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ただいま
「ただいま。」
返事が返ってくることはないとわかっていてもついつい言ってしまう言葉。
『おかえり。』
と、明るい声が帰ってきていたのは半年前までだった。
沢村 ジュリアは、シングルマザーである沢村 樹里と一緒にこのボロアパートに住んでいた。
ジュリアの父は米軍に勤めていて、いわゆる在日米軍の基地の中の人だった。
樹里はその米国男性と、米軍基地の外のバーでアルバイトをしていた時に出会った。
日本語も上手で、少しだけ話せる英語で会話をする樹里の事をジュリアの父親のハーバーはいつもからかいながら楽しそうにいろいろな話をしたそうだ。
お腹に子供ができたと告げたとき、ハーバーは驚き、
「君は避妊をしていなかったのか?」
と聞いてきた。
女性が妊娠の選択権を持つことの多い海外では避妊をしてほしい日の行為では女性の方から避妊具をつけてほしいと男性に頼むか、自分が避妊具をつけて、妊娠に気を付けるのが常だった。
ハーバーはその時初めて、自分は米軍基地の中に家庭を持っていることを明かした。
基地の近くで働く日本人女性はそんなことはみんな承知して、米軍の男性と付き合っていると思った。とも言った。
そして、次に会った時に10万円を持ってきて
「堕胎してください。」
と、樹里に言った。
「あなたはまっとうなクリスチャンではなかったってことなのね。
さようなら。お金はありがと。」
と、樹里は泣きながらその金を受け取ったが、それ以上は言っても無駄なことも分かっていた。
それよりも、自分のお腹の中で生きている何も知らないこの赤ん坊と、これからどんな風に生きていこうか考えるのだった。
それからしばらくは樹里もそのバーで働いていたが、敬虔なクリスチャンである樹里はおなかの子供を堕胎することはできなかった。
お腹が目立ってくるとさすがに店長たちからも
「おい、ハーバーから金は貰ったんだろう?何故堕胎しなかった。」
と、責められ、店にもいられなくなった。
元々、自分の母親と住んでいた安アパートは、母親が米軍の兵士と一緒にアメリカに行ったときから樹里のお城だった。
「親子そろって何をしてるんだか。」
樹里は一瞬寂しげにそうつぶやいたが、母はアメリカに行った切り連絡も来ないし、幸せにやってくれていればそれでいいと思った。
樹里はハーバーから貰ったお金を出産までの診察代などに充てる為、とっておいたが、父親の欄に書く名前は無かった。
ジュリアを産んだのもこのボロアパートだった。
入院なんてお金はとてもなかったので、市に相談すると、産婆を紹介してくれた。
産婆もピンキリである。
市の紹介ではとにかく安く産ませてくれる産婆を紹介してくれる。
出産は当然自宅で、産まれるギリギリまで呼ぶなと言われていた。
樹里はまだ20歳だったし、お産は病気じゃないと自分の母親に言われていたこともあって、産まれるギリギリまで我慢して産婆に電話をした。
「なんだって、こんなになるまで我慢したんだい!」
産婆が到着したときには、ジュリアはもう半分産まれかけて、頭が出てから時間がかかっていたので、産まれた時には仮死状態だった。
産婆に足首を掴まれ背中をたたかれて、ジュリアはようやく産声を上げた。
生まれたジュリアを見てすぐに産婆が言う程、ジュリアは外国の血が多く入っていた。
「おやおや、パパはアメリカ人なんだね。この辺りじゃこんなのばっかりだね。」
確かに樹里の住んでいたアパートも半分くらいは母子家庭で住んでいて、父親は米軍基地の人間ばかりだった。
少しの国の補助を受けながらも、樹里は昼間出来る仕事を懸命に探し、夜もまた前とは少し離れたバーに勤めた。
ジュリアには不自由をさせたくないと、稼ぎ続けた。
でもそうすると国からの補助は無くなってしまう。
「なんでもうまくいくもんじゃないね。でも、自分で決めたことは自分で受け取らないとね。」
樹里は休みの日はジュリアと一緒にいる時間をたくさん作ってくれて、日頃のジュリアの寂しさを埋めてくれた。
この界隈ではハーフやクウォーターが多い。肌の黒い子供も多かった。
ジュリアは肌は白かったが、髪は思いきり赤毛で、目は薄いグレーだった。
この辺りでも珍しい見かけのハーフの子供だった。
小さい頃から奇異な目で見られたことでジュリアはすっかり人見知りになってしまったけれど、身体は大きく、顔立ちも大人っぽかったので、ボロアパートの近くではよく、米軍基地の兵隊にナンパされそうになった。
ジュリアが10歳になった頃、樹里の体調が悪くなった。
最初は疲れた。とばかり言って寝込んでいたのだが、やがて起きられなくなったので、ジュリアは救急車を呼んだ。
このボロアパートで救急車など呼ぶ人間はいなかったので、みんな外に出て来たけれど、それぞれの家はあまり干渉していなかったので皆、遠巻きにしてみていた。
樹里は急性骨髄性白血病だった。
長い闘病生活が始まった。
さすがに病院ではケアワーカーがついて、生活保護の申請やジュリアの児童養護施設への入居が決まった。
児童養護施設ではみんな親切にしてくれたが、シャイなジュリアには大人数すぎた。元の静かな生活が懐かしくて、ジュリアは時々家に帰った。
「ただいま。」
元々、母親は仕事で留守がちだったので普段は返事はないのが常だった。
でも、時々休みの日などは、あの明るい澄んだ声で
『おかえり。』
と、言ってくれるのが、ジュリアにとっては心の支えになっていた。
樹里に合う骨髄の人間は見つからず、樹里は涙を流しながら
「ジュリア、あなたのパパは米軍基地のハーバーという人よ。あなたとおんなじ赤毛でおんなじ目をしている。
でも、あなたが生まれたことを知らないから、頼っても無駄なの。
本当の父親が誰かを一応知っておいた方がいいと思ってね。
ジュリア、私は先に逝ってしまうけれど、どうか、勇気を出して生きて行って。」
そう言って、ジュリアの手をぎゅっと握りしめて、そのまま亡くなってしまった。
ジュリアが13歳。中学1年生の時だった。
もう、アパートには戻らないので、アパートを引き払わなければいけなかった。
ジュリアが『ただいま』と帰る場所は児童養護施設しかなくなってしまった。
あそこの『おかえり』は賑やかすぎる。
ジュリアはそんな風に思いながら、今日も児童養護施設に帰っていく。
ジュリアの「ただいま」が賑やかな「おかえり」に慣れる日を、みんなに心を開いてくれる日を、職員は待っていた。
職員は念のため米軍基地にジュリアの父親を捜すために連絡を入れてはいたが、こちらは、何の反応もなかった。
ジュリアは、これからは一人で生きていかなくてはいけない。
ジュリアだけではない。この地域にはこうした子供が沢山いるのだ。
せめて、施設を家だと思って帰ってこられるように、職員たちは今日も心を込めて
「おかえり。」
を、帰ってくる全ての子供たちに向ける。
【了】
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