この愛を選びたい

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 瞼をあげて、ここはどこだ、と考え、寝ぼけ眼で室内を見まわして思い出す。怪盗シマエナガ――長登の家の客室だ。いや、あの人が本当に怪盗かはわからないから、怪盗と自称する男性だ。  カーテンの隙間から外を見るとまだ明るい。どのくらい寝ていたのだろう、と置時計を見たらベッドに入ってからまだ一時間しか経っていない。それでも身体がとても軽く、頭が重たいこともない。しかも仕事にいかなくていい。こんなにすっきりした目覚めは何年ぶりだろう。  ドアノブをまわすと先ほどと違い、簡単にまわった。もう鍵はかかっていないようだ。ドアを開けて廊下を進み、階段をおりる。リビングには長登の姿があった。 「まあ、まだいいかな」  大夢の顔を見た長登は満足そうに、にやりと口角をあげる。長登は着替えたようで、ブルーのシャツにダークネイビーのスラックスを身につけている。 「丸一日寝たらさすがに体調よさそうだな。昨日の真っ青で今にも倒れそうな顔とは大違いだ」 「えっ、一時間だけ寝たんじゃ」 「昨日の今頃客室に押し込んでそのまま出てこなかった。窓から逃げたのかと思ったらしっかり寝てたな」  くくっと笑う長登は大夢が逃げると思っていたようだ。逃げる場所がないのはわかっているだろうに。  それにしても一日も寝てしまったのか、と驚いてしまう。そんなに寝たのは学生の頃が最後ではないか。いや、学生の頃もアルバイトのかけ持ちでそれほどゆっくりと寝たことはない気がする。なんの心配もせずにゆっくり寝るのは本当にいつぶりだろう。 「ほら」  黒いエプロンを差し出され、受けとると背中を押される。 「え?」 「なんか作れ」  広々としたオープンキッチンは使いやすそうだが、あまり使われているように見えない。ついでに言えば長登が料理をするところも想像できない。  エプロンをつけて冷蔵庫の中を確認する。料理は得意ではないが、できないこともない。冷蔵庫には食材がたくさん詰まっていた。 「メニューは任せる」  じゃがいもと人参と豚肉がある。探すと玉ねぎとカレーのルウもあった。 「カレーでいいですか?」 「いい。別に好き嫌いないから」 「わかりました」  長登は好き嫌いがない、と脳にインプットする。まな板を出していると長登がそばに立った。 「手伝ってくれるんですか?」 「まさか」  笑って冷蔵庫からビールをとり出す姿を見て、そうだろうな、と思いながら野菜を切りはじめた。 「どこででも寝られるっていうのはいいな」 「どこででもというか、もう限界だったのかと」 「たしかにそんな顔してたか」  声をあげて笑う長登は芸能人顔負けの美形だけれど、その実は怪盗らしい。大夢もそのつもりでこの人に会ったのだが、やはりまだ信じられない。からかわれているだけのような気もしてしまう。 「久々にきちんと寝られました」 「そりゃよかったな」  缶ビールを呷った長登がまた笑う。なんというか、さばさばした人だと感じるが、その内側はなにを考えているかわからないような目をしている。 「スマホは充電が切れる直前まで鳴ってた」 「あ……」  そういえば長登にスマートフォンをとりあげられたままだ。使うこともないからいいか、と考えると肩が軽くなったように感じた。本当に逃げ切れたのだ。 「怪盗のアシスタント志望するより、さっさと転職すればよかったんじゃねえの?」 「辞められなかったんです」  肉を炒めながら答えると長登は「それはそれは」とまた可笑しそうに笑う。他人ごとのようだな、と思いながら、他人ごとか、と大夢はなんだかほっとした。仕事や会社にまったく関係ない人といることがなによりの安堵だった。 「親のところとかに逃げなかったのか?」 「親はいません」  両親は大夢が小学生のときに事故で他界し、それからは遠い親戚のところを転々としていた。大学入学と同時にひとり暮らしをはじめたところに今も住んでいる。いや、あの部屋にまた帰る日がくるかどうかはわからないけれど。  大夢の説明を長登は軽い相槌でふんふんと聞いている。大夢の育った環境についてこうやって聞いてくれる人も久しぶりだ。 「なるほどな。そりゃご苦労さん」 「苦労、したんでしょうか」  思い返してみてもよくわからない。 「してないんなら、それはそれでいいんじゃねえの?」 「そう、ですね」  たしかにそのとおりなので素直に受けとると、長登は満足そうだ。 「大夢は黙ってると怒ってるみたいに見えるな」  言葉がぐさりと心に刺さった。昔から言われてきたことだが、やはり指摘されるとショックだ。 「すみません」  謝ると長登が冷蔵庫から出した缶ビールを大夢に差し出す。 「悪いことしたら謝れ」  はっとして、就職してからずっと理由もなく謝り続けていたことを今さら自覚する。息をするように「すみません」と言い、人の顔色を見てすごし、問題が起こる前に引く。どこにも自分がなかった。  缶ビールのプルタブをあげて呷り、切った野菜を鍋に入れる。 「ありがとうございます」  大夢の感謝を長登は満足そうに受けとってくれた。
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