2.『この世でいちばん美しいもの』を探す

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2.『この世でいちばん美しいもの』を探す

 一ヶ月くらい前、公園で弱っていたちづるを拾った。  ハリネズミが何を食べるか知らなかったけれど、家にあったリンゴをあげたら食べたから、くだものを好むらしい。  ちづるは故郷では、偉い人に(つか)えていたという。王さまの息子だけど、次の王さまにはなれない人だと。 「わが(きみ)に、『この世でいちばん美しいものを差し上げる』と約束をしたのだ」  マグカップ代わりのミルクピッチャーを両手で抱えて、ちづるはそう言った。  『この世でいちばん美しいもの』を探して、旅をしているのだという。  正直、なにを言っているのかよくわからない。  でも僕は、細かいことにはこだわらないというか、こだわるだけの好奇心みたいなものがあまりない。  だから一ヶ月、特に考えもなく、ちづるを家に置いている。  ちづるはベランダから月を眺めては驚き、星空を眺めては感嘆の息をつき、朝焼けと夕焼けにじっと見入り、花を持って帰ればそのそばで幸せそうにまどろんだ。  その姿に、この世には、ちづるの心を惹きつけるような「美しいもの」がいくつもあると知った。  僕がそれまで気にもとめなかったものの前で、ちづるは足を止める。目を輝かせて。  ちづるには、『この世でいちばん美しいもの』なんて、ひとつに絞れないんじゃないかと思う。  今までどこにいたのか訊くと、しばらく沈黙してから、「暗い森の中」とだけ、ぽつりと答えた。  本当は森じゃないのかもしれない。ただ、暗いところではあったんだろう。  ちづると『わが君』は、たぶん孤立している。 「あの美しいまぼろしの山を持って帰ることができたなら、どんなにか、わが君がお喜びになるだろうか……」  ちづるは恍惚(こうこつ)の中にいる。  でも虹は、そんなに長くは現れない。 「あの虹は永遠には光らないよ。太陽の光の当たり具合とかで、変わるから。それによって見えたり見えなくなったりするんだよ」  僕が説明するまでもなく、虹は端の部分を残して薄らいでいった。 「消えてしまうのか……」  ちづるは悲しそうな声でつぶやいた。  もう今や、虹は大きな半円ではなくなり、四センチほどのかけらになっている。  そのとき、雲に西日が強く当たり、虹が再び大きく弧を描いて現れた。  僕もちづるも思わず声をあげた。 「すごいな」 「なんとも心憎(こころにく)い」  僕とちづるはベランダの手すりで、虹が終わるまで見ていた。  時間にしたら、二十分くらいだったろう。  いつの間にか、雨雲が空をおおっていた。夕日の淡い朱色の光がほんのわずかに雲の端を照らして、それから消えた。  僕とちづるは、ずっと黙って空を見ていた。  日中とは全然違う、涼しくてどこか乾いた風が吹いていて、夜はすぐそこで、それでも僕たちは黙っていた。  僕は、黙ってちづるのそばにいたかった。 「ちづる」  僕は、ちづるが一緒にいると心地いい。  たわいもない会話をして、ときおりちづるが「美しいもの」に目を輝かせる。「美しいもの」のそばで眠る。  僕はその姿を見るのが好きだ。  でもちづるは、『わが君』のために『この世でいちばん美しいもの』を探さないといけない。ずっと一緒にはいられない。 「『この世でいちばん美しいもの』って、ちづるが探して持って帰って見せなきゃダメなの?  その、ちづるが見せたい人をこっちに連れてきて、あちこちいろんな美しいものを見せてあげたらいいんじゃないの?」  僕は「ちづるがいないとさびしくなるね」とは言えなくて、代わりにそう提案した。
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