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「あぁ、そうしてくれ。俺は引き続き、君の事を杏と呼ぶから」
「……本当に、あなたはなんで私の事を知っているんですか?」
私はおずおずと尋ねる。
過去に私に恋してたとか、私の事ならなんでも知っているとか言っているけど、それらが本当なのかは分からない。
でも、この人からは私に対して冷たい悪意と、それとは相反した不思議な愛着のようなものを感じるというのはあった。とても初対面の人間には抱かないような。
私がド忘れしているだけで、本当に私と楓さんは面識があったのかもしれない。
それか楓さんが私の事を一方的に見知っているだけといった可能性もあるけど。
でも、このパターンだったら、ただのストーカーじゃないか。いくら事務処理がやたら早いイケメンでもそれは絶対に嫌だな。それこそ訴えたら勝てそう。
彼は不思議とどこか複雑そうな声音で、口元を皮肉げに歪めながら言った。
「俺は君が「過去の俺」を思い出すのも不都合だし、思い出さないのも不愉快なんだ。でも、君が俺の弱った顔を見たいと望むのなら、「過去の俺」を知る努力をするといい」
この口振りだと、やはり私と彼は知り合いだったのかもしれない。
どれぐらいの仲の良さだったのかは分からないけど、こんなに私に拘っているようである彼の存在をすっかり忘れてしまったらしい事への罪悪感が胸の奥にちりりと小さく生まれた。
……いや、こんな無茶苦茶な事を言ってくる人相手にそんな感情を持つ必要はないんだろうけど。
「分かりました、頑張ってあなたの事を思い出します!」
楓さんの弱みを握るという意味でも、忘れてしまった彼の事を思い出した方がいいだろうという意味でも。
「いい返事だ……俺を思い出したとしても、君は贖罪も懺悔もする必要はない。ただ、俺の望みを叶えてくれればいい」
「……あなたの望みが、どんなものかにもよりますね」
「君はそういうと思って、契約書に書いておいたよ。君が俺の事を思い出したら、俺の望みを全て叶えると」
「いつの間にそんな!?」
……やっぱり楓さんの事を思い出そうとするのはやめようかなぁ?
私は彼の用意周到さに怯えながら、今後の私の人生が少しでもマシなものになる事を心の底から祈った。
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