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さくらんぼ
「えっ」
「えっ?」
同時に置かれたふたつのインク瓶。梅雨晴れの光を怪しく透過して、机に揺らめく影を落としていた。
「えええっ?」
インクでいっぱいに満たされた大振りの瓶を持つほうが言った。
「え、えええ」
ほんのわずかしかインクが残っていない小さな瓶を持つほうが言った。
「ええ、ええええええええええ!?」
「うるさいっ」
「あだっ!!」
大声を上げながら立ち上がった片方の頭をもう片方が思いっきりぶつ。「絶対折れたああ」と半泣きになりながら座る片方に、「んなわけあるか」と冷めた声を返すもう片方。
「っていうか、えっ、え!? そのインクって、まさかだけど……」
「いやあんたこそ、まさか……」
ふたりの真剣な声が重なる。
「魔法の、インク?」
双子の運命が動くのは、喫茶店の窓際で。
鏡合わせのようにそっくりの顔を持つふたりが同時に「嘘だ……」と零した。
幸運なあなたへ。
あなたは今日死んだけれど、わたしによって一瓶分の未来を授かりました。
このインクとペンを使って未来を書かなければ、時間は止まったまま動きません。ただし、人の生死に関することを除けば、書いたことはどんな願いでもすべて現実となります。
また、このインクが瓶とペンの中のどちらからも消え失せたとき、あなたの命は終わります。
「一緒やん……」
「一緒だねぇ……」
魔法のインクを貰った日のことを振り返りながら比べて、わたしたちは現実をゆっくりと消化していた。
「あれは? インクとペン持ってきたあの妖精みたいなやつ」
「妖精! なんかね、年齢不詳魔女の清楚系って感じ」
「わかんねえよって言いたいところだけどそれな。めっちゃ同じ。そうとしか表せない」
「薄青色のふわふわしたローブ着て、髪くそ長くてさ。あと、なんかレトロなトランク持っててそっからインク出した」
「まっっっってすごい、同じすぎる。色違いだ、色は白だった」
「すごっ!!」
向かいに座るお姉ちゃんがクリームソーダのストローを咥える。アイスに乗っかっていたさくらんぼが、緑のソーダの中にこてっと落ちた。
「妖精はみんな同じ人なのかなぁ」
「まず人じゃなさそうだったぞ」
「そっか、あはは」
一方わたしはカスタードプリンを掬って口に入れる。甘い。ホイップの上のさくらんぼは愛らしく艶々していて、この酸っぱさは最後に堪能しようと決めた。
「……でも…………」
からん、と氷が音を立てる。
いや、いやいやいや。それどころじゃない。
それどころじゃ、ないでしょ。
わたしは、クリームソーダのグラスの横に置いてある小さな瓶を見つめる。
お姉ちゃんに授けられた一瓶。夕闇色のインクは、もう全体の4分の1も入っていないんだ。
「……じゃあ、今日話があるって呼んだのは」
「うん……」
お姉ちゃんが、暗い顔で言った。
「私のインクは残りこれだけ。だから、もう長くない」
「……………………」
「……で、あんたが大至急会いたいって言ったのもこのインクについてだね?」
「……う、ん」
わたしが持つ大きな瓶には、緑青色のインクが波々と入っている。
「ずいぶんでかい瓶だなぁ、こりゃ長生きできる」
お姉ちゃんが茶化すから、わたしは消えそうな声で「笑い事じゃないよ」と言った。
わたしが一瓶を手に入れたのは今日の朝のことだ。大学に向かう駅のホームの人混み、突然意識を失った男性が背中に倒れてきたと思ったら、全員の動きが停止してあの妖精が現れた。そうしてこのインク瓶と、鞄に入っている万年筆を貰ったのだ。
これは願いが叶うインクなんだ! 興奮して、早くお姉ちゃんに自慢したくてたまらなかった。が、その浮かれた気持ちは霧散して、今はもうすべてが姉の人生のことでいっぱいだ。
大好きな姉の命の残量は残りわずか。それが形となって今ここにある。
角張った瓶の中で揺蕩うインクを、わたしは睨んだ。
「残り、これだけだなんて……」
「……まあ、特に悔いもない人生だったよ。でもあんたにだけには伝えとこうかなと思ってさ」
「……っ」
「ていうかそれより、なんであんたもそのインク持ってんだよ。どこで死にかけた?」
わたしがその一部始終を説明すると、お姉ちゃんは「あーらら」と苦笑いした。
「線路に落ちかけたか、不運だな。インク貰えて良かったよ」
「そもそもホームドア無いのがおかしいんだよ!」
「中途半端な田舎だもん」
「むう」
またプリンをひとくち食べる。優しい甘みを飲み込んで、「じゃあそっちはいつ貰ったの?」と訊き返した。
「いつかって? んー、多分小学生だったよな。あ、幼稚園……いやいや小学生なってた」
「はあっ!? そんな昔!?」
「だからこんだけしか残ってねーんだよ」
「まじかっ。てか、なんで死にかけたの?」
「知りたい?」
「知りたい」
わたしが即答すると、お姉ちゃんは悪い笑みを見せた。
「……何、何の笑顔」
「私がインクを貰ったのはね」
「…………?」
「……あんたを殺すための下見で貯水池に落ちかけたから」
思い出して、がくり、と頭を抱える。
「そうか、あのころ信じられないほど仲悪かったんだっけ……」
地獄のような幼少期を思い返して苦笑する。いや本当に仲が悪いとかいう次元じゃなかった。
ていうかわたしたち姉妹、なんか落ちることに悪縁があるなぁ。
「仲良しの双子とかもうファンタジーだよな」
「それなぁ。同じ顔で同じ声のやつが常に隣いるとかむかつく以外の何もない」
「今はこうやって呼べばすぐ会えるけど」
「暇人大学生だからねぇ」
「暇じゃ困るんだけどなぁ」
「っても、あんたは働いてるじゃん」
「ああ」
お姉ちゃんはなんでもないように言う。
「どうせすぐ死ぬからな、たっかい学費出してもらうわけにもいかんし。高卒でもインクの力で簡単に就職できるし」
「強っ。受験前にインク欲しかったな!」
「不正は良くないぞー」
「不正じゃないもん魔法だもん!」
「ていうかあんたもその不正したんじゃん!」と突っ込むと、お姉ちゃんは「ふははっ」と笑った。
よくよく考えるとぞっとする。小学生になったばかりの頃ってことは、もう15年近くインクの存在を隠していたのか。この前まで一緒に住んでいて、家でも学校でもずっと一緒だった双子の妹相手に、隠しきれるものなのか?
あ、わたしが鈍感馬鹿だっただけかも。
「そうだよ」
「んなっ!?」
「あんたの考えてることくらいわかる」
「うわうっざ、久しぶりにうざっ!」
「最近鳴りを潜めてたからね」
「うわわわ」
姉の前じゃないとしないドン引きアピールをして、そういえばこんなに長話するの久しぶりだと気がついた。高校を卒業してお互い一人暮らしを始めたし、進学と就職で分かれたのもあってなかなかタイミングがなかったのだ。
でも、久々に対面で話すと悔しいほどに実感する。にっくき双子の姉だったけど、今はやっぱり大好きだ。どこまでも大好きだし、話していると心地いい。嫌なことを忘れて楽しくいられる。
どこか切なく笑った姉が、「しかし凄いな」と切り出した。
「何が?」
「私は死期が迫るまでとにかくインクを隠したけどさ、あんたは貰ったその日に見せてきたじゃん。さすがだな」
「それは褒めてんの? 皮肉なの?」
「珍しく褒めてますよ。こんな私を信頼してるってことだから」
「…………………………」
正直、とにかく自慢したかっただけだ。恥ずかしくなって、残っていたホイップクリームを頬張る。
「……っていうかさ。残りの人生、何するかとか決めてんの? 世界一周でもしたら?」
「え? ああ、終活はしとかないとなぁ」
「ババアかよ」
「実質死にかけババアだよ」
「ま、何にも考えてないってことならさ」
わたしは言った。何の気もない、半分くらい冗談のつもりだった。
「わたしと一緒にやりたいこと全部やっていこうよ。そっちは残りわずかだからインク無駄遣いできないけど、たくさん持ってるわたしのほうでふたりぶん願いを書けば良くない?」
お姉ちゃんはおもむろに顔を上げると、すぐ机にその視線を落とした。
「そ……うか」
と、そのきれいな指がわたしの皿に伸びる。
「あー!」
ひょいっとつまみ上げられたのは、愛嬌を振りまくさくらんぼ。
お姉ちゃんは怒るわたしなんて知らんふりに実を食べてしまって、「ほんとに協力してくれんだな?」と悪い笑みを浮かべた。
「んもう、最後に残してたのに!」
「好きなもんは初めに食べてしまえ」
けらけら笑うと姉は唐突に立ち上がる。戸惑うわたしなんて気にしてくれるわけもなく、「じゃ、私もいちばんしたいことは最初にするとするか」と投げかけ、さっさと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「ほら行くぞ! ふたりぶん書いてくれんだろ?」
「えええぇぇ……」
わたしは忘れかけたバッグを慌てて取って、「ま、待ってよ〜」と情けない声を出しながらお姉ちゃんを追いかけた。
頭上ではドア鈴が軽やかな音を立てる。
「それで何で実家なわけっ!?」
「いーじゃねーかよ。いちばん行きたかったんだから」
特急電車で騒ぐ姉妹。
中途半端な田舎の県のさらに田舎にあるわたしたちの実家は、電車で2時間加えてバスで1時間の場所にある。県内とはいえ日帰りで行く場所ではない。
まあ、わたしがインクを使ったおかげで翌日の予定が両方すべて真っ白になったから大丈夫なんだけど。
「実家行って何すんのさぁ」
あんまり実家は好きじゃない。早く彼氏を作れとうるさい母や親戚、普段は朴念仁のくせに酔うと面倒くさい父、それに、あそこは田舎すぎて本当に何にもない。かろうじてコンビニが1軒ある程度で他には本当に何にもない。
「捜し物があるんだよ」
「捜し物? 何?」
「ひみつ」
「えー?」
「それより、私は書いてほしい未来をメッセージしとくから、時止まったら写してよ」
「なっ、別に要件だけ教えてくれたら文章くらい勝手に考えて書きますけど?」
「だめ。丸写しして」
そう言って、お姉ちゃんはスマホをポチポチいじりはじめる。わたしはこれじゃ奴隷みたいだと唸ったが、事の発端は自分なことに気がついた。
いっつもこうなんだよなぁ。わたしが馬鹿なせいで……。
「じゃ、残りの人生よろしくね〜」
メールを受信してスマホが光りはっとすると、お姉ちゃんはもう顔にタオルを乗せて寝始めている。「このマイペースめ!」とつついてももちろん無視だ。
わざとらしくため息をつきながらスマホを開き、送られてきた文を確認する。
「……ん?」
その内容も奇妙な言い回しも怪しかったが、問いただすことはできなかった。
夜の田舎道を散歩している。
「はー実家満喫!」
「それで、捜し物は見つかったわけ?」
「ばっちり」
「ならよかったです!」
結局捜し物が何だったのか教えてはくれなかった。こういう姉には慣れているのでもう諦めている。
「で? どうせまだ行きたいところとかあるんでしょ?」
「うん」
「どこ?」
「南極か、それかヴェネチアかな」
「遠いわ!」
あと南極はさすがに無理だわ!
「要するに海に行きたい」
「どこをどう要したらそうなんの」
海なんて島国日本のどこにでもあるでしょうが、と突っ込みかけて妹は口を閉じた。ないのだ。この県には。
「はぁ、わかったよ。とりあえず市内に戻ってから考えよっ」
「ありがとう」
「うわ、素直にお礼言われた。明日槍降る」
「降らせてみるか?」
「……インク持ちが言うと冗談じゃ済まないからやめて」
「あははっ」
本当に、インクの「書いた願いが叶う」魔法はとんでもないと今日だけで何度も実感している。生死に関わらなければ完璧に実現してしまうのだ。というか、命に関するような物騒なことなんて書かないから、ほぼ何でも叶うのと同義だ。槍は死者が出そうだからやっぱり無理かもしれない。
道沿いに立つ古びた誘蛾灯をぼんやり眺めていると、お姉ちゃんが「そろそろ戻るか」と言ってくるっとUターンする。わたしも、うんと伸びをしてからその後をゆっくり追いかけた。さすが田舎は星が綺麗だ。
「ねえ」
前を歩くお姉ちゃんの背中は暗い。ラフな寝間着が微風に揺れて、どこか幽霊のような佇まいだった。
「何?」
「私が死ぬの、怖くないの?」
お姉ちゃんは振り返らない。唐突の質問に思考が止まったわたしは、とっさに「別に」と言い放った。
「ひでえな」
「あ、いや、えっとね?!」
わたしが慌てる間にもお姉ちゃんはずんずん進み、止まってくれる気も振り返る気もない。顔が見えない不安でわたしは走ってお姉ちゃんを抜かし、さっと道を通せんぼする。
「邪魔」
「いやあのね、怖いも何もあんまり実感がないっていうか……」
「まあ、そうか」
お姉ちゃんは自分で確認するように、「そうだよな」ともう一度言う。
「……ま、まあ、あんたのことだから? 死に方も死んだ後もちゃんと計画してるだろうし? そういう心配は本当にないけど?」
「語尾上げんな気色悪い」
「とにかく余生楽しめよってことだよっ」
「んなの言われるまでもねえよ」
わたしとほぼ同じ長さの髪がさらさらと舞う。くだけた笑い声と男のような口調、そこだけは昔からわたしと違う。
「転けんなよ」
「転けるかっ!」
軽口を叩きながらも、お姉ちゃんと過ごす時間はなかなか楽しかった。
月明かりにぼやりと浮かぶ瞳は、いつものように同い年とは思えないほど大人びて綺麗だった。
その瞳も、もう二度と開くことはない。
お姉ちゃんが死んだ。
お姉ちゃんは無欲というか、世界にあまり関心がなかった。最初は自分でも色々行ってみるつもりだったみたいだけれど、結局地元で過ごしたくなったと言われて以来、特に遠出したのは実家と隣県の海くらいだ。
でもその本当の理由を知ったのは、お姉ちゃんのインクが尽きてからだった。
お姉ちゃんは、病気だったんだ。
生死に関する願いは叶わない。
病気が計画だと気がついたとき、それを踏み越えているからありえないと真っ先に思った。でも違う。病気になるという願いは書き様によっては叶うんだ。ただ、絶対に死なないというわけで。
インクを持つ人が死ぬ絶対条件、それはインクを失うこと。
「……………………」
電車に揺られながら、わたしはずっと考えていた。
お姉ちゃんが未来を書き綴った手帳は、死後燃やせとの命令を仰せつかっていた。素直にその通りにしてしまったせいで真相はもう想像するしかない。
わたしたち家族が姉の病気を知ったのは、亡くなるひと月ほど前だ。
姉が突然倒れたとの連絡が入って、難しい病気が見つかったと通告された。きっと本人はもっと前から知っていたんだろう。
覚悟してくださいと言われたときは、さすがの両親も取り乱したようだ。
しかしそれから1か月。姉の意識はある日のほうが多く、少しずつみんなが死の現実を受け入れていった。さすが熟練のインク使い。両親の心に残る傷はあらゆる死に方の中で最も浅く、立ち直りも早く済むだろう。
許せないのはわたしだ。
ずんずんと歩きながら悶々と考える。
何で。
何でよりによって、苦しむ死に方にしたんだよ。
せっかく、選べるのに。
「え?」
ざああっと、一面に広がる青。
地元には存在しない潮の匂い。
「えっ、え? ええええ!?」
わたしは、海に来ていた。
海に来ていた!?
反射的にバッグから手帳を取り出して開く。今日の未来にこんなことは書いてない、というか自分の意思ですらない行動だ。
「う、みだ……」
ふっ、と、勝手に足が動く。
「………………」
それからは考える隙も貰えなかった。
動く動く。勝手に。足が。身体が。どこかに向かっていく。
ざりざりと砂を蹴って、夕時の水面へ突き進んでいく。
「……あっ」
濡れるのも気にさせてもらえず波間に突っ込んでしばらく、足に固くてすべすべしたものが当たった。
ばしゃりばしゃりと波が足に打ち付ける。夏とは違って、少し冷たい。
拾い上げたものは、サイダーを入れるような細身の瓶だった。
そのとき。
「っ!?」
何かが解除されるように、全身に力が戻ってきた。
「……まじで何なんだ……?」
呪いか祟りか? 葬式でまずいことでもしたんだろうか。さすがに実の姉に取り憑かれるのは悲しいぞ。
とにかくこの瓶、中に何か入っている。メッセージボトルのようだ。
……開けたらまずいかな?
「いや、これは開ける流れっしょ」
アルミの蓋をきゅっと捻って開け、曲げて入れられた中の紙を取り出す。
足元では波が寄せては返し続けている。中身が気になるのと貴重な海なので、まだ上がる気分にはなれなかった。ちょうど濡れてもいいサンダルとジャージでよかった。
「これ、手紙というか……封筒?」
細長く白い封筒には宛名も何もなく、首を傾げながら中身を取り出す。
はらりと手に落ちてきたのは、金色のネックレス。
「……プレゼントかな?」
可愛らしいさくらんぼの飾りがついた、どこにでも売っていそうな子供用のおもちゃだ。
「んなもの、何のために……」
まだ残る日差しがペンダントトップの甘い赤色を透かして輝く。大人がつけるには恥ずかしい。メルヘンな女の子の仕業?
あ、ちゃんと手紙も入ってる。
何の変哲もないノートの切れ端。開くと、
見慣れた字が目に入ってきて、
わたしは、
「そんなの」
声は震えても、涙は出ない。
きっと、あの怒りを思い出したからだ。
「いまさら」
夕風に揺れる。
ごめんね、のたった4文字。
その4文字に、姉のしたかったことのすべてが詰まってると、気がついた。
あれから月日は流れ、少しずつインクも減っている。
大人と言える大人になったわたしは、まだまだ元気に生きている。
わたしはあの海で、お姉ちゃんが死ぬ前にいちばんしたかったことを知った。
謝りたかったんだ。
子どもの頃の乱暴やいじめを、わたしに。
実家で捜していたのはきっとあのネックレスだろう。子どものころ、奪って隠した妹の宝物。
……確かに今考えても、幼少期のお姉ちゃんの所業は極悪非道だった。殴るし蹴るし、おもちゃは略奪するし。
でも、きっと言い訳はいっぱいあるんだろう。
双子なのに、お姉ちゃんはわたしより何でもできたから。わたしが何でできないのか検討もつかなくて、弱っちい泣き虫で落ちこぼれのわたしをいじめて悪い理由もわからなかったんだ。
ついに殺そうとまで考えるほど、わたしのことが嫌いだった。
でもあるとき過ちに気づいて、でも、謝ることはできなくて。
わたしだって殺したいほど姉が嫌いだった。でも、その思いもいつしか消えていた。
わかってしまった。
姉が、インクを使ってわたしたちの関係を変えたんだ。記憶は残っても、あの恨みや、嫌悪や、宝物を奪われた怒りをすべて、もう終わってしまったことにしたんだろう。
でもきっと、後ろめたさなんていつでも背中にへばり付いていて。
……それなのに、なんだかんだ死ぬまで謝れないのが、とても姉らしい。
海で起きたことも今なら説明がつく。お姉ちゃんはきっと、わたしが海であれを見つける未来を事前に書いていたんだろう。だから勝手に身体が動いたんだ。
そこまでしないと謝れないのも、とてもとても姉らしい。
短い間とはいえ病気で苦しんで死んだのは、当然の報いだとでも思っているんだろうか?
死んでから謝罪したのは、許しを請うつもりはないという意思表示だろうか?
どこからどこまで、姉らしい。
そんなのなら、直接言ってくれればよかったのに。
「一発殴り返して、それで終わったのに」
もう一度、お姉ちゃんの墓前で手を合わせる。
わたしは今でもお姉ちゃんとのメッセージをよく開いて、あのとき書けと命令された文章を読み返す。
奇妙な言い回しや語選もちゃんと意味があるようだ。自分の思う未来を的確にインクに実現してもらうためのテクニックがたくさん詰まっていて、わたしは幾度もこれに助けられている。
「お姉ちゃん」
こっちこそ、ごめんね。
……わたし、お姉ちゃんが死んでも涙のひとつも出なかった。
知ってたってのも、あるけど。もしかしたら、わたしの中の傷つけられた幼い子供が、ざまあみろくらいに思っていたのかも。
ごめん……いや。
「それが、本望かもな!」
立ち上がってぐっと伸びをする。胸元の服の下では、甘い赤の実が擦れている。
わたしはまだまだ生きられる。片割れじゃないひとりの大人として、日々を歩いている。
「じゃあね」
いつかインクが尽きたそのときは、あの手紙について十二分に弄り倒してやろう。
そうして、あの姉が真っ赤になるまで恥ずかしがるところを見てやるんだ。
END
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