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3.僕はたったひとつだけ、この世でいちばん美しいものを知っていた。
ちづるは少し考えているようだった。
「……わが君は、不安を抱えているのだ。温かく暗い穴から出るのがおそろしく、外の世界を知らない。
周囲の者はだれも、わが君に期待をしていない。安全な暗がりを好むのならそれでよいと、わが君が出てこられずともだれも困らないと考えている。
わが君自身も、そう思いこんでしまわれた。
だからなにかひとつ、『この世でいちばん美しいもの』を差し上げて、外はおそれるほど怖くはないのだと、美しいものがあるのだと、お伝えしたいのだ。
ほかのだれが望まなくとも、わが君に外の世界を見ていただきたい」
ちづるは静かに言った。もうずっと前から心に決めていたのだと思う。
「だが、わたしは思い違いをしていたようだ。わたしにも知らぬ、美しいものがこの世には山とあるのだな。
わが君にお見せするには、ひとつでは足りぬ」
ちづるが笑った。
僕も笑った。
僕はたったひとつだけ、この世でいちばん美しいものを知っていた。
美しいものをただまっすぐに見つめる、ちづるの小さな黒い瞳。
さらに小さな星がひとつ入りこんだみたいに輝く。
ちづるはそれを知らない。
「ちづるの目、すごく綺麗なんだよ。だれかにあげてほしくないけどね」
冗談めかして、口元をゆるめて僕は笑った。
ちづるは思いがけない言葉を聞いたみたいに目を軽く見開いていた。
それから、一度目を閉じてから、ゆるやかに開いた。
「この目の奥に、美しいものをいくつも閉じこめた。先ほどのまぼろしの山もだ。そなたのまなざしもだ」
はっきりした声だった。
今度は僕が目を見開いた。ちづると一緒にいるときの僕の目を、そんな風に思っていたのか。
ちづるは手すりの上で方向を変える。
「どこに行くの?」
「わが君のもとへ帰る。今まで見たものの話をして差し上げたいのだ」
「ものはないのに?」
「わたしの目は美しいのだろう? 問題はない」
ちづるは愉快そうに笑って、五階のベランダから器用に壁を伝って走り去った。
その姿を目で追いながら、僕は想像した。
今までに見たいくつもの「美しいもの」について語るちづるの瞳は、いきいきとして光り輝いているのだろう。
聴く相手の心を強く惹きつけるだろう。
ちづると一緒に、外の世界を見たくなるだろう。
僕がそう願ったように。
ハリネズミが壁を伝って降りられるものなのか、僕は知らないけれど。
どこまで帰るのかも知らないけれど。
最初にうちに連れ帰った日、ちづるは言ったのだ。
「この恩はいずれ返す。しばし待たれよ」と。
だから、また会いにくるのだと思う。星がひとつ入った黒い目をして。
その日まで僕は、ちづるが心惹かれそうな「美しいもの」をひとつひとつ見ておこうと思う。
いつか、ちづるに話してきかせることができるように。
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