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 翼は秋の雨が嫌いではない。  色づき始めた木々をしっとり濡らし、物憂げな秋の匂いを濃くする。その切ない香りでノスタルジーになるのが好きだ。  今日も秋雨の中で散歩をしようと家を出た。しかし、帰ってきたアヤトによって押し戻されてしまった。  彼はおもむろにジャケットとネクタイをとると、二階へ上がった。  なんだかいつもと様子が違う。翼は上着を脱ぐと彼の後を追った。  自室で寝たかと思いきや、彼は翼の部屋のカーペットで寝ていた。  彼を無理やり起こすのは忍びないが、風邪を引くかもしれない。悪魔なら人間の病気とは無縁だろうが。  翼はそっとアヤトのそばに腰を下ろし、彼の背中を叩いた。 「自分の部屋で寝たら? 床じゃ体痛くなるわよ」 「んー……?」 「ぎゃあぁぁ────っ!!!!」  寝ぼけているとは思えない力で腰に腕を回された。抵抗する間もなく引き寄せられ、翼は彼の腕の中におさまる形になった。  まるで悪魔の罠にかかった愚かな人間だ。 「……君ってば本当に免疫が無いな。イケメンに抱きしめられたんだよ? 奇声じゃなくて可愛い声を上げてくれ」  アヤトは先ほどまで寝こけていたとは思えないほど、ぱっちり目を開けている。声はガラガラだが、そのノイズがくすぐったい。 「自分でイケメンとか言うな……」  彼は翼の髪を耳にかけると、艶を帯びた笑みを見せた。 「だって真実だから♡」 「コイツ……!」  顔の良さは否定できない。むしろ良すぎるくらいだ。しかし自分で称賛するのは腹が立つ。  翼はしかめっ面で彼の胸を押した。 「買い物に行ってくるから」 「え~……出かけるの?」 「今日は卵が安い日なの。早く行かなきゃ無くなっちゃう」 「それが買えなきゃ死ぬってことはないだろ」 「きゃっ!?」  体を起こしたが、腕を強く引っ張られた。予想していなかった動きに反応できず、翼はアヤトの上に覆いかぶさってしまった。  いつもより近い顔と顔。翼が罵倒することもできずドギマギしていると、アヤトが碧眼を細めた。背中に腕を回し、抱き寄せようとしている。その手には乗らないと、翼は彼の顔の横についた手で踏ん張った。  アヤトは身を起こすと、彼女の耳に口を寄せて唇を薄く開いた。 「……俺が何千年も若さを保っていられる秘密が分かる?」  耳にふれる彼の吐息がくすぐったい。翼は身をよじりながら首を振った。 「人間の女と交わるのさ」  アヤトは翼の耳を柔らかく食むと、今度こそ彼女を抱きしめた。 「やめて……っ!」  アヤトの胸板に手を置いたがビクともしない。彼の胸板は思っていたよりも厚い。  このまま流れで彼に、悪魔に抱かれるのだろうか。抱きしめる強さに熱い吐息がこぼれそうなのをこらえ、目をぎゅっと閉じた。  それなりに人を好きになってきた。誰かと体を重ねたのは一度や二度のことではない。もしアヤトが服の中へ手を滑り入れても、強く拒絶できないかもしれない。  身を縮みこませて震えていると、不意にアヤトが力をゆるめた。翼の頭にぽん、と手を置いて子どもに言い聞かせるような優しい声になった。 「……ごめん」 「え……?」  顔を上げると、アヤトはきまり悪そうな顔で彼女の頭をなで始めた。 「なんで……」 「君が寂しそうに見えたから。慰められるんなら関係を変えてしまおうかと思ったんだ」  アヤトは翼の目元を人差し指でぬぐい、尚も頭をなで続ける。  されるがまま彼の胸の中で丸まり、窓を打ち付ける雨の音をぼんやりと聴いていた。  不意に、どこからか強く甘い香りが漂った。  この香りの主は最近、花をつけた木だろう。窓を開けていなくても、思い出すと香りが部屋に入ってくる。  秋の雨の匂いよりも翼の胸をしめつける、切なく甘い香り。この時期になると様々な場所で花を咲かせ、彼を思い出させる。 「うぅっ……。う~ん……」 「二村さん起きたぁ~?」  目を開けると、クリーム色のカーテンが目に飛び込んできた。ベッドの上でうめき声を上げると、様子を伺うようにカーテンが開けられた。  現れたのは、一見キツそうな印象の眼鏡をかけた女性。白衣にパンツスーツを合わせた姿はかっこよく、結いあげた髪は凛とした彼女によく似合っている。 「女王……?」  女王というのは通称で、彼女は翼の高校の養護教諭だ。 「あれ……理科の授業……」 「廊下で倒れたのよ。体調よくなかったんでしょ?」 「はい……」  体が重くてだるい。起き上がりたくない。翼はかすれた声でうなずいた。  今朝からずっとそうで、授業中にめまいがひどくなったので保健室に行こうと思ったのだ。しかし、廊下に出た記憶はない。それほどまでに悪化してたらしい。 「ユメ先生が運んできた時はびっくりしたわよ。頭が痛いとか、どっか変なところはない?」 「ユメ先生……」  子ども園にありそうな先生のニックネーム。翼は口の中でつぶやき、口元に力を入れた。  ”ユメ先生”というのは翼が恋心を抱いている教師だ。  ぼんやりしているが、どこも痛がっている様子のない翼に安心したらしい。女王はほほえんだ。 「二村さ~ん……大丈夫?」 「ちょっとノック!」  ガラガラという引き戸の音と共に現れたのは優男。ヒョロっとしており、女王のしかめっ面に小さく悲鳴を上げた。  彼は眉尻を下げて引き戸の影に隠れた。 「ふぁっ! すみません。つい……」 「自分ん()じゃないでしょーがここは」  ワイシャツに白衣をまとった男性教師は、遠慮がちに保健室に足を踏み入れた。  天然パーマに丸メガネ。閉じた目の端に涙を浮かべている。 「紅林(くればやし)先生怖いです……」 「弱っちぃわね……。さっき二村さんをお姫様抱っこした力はどこから出て来たのかしら」 「ユメ先生が……」  ユメ先生こと夢原(ゆめはら)。彼は翼のクラスの理科担当の教師だ。 (お姫様抱っこ!?)  聞き捨てならない単語が聞こえ、翼は布団の中の手を握った。力強く握ったせいか震えてくる。  気絶していたせいで記憶が無いのが惜しい。もしかしたら重かったのではないか……と、恥ずかしくなってきた。  それにしても女王こと紅林の言う通り、彼にそんな力があるなんて意外だった。  身長はあるものの、棒のように細くて風でどこかへ飛ばされそうな見た目。だが、よく見ると肩幅が広い。  ワイシャツを脱いだら端正な筋肉質の肉体が現れたりして……と翼は一人妄想し、ベッドの上で赤面した。  その様子に気づいたのか、紅林は体をかがめて翼のベッドに寄った。 「あら。二村さん、熱ある? 顔が赤いわね」 「本当だ……。突然倒れたくらいだから今日は帰った方がいいよ」 「だ……大丈夫ですから! なんにもないです……」  夢原もベッドの端に手をつき、顔をのぞきこんでいた。手を伸ばせば、ふわふわとした彼の髪にふれられる距離だ。  翼はこれ以上は見られまいと顔をそらし、掛け布団の端を掴んだ。 (もっと他のコみたいに積極的だったらよかったのに……)  他の女子だったら可愛く反応できるだろう。残念ながら翼は好きな人を前にすると、ロボットのようにぎこちない動きでひきつった表情しか浮かべなくなる。そして帰ってから後悔する。あの時あぁしていればよかった、こう返せばよかったのに……と。  きっと今夜も、布団の中で浮かない表情をして眠りにつくことになるだろう。  翼が早退してしばらく経ったある日。彼女は授業後に夢原に呼ばれ、化学室へ向かった。  化学室は水道がついた大きな机が六つあり、それぞれに丸椅子が並べられている。  引き戸を開けると、夢原は丸椅子に座っていた。翼に向かってふにゃけた笑顔で手を振る。 「二村さん、急にごめんね。あれから体調は大丈夫?」 「はい。この前はありがとうございました」 「そんな、いいんだよ」  頭を下げると夢原は首を振って、”ここにどうぞ”と言うように隣の椅子を引いた。  そんな近くに……! 翼は硬直した。というのは当時の翼にとって難易度が高い。  動きが不自然になりながらも、少し距離を置いてそっと座った。足音さえ立てないようにすり足で近寄って。  彼女がカチンコチンになっていることには気づかず、夢原はホチキスでとめたプリントを差し出した。 「二村さんが休んでる間の授業内容をまとめたんだ。よかったらどうぞ」  受け取ってめくると、教師らしい丁寧な字でカラーペンも使って分かりやすくまとめてある。ほどよい行間が読みやすい。  彼お手製の教材はまるでプレゼントをもらったよう。翼はかすかにほほえんみ、プリントを胸に抱き寄せた。 「ありがとうございます……!」 「分からないことがあったらいつでも聞いてね」  明るい笑顔に目を奪われた。翼は浮かべることが少ない、屈託のない笑顔。  始めはなんだか抜けていて頼りなくて、教師だと思えない時期もあった。  しかし、沈着冷静な性格の翼が彼に惹かれるのに時間はかからなかった。  夢原の笑顔に癒される自分がいた。柔らかく優しいほほえみ、しゅんとした八の字眉、ぱあっと輝く瞳、時々見せる男らしい顔つき。  いつの間にか彼から目が離せなくなり、憧れが好きに変わっていった。  高校時代、翼は家から高校まで電車で通っていた。もちろんナゴヤ市内の学校だ。  電車には中学生の頃から乗りなれていた。夏休みなど長期休暇の時に、祖父母の家に一人で遊びに行っているからだ。いつも最寄り駅まで祖父母が車で迎えに来てくれる。  高校の最寄り駅は、改札を出ると目の前に校門がある。  歩道は小豆色のブロックに覆われ、等間隔で木が植えられている。その足元にはウッドチップが敷き詰められていた。  校門に近づくとプランターに植えられた花が元気に咲いていた。 (あ、チョコレートコスモス)  周りの高校生たちが目を向けることはあるのだろうか。翼は白いプランターの前に立ち止まった。  その中でチョコレート色の花が咲いている。それは色だけでなく、香りもそうだ。祖母が鉢植えで育てているのを見せてくれたことがある。  学校にも咲いてたよ、と教えたくてスマホで撮った。 「つっばさー! おはよ!」 「おはよ、ユカ」  後ろから声をかけられ、スマホをしまった。現れたのは同じクラスの女子だ。  グレーのジャケットに緑のネクタイ、紺色のプリーツスカート。周りには同じ制服を着た生徒がたくさん歩いている。  その中にスーツ姿で歩いている者がいた。周りの生徒に絡まれながら改札から出てきた。  ユカはブンブンと手を振りながら声を張った。 「あ、ユメ先生だ。せんせ、おはよー!」 「おはようございますでしょー」  彼はずり落ちた丸メガネを押し上げながらフニャリと笑った。 「二村さんもおはようございます」 「おはようございます……」  翼がぺこっと頭を下げると夢原は、天然パーマをなでつけてほほえんだ。  彼が背を向けると、ユカはニヤッと笑った。 「翼、ユメ先生と仲良くなってきたよね。一年生の頃は”どこが教師よ”って言ってたのに」 「そこまで言ってない……」 「だって顔がマジだったもん。あたしも同感だし」  教卓から下りるのに足を滑らせたり、全校集会でマイクの前で礼をして頭をぶつけたり。何もないところでつまずいたり、頭の上にのせたメガネを”ない、ない?”と言いながら探しているのを見たこともある。  ユカのからかう視線から逃げ、翼は夢原の背中を追った。  彼は薄い肩にビジネスバッグをかけ、再び道行く生徒に絡まれながら校門をくぐった。  不意に彼は顔を横に向け、立ち止まった。 (あ……)  彼の視線の先に気がついた翼は、彼に釘付けになった。  校門の影にひっそりと生えた金木犀。その甘い香りに、翼はいつも癒されていた。  しかし、その木を話題にする者はいない。背が低くて目立たないからだ。  こんなに存在感のあるいい香りなのに。翼はいつも校門をくぐりながら、ひそかに愛でていた。  だからだろうか。自分以外にも金木犀の木に目を向ける人がいて嬉しくなった。しかもそれは意外な人。  彼はビジネスバッグを肩にかけ直しながらほほえんだ。おそらく、金木犀に向かって。  その時初めて、彼の横顔をまじまじと見つめた。丸メガネの内側で細められた目、目尻のシワ、形が整った鼻、薄い唇。顔の輪郭はすっきりとしている。  そういえば夢原がかっこいいと、女子たちが騒いでるのを見たことがある。  なるほど、確かにそうだ。天然パーマのようにふわふわとした性格のせいで見逃しがちだが、顔が随分整っている。柔らかくほほえむ横顔は視線だけでなく、心も奪われそうだ。  その日から彼のことを目で追いかけるようになり、ある時これは恋なんだと悟った。  一番の友だちにも親にも話したくない気持ち。  今までの恋とは全く違った。彼の姿を見るだけで胸がきゅーっとなったり、笑顔を見ればこちらも口角が上がっていく。  花の香りをかぐたびに好きな人を思い出すのも初めてだった。 「ばっちゃの部屋、いいなぁ」「翼も自分の部屋があるでしょう」「これだよ、鏡台。いいなぁ」  高校三年生になり、受験モードの冬。翼は気分転換と称し、祖父母の家へ遊びに来た。  この頃の翼は祖母の部屋にある鏡台がお気に入りで、来て早々二階に上がっては飽きることなく眺めていた。  鏡台はよくある三面鏡で、観音開きになっている。オーバル型の鏡は蔓バラの彫刻で囲われている。 「あぁ。昔おじいさんが輸入家具屋で買ってくれたのよ。花の装飾がいいでしょ?」  お茶の用意ができた、と祖母が呼びに来た。彼女は鏡台の前に立ち、木彫りのバラをなでた。「もっと大きくなったら翼にあげる」 「いいの!?」 「いつか翼に使ってほしいわ」  形見として譲るという真意は、その時は見抜けなかった。  翼はこの鏡台の前でメイクをする日を想像し、祖母のようにバラをなでた。いつかが来たらよろしくね、と挨拶をするように。  リビングにおいで、という祖母に曖昧に返事をし、翼は観音扉をそっと開けた。  ジーンズのポケットに手を差し込み、取り出したのは白のグロスリップ。キャップにはキルティングポーチを思わせる控えめな凹凸と、花のようなマークが描かれている。  翼はキャップを開け、リップを唇に当てた。色はコーラルオレンジだ。 オレンジにピンクを合わせたような、金木犀の花より落ち着いたオレンジ。  翼が初めて買った化粧品だ。同級生の中には化粧品を一式そろえ、休みになると元の顔が分からないくらいのメイクを施す者もいる。  初めて塗る口紅。口を薄く開き、ゆっくりとなぞる。翼はまるで、映画で主人公が初めてメイクをする気分になった。  初めて好きな人とデートに行く。いつもと違う、可愛いと思われたい。  いつしか頭の中で、夢原の隣に立つ自分を想像していた。  彼との身長差はおよそ頭一つ分。 いつもより大人っぽく見える自分なら、8個上で童顔の彼とつりあえるだろうか。  リビングに下りると、両親にはいつの間に化粧品を買ったのかと驚かれた。だが祖父母はいい色だ、よく似合っていると褒めてくれた。
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