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 自分の教室まであと数歩というところで「おはよう」と声をかけられ、望月架(もちづきかける)は後ろを向きながら返事をする。そこにいたのは、いつもつるんでいるクラスメイトの牧野だった。 「最近、機嫌が良いよな?」  その通りだったが、「そう?」と曖昧に返す。 「呉羽(くれは)と同じクラスになれたから?」  正解だが素直に認めるわけにもいかず、「なんだよそれ」ととぼける。 「あ、その程度じゃ、ここまで機嫌良くならないか。あいつが誰とも付き合ってないからだろ」  分かっているのなら聞かなきゃ良いのに。ウンザリしながら、牧野と一緒に教室に入る。廊下側の四列目にある自分の席に腰を下ろしたところで、また牧野が寄ってきて、架の後ろの席――そこは呉羽の席だが――に座る。 「最近だれとも付き合ってないよな、呉羽の奴」  声のトーンを抑えて、牧野がしつこく言う。 「うん、二年の十一月からずっとフリー」  受験に専念したいのかもな、と付け加えると、「それだけかな」と牧野が意味ありげに架の顔を見る。 「望月のことが好きなんじゃないの」 「そうやって俺を持ち上げるのはやめろ。期待しちゃうじゃん。それで勘違いだったら立ち直れない」  繕うのも面倒になり本音を口にする。 「そうなったら、また俺が慰めてやるって」 「もう彼女持ちなんだから、そういう事いうなよ」  ひそひそ話になったせいで、お互いの顔がだいぶ近づいていた。牧野の唇がすぐ目の前にある。愛嬌のあるアヒル口だ。  ――こいつと十回以上はキスしてるよな。  なんて、ふと思った。でも牧野とは、キスよりもセックスの回数の方が多い。いちいち数えていないけど。  呉羽、おはよう、と女の子の声が連なり、教室内がざわつき始める。  架は教室内の時計を見る。ショートホームルームまであと二分という時刻。  だるそうにこちらに向かって歩いて来た呉羽が、あからさまに嫌そうな顔をした。 「どけ」  牧野が座っている椅子――もともと呉羽の席だが――を、呉羽が容赦なく蹴った。 「わあ」と声を上げ、牧野が体のバランスを崩す。横向きの体勢で床に落ちそうなのをなんとか堪えた。が、勢い余ってへっぴり腰になって床に立った。 「大丈夫?」  牧野に向かって一応呼びかけると、彼は「あぶねーわ普通に」と呟いて、呉羽の方を悔しそうに見る。 「荒い! 俺に対する扱いが雑過ぎる!」  本気では怒ってはいないようだが、不満が籠った声だった。十センチ背の高い呉羽の顔を見上げて文句を言う牧野は、はっきり言って滑稽に映る。 「だから何」  さっさと自分の席に戻れ、と呉羽に冷めた声で言われ、牧野が不服そうな顔をして架の顔を見た。薄情な奴め、少しは俺を庇えよ、とその目が訴えてくる。が、架はそんな視線を軽くいなして、とびきりの笑顔を作って呉羽に挨拶する。 「おはよう。もう少し早く来れば? いつもギリギリじゃん」 「無理。ギリギリまで寝てても眠いし」  さっきとは一変して、温かみのある声で呉羽が言う。彼が椅子に座ったところで、担任の教師が教室にやってくる。  前を向く架に、架にだけ聞こえる声で呉羽が囁いてくる。 「牧野とは距離を置けよ」 「――なんで」 「俺が嫌だから」  ――だから、何で?  声に出せない問い。  嬉しくないわけがない。呉羽のこの、思わせぶりな態度が。  ――俺はお前のことが大好きだし?  両想いの予感だって少なからずある。  でも期待はしない方が良いと自分を戒める。  付かず離れずの今の関係が良い。自分は気に入っている。これ以上踏み込んだら、バランスが崩れると言う確信があった。
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