この愛を選びたい

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 三日間きちんと食事をしてよく寝る生活をしたら食欲も自然と湧いてきて、自分が健康になったように感じた。そんな大夢の様子を見た長登は「そろそろ特訓をはじめるか」と言った。今ならなんでもできそうだ、と意気込んで返事をする。ようやく長登の役に立てるかもしれない。自分になにができるかわからないけれど、精いっぱいで頑張りたい。 「腹筋背筋腕立て伏せ二百回ずつ」  さっそく「精いっぱい」がしぼんだ。長登はそれを許さず、長登が腹筋をする横で大夢も同じ動きをする。だが大夢はすぐに音をあげた。 「む、無理です……」 「そんなんじゃなにも任せられねえな」  頑張らなくては、と思うのに身体がついてこない。気合いを入れて腹筋を再開する。 「妙に気合い入ってるな」 「長登さんの、役に、立ちたい、ので……っ」  腹筋をしながら答えると、そんな大夢を一瞥した長登は「ふうん」とだけ反応した。なにか間違っていただろうか、と急に不安になるが、長登は面白いものを見つけたような顔をしている。 「ちょっとは『意志』が戻ってきたか」  長登も腹筋を再開し、軽々とこなしていく。もうすでに腹が攣りそうな大夢は、たしかにそうかもしれない、と今の言葉を反芻した。自分でもなにかができることを知って、それをやりたいと思った。身体が元気になると心もついてくるのかもしれない。 「じゃあその気合いでメニューをこなせ」 「はいっ」  ひいひい言いながら頑張っていると、長登が立ちあがって玄関に向かう。 「見張って、なくてっ、いいん、ですかっ?」  もう腹筋が限界に達している。大夢は悲鳴をあげてしまいそうなのを堪えて長登に問う。見ていないとずるをするかもしれない、と考えないのだろうか。 「だから、俺はおまえを自由にさせてるわけじゃないって言っただろ」 「……?」  やはりその意味がわからない。長登は少し口角をあげてから家を出ていった。どこにいくのか知りたいけれど、車で出かける長登を徒歩で追いかけることはできない。 「とにかく頑張ろう」  必死で腹筋に励む。休憩を挟みながらなんとかメニューをこなしたら昼すぎになっていた。 「……」  なんとはなしに足が公園に向かった。いつものベンチにいくが、常和はいなかった。なんだか残念に思い、ひとりベンチに腰掛ける。  空を見あげると真っ青で雲ひとつない。名前のわからない鳥が視界の右から左に飛んでいく。穏やかな風が吹くと、ささやかに木々がざわめいた。  本当に自分にもなにかができるのだろうか――少し不安になるが、常和の顔を思い出したら不思議と力が湧いた。頑張ろう、そう呟いて長登の家に戻った。  翌日、しっかり筋肉痛になった身体を引きずるように自主的に早朝トレーニングをはじめ、公園でランニングをすることにした。  木の連なりで影ができている小道を走っていると、いつものベンチに常和の姿を見つけた。思わず足を止めてその姿をじっと見てしまう。常和は暗い表情で警察官採用試験の問題集を開いていた。「警察官」の文字に長登の顔が頭に浮かび、なんとなく近づけない。  常和は警察官志望なのだろうか、と考え、父親から仕事を辞めるように言われていると話していたことを思い出した。それらはきっと関係があるのだろう、と思うが、なんにしてもあまり関わらないほうがいいかもしれない、と再び走り出そうとしたら顔をあげた常和と目が合った。 「大夢さん」  力なく笑う常和を放っておけない。弱い自分が嫌になるが、トレーニングを中断してベンチに近寄った。 「今日はお散歩じゃないんですか?」 「ちょっと……トレーニングを」 「そうですか……」  ぼんやりしている常和は明らかに様子がおかしくて、なんと声をかけたらいいのかわからない。関わらないほうがいい――そう思うのにどうしてか気になってしまう。 「お父さんとなにかあったんですか?」  思わず聞いてしまうと、常和は小さく頷いた。 「実は、仕事を辞めて警察官になれ、と言われていて」  その視線は問題集に向けられず、どこか遠くを見ている。なにか事情がありそうだけれど聞いていいのかわからないし、それほど深く関わっていいのかもわからない。長登に確認してから常和との接触を考えたほうがいいかもしれない、と思ったら、頭の中に「意志」という言葉が蘇った。今、大夢の意志はどこにあるのだろう。 「あの……聞いてもらえますか?」  常和が恐る恐るといった様子で大夢に声をかけた。大夢はどうするべきか悩んで、自分がどうしたいかを考えた。  どうしたいか――常和の話を聞いて、彼の心が和らぐための手伝いができたらいい。  答えが見えたので、「俺でよければ」と緊張しながら答えた。 「大夢さんは『怪盗シマエナガ』って聞いたことありますか?」  どくんと心臓が嫌な音を立てる。 「噂くらいは」  平静を装って軽く受け流すと常和は深く嘆息し、「大夢さんだから話しますね」と前置きする。 「実は俺の父が怪盗に絵画を盗まれて」 「えっ」 「驚きますよね」 「は、はあ……」  長登の顔が頭に浮かび、冷や汗が背筋を伝う。これは本当に関わらないほうがいいかもしれない、と今さら思うが、もう遅いだろう。常和は一度唇を引き結んでから口を開く。 「俺は怪盗なんて実際にはいないと思っていたんです」 「そ、そうですよね……」 「それでも本当に絵が盗まれて、怒った父から『警察官になって怪盗を捕まえろ』と言われて」  頭の中にまた長登の顔が浮かぶ。もしあの人が本当に怪盗ならば、盗んだのは長登だ。 「俺は仕事を辞めたくないし、警察官なんて務まりません」 「はあ」 「……でも、俺も身体づくりをしたほうがいいのかな」  どこか諦めを感じさせる瞳は遠くを見ていて力がない。その弱々しい眼差しに、「この会社で死ぬまで働くのか」と絶望していた自分を重ねてしまう。大夢は長登に救われてその暗い場所から抜け出せたが、同じ人物のせいで絶望に入っていかなくてはいけない人がいる――複雑な思いが交錯し、大夢は俯いた。 「こんな話をしてすみません」  慌てた様子で謝罪する常和に首を横に振る。 「お父さんの言うことは絶対なんですか?」 「絶対というか、これまでしっかり育ててくれた人に親孝行をしたい気持ちをうまく利用されているようで……」 「はあ」  親のいない大夢にはよくわからない感覚だ。両親が生きていたとしても、わからなかったかもしれない。 「でも、常和さんの人生は常和さんのものですよね?」 「……!」  はっとしたように目を瞠った常和が、がっと強く大夢の手を握った。驚きすぎて大夢は肩が上下した。 「大夢さん。よかったらこれからも話を聞いてくれませんか?」 「……俺なんかでよければ」  答えてから、まずかったかな、と後悔したが、すでに常和は目をきらきらさせていた。 「もう一度父と話し合ってみます」  立ちあがった常和は打って変わって明るい表情でひとつ頭をさげた。その背を見送った後、思わずため息が零れてしまう。なんだか心がすっきりしない。
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