、タミアスは素直に答えた。 「その女が言った通りだ……。フォックスが見張り部屋を離れたのを、俺は見ていた。そのことを黙っていてくれとフォックスに頼まれたんだ、あの時、監禁部屋で。後で金をくれるって言うから……俺は引き受けた。ここに来たのは、金はいつ受け取れるのかとか、具体的な受け取り方とかを決めておこうと思って……」 「本当にそれだけか? また何か隠してっと――」 「本当だ! もう嘘は言わない! 本当に本当っ!」  タミアスはガニーを見上げながら必死に訴える。内容にも矛盾はないし、その様子からも嘘はついていないように見える。 「そもそも、なんでフォックスはそんな大事なことを黙ってやがったんだ?」 「それは……見張り部屋から離れたことを咎められると思ったかららしい。だって見てようが見ていまいが、状況的にはあのグッドラックってやつが犯人で間違いないんだろ? 南京錠の鍵はガニーが持っていたんだもんな? だったら正直に話すだけ損だって言ってた。俺もそうだなぁと思って、フォックスの頼みを聞いてやったんだよ」 「咎められるって……」  ガニーは呆気に取られたようだった。 「多分ですけど、フォックスさんは恐れたんです」  美夜子が代わりに答える。 「恐れた?」 「もちろんガニーさん、あなたをです。タイマーの陽動トラップが誰かの悪意によって仕掛けられたものだったとしても、フォックスさんはそれにまんまと騙されて、ブリッジさんが殺される瞬間を見逃してしまった。その時点でフォックスさんにとっては、事件の真相なんかよりも、なんとかしてそのミスを誤魔化すことの方が大事になってしまったんです。それほどに、あなたから罰を受けることが恐ろしかったから」 「そんな馬鹿なことが――」 「あたしはおかしいとは思いません。だってあたしが最初に彼を見た時――見張り部屋でのあなたの彼への振る舞いからして、日頃からああいう感じだったと容易に想像がつきます。あなたに殺されるかもしれないって思考は、確実にあったと思いますよ」 「……使えねぇどころじゃねぇ、どこまでド阿呆なんだよッ! クソがッ!」  ガニーは苛立って壁に向かって拳を打ち付けた。  美夜子は考える。タイマーを仕掛けたのが犯人であるならば……その人物はフォックスが見張り部屋を離れた事実を秘匿し、ひいてはグッドラックがブリッジを刺したと証言するということまで計算していたのだろうか? だとすれば……恐ろしいほどに人の心理を読むことに長けている。  ……ともかく、タミアスから引き出せるだけ情報を引き出しておこう。 「タミアスさん。あなたが見聞きしたものについてもう少し詳しく教えてください。休憩室から鳴り出したアラームは、あなたにも聞こえていたんですね?」  タミアスは床に膝をついたまま、ようやく鼻血を拭って答える。 「あ、ああ。酔い醒ましに廊下に出て、少ししたくらいだったよ。突然アラームの音が休憩室の方向から聞こえてきて、いつもより大きな音だったんで妙だなとは思ったんだが……タイマーのアラームなら誰かが部屋にいるんだろうから、そいつが止めるだろうと。わざわざ見に行くのも面倒だったんで、そのまま座っていたんだ。でもなかなか音は止まらなかった。そしたら見張り部屋からフォックスが出てきて、休憩室に入っていった。アラームの音はそれから1分くらい後に止まったよ。なんですぐに止めなかったのかと思っていたけど……あんたの言う通り、隠してあったのなら納得だ……」  やはりタミアスは実際にタイマーが仕掛けられていた光景は見ていなかったのだ。 「フォックスはしばらくしてから休憩室を出て、見張り部屋に戻っていった」 「待ってください。しばらくしてからって……フォックスさんはアラームを止めてすぐに戻ったわけではないんですか?」 「ああ。アラームが止まって、そっから更に2分くらい経ってからだ。部屋から出てきたのは」 「2分も?」  そこへガニーが割り込んで言う。 「タイマーがそんな風に仕掛けられていたことを不思議に思って、その場で考え込んでいたってところじゃねぇか?」 「……確かに、フォックスさんにとっては奇妙な出来事だったはずですから、それはあり得ますね」  美夜子は指先で顎を撫でつつ少し考え込んでから、タミアスに「続きを」と促す。男は応じて話し出した。 「フォックスは見張り部屋に戻った後、少ししてからまた出てきた。たいそう慌てた様子で廊下を走っていって……そのまま階段を降りていったよ。何かあったのかと思ったけど、頭も痛むし、まぁいいかって……」  フォックスは見張り部屋の窓越しにブリッジが死亡しているのを見つけて、ガニーに報告しに行った。そこまでは良いとして、彼はブリッジが殺される瞬間を目撃していないことを隠すために、グッドラックが刺したと嘘をついたのだ。 「それから先のことは、前に話したのと同じだ……」 「同じということは……フォックスさんが一階へ降りている間も、タミアスさんは自分の部屋の前で座っていた。そしてフォックスさんがガニーさんやあたしたちを連れて戻ってくるまで、他には誰も見かけなかったんですね?」 「そうだ。フォックスが階段を降りていった後、戻ってくるまで様子を見ていたから間違いない。あんたの言う通り、後ろで見張り部屋前の床が鳴る音も聞こえなかったしな」  美夜子はやや目を細め「ふぅん……」と頭を掻きつつ、少し考えてから――幾分表情を緩め、タミアスに言う。 「……わかりました。お話はとりあえずこれで充分です。あたしたちはこれから二階をもう一度調べにいくので、タミアスさんも一緒に戻りましょう。フォックスさんがああなってしまった以上、用事はもうないですよね?」 「あ、ああ……」  一階で調べるものはとりあえずこれで充分だろう。少しずつ推理は進んできているが、まだ謎は残っている。もう一度、二階を調べてみることが必要だ。  美夜子たちが二階へ移動するため階段に差し掛かったあたりで、美夜子のイヤホンに通信が入った。 『禊屋。電話をしていてそちらの様子が聴けなかったが、どうだ?』  乃神の声からはやや疲れが感じられた。 「う~ん……あともう少しって感じかな。こうかなっていうのはあるけど、決め手に欠けるというか。んで、これからもう一回二階を調べにいくところ」 『そうか。一応こちらも監視は続けていたが、外で不審な動きは見当たらなかったことは報告しておく。スパークが見張りの巡回を続けているだけだな』 「わかった。それで、さっきの電話の内容は?」 『いや、今回の任務とは無関係の報告だった』 「うん? 大した話じゃなかったってこと?」 『そういうわけでもないんだが……とにかく、今は眼前の事件の解決に集中してくれ。終わってから話す』  乃神はどこか歯切れが悪い対応だ。まぁ、彼がそう言うのならこちらとしては従うしかない。  話しているうちに、二階のタミアスの部屋の前まで来た。あまり勝手に動き回られても困るので、部屋から出ないように言い含めておく。 「あたしたちが呼ぶまで部屋でじっとしていてください。もし誰かに尋ねられても、フォックスさんのことも含めて、事件に関係することは誰にも話さないこと。いいですね?」  美夜子に部屋へ押し入れられながら、タミアスは「わかった、わかったよ」と言ってドアを閉めた。 「――それで? 今度は何を調べるつもりだ?」  ガニーが小指で鼻をほじりながら尋ねる。美夜子は廊下の北側へ向き直って言った。 「休憩室をもう一度見ておきたいです」 「さっき調べたじゃねぇか。なんか見落としがあったのか?」 「そんなとこです。っていうのも――」  美夜子が続けようとしたところで、ガニーのスマホに着信が入った。「ちょっと待て」と言ってガニーが応答する。 「――おう。どうした? んぁ? …………おお。そうか」  ガニーはスマホを美夜子に差し出す。 「スパークがお前に話しておきたいことがあるってよ」 「あたしに?」  事件に関係することだろうか? 美夜子はスマホを受け取る。 「代わりました、禊屋です」 『ああ、探偵さん。さっき話し忘れたことがあったのを思い出したんだ。事件解決に役立つかはわからないが……一応伝えておいたほうが良かろうと思ってね』 「何があったんです?」 『マンティスのことだ。鍵を開けてやった話は本人から聞いたか?』  鍵? 何のことだろう。 「いや、聞いてません」 『何か後ろめたい様子だったからもしやと思ったんだが、やはりか。あいつに頼まれて裏口の鍵を開けてやったんだよ』 「それはいつのことですか?」 『ええと……ブリッジの騒ぎが起こる少し前だ。俺が二階から水を取ってきた後トイレに向かったって話はしただろう? その時、外の見張り番だったマンティスから電話があってな。「トイレに行きたいから裏口の鍵を開けてくれ」と言われた。だからそうしてやったんだ。いっときでも見張りを抜けたことがリーダーにバレたら殴られるから黙っておいてくれとも言われたよ』  スパークが二度目のトイレに向かった時のことだ。あの時、マンティスが裏口から中に入ってきていた……。裏口のドアはオートロックで無理に開けようとするとガニーに通知が入る仕組みになっているが、建物の内側からドアを開ける者がいれば、それに合わせて外にいる者が入ることは問題ない。 『マンティスのやつは女子トイレの方を使うと言うんで、俺はいつも通り男子トイレの方を使ったよ。俺はそのまましばらく腹痛と戦っていたから、マンティスが見張りに戻るところは見ていない。だが……』 「だが、なんです?」 『俺は先にトイレに入ったんだが、続いてあいつが女子トイレに入った気配がなかったような気がしてな。誰かと用を足すタイミングが重なって二つのトイレを同時に使うってことはたまにあるんだが、そうなるとどうしても隣の音が聞こえてしまうようになっているんだよ。だがその時はそういう音がしなかった。汚い話で申し訳ないが』 「なるほど……だからマンティスさんはトイレに入らなかったかもしれないと」  トイレを使わなかったとすると、マンティスは何のために建物内に入ったのだろうか……。 『まぁ、音に関しては俺が腹痛の苦しみで気づかなかっただけという可能性もあることは押さえておいてくれ』 「わかりました。ちなみに……もしマンティスさんがトイレに入らなかったのなら、目的は何だったと思いますか?」 『さぁ、それはわからない。ただ、妙に焦っていた様子だったな。早く見張りに戻らないとリーダーに見つかるかもしれないと思ったのかもしれんが。あとは……トイレに向かう途中でスマホを見ていた、かな?』  ……明らかに怪しい振る舞いだ。マンティスが実際に何を目的としていたのかは、事件において重要な意味を持つかもしれない。 『――それと、話は変わるんだが……』 「まだ、何か?」 『微妙な感覚の話なんで言おうか迷っていたんだが、ついでだし伝えておこうかと思ってな』 「気になったことは何でも教えてください」  スパークは『では遠慮なく』と言い、続ける。 『ブリッジが殺されていた現場に入った時、薄っすら違和感のようなものがあった』 「違和感?」 『そう感じたというだけなんだ。違和感の原因があったとして、具体的に何がおかしいって気づいたわけじゃない。いや、そもそもあんな死体がある異常な部屋だったんだしな……ただの気のせいということも大いに有り得る』 「……なるほど?」 『……すまん。こんな話を聞かされても困るだけだよな』 「いや、そんなことありませんよ。手がかりになるかもしれません」  曖昧な情報。普通なら参考程度に留めておくのがベターだとは思うが……。 『とにかく、これで俺の話は終わりだ』 「わざわざ伝えてくれてありがとうございました。――そうだ、スパークさんに訊いておきたいことがあったんです」 『なんだ?』 「ブリッジさんのことをマンティスさんへ知らせるために外に出ていかれた時のことなんですけど、途中でどこか寄りました?」  乃神からの報告があった時、スパークが真っ直ぐ外に向かったとすると少し時間がかかりすぎであったことを思い出す。 『一度部屋に戻ったよ。もう腹痛は治っていたんだが、今度は小腹が空いてきちまってな。買っておいたパンを一つつまんでから出たんだ。そんなに時間はかけなかったはずだが……何か問題があったか?』 「いえ、少し気になったんで訊いてみただけです。情報提供ありがとうございました、それでは」 『ああ、何かあったらまた連絡する』  電話が切れたのでスマホをガニーに返す。 「――で、なんだって?」  美夜子はガニーに電話で話した内容をまとめて伝える。 「マンティスの野郎、何か隠してやがんのか……?」 「それは間違いないでしょうね。どんな秘密かはともかくとして」 「ぶん殴って吐かせるか?」 「ノー、すぐ暴力で解決、ヨクナイ」  ガニーが拳を作って息巻くのを美夜子は苦笑いしながら抑えた。 「それと何だっけか? スパークが感じた違和感? お前、それ何のことだかわかるか?」 「うーん……」  美夜子は考え込みながら唇を指先でなぞり、やがて答えた。 「実は一つ心当たりがあって……スパークさんがそう言った理由があたしの考えている通りだとすると、大きな謎が一つ解決します」 「マジかよ?」 「まぁそれはそれとして。先にやっておきたいことがあるんで、そっちに行きましょう」 「お、おい待てって! その無駄に説明を勿体ぶる癖はなんだよ!?」  美夜子は廊下を北側に向かって歩き出しながら、襟のマイクを通して乃神とシミズに話しかける。 「かくにーん。スパークさんに不審な動きは?」  乃神が返答する。 『とくには見られない。電話中は建物の玄関前で立ち止まって話していて、終わり次第巡回に戻ったようだ。電話をする前に何か考え込むような素振りを見せていたが、それくらいだ』  不自然な動きとまでは言えない。 「じゃあ彼が話していた内容についてだけど。二人はどう思う?」 『信用できると思います』  シミズが言う。 『マンティスに関しては外の見張りをしている途中、我々の監視範囲からしばらく消えていたという事実がある。裏口のある建物西側面はまさに監視上の死角であり、その間に屋内で何かをしていたとするなら、タイミングも一致しています』 「うん。問題は、何をしていたか……だけど」 『本人に問い詰めますか?』  それが手っ取り早いが、タミアスの時のように手がかりが揃っているわけではない。もう少し様子を見たほうがいいだろう。 「調査を終えて、必要があればね」  そう言って美夜子は通信を一旦終える。廊下を移動し監禁部屋の前まで来た。ドアを開けて中に入ると、現場の見張りをしているキーパーとフレイムが先ほどと変わりない様子で立っている。美夜子に気づいたフレイムが声をかけてくる。 「おっ、戻ったのか……進捗はどうだ?」 「もう少しってところですかね」 「ひひ……本当かなァ? その言葉が虚勢じゃないことを祈るよ……」 「ちょっと調べたいことがあるので入りますね」  美夜子は再び事件現場に踏み入ると、相変わらず両手両脚を縛られたまま床に転がされているグッドラックのもとに歩み寄った。彼は美夜子を見上げながら、首だけ動かしてぺこりと一礼する。 「あ、禊屋さん。お疲れ様です! その、どうでしたか……?」  美夜子は彼の目線に合わせるようにグッドラックの横でしゃがみ込んだ。 「大丈夫、順調に進んでるよ。そっちはどう? いじめられたりしてない?」 「いや、別に何もされてないっす。ずっとじっとしてたんで……」 「そ、なら良かった」  ちらりと後ろを見てみると、ガニーはキーパーとフレイムから自分がいない間のことについて報告を受けているところだった。そちらの内容も気になるが、今は優先してやっておきたいことがある。美夜子は口元に手を添え、小声でグッドラックに言う。 「グッド君、ちょっと確かめさせてほしいんだけど――」  ――『その確認』を終えると、美夜子は小さな笑みを浮かべながら立ち上がった。 「うん、よし。この情報は君が犯人じゃないって証明に使えると思う」 「えっ……? そうなんすか……?」 「反論材料が一つ増えたってとこかな。普通はこれで充分だけど……そもそも最初の時点で疑問点はあったのにあれだけ言ってだめだったからね。ガニーさん達はまだ納得してくれないかも。やっぱり犯人は見つけ出す必要があると思う――そういえば、これ!」  美夜子はベルトループに通しておいたキャップ帽を取り外し、グッドラックの頭に被せてやる。 「下で拾ったから返しとくね!」 「あ、ども……」  グッドラックはまだ状況をいまいち飲み込めていないようだったが、説明している時間も惜しいので「もう少しだけ大人しくしておいて」とだけ言って、美夜子はドアの方へ向かう。 「あたしたちが離れている間に、何か変わったことはありました?」  見張りの二人に声をかけると、キーパーが答える。 「ガニーにも言ったが、とくに変わりないぞ。退屈なくらいだったな」 「そうですか。じゃあ……あれから何か思い出したりして、あたしに話しておきたいこととかは?」  キーパーはフレイムに「何かあるか?」と尋ねる。フレイムは肩をすくめながら首を横に振った。追加の情報はないらしい。 「それではあたしから質問させてください。マンティスさんが闇金で巨額の借金を抱えていることは知っていますか?」 「マンティスが?」  表情に乏しいキーパーが、僅かに驚いたように目を開く。ガニーが割り込んできて、 「おい、そんな話は俺も初めて聞いたぞ。どこから知ったんだ?」 「うちの優秀な助手から報告を受けました」  美夜子はイヤホンを付けた耳を指す。 「マンティスさんが利用している金融屋がうちの系列店だったのでわかったんです。しかも返済期限がかなり近い。それで皆さん、マンティスさんがどうやって借金を返そうとしていたかの心当たりとか……ありません?」 「今回の仕事で入る金だけでは、その借金を返すには足りないということか?」  キーパーの問いに美夜子が頷く。 「皆さんが今回の一件でいくら稼ぐ予定なのかは知りませんが、おそらくそうです」  ガニーから聞いた話では依頼人から追加の報酬もあるということだったが、それは一週間以内に振り込まれる予定だという。3日後の返済期限に間に合うかはだいぶ怪しい。  ガニーとキーパーは少しの間考え込んでいたが、とくに思いつくことはなかったようだ。 「一昨日の夜……」  一人、フレイムだけが何か思い出したように話し始めた。 「ブリッジの誘拐を決行する日の前の晩……夜遅くに、トイレに行こうとした時のことだ。リビングにマンティスがいてよ。何か話し声が聞こえると思ったら、あいつ電話してたみたいでなァ? 何やらかなり慌てた様子だったぜ。俺が聞いたのは途中からだったし、はっきり聞こえたわけでもないが……『話が違う』とか、『すぐに返すから』とか、マンティスはそんなことを喚いていた。それからすぐ相手の方から電話を切られたみたいだったが……あんたはどう思う?」 「……誰かを頼って、そして借金を断られた……ように聞こえますね」  美夜子の答えを聞いて、フレイムは不気味な笑みを浮かべる。 「ひひ……そうだよなァ? 俺もその時は気にしちゃいなかったんだが、あんたの話を聞いてそういうことかと合点がいったよ」  キーパーが「つまり……」と言いながら両腕を組む。 「その時、マンティスは借金を返すあてを失ったのか。その様子ではかなり切羽詰まっていたようだが……」 「ちなみに、追い詰められたマンティスさんがアンバークラウンの誰かを頼るということは考えられませんか?」  美夜子が質問すると、ガニーが笑いながら手を振った。 「それはないな。うちじゃメンバー間での金の貸し借りは禁止だ。トラブルの元だからよ。そうじゃなくても、そんな大金貸すような間柄の仲間じゃねぇ。あくまでもビジネスパートナーとして集まってるんだぜ、俺らは」 「そうですか……」 「なぁ、おい。マンティスを怪しむ気持ちはわからんでもねぇが、基本的なところに立ち返ってみようぜ禊屋」  ガニーは「何度も説明させんなよ」とでも言いたげに、半ば呆れた様子で言う。 「そもそもの話、あいつはブリッジを殺せなかったはずだろ。マンティスだけじゃねぇ。何度も言ってる通り、ブリッジが殺された時の状況では誰もこの部屋に入れなかったことは確かなんだ。色々調べてわかったこともあるってのは認めるが、結局、ブリッジにナイフを突き刺すことができた奴はそこにいるグッドラックって男しかいねぇのさ。違うか?」 「……そうですね」  美夜子は考え込むように口元に手を当て、少ししてから言った。 「フレイムさん、ちょっと訊きたいことがあるんですけどいいですか?」  壁に寄りかかっていたフレイムの顔だけがこちらを向く。 「あ? ……なんだよ?」 「ブリッジさんが殺されたとわかって騒ぎが起きた時のことです。フレイムさんはこの監禁部屋に来る前、部屋の中で休んでいる最中だったんですよね?」 「ああ。それが?」 「フレイムさんは部屋の外をあたしたちが走っていく足音を聞いて、監禁部屋の方へ向かっていると推測し、様子を見に来たという話でした。その時……というよりその少し前ですが、別の音は聞こえませんでしたか?」 「……?」  フレイムは「なぜそんな質問を?」と表情で語ったものの、思い出そうとはしてみたようでスキンヘッドを手で擦る。 「ふぅん……寝てたんでどうもはっきりしねぇんだよなァ。部屋の外で物音がしたから目を覚ましたんだが……」 「どういう物音だったか、思い出せませんか?」  フレイムは「待てよ……」と記憶を絞り出すかのように眉をひそめてから、やがてハッと息を呑む。 「あーそうだ、アラーム音……! 目覚まし時計みてぇな音がしてたな。部屋の外で鳴ってるのが薄っすら聞こえた」 「なるほど、アラーム音……」  美夜子は「ふんふん」と頷く。 「隣のタミアスの部屋で鳴ってんだろうって思って気にしちゃいなかったんだが……何か関係あんの?」 「どうでしょう……わかりません。それから後はどうです? 何か聞こえましたか?」 「寝直そうと思ったんだが、それから少ししてドタバタ足音が聞こえた。後で知った経緯から察するに、フォックスがお前らにブリッジのことを知らせに一階へ向かっていく時の足音だったんだろうよ。それからまたしばらくして、声がした……何人か……誰のかはわかんねぇよ? ああいや、一人はタミアスの声だった気がする」  ガニーが間に割って言う。 「俺たちがやってきて、廊下でタミアスを見つけた時のことだろうな」 「ああ、それかもな。――後はさっき話した通りだ。どうも何か起こったらしいと俺も気になったんで、この部屋に来てみたってとこだ」  フレイムの話には先に聞き取りした分も含めて一貫性があるようだ。美夜子は「わかりました」と言うと、続けて、 「フレイムさんにお願いがあるんですけど、部屋の鍵を貸してもらえませんか?」 「部屋の鍵? ひひ……誘い文句にしちゃ色気が感じられねぇなァ」 「残念ですが、そーいうんじゃないですから……ちょっと検証したいことがあるんです」 「ほぉ……検証って何のだよ?」  フレイムは不敵な笑みを浮かべて問う。美夜子も同じような表情で答えた。 「すみません、それは秘密ってことで」 「俺のこと、まだ疑ってんのか?」 「さぁ。それはどうでしょうか」  数秒見つめ合い、沈黙の後、フレイムは「ふっ」と鼻で笑う。 「いいぜ。気が済むまで調べろよ。俺はなんにも困りゃしねぇからなァ」  そう言って、フレイムは部屋の鍵をポケットから取り出して美夜子に差し出す。 「ついでに俺の銃も取ってきてくれよ。枕元に置いてあるから」 「別に構いませんよ。調べて問題がなければ、ですけど」  美夜子は鍵を受け取って部屋を出た。 「――どういうつもりだよ。フレイムの部屋なんか行って今さら何を調べようってんだ?」  フレイムの部屋へ向かう途中で、ガニーが美夜子に言う。 「アラームの音です。さっきフレイムさんが言っていたのは、休憩室で鳴っていたキッチンタイマーのアラームのはず」 「ああ、犯人が見張り部屋のフォックスを誘い出すために使ったっていうアレだろ? お前の推理では、だけどよ」 「そう、それでガニーさん、手伝ってほしいんですけど――あ、ちょっと待って」  美夜子は見張り部屋のドアがある廊下の交差点に差し掛かったところで立ち止まり、手を横に出して一歩遅れてついてきていたガニーを制止する。そして角から顔だけをはみ出させるようにして、南側の廊下を覗き込んだ。来た時と変わらない様子の廊下が視界に入る。左の壁に計3つ――フレイム、タミアス、ガニーの部屋のドアが順に並び、真っ直ぐ奥には一階への階段の入口が見えた。  そのまま一歩足を踏み出す――すると床が軋んで耳障りな音を立てた。ここを通る際、いつも鳴っていたあの音だ。足をずらして何度か近くの床を踏んでみたが、軋み音を鳴らさずにここを通るのは不可能のようだ。床板の歪んだ部分を踏まないようにするなら幅跳びのように大ジャンプする必要があると思うが、それはそれで大きな音を立ててしまう。 「…………」  美夜子はじっと、床と自分の足を見つめる。 「お……おい、どうした? 何やってんだ?」  ガニーが困惑したように言う。 「あ、いえ、大したことじゃありません。気にしないでください」 「気持ちわりぃから説明すっ飛ばして何かやり始めるのやめてくんねぇかな……?」 「まぁまぁ、いいからいいから。はい!」  美夜子はコートのポケットからキッチンタイマーを取り出し、ガニーに押し付けるように渡した。 「検証です。あたしがフレイムさんの部屋に入ったら、これ、休憩室で鳴らしてください。見つけた時と同じように壁に貼り付けて、音量はレベル最大で」 「はぁ? なんで俺がそんなこと――」 「んじゃー、お願いしますね! よろしくぅ!」  美夜子はガニーが答えるより先に移動を始め、フレイムから預かった鍵を使って部屋に入った。 「さて……」  ガニーがキッチンタイマーのアラームを準備するまで少し時間がかかるだろうから、その間に部屋を調べておくことにしよう。入ってきたドアを閉じて、美夜子は部屋を見渡す。所感としてはフォックスの部屋と大差なく、必要なものだけ置いてあるという具合だ。ただし床には飲みきった水のペットボトルや食べ終わった菓子の袋などがまばらに散らかっており、綺麗に片づいているというわけでもないらしい。  部屋の左端には安っぽい布団が敷いてある。掛け布団を床に蹴っ飛ばしながら起き上がってそのままのようだ。その傍らには黒のショルダーバッグが転がっており、他に荷物らしいものは見当たらない。バッグの中には小銭ばかり入った財布とプロテインバーが数本、銃器のメンテナンス用品とカスタムパーツの一式を揃えたキット、それに22口径ロングライフル弾が数十発分詰まった弾薬ケースが一箱入っていた。他にも細々としたものが入っているが、特に気になるような代物はなかった。  布団に目を戻す。フレイムが言っていた通り、枕のそばに銃が置いてある。ハンドガン――22口径仕様のM&P、フレイムが一階でグッドラックの腕を撃ち抜いた時に使っていたものだろう。弾の装填を確認したところ、チャンバー内に弾は入っているがマガジン内の弾は最大の10発から1発分減っている。最初はチャンバー内に弾がある状態でリロードしてあったと仮定すると、あの時グッドラックに撃ってからそのままなのだろうか。銃口を鼻に近づけ嗅いでみると、まだ微かに火薬の臭いが残っていた。  フレイムのM&Pはメーカーから販売されている形そのままではなく、多少改造が施されている。グリップには握りを良くするためにレザーテープが貼り付けられている他、照準(リアサイト・フロントサイト)は純正品より大きくノッチが広いものに交換されており、遠くのものを狙いすますよりも素早く標的を捉えることを優先した実戦仕様のカスタムだ。また、暗所での使用を想定したトリチウム蓄光処理が施されている。次に銃口部……サプレッサーやコンペンセイターの取り付けができるように外ネジが切られたアウターバレルに交換されてはいるが、一階でフレイムが使っているのを見た時と同様に、今は何も取り付けられていない。状況に合わせてキットに入っているパーツを装着して使うのだろう。  この銃に不審な点はないようだし、頼まれていた通り、後でフレイムに渡しておくか……。  ――それから少しして、部屋の外から小さくキッチンタイマーのアラーム音が聴こえ始めた。アラームのような高音は低い音と比べて壁に吸収されやすいとも聞く。近くで聴くとあれだけやかましい音だったのが、壁越しだと随分とささやかな印象になる。ここは位置的に休憩室から少し離れているというのもあるだろうが。静かにしていればようやく聴こえるというレベルだが、静かな場所で聞かされるとそれはそれで気になる音かもしれない。  壁で多少は音が吸収されていたはずだとはいえ、休憩室からすぐ隣の見張り部屋でこれを聴かされた場合はかなり気に障る音だっただろうというのは想像に難くない。フォックスがわざわざ見張り部屋を出てアラーム音を止めに行ったというのはやはり間違いないだろう。  後でフレイムに渡すため銃をショートパンツの腰元に挟むと、美夜子は部屋のドアを開けてみた。すると一気に音のボリュームが増したように感じる。休憩室にはドアが付いていないので、音は遮断されずに廊下まで響いてくるようだ。この位置でも日常会話が困難であろう程度にはやかましい。  美夜子は休憩室に入ると、椅子に座って呑気にスナック菓子をつまんでいたガニーに向けて手の親指と人差し指でOKサインを作って、検証の終了を伝えた。  最初に発見した時と同じく、見張り部屋との間の壁にビニルテープで貼り付けられていたキッチンタイマーを剥がし、アラームを止める。 「あーくそっ。うるさすぎて耳がイカれちまったかもしんねぇ」  ガニーは右の耳を手でトントンと押さえながら言う。 「自分で何言ってるか聞こえねぇもん。おい禊屋、何か喋ってみ?」 「やーい。ばーか、あほまぬけ、変態ジャケット、短気おやじ~――いだっ!?」  頭をはたかれた。聞こえてんじゃん! 「それで? 収穫はあったのか?」 「まぁ、多少は」  美夜子は頭を擦りながら、休憩室西側にある窓に近寄っていく。クレセント錠の鍵が掛かっているのは最初に来た時と変わりない。解錠し、窓を開けて前傾姿勢で外に身を乗り出した。 「おおい、危ねぇぞ」 「やっぱりあった! 見てくださいガニーさん!」 「あぁ~?」  ガニーが面倒くさそうに窓に寄ってくる。美夜子は下を指差して言った。 「ほら、あそこ。わかります?」 「ん……足跡か?」  庇の部分に土汚れでできた靴の跡が残っていた。 「一階の裏口から出て外を調べたとき、エアコンの室外機の上にも同じような靴の跡を見つけたでしょ? 誰かが室外機から雨樋のパイプを伝って、ここまで登ってきたんです。そしてこの窓から休憩室に入ってきた。窓の鍵は予め開けておいたんだと思います」  庇から窓までの高さは大人の身長ならば苦も無く登れる程度しか離れていない。ガニーは顎髭を撫でながら言う。 「入ってきたってよ……何のために? わざわざ窓から入んなきゃなんねぇ理由があんのか?」 「あったんだと思いますよ」 「てかそれって、事件と関係あるのかよ? ブリッジ殺しにしろフォックス殺しにしろ、現場とは全然離れた場所じゃねぇか。この靴跡だって今日ついたもんだとは限らねぇ」 「今朝は小雨が降っていました。それより前に靴跡がついていたのなら、流されてしまうか、そうでなくとも靴の跡だと判別できないくらい崩れてしまっていたはずです」 「へっ、そうかよ。だが靴の跡っつっても、はっきり残ってるわけじゃねぇから誰の靴かは見てもわかんねぇぞ。侵入者が誰か、見当はついてんのか?」 「もっちろん」  美夜子は意気揚々と答えると窓から離れ、部屋中央のテーブルそばまで歩くと、周りを見渡すように視線を動かした。 「訊いておきたいんですけど……ガニーさん、この部屋に隠し金庫とかあります? 金庫じゃなくても、何かすごい価値のあるものを隠していたりしません?」 「は?」  ガニーはバカバカしいとでも言うように、半笑いで肩をすくめた。 「んなもんねぇよ。こんなとこに隠す意味ねぇだろ。またお前は唐突にわけのわかんねぇことを……」 「やっぱそうですよねぇ。だとすると、ガニーさんが把握していない代物ってことか……」  美夜子は腕を組みながら片眉を釣り上げ、考える。そして―― 「あたしなら……ここにするかな」  部屋のある場所に向かって歩き出した。 「お、おい。何を――」 「よっと!」  美夜子は掛け声と一緒に、壁に掛かっていたプリント画の額縁を取り外した。その額縁をひっくり返して、裏を見る。 「……ガニーさん、これは?」  美夜子は額縁裏の隙間に貼り付けられていた小さな木箱を指す。筆箱程度の大きさだが、漆塗りの黒に立派な蝶の金蒔絵が描かれた何やら高級そうな木箱だ。蓋の境目は金属でできており、鍵穴が付いている。箱の底面はかなり強力な接着剤のようなもので固着していて、外そうとしてもびくともしなかった。  ガニーは木箱をじっと見てから、首をひねる。 「……知らねぇ。何だこりゃ」  美夜子は箱の蓋に触れてみた。対応する鍵は見当たらなかったが、鍵を差すまでもなく、片側をヒンジで固定された蓋は抵抗なく開く。 「鍵、開いてるみたいですね。中身は……空っぽ」  箱の中には何も入っていない。何かしら痕跡が残っているかもしれないと、じっと観察したり匂いを嗅いでみたりもしたが、特に変わった点はなかった。と、その時―― 「あああぁぁーっ! 思い出したッ!!」  突然ガニーが手を打ち、目を見開いて叫んだ。 「うるさっ! 隣でいきなり大声出さないでくださいよ!」  美夜子が耳を押さえて言うと、ガニーは笑う。 「がはは! 大丈夫か!? 耳がイカれてないか試してやろうか!? 聞こえてますか~っ?」 「う、うざ。じゃなくて、何を思い出したんですか?」 「その木箱だよ! 金の蝶が描かれた漆塗りの箱! な~んか引っかかるなぁと思ったんだけど、思い出したぜ。そいつは俺たちが二ヶ月前の仕事でいただく予定だった物だ」  思い出せてスッキリした様子のガニーは、経緯を話し出す。 「その時の俺らの標的は、ある暴力団の幹部だった。伏王会と小競り合い起こした組でな、これを叩けとアンバークラウンにお鉢が回ってきたんだ。そんで事前調査でわかったことの一つに、標的は3000万円の価値があるとされるアイリーン・ヘンリクスの超高級腕時計を所持しているということがわかった。よく部下に見せて自慢していたらしい」  アイリーン・ヘンリクスといえば、国際的に有名なスイスの高級腕時計メーカーだ。下でも数百万円、上は億にも届くような商品を扱うセレブ御用達ブランドである。 「標的が管理するアジトには組員が10人あまり詰めていたが、俺たちの力があれば落とすのはワケなかった。もちろん標的はすぐには殺さず、資産の在り処をあるだけ吐かせたさ。そして件の腕時計が保管されている、金の蝶が描かれた漆塗りの箱を俺たちは手に入れた。箱の鍵は標的の男が持ち歩いていて、ちゃんと中身も確認できた。後は持ち帰って金に替えるだけだったんだ。だが、そこで予想外の事態が起こった」  ガニーは忌々しそうに舌打ちをする。 「後処理のどさくさに紛れて、プラマーの野郎が腕時計の入った箱を盗んだんだよ」 「確か、以前アンバークラウンにいた、何も言わずに消えてしまったという人ですよね」 「ああそうだ。あのクソボケ、腕時計を持ち逃げして完全に行方を絶っちまった。まぁ、他にも収穫はあったから丸ごと棒に振ったわけじゃねぇけどよ。一番大きな獲物を取り逃がしちまったのさ。あいつ、もし見つけたら生まれてきたことを後悔させてやるぜ……」  ガニーが憎たらしそうに話すのを聞きながら美夜子は「ふんふん」と頷き、そして言った。 「――で、なんでここにその腕時計が保管されていた箱があるんです? 盗まれていたはずなのに」 「え……」  ガニーはきょとんとして、 「……なんでだろうな?」  美夜子は苦笑いを浮かべる。 「ええと……思ったんですけど、これって本当に消えたプラマーさんって人が盗んでいたんでしょうか?」 「あん?」 「誰か別の人が盗んだという可能性はありませんか?」 「待てよ。じゃあなんでプラマーは……――まさか……!」  ガニーは美夜子の言わんとすることを察して息を呑んだ。 「はい。腕時計を盗んだ誰かによって、消されてしまったのかもしれません。自分が疑われるのを避けるために」 「…………」 「どうですか? 状況的にそれはあり得ませんか?」  ガニーは深刻そうに眉をひそめて考え込み、そして言った。 「……可能性は、ないとは言えねぇ。現場にいたやつなら、チャンスはあっただろう」 「その時、一緒にいた人は誰ですか?」 「フォックスはまだ入ってくる前だったんでいなかったが、それ以外の全員が参加していた仕事だ。フレイムはうちでの初仕事だったな」 「フォックスさんも、過去にそういった出来事があったこと自体は知っていたんでしょうか?」 「俺は話した覚えねぇけど、誰かが雑談で言ったのを聞いた可能性はあるだろうな。箝口令(かんこうれい)を敷いてたってわけでもねぇし」 「なるほど」 「――だけどよ、だとしてもおかしくねぇか?」  ガニーは納得いかない様子だ。 「盗んだのが他の誰かだったとしたら。どうしてこんなところに隠してあるんだ? あれから二ヶ月以上は経ってるんだぜ? 盗んだらさっさと金に替えちまえばいいだろ。いや、中身の腕時計はすぐ売り払ったのか? そうだとしても箱をここに隠す理由にはなんねぇよな?」 「……腕時計ごと隠してあったんだと思います」 「そうなのか?」 「……はい。そう考えると、辻褄が合う。今まで不明瞭だった部分に説明がつきます」  だが疑問の全てに答えを見出せたわけではない。ガニーの言う通り、腕時計を盗んだ目的が金ならすぐに売り払ってしまったほうが良かったはずだ。アンバークラウンのメンバーなら適切な売買ルートだって見つけられただろう。そうしなかった理由は……今回の事件に利用するため? ……いや、流石に迂遠すぎる。今回のこの状況を全てコントロールないし予測していたでもない限り、それはあり得ないことだ。何かしらの事情があって保管されたままになっていたものが、都合が良かったから今回使われた……という程度だろう。  美夜子は額縁を一旦テーブルに置き、ガニーに向き直る。 「……うん、よし。とりあえず――これで充分です」 「充分って、何がだよ?」  美夜子は不敵に笑うと、口元の前で人差し指を立てて言う。 「謎は禊ぎ祓われました。犯人と、使われたトリック。どちらもわかりましたよ」 「…………マジか」  ガニーは美夜子をじっと見て真顔で呟いた。 「あれ? 意外な反応。もっと驚くかと思いました」 「ああ、いや、実は俺もちょいと考えてたことがあってよ」 「何をですか?」 「だから……犯人だよ、犯人。はぁ」  ガニーは自分で言っておきながら、どこか納得していないような素振りを見せる。苛立ちを抑えるように頭を掻いて、 「さっきから何度も頭をよぎってんだよ。最初のブリッジ殺し、あいつが犯人だとしたら出来たんじゃねぇか…って。だとしても細かい部分でわかんねぇことはあるんだが……」  美夜子の推理と一致するかはともかくとして、どうやらガニーも一つの答えに辿り着きつつあるらしい。 「――で、お前の推理じゃ誰がクロなんだ?」 「秘密です」 「あぁ!? お前またはぐらかして――」  ガニーにコートの襟へ掴みかかられて、美夜子は両手をホールドアップする。 「うぁ、待った待った! 冗談ですって! あたしの考えは後でちゃんと、絶対に! お話します! んで……それより先にガニーさんにやってほしいことがあるんですけど」  ガニーの手を取り外し、美夜子は咳払いをしてから続ける。 「まず、外にいるスパークさんを含めて全員を監禁部屋に集めてほしいんです。皆さんの証言を照らし合わせながら話がしたいのと、犯人を確実に捕らえるために」 「むぅ……まぁ、別働隊の連中もいるから外の警戒は大丈夫か。いいだろ、連絡しといてやるよ」 「それと、あたしたちが来るまではお互いに事件の話をしないようにって全員に通達しておいてください」 「口裏合わせたりしねぇか心配してんのか? タミアスとフォックスの例があるからな……でも今さらじゃねぇか?」 「そうですね。何の意味もないかもしれませんが、一応、お願いします」 「わかったわかった。それも伝えとく」 「最後にもう一つ。――さんの部屋に――――」  美夜子は『もう一つの頼み事』をガニーに伝える。 「――はぁ? なんでそんなこと……」 「そこで重要な手がかりが見つかるはずなんです。少なくともフォックスさんの事件はそれでほぼ解決します。ブリッジさんの方でも必要にはなると思いますが」 「ふぅん……? 別にいいけどよ。……ともかく、これでようやくこのワケわかんねぇ事件も終わるんだな」  ガニーは近くにあった椅子に腰かけ、ため息を吐いた。想定外のトラブルに、彼も彼なりに疲弊していたようだ。 「……あの、ガニーさん」 「なんだよ」 「まだちゃんと終わってないのに言うとアレかもなんですけど、ありがとうございました。なんだかんだありましたけど、ガニーさんが協力してくれてすごく助かりました。あたし一人ではとても無理だったと思います」 「……へっ、急に律儀になりやがって。キモいぜ」  思ったことを正直に言っただけなんだけど……。 「はぁ……」  ガニーは呆れたのか笑ったのかわからないような表情をする。 「……? どうしたんですか?」 「あー……いや。なんだ、最初はお前のこと、ただの生意気なガキだと思ってたんだがよ。一緒に調べていてわかったことがある。確かにお前には、俺には見えてないもんが見えるらしい。お前が真相に辿り着いたって言うんなら、それは聞く価値がある。そのために俺に協力できることがあんなら、してやるよ」 「ガニーさん……」 「その方が俺にとって得だって話だかんな。それに何もかも信じたってわけでもねぇ。お前の推理に穴があったら遠慮なくツッコミ入れさせてもらうからよ、覚悟しとけ」 「くふふっ、はい。上等です!」  ガニーは照れくさそうに頭を掻いてから、 「じゃあ、他の連中を監禁部屋に集めるぞ」  スマホを取り出して、メンバーに連絡を入れ始めた。美夜子は窓際に向かって歩き、ぼんやりと外を眺めながらガニーが連絡を終えるのを待つ。  ……犯人とトリックはわかっている。この事件が複雑になっているのは、犯人が仕掛けたある罠のせいだ。恐ろしささえ感じるほど人の心の動きを熟知し、コントロールする手腕を持っているこの事件の犯人は、これまで対峙してきた者達の中でも異質な部類だ。  それに、フォックス殺しはともかくとして、ブリッジを殺した動機は未だにわかっていない。それもあるが、何か……何かが引っかかっている。あの罠にしろ、ただ自分への容疑を逸らすためにしては手が込みすぎている。それにどこかわざとらしさがあるというか、あたしがこの事件を解こうとしてくることを前提にしているかのような違和感……。  そのやり口は……まるで…… 「あたしを……試している……?」  美夜子がそう呟いた瞬間、コートのポケットが震えた。スマホに通知が入ったらしい。乃神かシミズから連絡か――いや、それならインカムアプリを通じてイヤホンに話しかけてくるはずだ。スマホの画面を開く。 「え…………?」  メッセージが届いている。それを見て、美夜子は一瞬頭が真っ白になった。そこに表示された文面が、あまりにも異様だったから。それから間もなく、心臓を直接掴まれたかのような圧迫感を覚える。足元が揺れていると錯覚してしまいそうな、猛烈な不安感。  表示されたメッセージは、短いものだった。  読者への挑戦  必要な手がかりは全て提示された――犯人は誰か? 「は……? なに……これ……」  理解が追いつかなかった。鼓動はますます早まり痛いほどだ。戸惑いが深まる。ざわざわと、頭の内側がむず痒い。  『読者への挑戦』? まるでミステリー小説か何かのような文句。あり得ない。だってこれは、現実に起こった殺人だ。こんなのおかしい。  …………いや、そういうことなのか? これが違和感の答え? この事件は、殺人をテーマとした謎解きゲームのつもりで起こされた?  だとすれば……「この謎が解けたか?」と大胆不敵な挑戦状を送ってきた、このメッセージの送信者は……この事件の『黒幕』であり……『作者』に違いない。  送信者欄に記されていた名前は……『Mr.B』。  憶えている。フォックスのBlockadeで見た名前だ。この人物が…………この事件の………… 「あ…………B……?」  どうしてもっと早く気づけなかったんだ。知っている。あたしは知っている。このやり口を。  ゲームと称して人を試し、弄び、そして殺す悪魔。その名は――黒山羊(Baphomet)。  三年前の光景がフラッシュバックする。何度も何度も何度も何度も――夢に見た、大切な人を失ったときの記憶。捨て去ったつもりでいた恐怖心が蘇って、身体が震える。だけど次に感じたのは、恐れさえ覆い尽くしてしまうほどの強い怒り――復讐心だった。  今こそ落ち着いて考えろ。おそらく……相手はこちらの状況を把握できている。このタイミングでこのメッセージを送ってきたということは、そういうことなんじゃないのか?  あの中にいる?  そうだとしたら……願ってもないことだ。だって、あれから今までの日々は全てそのためだった。  絶対に見つけ出して、正体を暴く。そして――殺してやる。
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