109人が本棚に入れています
本棚に追加
常和のことが頭から離れない大夢に、長登はトレーニングの中止を命じた。
「今の大夢には必要ない」
食いさがることを許さない瞳に、長登が言うならそうなのだろう、とおとなしく客室に戻り、カーテンを少しだけ開けてみた。雨が降り出したようで、景色が濡れている。
「……」
なぜか常和があのベンチで待っているような気がして心が騒ぐ。そろそろと静かに階段をおりると、長登は出かけて不在だった。
「……っ」
どうしても気になり、傘を持って公園に向かう。逸る気持ちが大夢を早足にさせ、濡れた地面で何度も靴が滑った。惚れているからではない、ただ心配だからだ、と自分に言い訳をして公園につくと、いつものベンチに常和が座っていた。濡れた姿に心が痛む。
ひとつ深呼吸をしてからベンチに近づいた。
「大夢さん」
常和は心底ほっとしたような表情で大夢を見つめ、「よかった」と呟いた。
「すみません。ちょっと……仕事の都合でこられなくて」
「仕事って、見習いの?」
「……はい」
「そうですか……。なにかがあったんじゃなくてよかった」
雨に濡れた微笑みはこれ以上ないくらい優しく、大夢は冷えた頬がじんわり熱を持つのを感じた。
「まさか、毎日待ってたんですか?」
「はい。すれ違いになるのが嫌で待ってました。きてくれてありがとうございます」
責められて当然なのに常和は今大夢がここにいることを満足しているようで、その姿に心臓が絞られるように痛んだ。
「もう、こられないんです」
「それは仕事で?」
頷いて常和に傘を差し出すと、首を横に振られてしまった。寂しそうに瞳を揺らす常和に大夢は背を向ける。
数歩進んだところで背後から手首を掴まれた。振り返ると常和が真剣な表情で立っている。
「俺は待ってますから」
「待たれても、こられないです」
「それでも待ちます」
手を離した常和はなにかを決意したような目で大夢を見つめる。大夢はいたたまれなくなって顔を背けた。なんとも言えない気持ちで公園を後にする。
常和に掴まれた手首が熱く感じた。
その次の日も雨だった。常和はまた待っているのだろうか、とカーテンを少しだけ開けてぼんやり窓の外を見る。長登からは「トレーニングはやらなくていい」と言われたままだ。なにをすることもできず、ただ窓の外を眺める。長登はいつものようにいないが、どこで見られているかわからない。おとなしくしていなければいけないのに落ちつかない。
「……っ」
我慢できず傘を持って家を飛び出し、公園に向かってしまった。
「常和さん……」
やはり常和は待っていた。傘は差しているけれど、どこか元気がなさそうで、その原因は間違いなく大夢だとわかった。
常和が顔をあげて大夢をとらえた瞬間に、その落ち込んだような表情がふわりと花が咲くように綻んだ。どきりと心臓がせつなく高鳴り、思わず胸もとに手をあてた。
「大夢さん」
立ちあがった常和が傘を落として大夢を抱きしめ、大夢の手からも傘が滑り落ちた。コトン、と傘の骨が地面にぶつかる音が妙に遠くに聞こえる。さらさらと小雨の降る中、常和は大夢をきつく抱きしめた。
「やっぱり待っていてよかった」
微笑んだ常和が大夢の頬に触れる。
なぜそうなったのかはわからないけれど、整った顔がゆっくりと近づいてきて冷えた唇が重なった。唇が離れ、常和がはっとしたような顔をする。
「す、すみません……!」
「……」
頬が熱くてどうしたらいいかわからない。足の位置をずらすことさえできなかった。
そんな大夢を常和がまっすぐ見つめる。視線で絡めとられたように身体が動かなくなり、正反対に心臓が激しく脈打つ。
「大夢さん……」
ゆっくりと、たしかめるようにもう一度唇が触れ合った。
抱擁をとき、常和が傘を拾って大夢に差し出した。我に返ってその傘を受けとり、逃げるように公園を後にする。常和の視線をずっと背中に感じていた。
それからも雨が続き、常和が心配になる。父親とのこともどうなったのだろう、と胸が苦しい。
常和の顔を思い浮かべて唇に触れる。あれはどういうことだったのか。常和も、自分も。
なぜ嫌だと思わなかったのか。なぜ受け入れたのか。なぜ、もっと触れたいと思ったのか――。大夢は自分がわからない。
男性に惹かれたことなどない。だからといって、それは常和に惹かれないという理由にはならないのだと大夢はわかった。
「大夢。ちょっとこい」
ある夜、長登に呼ばれた。ついていくと二階の一室に入るので後に続く。そこははじめて入る部屋で、絵画がずらりと並んでいた。
まさか、と考えて、まさかではない、とぎゅっと手を握り込む。これは長登が盗んできたものだ。
「こっち」
「……はい」
同じ絵画が二枚置かれている前に立たされ、なんだろう、と長登を見る。
「どっちが本物だと思う?」
「え……」
絵画をじっと見ても当然わかるはずがない。
「なんとなくでいいから選んでみろ」
左右の絵を見比べるが、やはりわからない。それでも何度か視線を往復させ、左の絵画で視線を止めた。
「左が本物ですか?」
「なんでそう思う?」
「なんとなく」
本当になんとなくだからそう答える。
「なんとなくじゃわからない」
「なんとなくでいいって言ったじゃないですか」
大夢が眉をひそめると長登は「そうだった」と笑った。久々に長登が笑っているところを見てほっとする。
「あたり」
「え?」
「左が本物だ」
もう一度左右の絵を見比べるが、どこに違いがあるのか、まったくわからない。
「どうしてわかるんですか?」
「俺はなんとなくじゃない。右はサインの綴りが間違ってる。明らかな偽物だ」
「あ……」
たしかに左右の絵でサインの綴りが違う。だが大夢にはどちらが正しいのかもわからない。
「もっと精巧につくられたものもあるから、これはわかりやすいほうだな」
長登が口角をあげた。
「とりあえず、大夢の『なんとなく』はあてになるわけだ」
「たまたまですが」
目を細めて長登が大夢を見る。睨まれているようにも思えて、少し怖かった。
「ここまで知ったら簡単に逃げられないからな」
「逃げる場所もないですが」
長登に頭を小突かれ、気まずかったのがとけていくようでよかった、と胸を撫でおろす。
「怪盗なんて、漫画や映画の世界みたいに恰好よかったり綺麗なもんじゃない。俺はいざというときはおまえを切り捨てるからな」
「……はい」
つまり「覚悟しておけ」ということだとわかり、思わず顔が強張った。そのとき自分がどうなるかわからないけれど、どんなことでも長登の役に立ちたい。
だが頭の中に、心に、常和がいる。触れ合った唇が火照っているように感じて落ちつかない。
最初のコメントを投稿しよう!