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1.透きとおった山
台風は熱帯低気圧に変わり、遠くへ過ぎ去っていたけれど、その影響で朝から雨が降ったりやんだりを繰り返していた。
昼には雷が鳴った。
夕方、ベランダの窓の外が妙に明るかった。黄色い砂みたいな色をしていた。雨が上がったのだろうか。
ちづるがベランダの戸を開けてくれと言うので、出られる隙間を作ってやった。
初秋とはいえ、まだ夏の暑さが残る日中に比べて、窓からわずかに入りこんだ風はずいぶん涼しく感じられた。
あと半月ほどで、大学の夏休みが明けて授業が始まる。その頃には昼間も涼しくなっていてくれたらいい。
ベランダに出たちづるが僕を呼んだ。
「おい、あれはなんだ」
「なに?」
洗濯物をたたんでいる最中だった僕は声だけ返した。
「山だ。しかし、中が透きとおっているぞ」
この辺りに山なんかない。
怪訝に思い、手を止めてベランダに出る。
ちづるはベランダの柵の手すりの上に、外側に向かって座っていた。
ここはマンションの五階だ。危ないのでやめてほしい。ただでさえ、ちづるは小さくて軽い。
「そこ座ると危ないって、いつも言ってるのに」
「あれだ」
僕のため息交じりの言葉をさえぎって、ちづるは空を指差した。
雨は上がっていたけれど、中層も下層も雲が多かった。
ほんの少しだけ、薄青い空が見えていた。
灰色の雨雲が西日に照らされて、でも夕焼けのように赤くもなく、淡い橙色と黄色に光っている。
その雲の横に、虹がかかっていた。
大きい。アーチ型の虹なんて十年ぶりに見た。大きすぎて、ベランダからは半円の右側だけしか見えない。左部分は、このマンションの向こう側に続いている。
この部屋は虹のちょうど真ん中、その真下にあるのか。
僕が声も出せずに虹に見入っていると、ちづるが感嘆と真剣さが入り交じった声で言う。
「不思議な山だ。山の端だけがいくつもの色で光り輝いている。なんとも美しい。
それに、実に整った、伏せた椀のような丸みを帯びた形だ。どうしたらあのような山ができるのであろう」
「あれ、山じゃないよ」
僕がこともなげに言うと、ちづるは驚いて僕を振り返った。
「あんなにも大きいのだぞ。山でなくてなんだというのだ」
「虹だよ。雨上りのときとか、空中の水分に太陽の光が当たると、ああいう何色もの光が出るときがあるんだよ。不思議だけど、自然現象なんだよ」
僕の知識も曖昧なところがあるけれど、だいたい合っているはずだ。
僕はベランダの柵に近づき、ちづるが座る隣の手すりの上に両腕を乗せた。
気持ちのいい風が流れる。上空はもっと風が強いのだろう。雲が早く流れていく。
低い雨雲が虹の端を通りすぎて、虹を一部分隠していった。
虹の光を雲が隠すことがあるのだと、初めて知った。
「この建物の向こう側には、虹のもう半分があるよ。半円を描く形になって現れる光なんだよ」
「なんと壮大な……」
ちづるは感動で小さく震えているようだった。
ちづるの見た目は、十五センチほどのハリネズミだ。茶色と白色混じりの。
肩がどこにあるのかがわからないけれど、肩を震わせているのかもしれない。小刻みにハリが揺れている。
ちづるは本物のハリネズミとはちがう。
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