monomania

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 見知らぬ女の家に閉じ込められて半月が経とうとしていた。打ちっぱなしの壁に、電球が吊るされただけの照明――なにも身につけていない身体を動かすたびに、無機質な部屋にじゃらじゃらと鎖の擦れ合う音が響く。部屋の中央に置かれた無駄に豪奢なベッドだけが柔らかで温かみがあり、どれだけ過ごしてもそのちぐはぐさには慣れない。ここは地下室なのか、窓はなく、どんなに叫んだって無駄だと女は嬉しそうだった。おれは一日の大半をベッドか、その付近で過ごすほかなかった。両手と両足に枷を嵌められているからだ。手は左右を五センチ程度の鎖で繋がれており、ほとんど動かすことができない。足は肩幅程度なら開くことができたが、両手両足の枷からはさらに鎖が伸び、それらはベッドの四隅に繋がれていた。食事は日に三回で女が運んでくるが、ほとんど動かないことと監禁されているという異質な状況のせいか食欲が湧かなかった。もともと痩せているほうだったがますます線は細くなり、筋力も衰えている気がする。ベッドの上にいてもまともに眠れず、つねに寝不足で疲れが溜まっている状態だ。ぐっすり眠り込んだ日といえば、限界がきていつのまにか意識を失っていたときぐらいのものだった。  カチャンと鍵の外れる音がして扉が開く。なんのために来たのかわからないが、あいつがやって来たんだ。おれを地下に繋いで監禁している女が。 「やっとお客様が帰ったの。ご機嫌いかが?」  軽やかな足取りで女はおれに歩み寄る。ふわりと揺れるワンピースから覗く素足を噛みちぎって、おれと同じように自由を失わせてやりたくなった。が、四肢を繋ぐ鎖がそれを許さない。鎖は女にとって都合の良い長さに調整されていて、無理に動こうとすると枷の金具が身体に食い込んで痛みが走る。何度もそうしたせいか、手首の内側やくるぶしの辺りには痣ができていた。おれが苦痛に顔を歪めると、女はそのたびに子どもをあやすようにこう言うんだ。 「あらあら、どうしたの? 大丈夫よ、暴れなければなにも痛いことなんてないわ」  そうしておれの手首を撫で、手錠と腕の隙間に舌を這わせる。指一本さえ通らない狭間に溜まった垢を舐めとりながら、頬を上気させた。 「おい、今は何時だ」  名残惜しそうに腕から離れた女の口元が濡れている。赤い口紅で縁取られた唇が唾液でてらてらと光って艶めかしい。  女は美人だ。憂いを帯びた眼差しやそこに影をつくる長いまつ毛、すらりと華奢な身体に、その上をさらさらと流れる髪。おれに好意を持っていると知って、気を許したのがいけなかった。初対面だったのに出会ったその日にのこのことこの家へついて来て、出された酒を飲んだ。こんなに頭のおかしな奴だとは思いもせずに――こいつはその酒に薬を混ぜていたんだ。 「十一時三十八分よ。お腹が空いたかしら? すぐに昼食を用意するわ」  女は自身の腕時計から目を離し、おれの唇にキスすると部屋をあとにした。    あいつの言うことが嘘か本当か確かめる術はないが、おれの質問にはなんでも答えた。日付や時間はもちろんのこと、なぜおれを監禁しようと思ったのか、それも包み隠さずに。  おれには覚えがなかったが、女とは以前に会っているらしい。場所はおれの住むアパートだ。女は不動産で収入を得ているようで、管理者としてアパートに来たことがあると話した。そのときにたまたま夜勤明けで帰宅したおれと会話をしたそうだ。アパートに問題はないか、快適に過ごせているか、そんな二、三の問答を交わした程度だが、女は恋に落ちた。おれは特段モテるわけじゃない。過去に彼女は何人かいたが、至って普通の男だ。なにが良かったのかさっぱりわからないが、とにかく女はおれを気に入ってしまった。それからあいつはおれのことを丹念に調べ上げたそうだ。思い出すだけでも気持ち悪いが、「ストーカー」という文字が脳裏を過った。  ここに来て二日目の朝、おれをどうするつもりなのかと尋ねた。すると女の答えはこうだった。 「危害を加えるつもりはないわ。わたし、あなたのことが大好きだから、あなたを全部知りたいの。あなたが朝どんな顔で目覚めるのか。あなたがどんなふうにトーストをかじるのか。あなたがどんな顔で読書するのか。あなたがどんなふうに用を足すのか。あなたがどんな声でよがるのか」  まるで熱に浮かされたようにうっとりとした表情で、女は続けた。 「あなたが死ぬまであなたを見続けるわ。あなたの命が尽きたら、次はお腹を裂くの。あなたの身体がまだ温かいうちに。あなたの身体がまだ自分は生きていると錯覚しているうちに。血の通った胃や肺や腸を一つひとつこの手に取って眺めたい。あなたを形づくっている一つひとつを慈しみたいの」  戦慄が走る、とはこのことだ。女の夢物語を聞いておれは自分の未来を知ってしまったのだ。    ――おれをここから出すつもりはない。  絶望に支配された。死ぬまでこうして裸で手足を繋がれて、無機質なこの部屋で衰えていくっていうのか。どんなに声を出してもそれが届くことはなく、手錠が外れる気配もない。どうしろというんだ。……いや、なにもするなということか……。    無気力に、女のなすがままに、一週間以上を過ごした。用意されたものを口にして、夕食のあとには身体を拭かれ、時には女の性欲のはけ口になった。苦痛はなかった。なにも感じられなかったとも言えるかもしれないが、女の言うとおり本当に命の危険はなかったし、身体の自由がないぶん、女はかいがいしくおれの世話をした。  ただ、一つだけどうしても生理的に受け付けないことがあった。(しも)の世話――要するに排泄に関わることだ。女は定期的にポータブルトイレを持ってやって来た。ベッドの近くにでも置いたままにしてくれたらいいのに、わざわざ都度運び込むのだ。そしてトイレを設置すると、目の前に座り込んでおれが用を足すのをじっと待っている。三十分だろうが一時間だろうが、そこから動かない。結局、我慢できなくなって女の前で排泄することになるんだ。なにが楽しいのかにやにやと、手で口元を覆っても隠しきれないほどの笑みを浮かべて、あいつはそれを見る。至って健康ないい大人がトイレの世話をされるんだ。これまでに受けたことのない屈辱に幾度も涙が出そうになった。  おれの尻を拭いながら、赤い唇は囁く。 「恥ずかしがらなくてもいいのよ」  気色が悪い。絶対にこんな所から逃げてやろうと思った。しかしすぐに身動きの取れない状況に打ちのめされて、またなにを考えることもなく日々を終える。その繰り返しだ。おれが死ぬまで、もしくは女が飽きるまで、こうして過ごしていくしかないのだと諦めていた。  ――二日前、あることを思いつくまでは。  朝食の時間だった。持ち手のついたカップに注がれたスープを飲んでいるとき、偶然咳き込んでしまったんだ。枷があるせいで両手の自由が利かずそのままスープを溢してしまった。女は熱かったでしょうとスープまみれになったおれの身体を拭くのに懸命だったが、おれは手の平から腕まで伝う液体を見てはっとした。これを口実にできないか、と。諦観に染まった心が闘志にも似たものに塗り替えられてゆく。ここから出るんだ。使えるものはすべて使う。心を殺してでも。  スープを溢してから、液体のものはペットボトルや紙パックでしか出てこない。女は美しさに欠けると不満そうに漏らしたが、火傷のおそれや余計な掃除を増やさないためにやむを得ないと考えたのだろう。であれば夕食のあと――女がおれの身体を拭くときがチャンスだ。  ♦︎♦︎♦︎  いつものように食事を終えると、食器を下げる女を見送ってからベッドの上で時が来るのを待った。悟られないようにしなければいけない。できるだけ自然に。強気になってはいけない。女が警戒してしまう。弱々しすぎてもだめだ。庇護欲なんてもんじゃない、あいつの――あれは嗜虐心だ、それを煽りかねない。  カチャン、と、鍵の外れる音がする。心なしかいつもよりも耳に響く気がした。おれは大きく深呼吸をして項垂れた格好で女を迎えた。 「さあ、身体を拭きましょうか」  蒸気の立ち昇るタオルをいくつも載せたトレーをベッドの近くに置くと、女はおれの顔を両手で包み、覗き込んだ。柔らかな唇とカサついた唇が触れる。(ついば)むように何度も重なっては離れ、そのうちに下唇を口内に含ませるように吸い付いてくる。唇を縁取るように舌を這わせ、丹念に、丹念に、文字通り味わっているのだ。そうして何分も一方的な口づけを交わし、満足するとようやく唇を解放する。 「夕食のミートパイ、美味しかったかしら?」  尋ねているようでその実、おれの返答など求めていない。女は機嫌良さそうに一枚のタオルを広げ、明日はシャンプーをしましょうね、などと言いながらおれの首筋に当てる。肩、二の腕、肘と少しずつ指先へと向かい、手錠の辺りまできたところでおれはようやく口を開いた。 「最近、手首が痒い」  ぶっきらぼうに聞こえただろうか。だが、これがいつもの話し方だと思う。その証拠に女はいつもの調子で返事をした。 「ごめんなさいね、ここは拭きづらくって」  困ったように笑みをつくる女に、おれは意思のある眼差しを向けた。 「手錠を外して、拭いてほしい」  こんなことを言うのは監禁された翌日以来だった。女は多少面食らったような顔をしたが、すぐに笑顔に戻る。 「それはできないわ。あなたを疑いたくはないけれど、もしもこの部屋を出て行かれたら困るもの」 「そんなことはしない」 「……わからないわ。わたし、あなたと離れたくないの。最近とても幸せなのよ。ようやくあなたと過ごせる日々がやってきたんだもの。夢にまで見た日々……いいえ、まだ、夢みたいよ。あなたが同じ家にいる。ここに来ればあなたに触れられる。ずっとあなたを見ていられる。どんなに待ち望んでいたことか」  女はおれの胸に身体を預けるように寄り添った。甘えた声を出しながら、銀食器を拭き上げるかのように丁寧にタオルを動かす。 「でもこれじゃあおれから触れることはできない。片手だけでいい。身体を拭くときだけでもいい。この手を自由にしてくれたら、おまえを引き寄せることができる。抱き締めることができる」 「あなたが……わたしを……? そんな……でも……」  小細工でもなんでもない。真実を述べた。だから女には、おれが嘘を吐いているかどうか見極めることができなかったのだろう。いや、嘘を吐いていると思うことができなかったのだろう。 「なあ、外してくれないか」 「本当に? 本当に、出て行かない?」 「行かない」 「じゃあ、じゃあわたしとずっと一緒にいてくれるのね?」 「ああ」 「それじゃあ……愛してるって言って……?」 「もちろん。……愛してる」  ――こいつはおれの言葉を信じたいと思っている。重ねられる甘い言葉をどれほど欲していたことだろう。自由の利かない手をなんとか動かし、おれの真意を得ようとする女の細い指に絡めた。じゃらじゃらと鎖の擦れ合う音が地下室に響き、それが女の背中を押したようだった。 「……わかったわ。少しだけ……手首を拭くときだけよ」  そう言うと、一度部屋を出た。戻ってきた女の手には小さな鍵が一つ。いつもとは違う、緊張した――しかしこのあとに待っているであろう甘美な時間への期待を隠しきれていない面持ちでこちらへと近づいてくる。おもちゃのようなちっぽけな鍵を回すと、手錠はカチリと音を立てていとも簡単に外れた。途端に右手の重さと圧迫感が消え、宙に浮いたように楽になる。女は痣ができた手首を撫でたあと、少々冷えてしまったタオルで優しく包むように拭いた。 「少し、冷たいな」 「そうね。新しいものと交換するわ」  女がベッドの縁からトレーへ手を伸ばす。完全に背中を向け、タオルを掴み取ったのと、おれが女の首に手をかけたのはほとんど同時だった。すぐさま女の身体をこちらへ引き寄せ、抱き締めるように上腕で首を抱え込む。腕をできるだけ自分の身体に近づけ、さらにもう片方の腕で補助すれば自然と首が絞まり、筋力の衰えたおれでも充分に圧迫することができた。女は苦しそうに腕の中でもがいている。声とも言えないような呻きを上げながら懸命に逃れようとしていた。整えられた爪がおれの腕に食い込み皮膚を裂いていく。燃えるような痛みに耐えながら力を込め続けた。  しかし生命の危機に瀕した抵抗力は凄まじいもので、半月の間ろくに食わず、動きもしていなかったおれの身体は暴れ回る女を完全に押さえ込むことができなかった。顎を腕の中へ滑り込ませ、肉を食い破ろうかという勢いで噛みついてきたのだ。先ほどまでとは比べ物にならない痛み。情けなくも、女を懐から逃してしまった。これで事態は振り出しに戻る……いや、それどころかマイナスに向かってしまった。おれは、女を怒らせてしまったんだ。 「殺そゔどしだのね」  すぐさまおれから距離を取った女は、ゼェゼェと呼吸をしながら嗄れた声を出した。髪は乱れ、目は血走り、涙や涎で顔面を汚している。崩れた化粧が死地から舞い戻ったばかりの女の顔に凄みを与え、そのわずかな時間の激動を物語っていた。 「そゔ……愛じでるなんて……嘘、だったのね……」  呪詛のようにぶつぶつと独りごちる女にどんな言い訳をしようと、もはや手遅れだ。なにを言ってもこちらを見ようともせず、ばらばらになったタオルをおしぼりのように丁寧に巻いてはトレーに載せている。  そして女は、死刑宣告をした。    ――「明日、あなたを殺すわ」  自由になった右手などもはや些末な問題なのだろう。おれの手に再度枷を嵌めることもなく、女は地下を去った。  その晩、なんとか空いた手を駆使して残りの錠を外そうとしたが、錠よりもそこからベッドまで伸びる鎖に動きを制限されてしまい、逃亡は叶わなかった。ここから――あの女から逃げ出そうなんて無謀だったのかもしれない。また、おれの中で諦観が渦巻いてゆく。明日どうやって命乞いをするか。次はそんな考えが脳内を巡った。  ♦︎♦︎♦︎  女はどこか上機嫌だった。昨夜あんなことがあったにも関わらずいつものように美しい化粧を施し、「ご機嫌よう」とおれの前で微笑んだ。いつもと違うのは朝食を用意していないことだった。  笑顔の裏に殺意が隠されていると思うと素直に挨拶を返すのが憚られ、おれはただ女を凝視することしかできなかった。目を離した瞬間になにかされるかもしれない。そんな恐怖に支配されていた。  女がベッドに乗ると、ギッと軋む音がする。おれに近づくたびに鳴るその音がやけに耳に障った。まるで死神が歩み寄ってくるみたいだ。伸ばされた手をとっさに払いのけたが、「あなたを愛しに来ただけよ」と両手で掴まれる。 「全部、全部愛してあげるわ。頭のてっぺんからつま先まで。小さなほくろも吹き出物も、身体の外側も内側も、あなたのすべてを。大丈夫よ、安心して。あなたがわたしに反発しても、まだわたしを好きじゃなくっても、あなたを嫌いになんてならないわ」  ふと気づくと、掴まれた手がぶるぶると震えていた。「心配しないで」恋人同士がそうするように、女は自身の指を絡ませて手を握る。それからおれの頭に、額に、瞼に、耳に、あらゆる場所に口づけた。  こいつがこんなに頭のおかしい奴じゃなかったら、きっと今頃は幸せの絶頂にいるんだろう。愛を囁かれる喜びを全身で感じていただろう。それが今は、少しずつ近づいてくる死に怯えているだけだ。  ――どれほど時間が経ったのか、女はおれの全身に、それこそ頭のてっぺんからつま先までキスをすると、ようやく離れてくれた。ぴったりと接していた女の熱が半身から失われるとひんやりとした空気が肌に触れ、できた隙間へと幾分かの安堵が流れ込む。  と、思ったのもつかの間。  女の右手が自身のワンピースをたくし上げ、太ももが露わになる。指先は情欲を刺激するように白肌を這い、おれの目は無意識にそのあとを追った。人差し指の先が大腿を覆う、その太ももには似つかわしくない人工物に触れたとき、血の気が失せるような恐怖が全身を駆け巡った。  まるでガーターベルトのようにレースやリボンがあしらわれているが、女が納められているものをホルスターから引き抜くと、切先が照明に反射して鈍く光を放つ。なんの前触れもなく、それはおれの肌を撫でた。  次の瞬間、叫び声を上げるほどの痛みが左腕を襲う。じわじわと、次第にだらだらととめどなく溢れ出る赤いものを見ながら女は喫驚した様子だった。 「あら……そんなに痛かった? ごめんなさい。でも大丈夫よ。繰り返すうちに感じなくなるわ」  ナイフについた血液をなぞり、舐め取って、愉悦する。次はどこを切りつけてやろうかと思案するようにおれの全身を眺めた。そして今度はナイフを握った右手を大きく上に掲げる。気が触れたような高笑いと同時に振り下ろされた(やいば)は、無防備な太ももをめがけて降りてきた。    痛みに悶えるおれを女が興奮気味に見下ろす――という事態はなんとか避けられた。サディスティックな愛情を甘んじて受け入れるほど、心の奥底まで絶望に打ちひしがれてはいなかったらしい。刃先が肉に突き刺さるすんでのところで女の腕を掴んでいた。可動域は狭いが、それでも両手に枷が嵌められているよりはましだ。右手でナイフを持った手の動きを封じ、もう片方の手でめちゃくちゃに女を殴りつけた。手錠の金具や鎖が女の顔に当たろうと血が出ていようと知ったこっちゃない。無論、女も抵抗するが、加減をしないおれにとうてい敵うはずもなかった。ややもするとナイフを取り落とし、目も虚ろになっている。ベッドに放り出された血濡れの刃物を奪い取り、おれは、女の腹を刺した――。  死んだのか気絶したのか、倒れ伏した女は動かなくなった。腹から溢れ出す血液がベッドに大きな水たまりをつくっている。たとえ生きていようと、もう虫の息だろう。人を刺すなんて初めての経験だった。いや、ほとんどの人間がそんなことは経験しないで人生を終えるだろうが……。  殺される恐怖で震えていた手が、今も震えている。これは自分の行いへの恐怖によるものだろうか。妙な高揚感と緊張に包まれて心臓はどくどくと強く速く脈打っているのに、頭の中はどこか浮き足立つようにふわふわとしていた。  ともかくここから逃げよう。いまだ手にしているナイフを、手足とベッドを繋ぐ鎖に向けて突き立てる。何度も何度もそうしているうちに刃こぼれし、さらには折れてしまったが、なんとかすべての鎖を断ち切ることができた。女は部屋に入ってきたときに鍵をかけただろうか。覚えていない。でも施錠されていようが破壊すればいい。なんたって、手足が自由に使えるんだ。  ――ふと。  ぬるりと生温かいなにかを剥き出しの背中に感じた。次いでまとわりつくものとその重み。 「逃がさないわ」  振り向くまでもなかった。 「わたし、死ぬかもしれない。だってほら、こんなに血が出ているの。見て、このナイフ。わたしの血で真っ赤よ。これでまたあなたを刺したら、あなたの血とわたしの血がもっと混ざり合うわ。どんな色になるかしら。混じり合ったわたしたち、見てみたいわ」  重症にも関わらず、女は饒舌に語る。辺りを見回すと、酷使したせいで折れてしまったナイフは柄の部分しか見当たらなかった。ああ、そうか。こいつはきっと、待っていたんだ。おれが油断するのを。凶器を放り出すのを。 「ねえ、愛しているわ」    女が耳元で呪いを吐くと、まるで電気が走ったような鋭い痛みが身体を襲った――。 終
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