この愛を選びたい

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「おい、渡利(わたり)。この書類一時間でまとめろ」 「は、はい」 「渡利、次はこっちな」 「わかりました」  大夢が新卒で入った会社はブラック企業だった。同期で入った人達はすぐに逃げるように辞め、大夢も辞めたいと思ったときにはもう遅かった。どんなに退職願を出しても突っぱねられる。それを出すと、余計なことを考えるな、というように仕事をどんどん押しつけられる。そのうちに退職願を書く気持ちの余裕さえなくなり、言われるままに仕事をするようになった。その態度が使い勝手がいいらしく、新入社員でさえ入社するなり続々と辞めても大夢は辞められない状態に陥れられたのだ。  深夜帰りの早朝出勤は当たり前、パワハラもあって当然で、身も心もぼろぼろになった。ストレスから食べものも受けつけなくなって痩せていき、死ぬまで辞めさせてもらえないのだろう、と思っていた。  そんなある日、大夢は突然ひらめいた。問題を起こせば強制的に退職になるのではないか。だが罪をおかす度胸など大夢にはない。それでもこのままは耐えられない。天秤は「耐えられない」に傾いた。  てっとり早く問題を起こせる方法はないだろうか、と始発電車でSNSを見ていたら、「怪盗アシスタント募集。ゆくゆくは怪盗に」という、いかにも怪しい募集の投稿を見つけた。どう考えても怪しいアルバイトだが、睡眠二時間で頭が働かない大夢にはひと筋の光に見え、すぐに応募した。  怪盗といえば、今世間を騒がせているのは「怪盗シマエナガ」という本当にいるのかどうかわからない人物がいる。手あたり次第に美術品を盗んでいき、大胆な犯行にすぐ捕まるかと思いきや一向に捕まらない。警察と通じているのではないかという噂もある。そもそも怪盗自体存在しないのでは、という説もあり、謎の存在として皆が口々にその名を呼ぶ。  ここから抜け出せるならなんでもいい――大夢はぽつりと呟いた。  三日後、大夢は島江(しまえ)長登という人物と向かい合っていた。指定された場所は大きな川沿いにある、今は使われていない貸倉庫の前だった。  春風が軽やかに頬を撫でていくが、その爽やかさが今の大夢には違和感でしかない。桜が散って二週間ほど経った。柔らかい陽射しに包まれて深呼吸をしたくなる、そんな心地よい日だ。 「おまえが渡利大夢?」 「は、はい……」 「スマホめちゃくちゃうるさいんだけど」 「……」  長登の言うとおり、ずっとスマートフォンが鳴り続けている。無断欠勤をしたからだ。『逃げられると思うなよ』と脅しのようなメッセージも次々送られてくる。文字を目で追いながら、逃げられそうだ、と大夢は安堵した。 「で。怪盗のアシスタントに応募ありがとう。他の応募者は悪戯だな、絶対こない。というか本当にくるやつがいるとも思わなかったんだけど」 「いえ。……あの、本当に怪盗なんですか?」  疑うのか、と言うように長登が片方の眉をあげる。  長登の説明によると、長登こそあの「怪盗シマエナガ」らしい。本当かどうかはわからないが、あの環境から逃げられるならばなんでもいい。ついに自分は犯罪へと手を染めるのだ。そうしたところで悲しむような人は大夢にはいないが。  向かい合う長登をじっと見る。大夢と違い、整った顔立ちの男性だ。年齢より若く見られることの多い大夢は黒髪に奥二重でつり目、ストレスからの痩せた体形と明らかに地味な外見を持っているが、対する長登はダークブラウンの髪に涼しげな切れ長の目が印象的な美丈夫で、平凡な大夢とは住む世界の違う人間だ。真っ黒な瞳に魂を吸いとられそうで怖い。身長一七二センチの大夢を見おろす長登は一八〇センチを軽く超えているだろう。白いシャツに黒のスキニーパンツがすっきりした印象を与える。小さく可愛らしい印象のシマエナガよりも、大きく強い鷲のようだ。もっと恰好いい名があるだろうに、なぜシマエナガなのか。なにかの暗号だろうか。 「なんでまたこんな怪しい仕事に応募した?」  自分で言うか、と思いながら正直に答える。 「会社から逃げるためです」 「なるほど」  そのひと言と鳴り続けるスマートフォンで長登はすべてを理解したような顔をする。 「まあいいけど。覚悟してきたんだよな?」 「できてるつもりです、が、本当に怪盗なんですか?」  もう一度聞いてしまう。「怪盗シマエナガ」の名前が「島江長登」というそのままなのも嘘っぽさが増している。偽名かもしれない。 「疑うなら帰れば? 帰れるなら、だけど」 「……」  今帰ったらきっと会社の人間に捕まるだろうし、またあの会社でひどい扱いをされなければいけない。今度こそ死ぬまで逃げられないだろう。 「帰りません。……帰れません」 「ふうん」  大夢を見つめた長登はにやりと口角をあげた。その表情が少し怖く、冷たいものがかすかに背中を通り抜けた。 「乗れ」  知らない人の車に乗ることに一瞬悩んだけれども、まあいいか、と自分でも驚くほど腹が据わって、言われたとおりに長登の車に乗った。大夢がシートベルトをするのを確認もせずに車は走り出したが、そのわりに運転は慎重で、丁寧にハンドルを切っているのがわかる。 「どこにいくんですか?」  もしや、もうなにかを盗みにいくのだろうか、とどきどきと緊張で脈が速くなる。そんな大夢の様子を横目に見た長登は意味ありげな笑みを浮かべ、「うちにこい」と言った。 「大夢、年齢は? あ、『さん』づけしてほしいとか偉そうなこと言うなよ」 「言いませんけど……。二十七です」 「ふうん。二十歳くらいかと思った。俺は答えねえぞ」 「まだ聞いてません」  長登は見た目だけだと三十代ほどに見えるが、聞くな、と暗に釘を刺されたのでそれには触れない。信号で車が停まり、長登は口角をあげて大夢を一瞥する。なにかを含むような笑みに居心地が悪い。試されているような、心の内を見透かすような、そんな視線を向けられる。 「大夢はくじ運が悪そうだな」 「そうなんです」 「ついでに貧乏くじを引くタイプだ」  大正解でなにも言えない。あのブラック企業も明らかに貧乏くじだ。いや、そんな言葉で済ませられないくらいひどかった。 「聞きたいことあるか?」 「島江さんは本当に怪盗なんですか?」  間髪入れずに質問すると、「またそれか」と笑われた。 「長登でいい」  芸術品のような笑顔にはわずかな愛嬌があるように感じられるが目が怖い。笑っていながら心は許していないような鋭い瞳だ。 「まあ、怪盗かと聞かれて『はい』って簡単には答えないよな、普通は」 「はい」 「そういうもんだ」  結局はっきりと答えはもらえず、車は進んでいった。  郊外の白い一軒家が長登の自宅だった。表札はなく、敷地内に花壇があるがなにも植えられていない。殺風景な外観と同じく室内も必要最低限のものしかなく、白を基調にしてソファやテーブルが揃えられている。昼間なのにベージュの遮光カーテンが閉められ、春の陽射しが入ってきていないせいか、室内が妙にひんやりと感じられた。  広いリビングと右奥にカウンターキッチンがあり、手前に階段が伸びている。階段の脇に部屋があって、階上にも数室ありそうだ。 「うるさいな」  大夢のポケットに入っていたスマートフォンが、いつの間にか長登の手にある。鳴り続けるスマートフォンの画面を確認した長登は自身のスキニーパンツのポケットにそれを入れた。 「とりあえず、その目の下のくまをなんとかしろ」 「え……」 「入れ」  背中を押されて二階にあがり、客室と思われるシンプルな一室に押し込まれた。そこはリビングと違いグリーンの遮光カーテンがかかっていた。セミダブルベッドとひとり掛けのソファ、ローテーブルが置かれている。 「あの……?」 「そのくまがとれるまで出てくるな」  ドアが閉まったのでドアノブをまわしてみるがまわらない。鍵がかかっているようだ。 「まあいいか」  ここでどうなろうと自分を心配する人間はいないし、寝ているあいだに命を奪われたとしても誰も悲しまない。むしろこんな昼間から堂々と寝られるのだ、とすがすがしい気持ちだった。 「お借りします」  ベッドに横になると今まで寝ていた煎餅布団と段違いのふかふかさで、すぐにうとうととしはじめた。格別の寝心地に、あっという間に眠りに落ちた。
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