この愛を選びたい

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 早朝ランニングを切りあげて長登の家に戻ると、反復横跳び百回と言われてさらに気持ちが萎えた。だがやらないわけにはいかない。  反復横跳びをしながら考える。もしかしたら怪盗のアシスタントなどに応募しなくても、無断欠勤してしまえばよかったのかもしれない。そんなことを今になって思いついたが、すぐに打ち消す。自宅の住所は会社に知られていたから、誰かがきて引っ張り出されただろう。やはりこういう形でしか逃げられなかったのだ、とため息をつくと背中を強く叩かれた。 「辛気臭い」  そのとおりだ。今は自分のするべきことをしなければ、と足を動かす。だがすぐに足ががくがくしてきて、ついに座り込んでしまった。 「情けねえな」  そう言われても、今までデスクワークしかしてこなかった大夢にはきつすぎるメニューだ。 「もう無理か?」  きつすぎる。だが首を横に振る。無理だと言ったら、「もうやらなくていい」と言われるかもしれない。それは長登の役に立てないということだ。やれないなどと弱音を吐けない。  大夢が立ちあがると、長登がその場に座った。 「ちょっと休憩。大夢も」  そう言われてしまえば、もう一度座るしかできない。汗を拭く長登を見ていると、怪盗なんてやっているようには見えない。どうして怪盗などやっているのだろうか。聞いてみたいけれども、興味本位で聞いていいとも思えない。つい長登をじっと見てしまった。 「見学料とるぞ」 「……高そうですね」 「当たり前だ」  呆れた顔で視線を向けられ、見学料をとられてまで見たいわけではないのですぐに目を逸らす。世の女性達ならば金を払ってでも見たい顔かもしれないが。  そういえば、ともうひとりの美形――常和の顔が頭に浮かんだ。 「公園で警察官志望の男性と知り合いました」 「ふうん」  たいしたことではないような相槌に、大夢のほうが不安になってしまう。 「あまり関わらないほうがいいですよね?」 「大夢のしたいようにすれば?」 「でもその人、警察官志望で――」 「だから?」  聞き返されてしまい、なにも言えなくなる。長登にとっては本当にたいしたことではないのかもしれない。その割り切ったような様子に大夢は少し心が軽くなった。 「俺は関わりたくないけど、大夢が関わりたいと思うなら関われば?」  さらりと言われ、また大夢は自問する。自分はどうしたいのだろうか、と首を傾けた。  どこか心細そうな常和が気になるといえば気になる。だからといって大夢は本当になにもしてあげられない。できるとしたら話を聞くことくらいだ。 「あの、もうひとつ聞きたいことがあるんですが」 「ちゃんとメニューやっとけ」  問いかけを遮った長登はさっと家を出ていってしまった。  もうひとつ聞きたいこと――常和の父親の絵画を盗んだ理由が知りたい。本当に長登が盗んだのか、なぜ盗んだのか。 「……はあ……」  聞けなかった問いが頭の中でぐるぐるまわる。それに長登はいつもどこにいっているのだろうか。疑問に思うが聞いていいのかわからない。目を離した隙に大夢が逃げ出すと思わないのだろうか。  ――俺はおまえを自由にさせてるわけじゃない。  長登の声が耳に蘇り、なんとなく身震いした。あの人にとって大夢はとるに足りない人間であると考えると、なんとなく長登の行動が納得できた。大夢がいなくなったところで長登は困らない。  その日、長登は帰宅すると赤ワインを飲みはじめた。高級そうなボトルを見ながら、大夢はぎゅっと手を握り込んだ。 「長登さんの『仕事』について教えてください」  大夢の目をじっと見た長登は口角をあげ、隣に座るように促した。 「俺が盗んでるのは、正規のルートで手に入れられたものじゃない美術品だ。依頼があると探し出して本来の持ち主に返す」  その説明に常和の顔が浮かんだ。彼の父親もまた、そのようにして手に入れた絵画を長登によって盗まれたということだろうか。 「手あたり次第に盗んでると噂されてますが、そうじゃないんですか?」 「そんなことしてたら身体がいくつあっても足りねえ」  たしかにそれもそうか、と思う。盗むことにはリスクも伴う。そう考えれば手あたり次第になんて無理だと素人の大夢でも思い至る。 「持ち主に返したら謝礼をもらってく。現金だったり宝飾品だったり」 「それって、勝手に持っていってるんですか?」 「まあ、そういうことになるかな」  笑う長登に大夢は笑えない。 「とり戻した美術品に比べたら価値のないものをもらってるよ」 「もしそうじゃないものを持っていってしまったらどうするんですか?」  長登はワイングラスを揺らして大夢を横目に見た。 「そうならないように下調べすんだよ」 「はあ」  納得できるようなできないような、よくわからない説明に曖昧に頷く大夢を、長登は値踏みするように見ている。もしかしたら素質を見られているのかもしれない、と思うが、心を偽って「それは素晴らしい」とは言えない。 「長登さんはどうしてそんなことをしているんですか?」 「聞いてどうするんだ?」  問い返され、どうするか、と考えたら常和の顔が頭に浮かんだ。自分は長登の立場を肯定したいのかもしれない。たとえ自己満足でも、大夢の中でだけでも長登を悪者にしたくない気持ちがある。 「長登さんにも理由があることを知って納得したいんです」 「おまえに納得してもらうことじゃねえ」  勇気を出したが突っぱねられてしまった。「もういいだろ」とタブレットに視線を落とす長登の肩を掴んで揺らし、こちらに意識を戻してもらう。 「まだなんかあるのか?」  ひどく迷惑そうな顔をされるが、ずっと気になっていることがあるので怯みそうになるのをこらえて口を開く。そうまでして聞くほどのことではないけれど、気になって仕方がないことなのだ。聞けそうな機会に聞いておきたい。 「あの、なんでシマエナガなのか教えてください」 「可愛いだろ」  長登は目を細めた。薄い笑みは冷えていて、見る者の心を試しているように感じる。 「もっと恰好いい名前もあるんじゃないですか?」 「あるな」 「じゃあどうして?」  なにか特別な意味が込められているのだろうか。もしかして暗号では、とも考えてみたがまったくわからない。凡人の大夢にはわからないだけかもしれない。 「恰好よかったり強そうだったりすると相手が身がまえるだろうが」 「は?」 「可愛い名前だから侮ってくれるんだよ」  にやりと口角をあげる長登に鳥肌が立った。そこまで考えての名前だとは思わず、軽い気持ちで聞いたことを少し後悔した。  大夢が無言になってしまうと、長登はくくっと喉の奥で笑い、ワインをグラスに注いだ。動きのひとつひとつがなめらかで、その鷹揚さが逆に怖い。 「さっさと寝ろ。洗濯物は出しておけ」 「わ、わかりました」  返事をして逃げるように階段をあがった。つい廊下を急ぎ足で歩いてしまう。客室に入ると大きく息を吐き出し、それから三回深呼吸をしたら身体の震えが若干おさまった。  長登は大夢の恩人だ。たった数日でもそれは変わりない。死んだような状態だった自分を生き返らせてくれたのだから、大夢は長登のやることを否定したくない。どんな仕事でも手伝いたい。  きっと長登は本当に怪盗だ。
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