54人が本棚に入れています
本棚に追加
「杏、追われてるのかい? それなら助けてあげようか」
私の腕を掴んでいる男性の、低いテノールの美声に体がビクリと震える。
その声は、どこか聞き覚えがあるような気がしたけど、それは気のせいな気もするぐらい、遠い記憶から出てきたようなものだった。私は少し困惑した。
しかし今はそんな事より借金取りから逃げきる事の方が大事である。
「あなたが私の名前を何故か知ってる事も、私の抵抗をノーダメに抑えられるハイスペな方である事もひたすらにどうでもいいんですけど、お願いなので腕を離してください! 本当にヤバいんです! 助けていただける意志があるなら、私を逃がして!?」
「そう。俺も君の事を今、じゃあ勝手に逃げろと突き放す事は簡単に出来るけど、そうしたら君は最終的には遅かれ早かれあの男に捕まるだけじゃないのかい?」
「……う……まぁ確かにここで逃げ切れても、最終的には捕まるだけかもしれないんですけど」
完全に痛い所をつかれた。借金取りから逃げ続けるのは、ただ単に目の前の危機をとりあえず避けたいというただの現実逃避ではあるのだ。
しかし、私が愚かにもついつい彼への抵抗を一瞬止めてしまった時、遂に借金取りがもう目の前に現れていた。これはこれで普通にヤバい。
冷や汗がどっと流れる。死にそうな程の恐怖が体を襲った。
「おお、こいつを捕獲してくださってありがとうございます、イケメンさん! いや、こいつは借金を踏み倒したクソ女で、逃げ足だけは早くてね」
「はは、分かります。杏は本当に逃げ足だけは早いですよね」
その声音はぞっとする程に冷たいもので、目の前の借金取りよりもよほど恐ろしく聞こえた。急にどうしたというのだ。
借金取りも「お、おう」と表情筋を引きつらせているが、今だけは借金取りの気持ちが分かる。
急にこんなに怖い一面を見せてきたという事は、借金取りの今の発言に何か彼の地雷を踏むような所があったのだろうか。
最初のコメントを投稿しよう!