泉の村のアマリ

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 山に大きな木があった。  ずいぶん年寄りな木だったけれど、枝は空の高くまでその腕を伸ばし、青々とした葉をたっぷり茂らせて、まだまだ元気な様子を見せていた。  いつからか、その木の根元に狐が住み着いた。根をかじるでもない、幹に爪を立てるでもなくただ丸くなって休むその狐は、大きな木の元にときどき人間が置いていく食べ物をほんの少し食べては、木の根元に居着いていた。  そうして長い年月が経ったある日、木が雷を受け止めたときも、狐はそばに居た。  轟音に驚いて根から跳ね出た狐の前で、木は火を噴いた。赤く燃え盛る炎を身の内に押さえ込み、立派だった木が黒焦げの洞だけ残して焼け落ちたときも、狐は木のそばで見つめていた。   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  泉が赤く染まる。  澄んだ水が何の前触れもなく、水底の方から色を変えていく。 「山神さまが、贄(にえ)を欲しがっとる」 「娘を選ばなけりゃいかん。祭りの用意をせにゃあならん」  泉の周りにいた村の人々は、それぞれの村の者に知らせるために、四方の村へと駆けていった。  ひと気の無くなった泉は静かに色を深めていき、ひらり舞い落ちた木の葉は、暗い赤色に沈んで見えなくなった。  贄に決まったのは、泉を囲う四つの村のひとつ、下泉(しもいずみ)のアマリだった。  四つの村は持ち回りで贄となる娘を出していて、久方ぶりの贄となる今回は、下泉の順になると記録にあった、と村長は言った。そうして、村の中で年ごろの娘がいる家の中から、一番子沢山な家に娘を出してもらうことになっており、アマリが選ばれたのだと言う。  アマリには二人の兄と四人の姉がおり、トメ、スエと言う二人の姉の後に望まれもせず生まれたから、余り者の意味でアマリと付けられた。  そんなわけだから、村長から頼まれた両親は、ひとりくらい神さまにやっても構わないとすぐに頷いた。嫁ぎ先も決まっていない、大した労働力にもならない十五の娘が片付けば、無駄な食い扶持が減るためだ。娘を贄にすることへの礼として約束された、米俵が魅力的だったこともあるだろう。  そうして、アマリの寿命はひと月後の春祭りまで、と決まった。田畑を耕す前に、その年の豊作を願って村を守る山神さまに祈りをささげる春祭り。例年であれば、その年一番に採れた蕗(ふき)の薹(とう)や土筆(つくし)などの山菜と、祭りのために残しておいた米や小豆をお供えする。  今年は、そこにアマリが付け加えられるわけだ。   「長いこと泉が染まることは無かったのに、贄に当たるとはなあ。お前さんも運が無かったな。気の毒になあ」  贄に決まったアマリの顔を見て、年寄りが言う。会う人会う人、みんな同情的で優しい言葉をかけてきた。  みんなが優しいのはなぜか。誰もがアマリを故人として扱っているからだ。両親も、兄姉たちも誰ひとりとしてアマリが贄になることに異を唱えない。アマリの命は、もう終わりが決まっていると確信しているからだ。  それは、アマリ自身も例外ではない。  贄に選ばれたのは運が悪かった。そもそも、望まれもせずに生まれてきたこと自体、運が悪かった。望まれていない上に男でなかったのは、運が悪かった。  アマリの短い人生は、何を取っても運が悪い。自分の力ではどうしようもないことばかりだった。  だから、アマリは考えた。  最期くらい、自分の力でなにかしてみよう、と。  そう考えたアマリは、他の村長の家に出かけて行った。  贄を出さない三つの村では、それぞれの村長の家に年頃の娘を集め、アマリのための晴れ着を作っていた。  ひとつめに訪れた村では、白い着物を作っているところだった。  山神さまの元へ行くアマリに着せるために、布地をたっぷり使った立派な着物を作ると言う娘たちに、アマリはお願いした。 「裾は短めがいい。神さまの元に着くまでに汚してしまいたくないから」  村長は、二つ返事で聞き入れた。貴重な布が無駄に使われずに済むと喜んで。  ふたつめに訪れた村では、白い羽織りを作っているところだった。  村のために贄となるアマリを飾るため、アマリにぴったり合う羽織りを作ると言う娘たちに、アマリはお願いした。 「袖は長めがいい。働いて荒れた手を山神さまに見られたくないから」  村長は、涙を浮かべて聞き入れた。若い娘の最後の願いだと悲しんで。  みっつめに訪れた村では、白い頭巾を作っているところだった。  若くして命を散らすアマリを送るため、アマリを優しく包む頭巾を作るという娘たちに、アマリはお願いした。 「結び紐はきつく結べるものがいい。うっかり解けて泣き顔を晒したくないから」  村長は、立派な心がけだと聞き入れた。心を殺して己の役目を果たさんとする若者を讃えながら。  そうして、瞬く間に時が過ぎ、祭りの日が訪れた。朝早く、家族に暇乞(いとまご)いを済ませると、アマリは赤く染まった泉で身を清めた。  真っ白い着物が赤く染まる。赤い着物に赤い羽織り、頭に赤い頭巾をかぶったアマリは、ちらりと山に目をやった。  泉を囲う四つの村は、ぐるりを山に囲まれている。中でも一番高い山の頂上に、木のない箇所が見えた。ぽっかり空いた木立の穴が、お供え物を置く場所だと言う。つまり、これからアマリが行く場所だ。  四つの村の人々が泉の周りに集まる中、お供え物を担いだ男衆がアマリの周りを囲むように立ち、泉に背を向ける。  頭巾を目深に被ったアマリも立ち上がり、振り向くことなく村を後にした。  そろそろ、お供えを置いて山を降りた男衆が村に帰りついているだろうか。  お供え物と共に広場に置いていかれたアマリは、ここからは見えない村を思い出しながらぼんやりしていた。  村からは穴のように見えていた箇所は、雷でも落ちたのだろうか、黒々と焼けた巨大な木の洞とわずかな草が生えるばかりの広場になっていた。山菜や米を供えた木の洞の前に腰を下ろしたアマリは、ひとり空想にふける。  村では、きっとご馳走が並べられているころだろう。冬の間、少しずつ食べていた食料の残りを今日の祭りで一気に食べてしまうのだ。腹いっぱい食べても誰にも怒られないこの日を毎年、楽しみにしているのはアマリだけではないはずだ。  祭りのご馳走を思い出したアマリは、ここにきてようやく贄に決まったことを悲しく思った。  贄にさえ決まっていなければ、今ごろは炊きたての飯にかぶりついていたはずだ。野菜がたっぷり入った熱い汁も飲めただろう。煮込んで溶けたさつまいもは、きっと甘いに違いない。野菜だけではない。汁には肉も入っているだろう。肉など久しく食べていないから、考えただけで涎(よだれ)が出てくる。肉に限らず、調味料もどっさり使うはずだ。味噌だってけちらずに出すだろうから、熱々のふろふき大根に付けたら、さぞ飯が進むだろう。それぞれの村の婆さんが漬けた漬物の味比べだって、できたはずだ。下泉の漬物名人の婆さんが、今年の出来は上々だと言っていたから期待していたのに。干し魚を煮た熱い汁を飯にかけて、漬け物でしゃばしゃばとかき込めば、箸が止まらないほどに美味いだろう。  唯一の心残りとも言える祭りのご馳走に思いを馳せ、食後の甘味に干し柿を食べるべきか、はたまた干し山栗をふやかして茹でたものを食べるべきかと頭を悩ませていたその時。  広く、明るい草原を何かが駆けた。深く被った頭巾の下から視線だけであたりを伺うが、アマリの目は何も捉えられない。  しかし、アマリは確かに聞いた。落ち葉を蹴散らす軽い足音を確かに聞いた。  神か、獣か。わからないけれど、アマリは最期にあがくと決めたのだ。  アマリは走った。着物の裾は短く作ってもらったから、走る邪魔になりはしない。走って、焼け焦げた木の洞に駆け込む寸前で、何かが頭巾に爪をかけた。かけた爪を引く瞬間、アマリは頭巾をすぽりと抜いて、木の洞の割れ目に引っ掛けた。  頭巾の紐は丈夫に作ってもらったから、爪をかけた何かをほんの少しだけ足止めしてくれた。  その隙に木の洞に入り込んだアマリは、羽織りの袖を長く作ってもらったことで隠れていた手を振りかぶる。そして手の中に握っていたヒシの実を頭巾のあるあたりに投げつけた。 「ギャン!」  聞こえたのは獣の悲鳴。駆け去る足音。それから、遠くでがさがさと草むらを掻き分ける音がした。遠ざかる音を耳で聞き送りながらアマリが洞の中で警戒していると、突然、顔に影がかかる。  びくり、と肩を震わせたアマリが見上げた先には、狐の面をつけた男の姿。  ひょろりと薄い体は強そうには見えないし、ぼりぼりと首すじをかく姿は警戒心を薄れさせるが、油断はできない。音もなく現れた時点で、並みの人間ではないはずだ。 「あー。あんた、今回の贄か。元気が良いのはいいが、うちの小さいのをいじめないでくれんか」  緊張に身を固くするアマリとは間逆の、のんびりとした声が響く。 「どうせ俺に食われるんだ。その前にちょっと引っ掻かれても、あまり変わらんだろう」  のんびりと、非道(ひど)いことを言う。  これはやはり、獣が化けて神さまを騙(かた)っているに違いない、とアマリは狐面の男を睨みつける。  男が言うところの「うちの小さいの」であるさっき逃げて行った獣の声からして、この男は犬か狐の親玉だろう。山神さまが贄を要求するのは村の爺さまの爺さまが若いころからだと聞いたから、年経た獣が知恵をつけて、長年村人たちを騙し娘を食らっているに違いない。  そう考えると、アマリはふつふつと怒りがわいてきた。それと同時に、神さまの正体に疑問を持った自分を誇らしく思う。  最期だからと、素直にすべてを受け入れなくて良かった。この獣が食い殺してきた若い娘たちを思うと、無駄に散らされた命を思うと、悪あがきだとしてもアマリはおとなしく食われるわけにはいかない。  村のために犠牲になるならば仕方がないと思えるアマリだが、獣の腹を満たすために死ぬのは仕方ないとは思えない。  拳をぐっと握りしめたアマリは、男を睨み据えたまま叫んだ。 「お前なんかに食べられてたまるか! あたしは化け物の餌になりに来たんじゃない!」  噛み付かんばかりの勢いで言うアマリに、男はこてりと首をかしげた。   「はて。洞の前に供え物がある。共に娘がおる。つまり、娘は贄だろう?」  きょときょととあたりを見回した男は、狐面の額にはたと手を当てて、しまった、とこぼす。 「贄を寄越すように合図したと思っとったが、もしややり損なったのか。泉は赤く染まっとらんのか」  しまった、しまった、と男が余りにも困ったように言うものだから、アマリはほんの少し警戒を解いて、ついつい返事をしてしまう。 「……泉なら、真っ赤になってるよ。着物もほら、染まってる」  ひらり、と羽織りの袖を見せれば、男は手を打って喜んだ。 「なんじゃ、ならばやはりあんたは贄で、俺に食われるために来たんで間違いなかろ」  ひとりで納得して頷く男に、アマリは再び腹を立てる。 「あたしは村のために贄になるんだ。お前なんかに食われるためじゃない!」  腹を立てて激しく吼えたてるアマリに対して、男はきょとりと首をかしげる。 「だから、俺はあんたを食って力をつけて、泉の村が不作にならんようにするんじゃないか」  さも不思議そうに言う男に、アマリも首をかしげる。  この狐面が、泉を染めて贄を要求した。そして、贄としてやってきたアマリを食べる。食べて、村のために力を使う……?  そこまで考えて、アマリは気がついた。獣の親玉と思っていたが、もしやこの狐面、本当の山神さまなのではないだろうか。  そう思ってまじまじと男の姿を見つめてみるが、顔を覆う真っ白に塗られた狐の面は、赤い口からこぼれる牙といい、赤で縁取られた金色の目といい、怪しさしか見出だせない。  貧相な体に着ているものは、村の男たちが着ているのと大差ない質素な服。手と裸足の足の指には鋭い爪が伸びていて、獣らしさを感じる。  ここまでの発言は、のんびりとやる気なさげなわりに自分本位な物の言い方をしていたように思う。  どれを取っても山神さまと言うより獣の親玉のように感じられるが、唯一、狐面の後ろでぼさぼさと伸びている芒(すすき)色の髪だけが、光を浴びてほわほわと輝き、男を神聖なものに見せていた。 「あたしを食べれば、村を助けられるの……?」  恐る恐る尋ねるアマリに、男は狐の面をかっくりと前に倒して頷いた。 「さっきから、そう言っとる。食べればいいと言うより、食べねばならん、と言ったほうが正しいがなあ」  はじめはきっぱりと、その後は申し訳なさげに男が言う。アマリは男の言葉の意味を図りかねて、首をかしげた。 「なにが違うの?」  飾らない質問に、男はぼりぼりと首すじを掻く。顔は見えないながらも、どこかきまり悪げにしながら口を開く。 「俺は神になって浅いのでな、自分の力だけでは村を守りきれんときがある。じゃから、贄を食ってその力で以って村を守るのよ」  男の説明は、アマリにはよくわからなかった。神さまでも人間のように、今はまだできないことなんてあるのだな、と思うばかり。だから、不思議に思ったことを聞いてみた。 「神さまになってそんなに経ってないってことは、前は違う神さまが居たの?」 「なんだ、知らんのか」  こてりと首を横に傾けた男は、黒焦げた木の洞を優しく叩いた。 「村の者(もん)が山神と言っとるのは、この木のことよ。それは大きな木があって、山も泉の村も、みんな守ってくれとった」  懐かしげに言い、高い虚空を見上げる男につられて、アマリも空を見上げてみる。  そこに木はなく、アマリには空に木を描く思い出もない。けれど、山に木々の間にぽっかりと残された空の穴は、確かにそこにあったものの存在を知らせてくれた。 「ずいぶん、大きな木だったんだね」  自身が入り込んでいる木の洞を見渡したアマリがつぶやく。枝が伸び、葉が茂っていたであろう空間も、ずいぶんと広い。 「ああ、大きかった。最期は、雷に打たれて燃えてしまった。山の木が雷を浴びないよう、村に火が燃え広がらないよう、自分だけを燃え落ちさせて、いなくなってしまった」  しんみりと言ってから、見つめるアマリの視線に気がついたのだろう。男は首すじをぼりぼりとかき、諦めたようにため息をつくと、洞の中に腰を下ろした。 「つまりなあ、俺は神になりたてで、まだ弱い。力が足りん。自分の力だけでは足りんから、贄の力を借りなけりゃ、村を守れん。山の守りも、手下の狐に助けられて、ようようなんとかしとる」  男の言葉で、はじめにアマリの元に来たのは狐だったとわかる。 「じゃから、済まんが、食うぞ」  言って、狐面の顎に手をかけた男をアマリは止めた。 「ひとつ、聞かせて。贄は、まだまだ必要なの」  問われて、面にかけた指をはずし男は首をかしげる。 「いや、恐らく、あんたで最後になると思う。前の神にはまったく及ばんとはいえ、俺もずいぶん力をつけた。贄を必要とすることも、ずいぶん減った。じゃから、今後は贄を食わんでも、多少不作になるくらいで済ませられるはず」  うむ、と頷く男に、アマリはそうか、と頷き返す。  あと少しの力が足りないのだったら、余り者で埋めるのは、仕方がない。そう納得して、アマリは目を閉じた。  アマリの閉じた視界の向こう、狐の面を外した男が、がぱりと口を開けたとき。 「あ、あたしがヒシをぶつけた狐に、ごめん、って言っといて」  目を閉じたままアマリが言う。 「ああ、わかった。伝える」  答えた男が狐の面を外し、そして再び面をつけたとき。大きな木の洞の中には、もう人の姿はなかった。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「神さま。お供え物を持ってきました」  娘は重たい背負子(しょいこ)をどさりと下ろし、苔むした木の洞に声をかける。木漏れ日が差し込む山の中に、鳥のさえずりとかすかな笛の音が届く。  はるか山すその村では、今ごろ祭りが始まっているのだろう。  賑やかなその様子を思いながら、娘は懐から取り出したお猪口にお供え物の御神酒(おみき)を注ぐ。  ひとつは並べたお供え物と共に、木の洞の前へ。もうひとつは自分の手に持ち、軽く掲げる。 「感謝を」  ひと言述べて、盃を空にした。言葉の意味はわからない。昨年の実りに感謝するのか、それをもたらした神に感謝を込めているのか、祭りが行われてきた長い時の間に、その意味は失われてしまった。  けれども、娘はできる限り心を込めて、丁寧に礼をした。お供え物を運ぶ役目は、十五の娘にしか任せられない。一生に一度、あるかないかの特別な仕事であり、村の娘たちが憧れる役目だから、選ばれた喜びと誇らしさを込めて、深く深く頭を下げた。  娘が去ってしばらくすると、木の洞に近い草むらをかきわけて、狐の面をつけた男が現れた。  お供え物を手に取り、ひとくちかじる。そこに込められた人々のいろいろな想いと共に飲み込めば、男の内に十分な力が蓄えられる。村を守るために人からもらう力は、ほんの少しで足りる。それだけの力を身につけた。   「きゅーん」  身の内にある力に意識をやっていた男は、足元で鳴く声にはたと目をやる。そこに居たのは、供え物の前で伏せをする狐。このところ、山の見回りを任せている獣だ。  日ごろの行いに報いて、男は供え物をいくらか分けてやる。 余った物は欲している者があるだろうから、獣同士でうまく分け合うように言って、苔むした木の洞を後にする。  木立(こだち)に入るその前に、男がふと振り向いて見上げた先。かつて大きな木があったその跡は、生い茂る木々の梢に飲み込まれて、わずかに空が覗くばかりだった。
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