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プロローグ
オリアーナは年に一度の王家主催の狩猟祭に来ていた。
婚約者レックスとはぐれてしまい、幼馴染のセナと一緒に館の廊下を歩いていたら――客室で深く口付けを交わす若い女とレックスを目撃してしまった。
(うわ……あれ、完全に浮気)
さっと目を逸らして、見なかったことにする。
元々政略結婚で愛情なんてなかったし、貴族の間では婚約者以外に恋人を作ることは暗黙の了解だ。よくあることだと自分に言い聞かせる。
「嫌なもの見ちゃったね。早く行こうか。……セナ?」
「…………」
セナはそれを目撃してあからさまに嫌悪し、拳を固く握り締めていた。彼はいつも飄々としていて、感情を表に出さないのに。
(こんなに怒ってるところ……初めて見た)
そのまま彼は、ガラリと扉を開ける。
「二人、何してんの?」
「ちょっ、セナ……!」
余計なことをするなと諌めようとしたが手遅れで、浮気現場に堂々と突入していくセナ。
レックスは忌々しそうに眉をひそめ、大きなため息を漏らした。慌ててオリアーナは謝罪する。
「邪魔してこめん。すぐ行くから、どうぞそのまま続けて」
つい癖で、下手に出てしまうオリアーナ。
(そのまま続けて――って。何言ってるんだろうな、私)
この婚約は両親の命令だった。なかなか嫁ぎ先が決まらない中ようやく決まった相手だったので、絶対に破談にならないように、と釘を刺されている。
だから、オリアーナはずっとレックスの機嫌を窺い、過剰に気を遣ってきた。まかり間違っても不興を買って婚約解消されてしまわないように。
すると、セナが腕を組みながら地を這うように言う。
「謝んのは向こうでしょ。なんでリアが謝ってんの。始祖五家アーネル公爵家の令嬢を婚約者に持って不貞を働くなんて、神への冒涜もいいところでしょ。自覚なさすぎ」
「それは……」
レックスはきまり悪そうに俯く。セナはレックスを睨みつけた。
「彼女を蔑ろにするような振る舞いは、――俺が許さないから」
目の奥に黒い炎が燃えたのを見て、レックスはひっと悲鳴を漏らした。
ヴィルベル王国は、建国にあたって神に選ばれし五人の偉大な魔法士が活躍したといわれている。
彼らは初代王からそれぞれ公爵位を叙爵され、現在に至るまで脈々と、血筋と能力と継承してきた。
それが――始祖五家。
アーネル公爵家も、始祖五家と呼ばれる家門のひとつだ。火・水・風・闇・光の五つの魔法属性の中で光属性を得意とし、その家系の者は金の瞳をしている。
セナも始祖五家のひとつ、ティレスタム公爵家の令息だ。
一方でレックスは、始祖五家と縁のある侯爵家の次男である。家格でいえば、オリアーナが格上だ。
しかしオリアーナは生まれながら魔力を持たなかったため、身分は下だが魔力を持つレックスに見下されている。
すると、レックスの後ろに隠れていた浮気相手の女が、こちらに駆け寄ってきてうっとりとした顔を浮かべた。
「素敵……!」
「え……」
「ねえレックス、この麗しい殿方は知り合いなの? こんなにかっこいい方を知ってるなら、早く言いなさいよ!」
彼女はオリアーナの顔を覗き込みながら、上目がちに言った。レックスそっちのけで。
「あのぅ……よければ今度、一緒に食事に行きませんか?」
裾を摘んで食い気味に迫ってくる彼女を、優しく引き剥がす。
「ごめん。誤解しているようだけど私――女なんだ」
「えっ」
オリアーナは、子どものころから女子が好むものより男子が好むものの方が好きだった。
スカートよりズボン。
長い髪より短髪。
刺繍や菓子作りよりも学問に武術。
また、紳士的で男気がある内面は、その佇まいの峻厳さを際立たせている。
極めつけに、まるで作り物のような美貌。朝の陽の光を反射した稲穂のような金髪に、宝石よりも煌めく金目。筋の通った鼻梁に薄い唇。程よく鍛えた長身の体は引き締まっている。
その容貌と振る舞いが相まって、大抵の者はオリアーナのことを男だと思う。そして、大抵の者が魅了されるのだ。
オリアーナはまさに、物語から飛び出してきた『王子』そのものだった。
今までも、レックスは何度も浮気をしてきた。しかし、浮気相手はオリアーナを一度見たらすぐに心変わりするため、彼にはかなり恨まれている。
(あの顔、まずいな。レックス様……かなりご立腹の様子だ)
顔を真っ赤にして震えているレックスを見て、オリアーナは額に汗を滲ませた。彼はこちらに歩いてきて、耳打ちする。
「……お前、気持ちが悪いんだよ。女のくせに男みたいで」
オリアーナは、ごくんと固唾を飲んだ。
それから――数日後。レックスはアーネル公爵家に、婚約解消を申し出るのだった。その理由は――『婚約者が男前すぎて自分の立場がない』というなんとも情けないものだった。
◇◇◇
レックスから婚約解消され、両親は憤った。
「なんて情けない娘なの! まだ婚約が決まって半年しか経ってないのに……! 我が家の面汚しもいいところだわ」
「この役立たずが!」
――バシンッ。
父に頬を叩かれる。娘に対して全く手加減がない。衝撃で口の中を傷つけ、鉄の味が広がった。
「……っ」
婚約解消を申し入れる書簡が届いたその日。日が暮れるころから朝日が昇るまで、応接間で説教を受けた。
カーテンの隙間から陽の光が差し込むのを見て、小さく息を吐く。
(もう朝日が出ている。……早く終わらないかな)
狩猟祭の日、もし浮気現場を見て見ぬ振りをしていたらこんなことにはならなかったかもしれない。
けれどオリアーナはセナの名前を出すことはせず、全て自分が不甲斐ないせいだと折檻に耐えた。レックスが婚約破棄を決意するきっかけを作ったのはセナだが、不甲斐ないオリアーナでは遅かれ早かれこうなっていたかもしれない。
オリアーナは女らしくなくて可愛げがないと言われて育った。また、始祖五家の子どもにも関わらず魔法が使えないこともあって、『出来損ない』という扱いだった。それでも、オリアーナはひねくれることもなく、優しく純粋なまま成長した。
「奥様、旦那様……っ、もうその辺りになさっては……」
顔にも体にも傷だらけのオリアーナを見て、メイドたちが夫婦に訴える。彼女たちは皆、オリアーナに憧れを抱いている娘たちだ。
「ふんっ、まだ許した訳じゃないからな!」
「よく反省しておきなさい! いいわね!」
「……申し訳ありません」
捨て台詞を吐き、懲罰用の鞭を投げ捨て部屋を出ていく両親。その場に倒れ込むオリアーナの元に、メイドたちが駆け寄る。
「オリアーナ様、しっかりなさってください……! すぐに手当てしますからね!」
「お水をお持ちしました」
メイドの一人からコップを受け取り、苦笑する。
「落ちこぼれの私に心をかけすぎると、君たちまで叱られてしまうよ」
「そんなこと、お気になさらないでください!」
「……ありがとう。優しいんだね」
「い、いえ……とんでもないです。優しいのは……オリアーナ様の方です」
ふっと微笑みかけると、彼女たちは恥ずかしそうに頬を赤く染める。
汗ばんだ髪も、憂いた表情も、色っぽくて麗しいオリアーナ。彼女の傷ついた姿さえ、メイドたちには魅力的に映った。
コップの水を、渇いた喉に流し込む。口の中を切っているのでひりひりと滲みる。空になったコップをメイドに預け、口元の血を袖で拭った。血が滲んだ袖を眺めながら、幼馴染のことを脳裏に思い浮かべる。
(こんなところ、セナにだけは絶対に見せられないな)
いつも味方でいてくれる幼馴染のセナ。両親から仕打ちを受け、時々手を上げられることは彼には言っていない。もしこの現場を見ていたら、彼はオリアーナを守ろうと両親にまで楯突いていたかもしれない。
ずきずきと痛む身体を擦りながら、浮気していたレックスに対して本人よりも本気で怒ってくれた彼を思い出していた。
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