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放課後。
ミチルは、一人で教室に残っていた。
そして、自分の席から、夕暮れに染まる空を眺めていた。
「ねぇねぇ!今日もカラオケ行く?」
「分かったー、じゃあ、駅前のところにする?」
周囲の会話が聞こえる。
どうやら、女子生徒が放課後の予定を話し合っているみたいだ。
(みんな、楽しそうだな…でも、私は…)
その会話の中に、ミチルはいない。
ミチルは深いため息をついた。
「ミチル、また一人?」
天使マリナの声に、ミチルはびくりと肩を震わせた。
振り返ってみる。
するとマリナは、ミチルに微笑みかえてきた。
天使マリナ――彼女は、華やかで美しい容姿を持っている。
長い亜麻色の髪は、夕日を浴びてキラキラと輝いて。
その大きな瞳には常に自信に満ちた輝きがあり、周囲を明るく照らしているみたい。
マリナは、誰とでも楽しそうに話せる雰囲気を持っている。
とっても明るい女の子。
微笑んでいるマリナの様子は、妙に艶めかしい。
同性であるミチルでも、思わずマリナを見とれてしまう。
自分とは正反対の存在だ、とミチルは思った。
対して自分は…
ミチルは思わず自分の短い黒髪を触った。
人と目を合わせるのが苦手で、いつもうつむきがちな自分。
(私たち、こんなに違うのに…)
「ミチル?私のことは天使さんじゃなくて、マリナと呼ぶって決めたよね?」
「あっ、うん。ごめん。」
ミチルは思わず謝ってしまう。
「もう、ミチルってば、すぐに謝っちゃうし…」
「ごめん。あっ…」
ミチルは、口を押える。
反射的に謝ってしまった、そんな自分に気が付いた。
マリナは、そんなミチルを見て、ニコニコと笑っていた。
まるで天使のように。
「ねぇ、ミチル。私たち、似てるよね」
「え…?」
その言葉にミチルはなんていいのか、戸惑う。
マリナは、いつも人々の中心にいて、誰とでも楽しそうに話している。
対して自分は、上手く話せなくて、つい人混みを避けてしまう。
結果的に、孤独にいるしかない。
「な、何言ってるの?私たち、正反対じゃない」
ミチルの口は、そう勝手にマリナへ返していた。
でも、なぜだろうか。
心の奥底では、マリナの言葉にどこか共感できてしまう自分がいた。
ミチルは、席から立ちあがった。
その時だった。
「きゃあっ!」
ミチルはバランスを崩してしまった。
机に手を付けても、もう身体は止まらない。
ドン、という音とともに、ミチルは尻もちをついてしまった。
お尻にちょっとした痛みを感じる。
尻もちをついてしまったのだ。
まあ、全然平気だ。
ミチルは顔を挙げる。
「えっ?」
尻もちをついている状態のミチルは、声を出した。
痛みなんかよりも、もっとなにか気になることがあったから。
それは…
周囲が、教室ではないのだ。
そこは見知らぬ空間だった。
黄ばんだ壁紙。
どこか湿気たような、古びたカーペット。
無限に続くかのような廊下、広い部屋が視界いっぱいに広がった。
蛍光灯のブーンという音が耳に響く。
明らかに、ここは学校の教室なんかじゃない。
(ここ…どこ…?)
「ミチル!こっちこっち。」
マリナの声が聞こえた。
振り向くと、マリナがいた。
「マリナ!」
「良かった、ミチル。無事で。」
マリナは、ミチルが立ち上がるのを手伝ってくれた。
そんなマリナの存在は、この不安な状況の中で、私にとっての安心感そのものに思えた。
「ここ、どこ?」
分かるはずなどないのに、マリナにミチルはそう聞いた。
「さぁね。でも、私たち、一緒に迷い込んじゃったみたい。」
そういって、マリナは不思議そうに周りを見回していた。
一周くらい見回した後に、マリナは口を開いた。
「ここって、もしかして…」
「もしかして?」
ミチルは、マリナに話を促すように聞き返してしまった。
「ミチルは、都市伝説って知ってる?」
「都市伝説?」
「うん。都市伝説のなかにはね、インターネットから発祥したものもあるの。」
マリナは、思い出すような様子で話を続けた。
「たとえば、バックルームという都市伝説。それはね。バックルームという現実から『はみ出した』空間へ迷い込むという都市伝説なの。ふとした日常から、転倒した、とかの些細なことから、無限に続く黄色い部屋と廊下の世界へ迷い込むっていう話なんだけど…」
マリナは、周囲を観察しながら言葉を続ける。
「…そこは時間の感覚もおかしくなるし、方向感覚も失う。だから無限に同じような空間をさ迷い歩くことになるんだって!」
マリナの説明を聞きながら、ミチルは周囲を見回した。
その都市伝説の状況が起きている。
ミチルは尻もちをついた。
そして、気がつくとココにいた。
周囲は、どこもかしこも同じ景色が広がっている。
「ねえ、マリナ。その話の場所は、出口があるのかな…」
ミチルは小声で呼びかけた。
「分からない。だけど、きっとあるよ。諦めちゃダメだよ」
マリナは、明るくそう言った。
絶望的な状況なことは分かる。
だけど、マリナと一緒だったら。
ミチルは、マリナの言葉に勇気づけられた気がした。
「行こう、ミチル」
そう言って、マリナは軽やかに一歩を踏み出した。
その仕草は、まるで黄色い迷宮を楽しんでいるかのようだった。
「待って!」
ミチルは慌ててマリナの手を掴んだ。
指先から伝わる温もりが、不思議と安心感をもたらす。
(はぐれたら…私、どうなっちゃうんだろう)
そんな不安が頭をよぎる。
二人で歩き始めると、黄ばんだ壁紙の部屋が際限なく続いている。
そして、蛍光灯のかすかなブーンという音だけが、絶えず聞こえてきた。
それから、二人は延々と無限に続く空間を進んだ。
誰かに会うこともない。
何かを見つけることもない。
マリナとミチルしかない空間。
黄色い空間が続く。
延々と。無制限に。無限に。永久に感じた。
もう何時間、マリナと一緒にココにいるんだろう。
いや、もう何日。
何週間。
何年。何十年。何百年。何千年。何万年。何億年。
永遠に一緒にいる気がする。
でも、おかしい。
ミチルは、マリナと一緒に歩いている。
まるで、すべての生理的な活動が消え失せてしまったような。
私は生きながら、死んでいるかのような。
そんな不思議な感覚の中、ミチルとマリナは、ずっと二人一緒だった。
でも、歩くことに夢中で、その時まで会話もロクにしてなかった。
思い出すと、時間の経過すらおかしい気がした。
今がいつなのか、いつからここにいたのか。
ついさっきにココに来た気もするし、永遠にいる気もした。
「ねえ、マリナ」
ミチルは、先に歩いているマリナに呼びかけた。
「この場所…本当に出口はあるのかな」
心細くなっていたミチルは、マリナに聞いた。
マリナは突然立ち止まり、くるりとミチルの方を向いた。
彼女は微笑んでいた。
「出口?ミチル、私たちはもう出口を探してないわ」
「え?でも、私たち…」
「ねえミチル、よく考えてみて?」
マリナの声が聞こえる。
いつもと全く変わらない調子で、マリナは話を続けている。
でも、内容は良く分からない。
私は、そんなことを聞きたくないのに。
「私たちがここにいるのは、偶然じゃないの。…ねぇ、ミチル」
マリナは、これまでに見たことが無いくらいに、冷淡な表情を浮かべていた。
「あなた、本当はみんなと一緒にいるのが怖いんでしょ?」
そのマリナの言葉は、まるで魔法の呪文のように、ミチルの心に突き刺さった。
「な…何を…突然。」
「私も同じなの。でも、あなたはしっかりとした存在。でも、私は…」
マリナは涙を浮かべていた。
とても悲しそうだ。
「マリナ…」
ミチルは思わず手を伸ばした。
「え?」
目の前のマリナの姿が消えた。
ミチルは、慌てて周りを見回した。
「マリナ!?どこ!?」
答えはない。
ただ、無限に続く黄色い空間だけが広がっている。
(嘘…嘘だよね…?)
パニックに陥りそうになるミチル。
ミチルは思わず走り出した。
でも、どこまで行っても景色は変わらない。
「嫌だ…嫌だよ…」
ミチルは膝をつき、頭を抱えた。
でも、どこか心の奥底で、この状況に安心感を覚えている自分がいた。
「戻りたくない。私、みんなの中にいるの、怖いよ…」
ミチルの呟きが、無限の空間に吸い込まれていった。
その時、ブーンという音が消えた。
ミチルが気が付くと、そこは教室だった。
夕暮れの光が差し込む、いつもの教室。
「マリナ…?」
ふと振り返ると、そこには誰もいなかった。
教室には、ミチル一人だけが残されていた。
ふと、机の上に置かれたノートに目が留まる。
開いてみると、そこには見慣れない筆跡で文字が綴られていた。
『ミチルへ
私たち、本当は良く似ているんだね。
でも、もう大丈夫だから。
これからはずっと一緒だよ。
マリナより』
ミチルは息を呑んだ。
この文字は、確かにマリナのもの。
でも、いつ書かれたのだろう?
ミチルは、ゆっくりとノートを閉じた。
そして、もう一度教室を見回す。
誰もいない。
ただ、不思議と心が落ち着いているのを感じた。
ミチルはゆっくりと教室を出た。
廊下には誰もいない。
そのまま、校舎から出るために廊下を歩きだした。
しばらく、廊下を歩いていた。
あの黄色い部屋。
そして、消えたマリナ。
ミチルは、さっきまでことを、夢だと考えだしていた。
「そうだよね。」
独り言をミチルは呟く。
また、今日が終わって、明日が来る。
私は、マリナと違って友達がいないから、いつも一人だけど。
マリナは声をかけてくれるし。
あのノートにマリナは、励ましの言葉を書いてくれてるし。
ミチルがそんなことを考えていたとき。
既視感と違和感を感じた。
ふと顔を上げると、目の前に見覚えのある教室が並んでいる。
なんの変哲もない。
でも、やっぱり、どこか違和感がある。
ミチルは、廊下を走った。
しかし、どこまで行っても同じような廊下が続いていた。
ミチルの頭に、あの夢の中で、マリナが話していたバックルームの話が蘇る。
無限に続く空間。時間の感覚が失われる場所。
(私は、本当にバックルームに迷い込んでしまったの?)
そう思った瞬間、遠くから誰かの声が聞こえてきた。
「ミチル?大丈夫?」
振り返ると、そこにはマリナが立っていた。
優しく微笑むマリナの姿。
ミチルは、ゆっくりとマリナに手を伸ばす。
そのミチルの唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。
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