契約成立

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「俺は君に本名は決して教えないから、俺の事はこれから「楓」と呼ぶように。いいね?」  急に黙り込んだ私を怪訝に思ったのか、男性……いや楓さんは強調するように言った。  ついつい昔の事を思い出し、一人で胸の苦しみを覚えていたが、今、私が向き合わなくてはいけないのはこの男性である。  いくらまだ癒えきっていない傷だったとしても、「彼」の事を思い出して感傷に浸っている場合ではない。  私は思い出だけは鮮明に思い出せるのに、容姿や声や外見は綺麗に思い出せなくなってしまった彼への思いを振り払うように、首を軽く振った。  いきなり借金を背負った女に自宅を警備させたいなどと言ってくるトンデモ男ではあるが、私がこの契約を引き受けてしまった以上、もうこの人からは逃げられない。  私に出来るのは、この人の個人情報を今後深く知っていき、自宅警備員を辞める時に有利になるネタを一つでも多く掴んでおくだけ。 「分かりました、これからあなたの事は楓さんって呼びます」  これから同居する人間を偽名で呼ぶのもちょっと複雑な話だが、ひとまず妥協しておく。  彼の本名についてはいずれ調査していこうと思うが、本人が言うつもりがないのなら、今この場でこれ以上追及しても意味はない。 「あぁ、そうしてくれ。俺は引き続き、君の事を杏と呼ぶから」 「……本当に、あなたはなんで私の事を知っているんですか?」  私はおずおずと尋ねる。
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