法律の線

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「法律ってのが、何のためにあるか知ってるか?」  大学の空き時間、ベンチで法学の資料を読む俺に、突然前髪の長い男が話しかけてきた。 「何だよ、いきなり」  向こうがタメ口だったから、俺は思わず同じような口調で返してしまったが、どうやらそいつは物怖じしない性格らしく、貼り付けたような軽い笑みで返してきた。 「お前、東堂だろ? 父親が検事のお偉いさんで、母親は大手法律事務所のお偉いさん。日本の法律の中心に生まれた、申し子みたいなやつだ」 「そういうお前は木崎だろ。法学部では有名だ。お世辞にも真面目とはいえない態度だが、成績は良い」 「ああ、大体二番目だ。一番は申し子が取ってるからな」 「嫌味でも言いにきたか? 二番」  その言葉に優越感がなかったとは言わない。俺の成績がいいのは事実だし、親のお陰と思っている部分もある。法律という分野に進むことについて、一切の疑念や迷いはない。 「お前も十分嫌味だけどな、東堂。俺の質問はシンプルだぜ。優等生には逆に難しいかな? 法律の存在理由だよ」 「答える義理はないけどさ、一応。法治国家を成り立たせるためだよ。法律の根幹は、私を殴らないでください。私も殴りません、だ」 「いいや、違うね」  そう話す木崎の笑みは、やはり胡散臭い。見た目通り軽薄な男で間違い無いのだろう。 「じゃあ、お前が考える法律の存在理由は?」  質問に質問で返す。そんなつもりはなく、嫌味のつもりだった。法律に関わる人間は必ず、法律について考える。そのついでに、バーガーを頼んだ際にポテトを頼むように、法律の存在意義について考える瞬間がある。酒が入れば、それについて熱く語る夜も、無きにしも非ず、だ。  木崎は右手で祈るように、空中に線を引いた。 「分けるためだよ。馬鹿とそうじゃ無い奴と、に」 「法律を理解しない人間は馬鹿だ、って? 傲慢だな、二番」 「考えたことないか? 法律に関する言葉は、実にめんどくさい表現が多い。法律ってのは平等で、誰もがその枠にいる。少なくとも日本に生きる以上、日本の法律に縛られる。だったら、子どもにでもわかるような文章で書くべきだろう。だが、実際は小難しい表現で、わかりにくく書かれてる。馬鹿にはわからないように、って思わないか? 意図的にさ」 「陰謀論に興味はないな。守るべきことを、齟齬が生まれないように書いた結果だろ」 「やっぱ優等生だな、カッチカチの石頭め。強化ガラスより硬いんじゃないか?」  大学生活で木崎と交わした言葉はそれだけだった。 「法律ってのが、何のためあるか知ってるか?」  あの日から数年後、俺は強化ガラスを挟んで木崎にそう問いかけていた。  すると木崎は笑う。 「どこかで聞いたことあるな、それ」  大学を卒業して、俺は結局、弁護士になった。今回の依頼は暴力団関係者の弁護。そしてその被疑者が木崎だった。  事件に関する資料を読んで理解したことは二つ。木崎は逮捕された。これまではグレーとされていた、裁けなかった罪が裁けるようになった瞬間に、だ。 「馬鹿と、そうでない奴を分けるためだ。だろ? 今は、もう真ん中で分ける必要ないな。ちょうど壁がある。透明で見えないけど、あの日と変わりはない」  俺はそう言って、目の前にある強化ガラスに触れる。すると木崎は、何か納得したように笑った。 「よう、申し子。お前の石頭でそれ割れねえか?」 「お前、二番だろ。そんなことすれば、俺もそっち側だし、俺の石頭はそれを割らずに開けるためにある。弁護士だからな」 「相変わらずカッチカチだな。まぁ、法改正の見せしめみたいなもんだからよ、俺がそっち側に行くのは何年か先だよ。今の俺にでも、それくらいわかる」  法改正からすぐに出た逮捕者。それを罪だと認識させるための、いわゆるパフォーマンスに近い逮捕なのだから、無罪を勝ち取るのはほとんど不可能だろう。  その上、被害者もいるし、正義的な観点でいえば、木崎は償うべきだ。 「お前、馬鹿だったのかよ」  俺はどうしてだか、裏切られたような気持ちで言い放った。  短い時間だったが、法律の本質について語り合えた思い出が、一気に汚された気分である。  俺の問いに対して木崎は、少しも考えず、反射神経で答えた。 「俺は最初っから馬鹿だよ。法律ってのは儲かるんだ。だから学んだ。金は正義だろ?」 「少なくとも法律の方が正義だ。日本は法治国家だからな」 「価値観は人それぞれだぜ、申し子」 「ガラスの向こう。檻の中にいる奴が言っても説得力がないな」 「そりゃそうだ。まったく、法改正なんて面倒なことしてくれるぜ。しかも小難しい言葉で、わかりにくく罪を増やす」  悪びれる様子など、木崎にはなかった。俺は何だか苛ついて、八つ当たりのように言い返す。 「馬鹿には理解できないように、ってか?」 「人間誰しも金には目が眩む。そしたら馬鹿にだってなるさ」 「お前が馬鹿だとは思ってなかった」 「でも見下してたろ? 東堂、お前は。自分以外、馬鹿だと思ってた。それくらいはわかるさ。それに人は変わる」  図星だった。一番が二番を意識する。当然のことだ。刺されるなら背後から。人間が武器を持った時代から決まっている。そして立場を理解し、順位をつける。  それでも、自分よりも『納得のいく答え』を出した木崎のことだけは、見下せなかった。だから俺は、小難しい法律をわかりやすく噛み砕き、弱い立場の人を救うために弁護士になったのである。  その果てがこのガラス越し。  正直、失望していた。俺の根幹は『あの日』から、馬鹿とそうじゃない奴の隔たりをなくすことだったから。  けれど、事実として、強化ガラスは存在している。目の前に。  俺は少し黙ってから、自分の持ってきた資料を狭い机に広げた。 「たとえば、俺が全力を尽くしても、三年……四年は臭い飯食ってもらうぞ。それが精一杯だ」 「まぁ、妥当だな。仕方ねえや。 「その間『雇い主』の支援は受けられねえのか?」  木崎の雇い主は、暴力団。弁護士が口にすべき言葉ではない。そんなことはわかっていた。それでも、ガラス越しにできる最大限の気遣いである。  すると木崎は、『あの日』を彷彿とさせる軽薄な笑みを浮かべた。 「トカゲの尻尾はよ、一度切れたら捨てられるもんなんだよ」 「じゃあ、『妹さん』はどうすんだよ、木崎!」  つい俺は、感情的になり、パイプ椅子を背後に蹴り飛ばしてしまう。刑務官の警戒が目の端に映ったが、今は気にしていられない。  それでも木崎は笑っていた。 「仕方ねえわな。ミスっちまったし」 「仕方ねえで済ませられないから、非合法な組織で働いてたんだろうが」  木崎には妹がいる。両親はいない。ついでにいえば、木崎の妹は難病指定されている。年間数百万じゃあ足りないほどの治療費が必要だ。もっとわかりやすく説明するなら、金が彼女の命を繋ぎ続けている。ギリギリのところで。 「この……馬鹿が」  絞り出した言葉は、どこまでも俺らしく、俺の本心ではなかった。それでも木崎は笑う。 「ああ、馬鹿なんだよ。だから『こっち側』にいる』  くそっ。俺は心の中で叫んだ。もしも環境が許せば、少しでも人生の文言が違えば、わかりやすければ、何かが変わったかもしれない。  そうして俺は目の前の強化ガラスに頭を打ちつけた。それ自体を割れるとは思っていなかった。俺が割りたかったのは、『あの日』木崎が引いた空中の線。 「お前の、木崎の妹の難病はな、支援が受けられるんだよ。法律の中で、な。そこにちょっとの支援があれば、四年くらい何とかなる。だから、自分で出てこい」  俺が言うと、木崎は張り付いた笑みを緩めた。 「俺の資料を持ってるんだったな。さすが申し子、抜かりがない。家族のことまで調べるなんて」 「馬鹿」 「ああ、馬鹿だよ」 「違うよ。俺がお前の家族について知ったのは、大学生の頃だ。後ろから追い上げてくる二番目を死ぬほど意識して、一番を守るためにな。二番がいるから、俺は一番に固執した。同じだろ? 馬鹿がいるから、そうじゃない奴がいる。それぞれに意味があるんだよ。お前がヘラヘラと追い上げてきたから、俺は今ここにいる。でもな、いつまでもヘラヘラしてんなよ。俺はまだ、本気のお前と喋ってねえ。もう一回、聞くぞ」  俺はもったいつけるように間を置いて問いかける。 「法律って何のためにあると思う?」 「……人間が人間らしく生きるため。法治国家で。正解か?」 「わかんねえよ。だから、法改正を繰り返して、生きやすい世の中にしようとしてるんだろ。正義の向日葵に恥じないように。けど、木崎の答えは嫌いじゃない。俺も同じ気持ちだ。だから、お前が『自分で引いた線』を超えてくるのを待っててやる」  俺が言うと、木崎はごく自然に頬を緩ませた。ついでに涙腺も緩んだらしい。 「厳しいなあ、申し子は」 「二番が怖いからな。緩めてる暇はねえよ」 「頼んでもいいか? 長いぞ、四年は」 「そっくり返すよ。長いぞ、四年は」 「無駄にしねえよ」  涙ながらに微笑む木崎の顔は、随分と軽くなったようだった。軽率さではない、本当の軽さ。  法律の重みにはどう足掻いても釣り合わない。それでも金色の秤は傾かない。  何が正しいのか、本当に理解している人がどれほどいるだろう。法律だって、未だ不完全で、未発達で、途中だ。  それでも、足掻き続けることを馬鹿だとは思えなかった。  とりあえず、今日はこの後、病院に行く。  資料ってのは重いな、と改めて思う。木崎の分と難病支援の資料、二件分だから当然か。  留置所の外に出て俺は呟く。 「法律はせめて、人を救うためにあって欲しいもんだ」
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