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(あっ……また、いる……)
窓の近くに、黒い靄が固まっているのが見える。
そしてその靄は、デルテの視線に気づいたからか――ぎょろりとした眼球を作り出し、デルテを見つめた。
「ひっ」
思わず後退りし、今自分が入って来たばかりの扉に背中をぶつける。
(またいる……しかも……前よりもずっと……気持ち悪い……最初は、ただの黒い靄の塊だけだったのに……!)
まだ黒い靄だった頃は、言い知れぬ不安や恐怖を煽られるだけだった。
無理やり抑え込んでいる、家族間での自分の立場に感じる惨めさや、寂しさを引っ張り出されるような――そんな「感情」を刺激される。
だが今は、あの靄が眼球や手、口といった「人の一部」を作り出し、それを見てしまうと――誰とも知らない赤の他人が死ぬ瞬間や、死ぬほどの苦しみの「感情」を、流し込まれる。
あの黒い靄は、何人もの「死んだ人間」の感情の塊――いわゆる、「死んだ者の魂」や「死霊」なのだと、デルテは認識するようになった。
(逃げなきゃ……!)
じりじり近づいてきていた死霊に気づき、デルテは扉を開けて逃げ出した。
デルテが、この黒い靄の存在に気付いたのは、半年ほど前――デルテの10歳の誕生日だった。
自分の心をかき回されるような恐怖と不安でパニックになったデルテは、すぐにメイドたちに自分が見たものについて話した。
――しかし、誰も本気で取り合ってはくれなかった。
『木の影か何かを見間違えただけですよ』
『最近よく眠れておられないようですし、睡眠導入に良いハーブティーをお持ちしますね』
露骨に非難する者はいなかったが、それはデルテが「存在を無視されていても、公爵家の娘であるから」というだけだ。
(……やっぱり、おとうさまに直接知らせなくちゃ)
廊下を走るデルテに何人かメイドが声をかけてきたが、無視した。
エントランスまで走り抜けると、ちょうど外套を羽織ったモルゲン公爵の姿が見えた。
傍らには、エーレンシュトラール公爵家が所有する、エーレンシュトラール騎士団の制服を着た団員が立っている。
護衛である専属騎士を伴って、どこかへ出かけるつもりらしい。
おそらく、またしばらく家を空けることになるだろう。
(おとうさま……! 今言わなきゃ……!)
「おとうさま!」
魂の叫びがエントランスに響き渡ると、モルゲン、その隣にいた団員が足を止めた。
「デルテお嬢さま……」
「……」
専属騎士は声をかけたが、モルゲンは眉間に皺を寄せてデルテを見るだけだった。
普通なら、話しかけてくれたほう――話を聞いてくれる姿勢を見せているほうが話しやすいものだが、このときのデルテには父親のことしか見えていなかった。
(それに……私がどんなに助けを求めても、みんな何もしてくれなかった……!)
「お、おとうさま……た、助けてください!」
「お嬢さま、一体何を……」
モルゲンに向かって突進するデルテを、専属騎士が間に入って受け止める。
「おとうさま……この屋敷には、オバケがいるの!」
「っ!」
専属騎士に止められてもなお、モルゲンに近づこうともがきながら、デルテは叫ぶ。
「生きているわたしたちをイヤな気持ちにさせて、こわがらせようとしているオバケが……」
そこまで聞いたモルゲンは――鋭く目を細めた。
「――いい加減にしろ」
さして大きくもないはずの冷たく切り捨てる声が、エントランスに響く。
それは、モルゲンの声によってデルテと専属騎士の声や動きが止まったからだろう。
「そうやって、ありもしないものを見えると言って、大人の気を引こうなどと……浅ましい!」
「っ……」
デルテは、頭に鈍器を叩きつけられたような衝撃を受けて固まった。
モルゲンの顔には、怒りしかなかった。
何かに怯え助けを求める娘を思う父親の優しさなど、欠片も存在していない。
(ああ……おとうさまは、知ってたんだ。わたしがずっと、怖いものを見てるって言っているのを……それでも、みんなと同じで信じてないから……)
自分に興味を向けない父親が、他人には見えもしないもので怯えているなどと知ったところで――心配などしてくれるはずもなかったのだ。
少し考えればわかることだったかもしれないが、本気で黒い靄――死霊の存在に怯え、助けを求めていたデルテにそんなことを考える余裕はなかった。
何より――心配してもらいたいという願望そのものが、デルテにそんな思考をさせなかったのかもしれない。
デルテの心に――また深い、絶望が影を落とす。
《……カワイソウ》
《いやなちちおやだ》
「!」
エントランスに飾られた大きな花瓶の陰に、黒い靄で形作られた顔が浮かんでいた。
眼球の瞳は明後日のほうを向き、歪んだ口元は笑っているのがわかる。
声までもハッキリ聞こえた上に、どこかバカにするような声音が、恐怖と惨めさを加速させる。
「ひっ……」
デルテは自分を受け止めていた専属騎士の手を強く振り払うと、エントランスから外に向かって走り出した。
「っ……」
その背中を、モルゲンは――憎たらしそうに睨みつけていることにデルテは気づかなかった。
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