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 仕事の昼休憩。  今年で27になった翼は公園のベンチに座っていた。  秋の訪れを告げる爽やかな風が吹いている。翼はこの季節が一番好きだ。暑くもなく寒くもない季節。年がら年中この気温だったらいいのに、と毎朝願ってしまう。  お腹も空いたことだし、と翼は膝に視線を落とした。  膝の上に広げたのはコンビニで買ってきたサンドイッチ。ここはオフィス街で、昼間になるとコンビニや定食屋はあっという間に行列ができる。  天気もいいしたまには外で買って食べよう────というのは建前で、本当は寝坊して弁当を作れなかっただけだ。  外へ連れ立って昼休憩をするほどの仲の人はいない。仲のいい同僚や先輩が退職してからは、呑み会にもほとんど顔を出さなくなった。  付き合いが悪くなったと陰で言われていることには薄々気づいている。そこまで鈍感じゃない。  昔はこんな人間じゃなかったのにな。翼はスマホを片手にサンドイッチを頬張った。以前は呑み会によく参加していた。しかし年々冷めていくようで、呑み会に楽しさを感じなくなった。 「君一人なの? 隣いい?」  振り向くと、ベンチの後ろで目を細める金髪碧眼の男。派手な見た目と高そうなスーツはその筋の人間だろうか。当然、真昼間の公園には似合わない。彼だけ異彩を放っていた。  翼は彼を一瞥するとスマホに視線を戻した。 「空いてるベンチは向こうにありますよ。お一人で悠々とお過ごしください」 「ツレないねぇ……。わりと顔のいい男に言われたんだよ? ここはぽ~っとするトコでしょ」 (……めんどくさ)  翼は金髪の男に反応することなく、スマホの画面を注視し続けた。  男はベンチの背もたれに手をかけると彼女の耳元に口を寄せた。 「────何が君をそんな顔にさせるの」 「────っ!?」  思わず立ち上がって男の顔を凝視した。タイトスカートを穿いた膝の上から、ビニールがはらりと落ちた。 「な……何!?」 「何って見たままを言っただけだよ。君、そこそこ顔いいのに何年も笑ってないような顔をしてるからさ。おもしろいことなんてなんにもないような。過去に忘れ物でも?」  過去。忘れ物。言われて脳裏によみがえってくるのは、かつて好きだった人との思い出。  だがそれを忘れ物と呼ぶことはできない。翼がその人と未来を共にする道はなかっただろうから。  翼はうつむき、膝の上で拳を握り締めた。 (あの人と一緒にはなれない。こんな私なんかじゃ────)  日光が降り注ぐ教室、ふわふわとした柔らかそうな天然パーマ。屈託のない笑顔は子どものようで。  翼は脳内でタイムスリップし、在りし日に身を置いて肩を震わせた。もう戻れることのない、巻き戻せない過去。  当時は笑うことがヘタで、好きな人の前だと表情が固まり、無愛想な受け答えしかできない高校生だった。  男は翼の異変に察したらしいが、気遣うどころかニンマリと笑んだ。彼女のことをおもしろがっているように。彼は翼の肩に手をかけた。 「未練があるのかな?それを晴らしたいと思わない?」  何をバカなことを、と翼はその手をはらいのけた。  心臓がバクバクしている。たった一言、たった一瞬であの頃へ引き戻された。恐ろしい男だ。まるで心の内を見透かされたようだ。  立ち上がると男の碧眼と視線がぶつかった。そらしたいのに絡みついてくる。 「……何を考えてるのかは知らないけどそろそろ警察呼ぶわよ。人の貴重な昼休みにしつこい」 「ご、ごめんって! 警察だけは勘弁!」 「ならさっさとどっか行って」  翼は手で追い払った。怒りに任せてサンドイッチを口に押し込み、紙パックの野菜ジュースで流し込んだ。 「丸飲みは体に悪いぞー……」 「余計なお世話。あんたのせいで静かに過ごせないから会社に戻るの」  彼女はゴミを袋にまとめて立ち上がり、タイトスカートを払って整えた。  男はベンチのヘリに肘をつき、彼女のことを見上げている。 「ね、君さ。仕事のことばっか考えるのは体に悪いよ。海が見える静かなとこにでも行って癒された方がいいよ」 「え……?」  立ち去ろうとしたが、思いも寄らぬ言葉に振り返ってしまった。男は自分の目元を人差し指でトントンと軽く叩く。透き通った水色の瞳は底なし沼のようで奥が見えない。 「俺、人の疲れが分かるんだよね。君は精気が特に少ないね」 「あっそ……」 「彼氏どころか恋もしてn────」 「確かあっちに交番があったわね」  翼は男を無視してスタスタと歩きだした。手にはスマホ。今すぐ通報してもいいんだぞと力強く握りしめた。   男はぎょっとしてその後を追い、翼の前に立ちはだかった。両手を前に出し、彼女を通せんぼする。 「待って待って分かった! また後日改めるから!」 「ナンパは他を当たってどーぞ」  翼は男に向かって後ろ手を振り、今度こそせかせかと公園を出た。  はーあ。今日も疲れた。翼は虚ろな目で鍵を取り出し、ため息をついた。  月八万、1LDKの一人暮らしのマンション。  翼は床に倒れ込み、カーペットを見つめた。最近は休みの日でも掃除をする気になれない。簡単な掃除機掛けをやったのをいつだったか思い出せない。  むくんで腫れぼったい手をおもむろに動かし、腕時計を見る。それすらも億劫だ。  時刻は二十一時過ぎ。晩御飯を食べる気になれない。  さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。どうせ明日も朝が早い……というのはいつものパターン。今日は仕事帰りにスーパーへ寄るのも面倒だった。  翼は顔を突っ伏すと、腕を投げ出した。体が重くて起き上がりたくない。また明日も仕事、と思うと呪いをかけそうなため息しか出てこない。 (昼間のあいつはなんだったんだろ……。変なヤツだったな……)  毎日同じ繰り返しの中で起きた、初めてのイベント。馴れ馴れしく話しかけてきた男の謎の言動。  彼の、人の心や素性が読める能力を持っているかのような口ぶりが気になる。 「あー……仕事行きたくない……」  あの男は今が仕事の時間だろう。昼職の翼はこれから眠るが、十二時間後には会社にいることを考えたらまた重いため息が出そうになる。  できることなら一ヶ月ほど休みを取って、自由に過ごしてみたい。 「────ん? 待てよ」  急に思い出したことがあり、翼は体を起こした。髪はボサボサ、ジャケットは細かい埃で白くなっている。  彼女は会社関係の書類を漁るべく、寝室へ小走りした。  寝室の電気をつけ、カラーボックスから水色のファイルを出して勢いよくめくる。 「あった……!」  さっきとは打って変わり、明るい表情でそれを取り出した。  こんな大事なことをなぜ忘れていたんだろう。もしかしてこの日のために記憶から抹消していたのだろうか。 (さっそく明日にも申請しよ……! 私のバカンスは目の前だ!)  翼は柄にもなく拳を突き上げた。  今日使い切ったやる気が少しだけ回復した。ジャケットの埃を払うと、スーパーへ行こうと支度を始めた。  翼の勤める会社は世間でいうブラックな一面を持っている。週に五日、びっしりと詰まった業務内容があるが、とある特権があった。  それは、どうしても心が疲れた時に取得できる長期休暇。  そうして翼は田舎に帰り、都会での生活や仕事を忘れてしまうほどにリラックスしようと気をゆるめていた。  久しぶりに乗った電車は、翼が一番大好きな場所へ連れて行ってくれる。  人が少ない車両。気温が下がってきたので空調は切ってあるようだ。  景色はびっしりと建物が並んだ街並みから、隣の家と間隔が空いた広々としたものに変わっていく。緑豊かな畑や田んぼも増えてきた。心なしか空が近く見え、色はいつもより青く濃いような気がした。  窓の外を楽しみながら、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴く翼の口角は自然と上がっていく。 『ばっちゃ! じっちゃ!』 『翼ぁ、やっとかめだなぁ』 『待ってたわよ』  翼は幼い頃から、祖父母が住む家が好きだった。母方の祖父母は植物に囲まれて暮らすのが好きで、幼い翼にいろんな草木の名前を教えてくれた。  一人っ子の翼は両親以上に彼らから愛情を注がれ、会いに行く度に歓迎された。  やがて目的の駅に電車が到着した。無人駅で降り、ICカードを簡易改札機にタッチする。  最寄り駅から祖父母の家まで遠いが、迎えの車はない。当然タクシーも走ってないので歩いていくしかない。翼は大きなキャリーケースの持ち手を伸ばした。  社会人になってから歩くのが苦手になった気がする。それもそのはず。自宅も会社も最寄り駅から近いからだ。  でも今日はたくさん歩きたい気分だった。長期休暇に入って気分が晴れやかだし、いい陽気だ。秋の気配を感じながら歩くのは楽しい。  道の端には落ち着いた色合いの花が揺れていた。時々、畑の隅にコスモスの群生も見つけた。  懐かしい景色を楽しんでいたら、祖父母の住んでいた家まであっという間だ。翼はショルダーバッグから鍵を取り出す。この鍵は一昨年に母から渡されたものだ。 「ただいま~……」 「おかえりー」 「ひゃあっ!?」  ドアを開けた瞬間、出迎える声に翼は腰を抜かした。 「な、な……はぁ? なんであんたがここにいんのよ!」  出迎えた声の主には見覚えがあり過ぎた。つい最近顔を合わせたばかりで記憶に新しい。  彼は金色の前髪をさらりと払い、片目を閉じる。空より薄い碧眼が光った。  この前公園で声をかけてきた男だ。田舎に似つかわしい、スリーピーススーツを着ている。この前のスーツとは違うものだ。 「不法侵入! 今度こそ警察!」  震える足では立ち上がれない。だが、玄関にたくさん並んだ鉢植えにはぶつからないように。翼は後ろ手をついた。  男はしゃがむと、翼に向かって手を差し出した。 「俺は君のおばあさんと知り合いなんだ」 「知り合いなんて……どうだか」  祖母にホストの知り合いがいたなんて考えられない。祖父以外に男の影を感じたことはない。 「信じられないなら全部話そうか。風子の名前、生年月日、出身地エトセトラ……どれから言おうか?」  彼は翼の返事を待たず、彼女を立ち上がらせた。重たいキャリーケースを持ち上げて翼を家へ招き入れる。まるで彼がこの家の主のようだ。 「俺の名前はアヤト。よろしくね、翼ちゃん」 「え、私の名前……」 「おばあさんと知り合いなんだから当然さ」  祖母は植物が好きで、それを手入れをして過ごすのが幸せだとよく話していた。  彼女の人間関係については聞いたことないし、気になったことも無かった。夫である翼の祖父と植物さえあればいいと言い切ってしまいそうな人だったからだ。  会社で唯一、有休を取ったのは祖父母のお葬式だった。  一昨年に祖父が亡くなり、去年祖母が亡くなった。  祖父が亡くなってからは、翼の両親がここに引っ越してきて同居が始まった。しかし今、その両親は海外旅行中だ。  翼は家の香りに懐かしさを覚えながら、玄関からすぐの部屋に入った。  ここには仏壇が置いてある。仏壇には祖父と祖母の写真、一輪挿しに活けた花。  もしかしてアヤトが水を替えてくれたのだろうか。花は元気よく天井を見上げている。正座をした翼は仏壇に向かって手を合わせ、目を閉じた。 『いいなぁ、私もばっちゃと一緒に住みたい』 『来たらいいじゃない。今の仕事なんか辞めて』  祖父が亡くなって片付けを手伝いに行った日のこと。あれは桜が舞い散る季節だった。  休憩と称し、祖母が先にリビングへ下りた。彼女は温かいほうじ茶を淹れ、頂き物だという饅頭を出してくれた。  ほうじ茶が注がれた翼専用のマグカップは二十年戦士。翼はそれを両手で持ち上げた。 『でもさぁ……残った人たちが大変になっちゃうのは嫌だなぁ……』 『ずっと文句ばっか言ってる仕事なら続ける価値ないわよ。ここに来るたび文句しか言わなくなったじゃない』  祖母は仕方なさそうな顔をしてティーカップを傾けた。仕事のことでもなんでも、両親より祖母の方が相談しやすかった。植物に囲まれたリビングで祖母と過ごすと、穏やかな気持ちになれる。祖母に話を聞いてもらうだけで心が楽になるから仕事を頑張れたと言っても過言ではない。  長年連れ添った伴侶が亡くなったというのに、最期まで祖母は何も変わらなかった。無理して気丈に振る舞ってるようにも見えない。 『翼は都会でバリバリ働くより、ここで好きな仕事をする方が似合ってるわよ』 『そうなの?』  祖母はティーカップを置くと片目をとじてみせた。そんなお茶目な表情が似合う老婦人だった。 『あんたはお母さんと違って自然の方が好きでしょ?』 『うん』 『それなら尚更ここに来たらいいじゃない。新海(しんかい)さんもいつも、あんたが元気か気にしてるわよ』  彼女は翼を幼い頃から散歩や畑に連れ出し、草木や野菜の名前を教えてくれる先生だった。花の簡単な手入れや畑仕事もよく手伝った。  今でも外を歩けば足元を眺め、これはあれ……と花の名前を心の中で唱えていた。  リビングへ入ると、アヤトは椅子に座っていた。翼が戻ってくるのを待っていたらしい。 「お母さんたちにも会ったの?」 「ううん」 「どうやって入ったのよ?」 「合鍵を持ってるんだよ」  アヤトは鍵を掲げて見せた。  今は両親が住む家だがあまり変わりはなく、今にも祖父母が出迎えてくれそうな気さえした。  家の中には至る所にドライフラワーのアレンジメントが置かれている。どれも定期的に埃がはらわれているのか綺麗だ。  外にある鉢植えは旅行中の両親に代わってアヤトが水やりをしているらしい。  植物に興味がなかった両親だが、この家に住んでからは変わった。ネットで調べて肥料を買って来たり、ホームセンターで種や苗を楽しく選んでいる。 「ある意味、風子(ふうこ)の大事な子どもたちだから大切にしなきゃね」 「ばっちゃ……」  風子とは翼の祖母。  懐かしさに浸っていたが、男の無礼に気づいて翼は顔をしかめた。 「人の祖母を呼び捨てするんじゃない。あんた歳下でしょ」 「いいや? 俺の方が長いことこの世にいるんだ。君よりも、風子よりも」 「は……?」  ハリのある肌、艶やかな金髪。どこに老いを感じろと言うのか。翼と大して歳が変わらない見た目なのに。 「俺には悪魔の血が流れている」  突然何を言いだしたかと思いきや、そんな御伽噺のようなことを……。 「はいはい。祖母とは知り合いだって証明したいわけね……。もっとまともな嘘つきなさいよ」 「────信じられないなら見せてあげようか」 「だからもういいって────ひぃやぉ!?」 「おもしろい悲鳴だね。こんな人間は初めて見たよ」  大きく後ずさった翼は、アヤトの禍々しい姿に慄き震えた。  背中から生えた漆黒の羽。ガラス玉のような碧眼は赤黒くなり、瞳孔の中で稲妻が光っている。  明らかに人間ではない姿。翼はキャリーケースを頭上に持ち上げた。いろいろ詰め込み過ぎたのと筋力が落ちたのか、二の腕が震える。 「今すぐ出ていけ……。あんたの正体が気になった私がバカだったわ……。ばっちゃのことをどうやって知った!? この化け物!!」  彼女が凄んでもアヤトは動じず、アゴに手をやって翼のことを見つめた。 「やっぱり君は威勢がいいなぁ。見所があるね」 「えらそうに……うっ」  アヤトはバランスを崩した彼女の手からキャリーケース(凶器)を奪った。 「大丈夫、何もしないよ。とりあえず話を聞いて? ね?」 「ますます意味が分からない……」 「ごめんごめん。まず俺の本当の姿がこれ。普段は人間のフリをしてる。……と言っても、さほど力が残っているわけじゃないんだけど」  それなら人の心が読めるような能力を持っていてもおかしくはないだろう。妙にしっくりくる素性だ。  翼が落ち着いたのを察し、アヤトは勝手知ったる様子でキッチンでお茶を用意し始めた。  祖母もよく、客が来たり家族が帰ってくるとまずお茶を用意した。特に、暑い夏に飲む冷たい麦茶は格別だった。 「それで……あんたの仕事ってのは何?」 「悩める人間を救うのさ」 「悪魔が……?」  悪魔が人助け。並べても続けても違和感のある組み合わせ。悪魔でホストですから、と言われた方がまだ納得がいく。  黙っている翼の前に、オレンジ色のマグカップに注がれたほうじ茶が置かれた。ゆらゆらと立ち昇る湯気は空気中で霧散する。  これは翼専用のマグカップだ。  この家には湯吞やティーカップ、マグカップが多い。その中から迷いなく選んで出したのだろうか。  一体アヤトはこの家のことをどれだけ知っているのだろう。何がどこに置いているのかをほとんど把握しているようだ。お茶を出されるまで、お湯を沸かす時間を除けばほとんど待たされなかった。  アヤトは自分の前にも湯呑を置き、椅子に座った。彼のスリーピースのスーツと湯吞はおもしろいほど似合わない。翼の若干失礼な心中を知らず、アヤトは熱いお茶を啜った。 「転生できるようにポイント稼ぎをするの」 「何それ……」 「君は気にしなくていいことだよ。まぁでも、君にも手伝ってもらうんだけどね」 「は? 嫌だよ……悪魔の手伝いとか罰が当たりそう……」  翼はお茶に手をつけず、顔をそらした。 「風子だって人助けをモットーにしていただろ。孫の君が受け継ぐのもありなんじゃない? 風子だって喜ぶと思うよ」  アヤトは足を組んで肩をすくめた。  翼の祖母は生前、小さな花屋を営んでいた。広い庭に小さな小屋を建て、自分で育てた野菜や花を時々販売していた。  その傍らご近所付き合いを欠かさず、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べる人だった。病院に同伴したり、家に招いてゆっくり話を聞いたり。  翼もたくさん話を聞いてもらったものだ。”そんな会社、とっとと辞めてしまいなさい”と何度も一蹴された。 「そろそろうちのばっちゃとあんたがどういう関係なのか教えてくれない?」 「あ、そうだったね」  アヤトと祖母。彼は風子より長く生きていると言っていたが実際はいくつなのだろう。 「風子は生きている内に世界中の珍しい花を見たがっていた。それを叶えるのと引き換えに、俺の仕事を手伝ってもらっていた。君のおじいさんと出会う頃までかな?」 「ばっちゃらしいっちゃらしい……」 「だろ? 君は風子みたいに簡単に叶えられない夢は持っていないの? 俺の手伝いをしてくれるなら、可能な限り叶えるよ?」 「特に思いつかないわよ……。てか別にいいし、仕事を一緒にするなんて言ってないし」 「別によくないだろ。初めて話しかけた時に思いつめた顔をしてたじゃん」 「……! あれは」  翼は目を見開いたが、首を振って口をつぐんだ。  初対面の男、いやそもそも他人に話すつもりなんてないのだ。過去の報われなかった想いなんて。 「何もないんなら別にいいんだよ。君って笑ってるよりそういう顔してることの方が多そうだから、俺の勘違いかも」  彼女のそんな思いをくみ取ったのかアヤトはそれ以上詮索することはしなかった。  しかし、さりげなく失礼なことを言われた気がする。翼は睨みつけたが、彼の言う通りか……と肩を落とした。  アヤトはお茶を飲み干して立ち上がり、スーツのジャケットを脱いだ。椅子の背にかけてワイシャツの袖をまくる。 「辛気臭い顔になる話はやめてご飯でも作るか! 翼ちゃんは何が好き? 自慢じゃないけどいろいろ作れる方だよ」 「へぇ~……」  翼も自宅で料理をするが、彼のように”いろいろ作れる”なんて自負できない。名前のない料理ばかり作り上げている。謎の敗北感に襲われた。 「すごいね……。普段からよく作るの?」 「うん、まぁね。料理は女子力ってより人間力だから頑張ってる」  見かけに寄らず考えていることはしっかりしてるらしい。キッチンに移動したアヤトは黒いエプロンを身につけ、冷蔵庫の中身をチェックし始めた。
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