397人が本棚に入れています
本棚に追加
この日、少しの残業をこなしてからパソコンの電源を落とし、ちらりと経理課の様子を伺うと、太田の姿が見えない。今日はもう帰ったのかとほっとしたが、油断はできないと思い直す。周りの皆んなに帰りの挨拶をしてから、ロッカールームへ向かう。そこで恐る恐る開いた携帯には、特に何の通知も入っていなかった。それでもまだ安心できず、身構えたままロビーに降りて行く。そこにも太田の姿はなく、そこでひとまず肩の力を抜いた。
今日も本当に来るのだろうか――。
帰路につく足取りが重くなる。
怖い。でも別れ話をするためには電話ではなく会った方がいいだろうしーー。
矛盾するそんな葛藤を抱きつつ、アパートの部屋の前にたどり着く。
「いない……」
太田に会わずに帰って来られたと胸をなで下ろし、バッグから鍵を取り出す。鍵を開けてドアノブに手をかけた。ドアを開けたその時、間近で声がして背筋が凍りつく。
「お帰り。残業?」
声がした方にぎくしゃくと顔を向けた。太田だった。
彼はにこやかな顔で私の傍までやって来て、じりじりと後ずさる私を捕まえるようにその腕を私の腰に回した。
「何をそんなに驚いてる?俺に聞いてほしい話があるんだろ?夕べ言ってたじゃないか。だから来たんだ。上がるよ」
太田は私の返事を聞くことなくドアを開けて、私を引きずり込むようにしながら玄関に入った。
ドアを閉めると鍵をかけ、私が止める間もなく部屋に上がり込んだ。
「待って!部屋に上がっていいなんて言ってない!」
太田は肩越しに私を見る。
「ふぅん?話はいいのか?俺はこのまま帰ったって構わないけど。俺の方には話はないから」
そう言って太田は帰るそぶりを見せた。
最初のコメントを投稿しよう!