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太田が話題を変えたことに少しほっとして、私は口ごもりつつ答える。
「そうですね。言ったことは、なかったですね」
新旧の上司である経理課長と総務課長、あとは親しい同僚の連絡先くらいしか知らない。会社で毎日のように会うのだからと、その他のメンバーと連絡先を交換する必要性をあまり感じていなかった。
太田はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出した。その中から抜き出した一枚に、ペンで何かを走り書きする。
「これ、渡しておくから」
「……名刺?」
「そこに書いたの、俺の番号。もし俺と付き合ってもいいって少しでも思ってくれたなら、電話をかけてきてほしい。待ってる」
「でも……」
受け取るのをためらっていたら、太田は私の手を取ってその上にぽんっと名刺を乗せた。
「冗談で言ってるわけじゃないから。考えてみてほしい。……なんだ。もう笹本のアパートか」
名残惜しそうに太田が言う間にも、タクシーはウインカーを出して路肩に寄って行く。
「また明日な。今夜は付き合ってくれてありがとう」
太田の言葉にすぐに頷けなかったことを申し訳ないと思ったら、胸がちくりと痛んだ。
「おやすみなさい」
私はぺこりと頭を下げて、そそくさとタクシーを降りた。太田を見送るために振り向いて、私を見つめる彼の目に気づきどきりとした。
タクシーのドアが閉まる。
太田が窓越しに手を振る。私もまたそれに応えるように、おずおずと小さく手を振り返した。
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