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「あの人は誰ですか?」
「……それは」
怪盗本人だ、と言うわけにもいかず口を噤む。
「まさか、大夢さんの恋人……?」
「ち、違います! あの……お世話になってる人で」
常和は大夢の説明に納得がいかないような顔をする。
長登が帰ってきたことにほっとしながら、タイミングが悪すぎる、と唇を噛んだ。これでは本当のことがばれてしまう。
「……」
常和は長登と対峙すると大夢の顔を一度見た。状況がわかっていない長登は「ごきげんよう」と妙に優雅な響きを口にした。
「大夢、あがってもらいな」
「……」
「大夢」
「……はい」
常和を中に通し、リビングに連れていく。常和は黙ったままついてきた。
リビングにはあの絵画が置かれていて、それを見た常和が苦しそうに表情を歪めた。
「大夢さん、本当はこの人は誰ですか? お世話になってるだけの人だと思えない」
「……」
常和が絵に目を向け、大夢を見る。この絵はなにかと聞かない長登の様子を訝っているようだ。大夢がなにも答えられないで俯くと、小さな笑い声が室内に響いた。弾かれたように顔をあげ、声のもとに顔を向ける。笑い声は長登のものだ。妙に冷えた声音に鳥肌が立つ。
「俺が盗んだ絵が気に入ったか?」
長登の挑発するような言葉に、常和が大夢を見る。
「あなたじゃなかったんですね」
ほっとしたように呟いた常和は長登を見据えた。
「あなたが怪盗なのか。どうしてこの絵を盗んだ?」
「なんでそんなこと答えなくちゃいけねえんだ」
「絵を返せ」
見たことがないくらい険しい表情をする常和を、大夢は複雑な気持ちで見つめる。
「大夢さんに罪をなすりつけるつもりだったのか?」
「さあな」
常和が正しいし、長登のしていることが正しいわけではない。だが大夢はどちらの肩も持つことができない。ただ黙って会話を聞く大夢を長登の視線がとらえた。
「おまえもこいつに絵を返してやれって思ってるか?」
本心では頷きたいし、頷くしかできない。絵が戻れば常和はなりたくない警察官にならなくて済むし、今の仕事を続けられる。だが長登には長登なりの理由がある。
結局頷けない大夢に常和はひどく傷ついた表情を見せた。
「ふたりが怪盗なんですか?」
「こんなまぬけでぼんやりしてるやつに怪盗なんてできるわけねえだろ」
大夢に向けられた問いかけに長登が答えた。
「これはアシスタントとして使おうと思っただけ」
「……怪盗のアシスタント見習いだったんですね」
眉を寄せた常和は大夢をじっと見つめている。その視線が痛くて、つい目を逸らしてしまう。
「こんなことはやめろ。あなたが怪盗をやることはどうでもいいけど、大夢さんを巻き込むな」
どうしてよく知らない男をそこまで守ろうとするのか。大夢は胸の疼きを振り払うように小さく頭を振った。
「そんなに大夢が大事か?」
「大事だ」
きっぱり答えた声が大夢の耳に重く響いた。
「大夢のこと、たいして知らねえだろ」
「これから知りたい。だからこれ以上大夢さんを巻き込むな」
もう胸の甘い疼きはごまかせない。どくんどくんと響く拍動は常和を求めている。
「そうだな。あんなに熱いキスする仲だもんな?」
「え……」
「俺が知らないと思ったか?」
「どうして長登さんがそれを……」
馬鹿にしたように長登が笑い、また見られていたのか、と怖くなる。常和は長登の笑みに不快そうに眉をひそめた。
「自由にさせてるわけじゃないって言っただろ」
何度も聞いた言葉だ。つまり大夢はいつでも監視されていたのだ。長登はどうやって大夢の行動を知ったのか。大夢が自衛するように自分を抱きしめると長登が嘲笑した。
「大夢はどうしたい?」
「それは……」
その問いに答えが出せない。大夢も常和のことをもっと知りたい。長登の役には立ちたいけれど、常和との距離も縮まるといい、と思っている。どちらも選べない。
口を噤む大夢を一瞥して、長登は常和を見た。
「やっぱりこいつに惚れたか」
なにも答えられない。
「大夢はどうしたい?」
もう一度同じ問いを投げかけられ、意を決して口を開く。
「俺も、常和さんをもっと知りたいです」
大夢の意志が向く先は常和だ、と自覚する。長登は恩人だけれども、常和はきっともっと大夢の中で大きな存在になるとわかる。
大夢の表情を見た長登は「使えないやつをそばに置いとくつもりはない」と吐き捨てた。
「つまり大夢さんを解放するのか?」
常和が聞くと、長登はさらに笑みを深くした。それが得体の知れないもののようで怖くて気持ち悪い。瞳は笑っていなくて氷のような冷たさに見える。
「ちょっと待ってろ」
長登が階段の脇にある一室に入っていく。常和が大夢の手を引いた。
「今のうちに逃げよう」
ついていきたい、と引かれるままに足を踏み出そうとするが、それより早く長登が戻ってきた。
「そう簡単に逃がすわけねえだろ」
先ほどと変わらず冷たい視線にぞくりとする。そんな大夢と対照的に常和は長登を睨みつけた。
「ここまで知ったんだ。生き残ったほうは俺の手足として一生使う」
「どういうことですか?」
長登が手に持った包みからナイフを二本見せた。大夢は身体が強張り、心拍数が異常になる。まさかそんなものが出てくるとは思わなかったので、身体が動かない。
「大夢はこいつを刺せ。おまえは大夢を刺せ」
ナイフを渡され、ずしりと重たい感覚に寒気がする。恐怖で手が震えた。長登はたしかに「こいつを刺せ」と言った。
「どうしてそんなこと……」
「俺が楽しみたいから」
長登は口角をあげた。
「いつか聞いたな。なんで怪盗なんかやってるのかって」
「……はい」
「退屈だからだよ。俺は退屈がなにより嫌いだ」
優しく見える微笑みはとても怖くて、思わず目を背けたくなる。
「本当は俺が両方始末したいとこだけど、ふたりの熱い愛情に負けて、どっちかは生かしてやる」
長登の大きな手が大夢にナイフの柄を握らせる。手が震える大夢を一瞥し、鼻で笑った。
「まあ、生き残っても俺の手足になるだけなんだけど」
「そんなことするはずない」
常和がスマートフォンをとり出した。
「あなたの言うことなんて聞かない。警察に通報する」
本当に通報している常和に長登は焦った様子も見せず、彼の手にもナイフを強引に握らせた。
「両方始末されたいのか? それとも、ふたりがかりで俺を殺してみるか?」
長登は本気だ、と悟った。どうにか常和と逃げ出せないだろうかと考えるけれど、玄関にいくには立ちはだかる長登をなんとかしなければいけない。ナイフなど持ち出すくらいだから、長登はなにを隠し持っているかわからない。逃げるのは無理だと諦めるが、常和を殺されるわけにはいかない。だからと言って長登を刺して常和と逃げるなんて、大夢には絶対できないことだった。
人間は追い詰められるとなんでもやってしまうと思っていたが、存外冷静さを保っている。大夢には常和も長登も刺せない。つまり答えはひとつだ。
ぎゅっとナイフの柄を強く握る。その刃は鋭く輝き、獲物を探しているようだった。
「もう警察がくる。ふたりとも助かる方法だってある」
「その前に俺が始末する」
長登は至極楽しそうに笑い、常和と大夢を交互に見る。常和に手を出されるくらいなら――大夢は自分にナイフを向けた。
「大夢さん!」
常和を守りたい一心でぐっと手に力をこめる。
「さっさとしないと本当に俺が両方始末するぞ。時間もないしな」
大夢の手からナイフをとりあげようとする長登の手を避け、覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。震える切っ先を自分の首にあてる。
「……大夢さんが生きられるなら」
重々しい言葉に瞼をあげると、常和が大夢を見て微笑んだ。その笑顔は、こんな状況なのにとても和らいだ笑みだった。
「俺は絶対に大夢さんを守る」
常和は自らの腹にナイフを突き立てた。
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