109人が本棚に入れています
本棚に追加
気がついたら寝ていたようだ。瞼をあげて時計を見るとちょうど午前十一時になったところだった。
リビングに長登の姿はなかった。カーテンの隙間から窓の外を見ると車もない。どこかに出かけたのかもしれない。
勝手に人の家の中をうろうろするのは気が引けてまた客室に戻った。今度はベッドには入らず、ひとり掛けソファに腰をおろした。
時間の流れが穏やかだ。なにかに急かされることもなく、苦しいこともなく、ただのんびりとすぎていく。味わったことのない解放感は大夢を元気にさせた。あそこから逃げられるなんて想像もできなかった、と思うと、この自由をどんなに感謝してもし足りない。
正午になり、再びリビングにいくがやはり長登の姿はなかった。腹が鳴ったので、パンを焼いて食べた。このパンも大夢が食べたことのあるどのパンよりもおいしかった。解放感がさらにおいしく感じさせるのかもしれない。
「さて。どうしよう」
パンを食べ終えて、なにをしたらいいのかわからない。家の中にいてなにか触ってはいけないものなどに触ってしまったら嫌なので外出しようと考える。車でここにくる途中に公園があったのでそこにいってみたい。勝手に出かけていいものかどうかもわからないが、長登のいない家の中にひとりでいる違和感が気持ち悪いので出かけることにした。
玄関には鍵がひとつ置いてあって、それを借りて家を出た。長登が帰ってきたときに怒られるだろうか、と心配になったが、よく知らない人の家でぼんやりしているより、外で時間を潰すほうがいい気がして公園に向かった。
天気がよく、青空が澄んでいる。優しい春風が通りすぎると爽やかな気分になり、とても心地よくて思わず深呼吸をしてしまった。こんなにゆったりした気分になるのは本当にはじめてかもしれない、と次第にわくわくしはじめた。
歩いて十分もかからずついた公園は大きくて、たくさんの木々が大夢を迎えてくれた。花壇には綺麗な花が咲き乱れ、心を明るくしてくれる。ゆっくり一周まわると十分以上かかった。数日前の大夢には考えられなかった自由だ。
少しのんびりしよう、とベンチを探すと、こんな昼間からスーツ姿の男性が俯きがちに座っている。なんだか気になってじっと見ていたら、男性が顔をあげて目が合った。色素の薄い髪に、すっと通った高い鼻梁、綺麗な二重で瞳はヘイゼルで、その視線は力なくこちらに向けられている。長登と比べても劣らない美形だ。
男性が小さく頭をさげるので、大夢も合わせた。
「お散歩ですか?」
「はい」
場所を空けてくれて、大夢は隣に座った。男性は座っていても背が高いことがわかる。足が長くてスタイルもいいと思う。
こういうときはどうしたらいいのだろう、と考えて、とりあえずあたり障りなく「いい天気ですね」と声をかけた。
「はい……」
天気と正反対の暗い声音で男性が答えて俯く。暗いな、と思ってはっとする。数日前の大夢もこんな感じではなかったか。ちらりと男性を見る。この男性ももしかしたら職場でひどい目にあっているのかもしれない。逃げたくても逃げられない――そう考えたら胸が詰まったように苦しくなった。
「大丈夫です!」
声をあげると男性は驚いたように大夢を見た。
「つらいことはいつまでも続きません。……たぶん」
そこまで言ってから、勝手に言い切っていいものかと控えめになってしまった。これでは説得力がない、と大夢まで落ち込む。
男性はきょとんとしてから表情を和らげ、笑い出した。綺麗な笑顔にどきりとして、なぜ男性相手に「どきり」なのだと自分に疑問を抱く。
「そのとおりですよね」
吹っ切れたような笑顔に大夢も心が明るくなる。笑顔がよく似合う人だ。
「俺は日賀野常和です。あなたは?」
「え?」
「恩人の名前を知りたいです」
「恩人?」
恩人とはなんだろう、と首を傾げてしまう。
「あ、もちろん無理にとは言いません」
「いえ、ただ恩人の意味がわからなくて……。渡利大夢です」
「そのままです」
微笑む姿に心が温かくなる。こういう笑顔を自然に向けられる人になりたい、と思った。
「渡利さんの言うとおりですよね」
「すみません。日賀野さんの事情を知らずに」
「下の名前で呼んでください。今はちょっと、名字を聞きたくないんです」
「……?」
よくわからないが本人がそう言うなら、と名前で呼ぶと、常和は大夢の手を両手で包む。
「本当にありがとうございます。渡利さん」
「俺も大夢でいいですよ。それより――」
この手を離してほしい、と包まれた手に視線を落とすが、そんな大夢に気がつかないようで常和は深々と頭をさげた。
「大夢さんの言葉ではっとしました。つらいことは続かない――そんなことにも気づけなかったなんて」
照れたように笑う顔が可愛いが、とにかく手を離してほしい。
「あの、手を……」
「あっ、失礼しました!」
頬を染めた常和が慌てた様子で大夢の手を解放する。それでもその表情は晴ればれとしていて、大夢まで口もとが緩んでしまう。
「大夢さんはこの近くに住んでいるんですか? 俺はすぐそこなんです」
「えっと、まあ……」
どう説明したらいいかわからないし、長登の家の場所など話していいことではなさそうなので適当に濁す。
「俺、よくここにくるんです。自然の中って落ちつきますよね」
常和が空を見あげ、つられて大夢も視線をあげた。
「そろそろいきますね」
常和がベンチから立ち、大夢もなんとなくそれに倣う。
「ありがとうございました」
すがすがしい笑顔で去っていく常和を見送り、大夢はもう一度ベンチに座った。
「つらいことはいつまでも続かない――か」
どうしてあんな言葉が出たのだろう。常和に自分を重ねたからなのだが、自然と口から滑り出た。無意味な言葉で励ましたかったわけではなく、心の底からそう思ったのだ。常和のつらいことがなにかはわからないが、もし本当に大夢と同じ状況だったなら必ず救いはある。
「頑張れ」
常和になのか、自分になのか。エールを送って大夢も立ちあがった。
帰宅しても長登はいなかった。どこにいったのだろう、と考えて、もしかしたら騙されたのかも、とふと思った。けれど大夢を騙したところでなにも得るものがない。ついでに言えば騙されたと感じているのは長登のほうだろう。こんなに使えないやつだとは――と。
なにをしたらいいかわからずに悩んでいたら、長登に言われたことを思い出した。
寝ろ。
食事の時間には起きてこい。
食事は出かける前にパンを食べたので客室に戻る。ベッドに入ったらあっという間に眠りの世界に吸い込まれていった。夢の扉の門番は常和と同じ顔をしていた。
瞼をあげると真っ暗だった。照明をつけてカーテンの隙間から外を見るともう夜で、こんなに寝てしまった、と階段をおりるとリビングに長登がいた。
「どこにいってたんですか?」
「どこだっていいだろ」
「それは……そうですね」
口を噤むと、長登はそんな大夢を鼻で笑った。
「食事は?」
「昼に食べました」
「食事の時間には起きろって言っただろ」
「寝てしまって、つい。あと、さっき近くの公園にいきました。すみません」
タブレットから視線をあげた長登は、見定めるような瞳で大夢を見つめる。その視線の強さに怯んだ。
「大夢はそれを悪いことだと思ってるわけだ?」
「だって勝手に外出して……」
「俺はおまえを監禁してるつもりはないけどな」
気分を害しただろうか。
「すみません」
慌てて謝ると呆れたような顔をされた。その表情の意味がわからず疑問符を浮かべると、長登はソファから立ちあがった。背の高い長登に見おろされ、威圧感に呼吸が詰まる。
「それ楽しいか?」
「え?」
「すみませんすみませんって、楽しいか?」
そう言われても、謝る以外にどうしたらいいのかわからない。こういうふうに大夢自身を問うようなことを言われるのもはじめてのように感じ、それは怪盗のアシスタントという突飛な仕事以上に驚くことだった。
「あの、長登さんは俺が邪魔じゃないですか?」
「邪魔だと思われるような、なにかをしたのか」
「して、ないと思いますが」
「だったらしゃんとしろ」
しゃんとする、とはどうするのだろう。とりあえず姿勢を正してみると笑われた。間違っていたか。
「夕食。腹減った」
「わかりました」
冷蔵庫には使った分だけ補充されていて、好き嫌いがないと言っていたのでチキンソテーを作った。ソースなんてしゃれたものは作れないからバター醤油で絡めただけだが、長登は黙々と食べてくれた。口に合ったようだ。
「洗濯は俺がやるから勝手にやるな」
「俺がやりますよ。お世話になってる身ですし」
「そう思うならなおさら勝手に洗濯するな」
「はあ……」
よくわからないけれど、ここは言うとおりにしたほうがよさそうだ。シャワーを浴びた後、シャツ類は洗濯カゴに入れたままにした。長登はそれをちらりと見ただけだったが、なにか深い意図がありそうに感じた。大夢が聞いたところで教えてくれないということも、雰囲気から感じとれた。
シャワーの後はまたベッドに入った。起きていてもなにかをするわけではないし、長登もただタブレットを見ているだけだから、早々に寝ることにした。だが、昼間思う存分寝たのでもう寝られないかもしれない。
そんな心配をよそに睡眠欲はしっかりあるようで、すうっと眠ってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!