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曰く、この世には男女ふたつの性のほかに、種族内のヒエラルキーを表す三つの性がある。
ひとつは、種族の中でトップに立つ、α性。人という種族の中でその性を表現するならば、まさに「エリート」、或いは「天才」の一言に尽きるだろう。カリスマ性に満ちたその性は、全人口の15パーセント前後を占めている。
もうひとつは、種の大部分を占める、良くも悪くも「平凡」なβ性。全人口の八割を占めるその性は、ある意味、最も「人間性の高い性」とも言える。
そして最後、種の最下層に位置する――
パアン、と、やけにいい音が響いた。
「…いきなりなんですか、樋田さん」
驚いた種村は暫し目をぱちくりさせた後、徐に口を開いてそう聞いた。盛大に手を叩いた樋田は、その姿勢のままちらりと種村を見上げて、気まずそうに笑った。
「ごめん、種村くん。来て早々悪いんだけど、お使い頼まれてくれない?」
「はあ?」
驚く種村をよそに、樋田はその「お使い」を頼むべくさささっと部屋の奥の方に移動する。種村はこんな樋田の様子に、拒否権なしと見て諦めたように肩を落とした。種村がこの樋田の職場――研究室を訪ねたのは、本を借りるためであった。何日図書館に通っても返却の気配がない本を、半ば諦めていたら、偶然にも樋田が持っていたのでその好意に甘えることにしたのだ。数年来の先輩は、付き合うには少し性格が軽すぎるところがあるけれど、こういうときはとても役に立つ。
好意に甘える身なのだ、よほど面倒な頼み事でない限りは受けよう――そう気持ちを切り替えて入り口前で立つ種村に差し出されたのは、これまた一冊の本であった。
「悪いんだけどさ、これを、根津先生に届けてくれない?」
「…は? 根津先生?」
目の前にある一冊のハードカバーの本と、その向こうに見える先輩の顔を交互に見て、種村はきょとんと首を傾げた。
根津は、樋田と同じこの大学の教授であり、樋田とは同じ学部学科の中で、別の専攻を受け持っている。学科ごとに配置された研究室の位置から考えても、あまりに近すぎるお使いだ。ほんの十メートル二十メートルしか離れていないいくつか先の部屋に本を届けろという樋田の言葉が、種村にはなかなか理解できなかった。
「…まあ、ええですけど………」
軽くなった手の向こうで、種村の顔は怪訝そうにしている。それもそうだろう、樋田にも自覚はある。人に頼むまでもない、種村に本を貸した後、ちらっと行って渡してくればいいだけのものなのだから。
だが、それでも樋田は種村に頼んだ。頼むだけの理由があった。
「いやあ、実はさ。今はあまり根津先生と顔合わせたくなくて」
「はあ…」
誤魔化すように笑って言った樋田に対し、種村は喧嘩でもしたのだろうかと、そんなことを考えた。
最後の性、種の最下層に位置するΩ性は、蔑称で「生殖の性」と言われる。三月に一度の発情期を持つ彼らは、その間、性交のことしか考えられなくなる。そして、その相手を呼ぶために、α、そしてβの男性を引き寄せるフェロモンを出す。そんなΩは希少種で、全体比で五パーセント前後しか存在しない。ヒエラルキーピラミッドにおいて、本来最多となる最下層にいながら、Ω性がこんなにも少ないのは遺伝の確率の低さがある。Ω性の遺伝子が継承される組み合わせが他に比べて少なく、片方がΩであっても、α相手はまだしも、β相手には二割程度の確率でしか産まれない。そして何より、Ωは他のΩの発情期のフェロモンを嫌うため、Ω性同士の婚姻ができないという最大のネックを抱えている。
種村は、Ω性の友人をひとり持っている。高校で知り合って、そして仲良く浪人した。今でもときたまに連絡を取り合っている。彼はβの女性と結婚した。子どもはきっとβだろうと、この前の電話では喜んでいた。種村はその言葉の意味がよくわからず、「そっか」とだけ短く返した。種村はΩ性の友人を持っていても、Ω性の知識についてはいまいちであった。そもそも彼は最初に自分の性を告白したとき、こう言ったのだ。
「お前はβで、鈍くて、薬さえ飲んどけば発情期でも関係ないやん。αやとちとヤバいけどな。βならΩやってバレても平気そーやし」
彼に自分はβだと言った覚えは種村にはなかったし、Ωのフェロモンはβの男性にも効くとついさっきの授業で言っていたような気もしたけれど、どうやら自分は鈍いためにそういうことに気づかないらしい。事実、彼の言う通りで、種村は在学中一度も、彼の発情期には気づかなかった。素直に、最近の薬は凄いんだなと思っていた。
ポケットの中から携帯電話を取り出して、種村はふと昨日の電話を思い出した。子どもはβだったようだ。嬉しそうな声を思い出す。彼ははっきりと言っていた。Ωじゃなくて良かったと。
――Ωって、大変なんなあ…
一度も発情期を見たことがない、一度も発情期にあてられたこともない――そんな人間が今は大半だろうが――種村に、Ωの苦労とやらはわからなくて当たり前でもあった。
取り出した携帯電話をしまう。単純に時間を調べたかっただけで、特にメールや電話の用事があったわけではない。時刻は15時過ぎ。さっさと本を根津先生に渡して、そして先輩から目的の本を借りて、図書館に籠もろう――そう思って、種村はノックをした。扉が少しだけ、甘い匂いをしていた。
その扉の向こうで、根津は資料を作成していた。ノックの音に椅子を引いて、衝立の向こうを覗き込む。今、根津のもとを訪ねてくる人は少ない。少なくなるようにしている。忙しいからではない。
「どうぞ」
曇りガラスの向こうの人は「失礼します」と言って顔を覗かせた。
見たことのない人であった。少なくとも自分の受け持っているゼミにはいない。講義にも出ていなかった気がする。端正な顔立ちと白髪交じりの頭。非常勤の講師だろうか。顔を上げて、目が合って、そして根津は顔を強張らせた。
根津の表情の変化には気づかなかった種村は、不思議そうに研究室内を眺めていた。本が天井近くまで陳列されているのも、段ボールが積み重なっているのも、お酒があるのも、すべてほかの研究室で見ているが、この研究室は甘い匂いがした。鼻の奥にくるその匂いは、種村にとって決して不快ではなく、むしろ心地の良いものであった。体の芯を熱くさせてくるような、不可思議な匂いであった。
「…用件は?」
「え? あ」
低い声が響く。根津は押し殺すような声で種村を振り返らずにそう訪ねた。
「あの、樋田先生からこれを――」
「じゃあ、そこに置いて早く出て行って」
「え――」
柔らかい声で本を見せてきた種村を拒絶するように、根津は強く言い放った。喧嘩になる可能性も、相手を傷付ける可能性も、十二分に考慮した上で、根津はそう強く言い放った。それが最善の選択であることを、根津は身を以て知っているのだ。
種村は、少しの間動けなかった。樋田に猫騙しを食らったときとは違う、明らかな怒号に戸惑っていた。
「あの…じゃあ、ここに置いときますね」
空いている机の一画に本を置いて「失礼しました」とドアノブを握る。室内に充満している甘い匂いが心地良くて、種村の手が一瞬緩んだが、先程の怒号を思い出して外に出た。
パタンと比較的静かに閉じた扉に背をつけ、種村は音もなく息を吐く。とてもとても緊張した。いきなり怒鳴られるとは思っていなかった。まさか会って三秒で嫌われるとは。ノックをして、挨拶をして、それで用件を告げて、何故怒鳴られたのだろう? 理不尽なのだからもしかしたら怒っても良かったのかもしれない。しかし、一方でもうひとつの可能性も否定できない。
――先生、ほんまに喧嘩しとるん…?
あの樋田の対応、そして今の根津の応対。近くて楽な頼み事かと思ったら、全く以て厄介な案件だったようで、種村は内心溜め息をついた。
溜め息をつきながら、根津の研究室はとてもいい匂いだったと、それだけに怒号を浴びた心も沸き立って、次には自然と笑っていた。
早よ戻ろう。
背中を扉から離し、足を樋田の研究室に向けた。
そんな種村の気配が、やがて靴音を残していくつか先の研究室に消えていくのを感じて、根津は「はあ」と息を吐いた。彼が入っていったのは、恐らく樋田の研究室だろう。樋田は事情を知っているのだから、ああいうことはやめてほしい。
怒鳴ったとき、空気が怯えるのを感じた。それもそうだろう、顔を見合わせて一分も経たない中、唐突に怒鳴られて、彼も何がなんだかわからなかったに違いない。それでも根津は怒鳴るしかなかった。あれ以上長居されても、奥へ来られても、根津は困ったろうから。
「…ごめんね」
本人のいない所での謝罪が無意味であることも知っている。だが、それでも言っておくに越したことはない。
根津は静かに作業に戻った。机の上のキーボードの横には、処方箋の袋が鎮座している。その脇には、空になった錠剤の残骸が散っていた。
「――Ω?」
口から出たのは、反復の言葉だった。
「そ、Ω」
樋田の研究室に戻って、種村が開口一番言ったのは「先生、早う根津先生と仲直りしてください」であった。それに樋田がきょとんとするものだから、種村が事情を説明すれば、「違う違う」と大げさなまでに首を横に振りながら樋田は言ったのだ。根津はΩなのだと。
「そろそろ発情期だろうから、僕としては近寄りたくないんだよねー。しかも研究室とか密室でしょ? 万一の過ちとかあったら嫌じゃない?」
「…彼女の生理周期把握している彼氏みたいで気持ち悪いです」
じと目で種村が言い放てば、樋田が「え」という顔で振り返ってくる。
「いや、あのね、僕もまさか根津先生が君を怒鳴るとは思ってなかったんだよ」
「そですか」
「いやいやいや、あのねえ、やっぱ同じ職場で働く身として、お互いの安全のために、そういうのを押さえておくのは大事だと思うよ!! というか大事なんだよ!! 僕の首かかってるし!! …そりゃあ、君はβだから関係ないかもだけどさ…」
樋田はαだ。種村も知っている。発情期のΩのフェロモンはα性には即効性の麻薬のように強く効く。薬で抑えていても我慢できない人もいる。樋田が根津を避ける理由は、正当だ。そして、根津の側も避けてくれることを喜んでいるだろう。
種村は樋田の言葉に何かを言おうとして、一度飲み込んで、それからもう一度口を開いた。
「先生、βにもΩのフェロモン効くんですけど」
「え!?」
嘘、と信じられないものを見る目でこちらを振り返った樋田に、ああこの人も高校の授業寝ていたんだな…とそんな無駄な親近感を種村は覚えた。
もうどうでもよくなってきて、種村は右手を差し出す。もともと本来の目的はこれなのだ。
「…それより先生、本、貸してください」
「あ、そのことなんだけどさ」
樋田のへにゃりとした笑顔に、種村は嫌な予感と殺意を同時に抱いた。
数分後に、エレベーターホールに立ったとき、種村は何も持っていなかった。樋田が貸してくれると言った本を、どうやら種村が打診するより前に別の誰かに貸してしまっていたらしい。散々期待させて、お使いまでさせて、当初の目的が果たせないというのはどういうことなのか。それでも種村はぎりぎり樋田を殴らなかった。ないものはないのだ、仕方ない。
「君って潔いっていうか、諦めが早いよね」
そんな、ぎりぎりのところで殴るのを我慢した種村に対して、樋田がそんなことを言うものだから、やはり一発叩いてきた。
「先生は少し反省してください」
「はいはーい」
反省の気色皆無のその返事を聞き流して、種村は今エレベーターホールに立っている。
扉の上のランプが着々とこの階に近付いているのを見ながら、種村は樋田の言葉を反芻した。「諦めが早いよね」。
諦めるしかなかったのだ。
ほんの日常的な些細な会話の中で、性の話は必ず出てくる。種村はいつも黙っている。性は見た目ではわからない、中学校で義務化されている血液検査でしかわからない。そしてその結果は、両親と自分にしか知らされない。Ω性への差別があったからだ。地域によっては、未だに根強いからだ。それでも、みんな気にするのだ。誰が、どんな性なのか、知りたがる。その中で、種村はいつも黙っていた。黙って、話を聞いていれば、誰が聞かずとも、種村が言わずとも、いつだってβだと評価を受けていた。見た目ではわからないけれど、性にはそれぞれ特徴がある。αはカリスマ性があるし、Ωには発情期がある。βには何もない。長い付き合いで、一度も発情期を見たことがなく、カリスマ性も持っていない人間は、なんとなくβ性になるのだ。それが世間の評価なのだ。だから、諦めるしかなかったのだ。
「…本当は」
かつてΩの友人に言われたときも、さきほど樋田に言われたときも、本心では訂正したかった。けれど、訂正したところで意味がないこともわかっていた。
「本当は、βやのうて、αや」
僕も、αや。
種の頂点に立つα性、種村も憧れたことはあったし、自分もそうだったらいいなあと、何度も思ったことがある。種村だけでなく、多くの第二次性徴前の子どもはそう考えるだろう。αがいいなあ、Ωは嫌だなあ、と。だが、やはり多くの子どもにとって、それはささやかな夢の一端に過ぎない。何故なら、遺伝性のそれは、親の性によってだいたいの予想がついてくる。そしてこの世の大多数を占めるのがβ性である以上、やはり多くの子どもの両親はβ性なのだ。β同志の間にはβしか産まれない。そんなごくごく当たり前の事実を知りながら、それでも正確な結果が出るまでは、みな、少しだけ夢を見る。種村も同じであった。種村の両親もβ性で、上の兄弟もみなβ性であった。検査するまでもなく、自分はβなのだろうと、ごくごく普通の一般大衆のひとりなのだろうと、種村はそう思いながら、だからこそα性に憧れていた。
だからこそ、検査結果にはむしろ動揺した。
五月の風は爽やかで気持ちいい。図書館から出て、種村はそう思って深呼吸をした。今日こそ返ってきているだろうかと検索をかけて、未だに貸出中の文字が消えないそれに、いい加減延滞やめろと心の中で毒づきながら、食事を採るために外に出た。
「あれ? 君」
不意にそんな声を掛けられて振り返った先には根津が立っていた。こうして見ると随分背の低い人だと種村は思いながら、それでもなんとなく、種村は一歩引いてしまった。あの怒号は、男性である自分を慮ってのものなのだろうと今ならわかるのだが、それでも萎縮してしまうのは否めない。どうやらもう発情期は終えているようなのだから、気にしなくてもいいのかもしれないけれど。
そんな種村の様子に気づいた根津は、申し訳なさそうに眼鏡を少しだけかけ直した。
「ごめんね」
「え?」
「いきなり怒鳴られてびっくりしたでしょう、ごめんね。でも、ああしないと出て行けない子もいるから、どうしても…」
「あ、いえ、大丈夫です」
「特に君は」
風が向かい風になって種村の鼻を突く。甘い匂いがした。
「――特に君は…αでしょう?」
甘い匂いに気を取られて、種村は根津の言葉に反応が遅れた。
「樋田くんも、事情を知ってるんだから、別の子に頼めばいいのにね」
「あ、え――」
「じゃあね」と手を振って行ってしまう根津を止めることもできないまま、種村はその場に立ち尽くすしかなかった。
今、彼はなんと言った? 僕のことをなんと言った?
βの合いの子はβ、そう思って種村は検査を受けて結果をもらった。親にそのことを報告しても「どうせβでしょ?」と言ってあまり興味はなさそうであった。検査結果は必ず両親と一緒に見るように、と案内には書いてあったけれど、それは特異なαやΩのためであってβは関係ないと、両親も種村自身もそう思っていた。すでに数回、同じ経験をしている両親にとっては、種村もまたβであり、特に話し合うことなど何もないのだと、その程度の認識であった。だから種村はひとりで検査結果を見た。検査結果を見て、驚いて、転がるように台所の母のもとに駆けていった。
「お母さん! 僕、αや」
通知書の名前も生年月日も誤りはなかった。父親も交えた話し合いの結果、再検査依頼を出すことになった。再検査の結果は一週間後だったが、結果は変わらなかった。父親は、もう一度、今度は別の病院での再検査を依頼した。結果はやはり、αであった。
「ごくごく稀な現象ではあるのですが、βの間にαやΩの性を持つ子どもが生まれることがあるんです」
医者はそう説明した。β間だけでなく、α間でも稀にΩ性が産まれる現象もあるという。何故、両親が持ち得ない遺伝子が子どもに現出するのか――同性同士を掛け合わせたときの、不確定要素のひとつであり、原因は不明だと言われている。
「ただひとつ言えることは、この子は間違いなくαということだけですね」
始めこそ、種村は自身がα性であることを喜んだ。だが、すぐにその喜びは消失した。
勉強もスポーツも人並み、特に特筆する能力も才能もない、カリスマ性もない。誰も種村が自分はαだと言ったところで信じはしなかったし、種村自身も次第にその検査結果に猜疑心を抱くようになっていった。逆に両親の期待は大きく、それが種村にとって多大な負荷ともなっていった。どうしてあれができない、どうしてこれができない、お前はαなんだからもっとできて当然だろう。
α性は、エリートと称されるが万能ではない。所謂器用貧乏タイプもいれば、スペシャリストタイプもいる。才能の開花のタイミングもバラバラであり、大器晩成型も少なくない。カリスマ性があるというのは、人を魅了するだけの何かしらの才能があるという代替表現であり、万人に好かれる、万人を率いるという意味はない。だから、α性の親は子どもにαであることを強要しないし、αの子どもはαであろうとなどしない。いずれ何かしらの分野で才能が芽吹くことを知っている彼らにとって、常日頃の有り様はそこまで重要ではないからだ。
だが、種村の両親はβ性であった。兄弟もまたβ性であった。両親はαの育て方など知らなかったし、種村もα性がどんなものなのかを知らなかった。
両親の期待過多に応えられなくなった種村は、早々にα性であることを捨てた。口にしなればβ性でいられるし、口にしたところで誰も信じはしないのだから。
だから。
「どうして」
わかったのだろう?
授業でαとΩはお互いに引き合うと聞いたことはある。発情期中のΩは、α性やβ性がわかると聞いたこともある。逆にΩ性は自分以外のΩの発情期のフェロモンの匂いは苦手だとも聞いた。けれど、すべて噂に聞いたに過ぎない。Ω性の友人は、一度も種村がαであることには気づかなかった。きっと発情期中も薬で誤魔化して学校に来ていた彼は、それでも種村がαであることには気づかなかったのだ。根津も発情期中だったとはいえ、同様に薬を飲んでいたようだし、顔を合わせたのは一分に満たない。
今まで誰も気づかなかったし、信じなかった。種村自身が、とうの昔にα性であることを諦めた。
ふと、少しだけ漂ってきた甘い匂いが、種村の思考に靄をかけた。
根津が、種村がαと気づいたのは、入ってきて顔を合わせてすぐであった。普段に比べて遅い方だったと、根津は思っている。
Ωの発情期は生殖本能に直結しており、そのための「つがい」を求める期間だ。種の繁栄を望むのであれば、当然良い遺伝子を継承させるのが普通であり、だからこそΩは優位種であるαを求める。フェロモンがβの男性にまで影響を及ぼすのは、種の生存という最終手段にほかならない。だから、発情期のΩは、生殖のことしか頭にない反面で、意外と冷静にその相手を判別している節がある。つまり、発情期状態にあるΩは、確かにαとβの区別をつけているのだ。
その意味で、種村は薄かった。あれが樋田や、ほかのαであれば、扉を開けた瞬間に気づいたろう。だが、彼は顔を合わせるその瞬間まで、αかβかわからなかった。むしろβとさえ思っていた。だからこそ、αだとわかった瞬間、背筋が凍る思いをした。追い返すタイミングを間違えたと、根津は焦ったのだ。
図書館の前で顔を合わせて、本当にαなのか、根津も少し自信がなくなった。発情期を終えた今となっては、人の性は見分けられない。あのとき確かにαと確信した彼は、そこに立っているだけではβにしか見えなかった。
食堂で種村のことを思い出していた根津は、どくん、という心音の高鳴りに、箸を止めた。
――あれ?
この感覚を根津はよく知っている。否、Ωならみな知っているだろう。だが、それでも根津は俄には信じられなかった。発情期を迎えるこの感覚は間違いない。けれど、発情期はほんの一週間前に終わったばかりなのだ。三月に一度と決められた周期がずれたことは、過去の経験上存在しない。
「なんか甘い匂いしない?」
しかし、近くを通った学生のそのなにげない言葉に、さっと血の気が引いた。まだ半分以上残っている膳を下げて、根津は足早に食堂を後にする。
発情期にも前後の猶予がある。始まったばかりの今ならば、αにも大した影響を出さない。ただ、なんとなく「甘い匂いがする」という感じで終わる。だから、その間に根津は研究室に戻ろうと考えた。研究室に戻れば、予備の薬も置いてある。
甘い匂い――Ωのフェロモンはαやβ男性を誘惑する匂いを持っている。だが、自分の匂いは自分ではわからないもので、根津自身は、自分のフェロモンの匂いを知らない。かといって、参考にとほかのΩのフェロモンの匂いは嗅ぎたくない。Ωは互いのフェロモンの匂いを嫌うのだから仕方ない。だが、かつて根津の発情期に居合わせた多くの人は、こう言っていた。「甘い匂いがする」と。あの学生の言葉は、かなり前倒しした発情期が訪れたことを、根津に明確に示したのだ。
昼休憩のためか外に出ている学生は多い反面で、研究室棟に人は少ない。そのことに安堵してエレベーターホールを覗けば、あいにくとそこには樋田が立っていた。
「あ、先生、こんにちは。この前は本をすみません…って」
「あー………」
根津はすっと一歩引いた。樋田も黙って身を離した。
「あれ、三ヶ月に一回じゃないんですか?」
「僕もそう思ってたんだけどねえ…」
ははは、と互いに渇いた笑いを浮かべる。そう言ってちらちらとエレベーターを気にしている樋田は、時折逃げるように階段にも目が動く。樋田の自衛行動は、一見すれば露骨なまでの忌避だが、根津はその行動で安堵できる。樋田は根津を嫌ってはいないし、根津も樋田が嫌いではない。だが、だからこそ、お互いのためにお互いが避けるのは当然なのだと思っている。
ぽーん、と音を立ててエレベーターが着くや否や、樋田は転がり込むようにエレベーターに乗り込んだ。
「それじゃ、悪いですけど、お先に」
「ああ、そうだ。君、今度からお使い頼むときは別の子にしてよ?」
「え? 種村やばかったですか? あいつ鈍感すぎて、そういうのには鉄壁だと思ってたのに…」
閉まっていく扉の奥で樋田は何かを言い続けていたが、やがて聞こえなくなった。根津がここに立っている限り、樋田が押すのは閉ボタンだけだ。αの思考を否応なく奪うΩのフェロモンは、それを望まないαにとってはただの毒に過ぎない。ついこの前までは、蹂躙される側のΩばかりが注目されていたが、αの側だって望んでいるわけではないのだ。
樋田が行った後で、根津は再びエレベーターのボタンを押す。少しずつ、少しずつだけれど発情期が本格的になり始めている。まだ昼休憩のど真ん中。けれどもう少ししたら行き交う人々が増えるだろう。その時間帯にはもう研究室の中にいたい。
早く。
いつまでも来ないエレベーターが焦れったい。
早く来てくれ、じゃないと――
「――先生?」
誰かが来てしまうかもしれない。
鈍い革靴の音がして、ついでにそんな声も聞こえて、根津は、それでもできる限り落ち着いてそちらを振り返った。種村が立っていた。
種村は、自分がどうしてここにいるのか、いまいち理解できなかった。樋田にも、先生である神山にも、用はないし、そもそもアポを取っていない。けれど、気づいたら研究室棟の、このエレベーターホールに立っていた。思い出せるのは、根津を見送って少し遅れて動き出し、自販機に寄った後、食堂に入った少し後まで。ちょうど根津と入れ違いであった。席を取ろうと鞄を置いたところで、ふと、甘い匂いがするのに気づいた。そこから先が思い出せない。
ただ、そんな種村でもはっきりわかることがひとつあった。根津から、抗い難いほどのいい匂いが漂ってきている事実である。以前、研究室を訪ねたときに嗅いだ匂いと同じ匂い。種村の思考を蝕んでいくような、そんな甘美な匂い。
このままでは、この人に対してとてもひどいことをしてしまう気がする。
靄がかった思考の中で種村は根津を見た。根津は、そんな種村とエレベーターを交互に見ていた。
発情期を迎えた今なら、根津にははっきりとわかる。種村は確かにαだ。αの匂いがする。それに、自身に根付いているΩ性が歓喜しているのも根津にはわかった。久方振りに抑制剤なしでαに対面した根津は、口を開けば吐きそうなほどに、目の前のαとの性交を求め始めていた。
Ωが生殖の性と揶揄されるのは、発情期中は生殖のことしか頭にないからだ。それを証明するように、発情期は期間中であっても妊娠すると収束する。理性を放ってもいい状況であれば、恐らく根津は自ら種村を求めたかもしれない。だが、あいにくとここは公共の場で、人が行き交うエレベーターホールで、こんなところでことに及べば、両方のクビが危ういだけでなく、ほかの人も巻き込む恐れさえある。根津はエレベーターを見た。まだ来ない。だが、階段を昇るだけの力は、今の根津に残ってはいなかった。
心臓がひたすらに高鳴る。喉から手が出るほどに目の前のαが欲しい。それは、逆を言えば種村の側もそうであった。Ωの発情期にあてられたのが初めての種村にとって、それは未知すぎる体験であり、自分が何をしようとしているのか、押さえる方法はなんなのかさえわからなかったけれど。
両者ともまだ理性があったのは奇跡であった。そして先に限界がきたのは根津であった。
「ねえ――」
発情期中のΩがαやβに襲われるという話は言欠かない。けれど、その裏では、その逆も等しく存在している。Ωの生殖本能は、ただただ受け身なだけではない。場合によっては自ら求めることもある。αが発情期中のΩをただの産み腹と認識するとすれば、発情期中のΩにとってαはただの種馬だ。人としての倫理と行為への嫌悪が強く、社会的に虐げられていたΩ側の人間性が、たまたまΩの一方的被害観を生み出しているに過ぎない。
樋田はひとつの好例だ。α側もまた、必ずしも、望んでいるとは限らない。
そして、種村は、どう思っているのかはわからなかった。だが、根津は手を伸ばした。手を伸ばしてその腕を掴んだ。掴んでその先を言おうとしたところで。
ぽーん
その音に我に返ることができたのは幸運だったろう。根津はハッとなって種村を突き飛ばし、慌ててエレベーターに飛び乗った。階を押すより先に閉ボタンを押して、少しでも種村から離れようとした。
だが、伸びて来た手が扉を掴み、安全のために再度開いたエレベーターに、種村は乗ってきた。乗って、階層ボタンの前に立つ根津の肩を掴み、そのまま床に押し倒した。痛みに呻いた根津は咄嗟に目を閉じた。扉の閉まる音。階を指示されていないこのエレベーターは、次の乗り手がくるまでこの階に留まるだろう。そして誰かがボタンを押せば、文字通り機械的にその扉を開けるだろう。それだけは避けなくてはいけない。根津はぎりぎりまで腕を伸ばして、自らの研究室がある階を押した。ごうん、と重力がかかって、エレベーターが上昇を始める。後は、辿り着くまでが問題であった。
エレベーターが動いたのに、種村はハッとなって自らの下にいる人物を見下ろした。何が起こったのか、種村はやはりわかっていなかった。この人が何かを言ったような気もするし、けれど種村はエレベーターの向こうに消えかけた根津を、そのまま本能的に求めた。逆に、波打つように理性と本能がせめぎ合う中で、理性側の頭脳は、現状を把握しきれないでいた。αとしての知識も経験もあまりに少ない種村は、これがΩの発情期であることにさえ、未だに気付けないでいた。
欲しい。
肩を押さえつける手に力が籠もって、根津は痛みに顔を歪める。
欲しい。
「………んせ…」
密室の中でお互いの匂いが充満し、お互いの理性を侵す。種村の匂いに頭がくらくらすると、根津は息をすることさえ苦しかった。
「せ…んせ………」
幾度か吐き出されるように種村が根津を呼ぶ。その表情が、困り果てて苦悶に歪んで、出し切れない何かを訴えるように手の力が強くなっていく。長距離走でもしたのかと言いたくなるような荒く激しい呼吸音の中に、なんとか声帯を震わせて舌を動かした言葉を混ぜている。
「せんせ…早よ、逃げ………」
発情期に居合わせたこともない、自らが発情したこともない種村にとって、現状を理解できるだけの下地はなかった。それでも、何かまずいことが起こることはわかった。本能に対する理性の抑止が、根津に離れることを要求する。種村の中に「自分が離れる」という考えはなかった。否、不可能であることを察していた。
Ωのフェロモンはαを引き寄せる。そして、一度引き寄せられたαはその目的を果たすまで、離れることができない。Ωのはるか上位種にあるはずのαは、こと生殖の本分においてΩの絶対的な制約を受ける。
「せんせ…早く………」
種村はそう言うが、ここはエレベーター内だ。どうしろと言うのかと、根津は本来苦笑を浮かべるところを、しかし驚いていた。
どうして未だにこれだけの理性を保っていられるのだろう。経験も知識も根津は自分の方が遥かに豊富だと自負していた。自負して、それでも抑えきれないのが発情期なのだと知っていた。だから根津は、ただひたすら研究室に戻ることだけを考えていた。押し潰されそうな理性を無理やり働かせることで、そこまでは、最悪でも研究室に辿りつくまでは、現状を維持することを考えた。
「よお…わからんけど…今、僕、ひどいこと、考えて」
先生をレイプしてしまいそうで。
上昇を続けるエレベーターのランプが、そろそろ目的の階に着くことを示している。根津は、苦しそうに呻く種村を見上げて、それから、肩を押さえる腕に手を添えた。汗ばんだその腕が、その筋肉が、びくりと震える。
「………もう、少しだけ」
熱いものがワイシャツ越しに当たっている。その状態で、よくここまで我慢できるものだ。呆れと感心と安易に種村を求めた自分への慚愧の念を籠めて根津は「もう少しだけ我慢して」と言った。
「向こうに着いたら――」
めいっぱいやらせてあげるから。
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