メガネ

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 メガネをかけて一週間がたった。  学校も家も、寝るとき以外、そのメガネを外すことはなかった。  「歩夢(あゆむ)ー、行こうぜ」  クラスメートの子も僕のことを名前で呼んでくれるようになった。  僕にメガネをくれた少女が何者かは分からないけど、感謝していた。  もうメガネをかけないまま過ごすあの世界に戻りたくない。  鮮やかな世界が見える、  この日々がずっと続く、  そう思っていた。  なのに、だ。 「え……?」  放課後、一人で公園に行き空を眺めていた時のこと。  突然、メガネは変化した。  形が変化したのではない。  視界が、僕の世界がフォグブルー色に数秒で戻された。  時間切れだよと告げるみたいに。  驚きと混乱が一気に押し寄せてきた。  どうして急にこんなことが起きるのか、理解できなかった。  心臓が早鐘を打つように鼓動し、冷たい汗が背中を流れる。  何が起きたのかを確かめるために、もう一度メガネをかけ直してみるが、視界は変わらない。  世界が変化した。  いや、戻ったというべきだろうか。  ……戻りたくない、あんな惨めな自分に。  戻りたいなんて望んでいない。  メガネをかけて、かけ直してみたけど、  やっぱり世界が戻らない。  急に怖くなった。  呼吸の仕方が分からなくなるほどに  頭が混乱して、思わずかがみこんだ。  メガネを直す方法を考えた。  するとあの少女の顔がよぎる。  ふと顔をあげると、少女が……いつの間にか僕の目の前にいた。 「おかえり」 「……ねえ、この眼鏡壊れたみたいで、直してほしい」  少女は首を振る。 「お願い、僕はこれがないと生きていけない」  少女は黙ったまま首を振る。 「もう、直せないって、こと?」  途切れ途切れの言葉で尋ねると、少女はまた首を振る。 「直せる」 「それなら……!」 「直す気はない」  黙りこむ僕に、少女は言葉を付け足した。 「この世でもっとも怖いことは、なにも気づかないことだよ」 「……気づかない?」 「あなたは気づかなかったの? メガネをかけても」  こちらをまっすぐと少し睨み付けるように見つめる少女の言葉を、僕は呑み込めない。 「何が言いたい?」 「メガネを通してあなたが見た世界と、今メガネをかけずに見えるあなたの世界に変わりはないはずよ」  どくっと僕の鼓動が鳴った。  少女は表情変えないまままた口を開く。 「あなたはメガネを通して気づいたはず。例え世界が元に戻ったって平気だということ。そしてあなたはこれから先も気づいていかなければならない。人の心にも、自分の心にも、世界に目を凝らして見つけなくてはいけない」  心の中でなにかがさらさらと崩れていく。  砂のように、さらさらと。  なにかは……まだ分からない。 「あなたにもう一度言う。この世でもっとも怖いことは、なにも気づかないことだよ」  少女がまた言葉を重ねる。  気づかない?  僕の気づいていないこと。  それは、なに。  それは……。  最初からそうだった。  机の下に入れた教科書を探した時から。 「あいつってさ、なんかおかしくね?」  実際、彼は心配してそう話していただけ。  それを僕は何も考えずにそのままの言葉を受け取って悪口だと思っていた。  相手の気持ちなんかどうでもいいと無視していたんじゃないか?  僕の世界に敵はいなかった。  僕が思い込んでいただけで。 「君はなんなの?」 「私は……ただの、メガネ屋よ」 「え……?」 「あなたはわたしに気づかなかったね。さよなら」  気づかなかった、なにに……?  リンと鈴がなる。  その時にようやく思い出して、僕は慌てて少女の手をとる。 「待って、君は……」  少女は静かに振り返る。  「今までどこにいたんだ……」  あの顔。  いかに僕が人の顔を見て話をしていないかを知った。 「誰か分かったの?」  少女が呆れたように僕に尋ねた。 「うん。君は、僕の……妹だ」  はっきりと伝えると、少女は少しだけ笑顔を見せた。 「会っちゃいけないっていうの。お兄ちゃんはおかしいからって」 「……おかしい?」 「私は気づいている。お兄ちゃんはおかしくない。でもお父さんにもお母さんにも事情があって、側にはいられない」 「……真奈(まな)」 「お兄ちゃんのことちゃんと見てるから。あなたは嫌われてないよ。お父さんもお母さんも……家族だろうと友達だろうと赤の他人だろうと、人には理由があるの。例え相手から嫌われても、どうしてそうなっているのか、理由を考えて、ちゃんと見てあげて」  黙りこんだ僕を、真奈が抱きしめる。 「また会いに来る」  懐かしくも感じるあたたかいぬくもりを感じて、思い出した気がして、僕も真奈を抱き締めた。抱き締めたあったあと、真奈はそっと僕から離れて、最後に僕に微笑み、背中を向けて歩き出す。  ……追いかけてはならない。  その背中を無理やり引き留めてはならない気がした。  人にはそれぞれ理由がある。  真奈はまた会いに来ると思うから。  --いままで僕はこう思っていた。  『だって僕は普通にしているだけ。  特別、おかしなことをしていない』 『あなたが思うことは、ある意味でただしい』   その少女の言葉は、その生き方も間違いじゃないということだ。でも。  気づこうとしなかった世界に  今、気づこう。  僕は気づいていきたい。  だから。  ……ただいま、僕のフォグブルー色の世界。  『辛いときは上を向いて歩きなさい』  戻ってきた僕は目に見えなくとも、静かにこの世界の色が鮮やかに移り変わるのを感じていた。
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