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「ジョニイさん、行ってしまうのね」
エリが祈るように手を組み、やや上目遣いでそう言った。
「うん。いいヒグマ討伐動画を撮ってくるね」
対する中性系ユーチューバー・時任ジョニイは、大きな瞳をしっかりと彼女のそれに合わせた。
かつて『スカートをはくだけで百万再生』と言われたその美貌は、いまだ衰えを知らない。しかし彼のユーチューブチャンネルは年々稼げなくなっており、最近は生活費にも窮するようになっているとのことである。
「君がプレゼントしてくれたこの銃があれば、僕は無敵だ。全然怖くないよ」
彼は背中に背負っている猟銃のストック部分を、白く細い手でポンポンと触った。
十二年前。
世界全体が出生率の低下に苦しむ中、当時九十五歳の総理大臣と百七歳の少子化担当大臣は、『異次元の少子化対策』というキャッチコピーとともに、全国市街地へのヒグマ導入を推進した。
その圧倒的恐怖は日本人の生存本能を強く刺激し、導入後わずか一年足らずで日本の合計特殊出生率は8.00を記録。日本は世界唯一の少子化対策成功国として喝采を浴びた。
しかしヒグマの適応力は想定を上回るものだったらしい。
日本中の街へ定住してしまったヒグマは、個体数の増加がとまらず。猟友会による駆除や自衛隊による駆除作戦が「かわいそう」という苦情や大規模デモによって滞る中、徐々に手が付けられない状況になっていった。
そして今から二年前。ヒグマ導入からは十年後。
ついには、政府が「もう平地には住めない」と白旗をあげるに至った。日本人は山地のみでの生活を余儀なくされたのである。
日本は名実ともに『山国』となってしまったのだ。
現在のヒグマは、放棄された畑の作物や家畜などを食べるだけでなく、人間が残したレトルト食品や缶詰すら器用に食べられるようになっており、いまだ食料に困る気配はないという報告が下山系ユーチューバーの動画にあがっていた。個体数が減少に転じる気配も今のところはないとのこと。
「もともとヒグマは本州には不向きな生き物。しかも市街地ではそう長く生存できない。個体数のコントロールは十分可能だ」
今となってはお笑いな説明をしていた当時の総理大臣と少子化担当大臣は、ヒグマ導入開始の一年一か月後、『日本を世界初の少子化問題解決国へと導いた政治家』として賞賛されながら、現職のまま老衰で死亡している。
当時の他の閣僚や有力与党議員も年齢が軒並み九十代や百代であったため、同時期に次々と天寿を全うして全滅。結局誰も責任を取っていない。迷惑な話だ。
現在の内閣も平均年齢九十八歳。「どうせ余生は山の別荘で温泉に浸かりながら過ごすつもりだった」という総理大臣の呑気な発言を見ても、政府主導で積極的な平地奪回作戦がおこなわれる可能性は低いだろう。
「そうだ。これを着けていって。あなたの無事を祈ってお守りとして用意してたの」
エリがそう言ってジョニイの首にかけたもの。
それは、美しい金色に輝くネックレスだった。
「ありがとう。ペアネックレスとは心強いよ。失敗しようがないね。これなら」
エリがつけているネックレスと同じデザインであることに気づき、ジョニイはフッと笑みを浮かべた。
「この仕事が終わったら、たくさんお金が入るの?」
「うん。街のヒグマを観察するだけの下山系ユーチューバーはもう飽きられていて再生数が稼げないけど、ヒグマ討伐系ユーチューバーはまだいないからね。
この前所属事務所から連絡が来て、これ以上再生数が落ちるようだったら契約解除って言われてたけど、今回の『中性系ユーチューバーが一人でヒグマ討伐してみました!』という企画の話をしたら、最低でも一千万再生は取れるよって事務所の担当さんも喜んでた。
今回の仕事を無事に終えたら、ご褒美として事務所が表彰してくれるってさ。ついでにリフレッシュ休暇も認めてくれるみたいだよ」
あらそれはよかったね、とエリが顔を綻ばせる。
「ねえ、ジョニイさん。お金も時間もできるのなら、いよいよ私たち、結婚できるんじゃないの?」
結婚。
その言葉に、彼の顔が今度は少し引き締まったようだ。
「うん。この仕事が終わったら結婚しよう。僕たちもう付き合い始めて十五年くらいになるよね……豪華な披露宴が開けるようになるまで入籍を待ってもらってたけど、やっとその日が来そうだ」
「子供も作りましょうよ」
「いいね。僕もエリとの子供がほしい。作ろう、子供を」
そう言ったところで彼の視線はやや上を向いた。
「他にも時間とお金ができたらやりたいことはいっぱいあるなあ。帰ってきたら作り途中のプラモデルも完成させないといけないし」
「そういえば今途中って言ってたね」
「うん。楽しみだよ。完成したら君にも見せるね」
ジョニイはエリの手を一度取り、そして離した。
「じゃあ、行ってくるよ」
くるりと回れ右して、リビングを出ていく。エリもそれに続いた。
玄関まで見送るらしい。
やがて遠くでドアが閉まる音が聞こえると、一人の足音だけが戻ってきた。
「お待たせ。もう出てきてもらってかまわないよ」
彼女のその声は、もちろんこちらに向けられたものだ。
先ほどインターホンが鳴ると同時に「隠れていて!」と言われ、クローゼットに押し込められていた、俺に向けて。
やっと解放されるようだ。
「まさかクローゼットに入ることになるとはな」
短い時間だったはずだが、窓からの光がまぶしく感じる。
「ごめんなさいね。ジョニイさんの出発日は明日だと勘違いしてて。狭かったでしょう」
「まったくだ。修羅場も面倒だが、閉じ込められるのも俺の体格だときついぞ」
ガチガチにこってしまった体を伸ばし、俺は彼女の前に立った。
「しかしお前からお呼びがかかったときは驚いたな」
「あら、そう?」
「ああ。十五年前にお前にフラれたときのことはまだはっきり覚えているぞ? 『あなたみたいなゴリマッチョは全然タイプじゃないの』だったな。どんな心境の変化があったんだ?」
「あの頃はジョニイさんのようなユニセックスな人が好みだった。でも、自分でもよくわからないけど、ここ十年くらいで気持ちがだんだん変わっていくのを感じたの。やっぱりあなたのような男臭くて逞しい人の子供が欲しい、って思うようになった。私は自分の気持ちに素直に従ったまでのこと」
「そうか……。だがきちんと彼と別れなくていいのか? 動画を撮って帰ってくるタイミング次第ではやはり修羅場になるだろ」
「大丈夫よ。帰ってこないから。銃を撃ったら自分が後ろに倒れそうなヒョロヒョロな人にヒグマを倒すなんて絶対無理」
彼女は平然とした顔で言い放った。おそらく客観的には怖い女なのだろう。
「寝室に行きましょう、あなた」
エリがドアを目で示し、ゆっくりと歩き出す。
すると、彼女の首にかかっているネックレスの鎖がなぜか音もなく切れ、床に落ちた。
ああ、気の毒に。
そう思いながら、俺も歩き出した。
(完)
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