アムンゼン 22

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 「…二人とも、なにをグズグズしている!…」  アムンゼンが、私たち二人を怒鳴った…  明らかに、イライラした調子で、怒鳴った…  そこには、いつもの3歳の幼児を演じているアムンゼンの影も形もなかった…  そこにいるのは、権力者…  サウジアラビアの王族であり、サウジアラビアの絶対権力者の姿があった…  だから、オスマンが、慌てた様子で、  「…オジサン…スイマセン…」  と、言いながら、廊下を駆け出した…  そして、その際に、小声で、  「…矢田さん…オジサンは、なぜだか、今日は、機嫌が悪い…矢田さんも、言動に気を付けることです…」  と、私にアドバイスした…  私は、すぐに、  「…わかったさ…」  と、返した…  触らぬ神に祟りなし…  ホントは、こんな機嫌の悪いアムンゼンの元には、一刻もいたくなかったが、仕方がない…  ホントは、逃げ出したかったが、それも、できんかった…  できんかったからだ…  だから、私は、おそるおそる、アムンゼンの元に、行った…  アラブの至宝の元へ、近寄った…  「…すまんかったさ…」  と、言いながら、近寄った…  しかしながら、そんなことでは、アムンゼンの機嫌は、直らんかった…  直らんかったのだ…  私が、下手に出ているのを、無視して、  「…さあ、行きましょう…」  と、言った…  少しも、機嫌が、直っていないのは、誰の目にも、明らかだった…  私は、その後、オスマンの運転するロールス・ロイスに乗りながら、あのラーメン屋に向かった…  正直、ロールス・ロイスに乗りながら、こんなに緊張したのは、初めてだった…  これまでは、ロールス・ロイスに乗ること自体に、緊張した…  この平凡な矢田トモコが、ロールス・ロイスに乗ることなど、滅多にないからだ…  しかし、今は、違った…  隣に、不機嫌な、アラブの至宝がいた…  いつもは、この矢田に愛想が、いいアラブの至宝が、なぜか、今日は、機嫌が、悪かった…  すこぶる、機嫌が、悪かった…  だから、私は、ロールス・ロイスの後部座席にアムンゼンといっしょに、乗りながら、  「…オマエ…なにか、今朝悪いものでも、食べたのか?…」  と、聞いてやった…  ほかに、理由が、思い当たらんかったからだ…  だから、そう聞いてやった…  すると、アムンゼンが、ビックリした表情で、私を見た…  この矢田を直視した…  実に、マジマジと、凝視した…  それから、  「…矢田さん…それは、冗談かなにかですか?…」    と、聞いた…  だから、  「…冗談なんかじゃないさ…」  と、答えてやった…  「…冗談じゃない?…」  アムンゼンが呟くと、それっきり、考え込んだ…  そして、十秒か、二十秒、経ってから、出た言葉は、  「…矢田さんは、どういう思考形態を、持っているんですか?…」  と、いうものだった…  「…思考形態?…」  「…そうです…どこをどう考えれば、今朝、なにか、悪いものを食べたと考えるんですか?…」  「…だって、世間でよく言うゾ…」  「…それは、ギャグです…お笑いです…わざとウケを狙って、言っているだけです…」  「…なんだと? ウケだと?…」  「…そうです…あるいは、場を和ますためとか…」  「…」  「…でも、矢田さんは、そのいずれにも、当てはまらない…どう見ても、本気で言っている…だから、どういう思考形態をしているのか、聞きたくなるのです…」  アムンゼンが、言った…  真顔で、言った…  私は、考え込んだ…  さすがに、この矢田トモコも、35年生きてきて、面と向かって、そのような言葉を投げられたことは、なかったからだ…  だから、悩んだ…  悩み抜いた…  そして、それを、横で、見ていたアムンゼンが、  「…矢田さんは、面白過ぎです…」  と、言った…  「…面白過ぎだと?…」  「…そうです…」  「…どうして、そう思うんだ?…」  「…ボクとのやり取りを見れば、誰でも、そう思いますよ…そうだろ? オスマン?…」  アムンゼンが、ロールス・ロイスを運転する甥のオスマンに聞いた…  オスマンは、  「…それは…」  と、口ごもった…  「…それは、どうした?…」  と、アムンゼン…  ロールス・ロイスの運転席と後部座席の間には、窓ガラスがあり、一見、声は、聞こえないようになっているが、後部座席に座る人間からは、行き先を告げることが、できるように、マイクが、仕込んである…  そして、ロールス・ロイスは、普通は、片側通行、すなわち、後部座席から、運転席にいる人間に、一方的に、告げることが、できるだけだが、このロールス・ロイスは双方向、すなわち、電話のように、双方から、互いのやり取りが、できるようになっていた…  しかしながら、それでは、本来、運転席と後部座席の間の窓ガラスは、不要…  だから、おそらく、後部座席からは、運転席に座るものに、自分たちの会話が、聞こえないようにも、できるのだろう…  一方的に、後部座席から、運転席に指示を与えることも、できるのだろう…  しかし、今は、それをしていないだけに、違いない…  なぜ、そんなことを思うのか?  それは、この矢田が、35歳のシンデレラだからだった(笑)…  平凡な家庭に生まれた私は、ロールス・ロイスに代表される超がつく高級車に、これまで、縁もゆかりもなかったが、夫の葉尊と、結婚して、世界が、変わった…  夫の葉尊は、台湾の大実業家、葉敬の一人息子…  しかも、今は、日本を代表する総合電機メーカー、クールの社長だ…  実父の葉敬が、クールを買収したからだ…  それゆえ、世界が、変わった…  この矢田の住む、世界が、変わった…  これまで、一度も見たこともない高級車に乗ることが、日常茶飯事になった…  だから、わかるのだ…  私は、思った…  思ったのだ…  そして、私が、そんなことを、考えていると、隣のアムンゼンが、  「…どうした? …なぜ、答えない?…」  と、しつこく、オスマンを追及していた…  「…勘弁して下さい…オジサン…」  と、オスマンが、泣きを入れた…  「…勘弁しろ、だと?…」  オスマンが、怒った…  顔色を変えて、怒った…  それを見かねた私は、つい、  「…アムンゼン…」  と、口を出した…  「…なんですか? …矢田さん?…」  「…相手が、答えられない質問を、しちゃ、ダメさ…」  「…」  「…相手を困らせちゃ…ダメさ…」  私は、言ってやった…  「…オマエは。偉いかも、しれんが、相手を困らせちゃ、ダメさ…そんなことをすれば、無用の敵を作るだけさ…」  「…」  「…オマエは、偉いから、そんなことは、ないと思うが、もし、もし、だ…オマエが偉くなくなったら、どうなると、思う?…」  「…ボクが、偉くなくなったら?…」  「…そうさ…誰も、オマエの面倒など、見てくれんさ…」  「…」  「…だから、いつも、オマエの周りにいる、オマエに仕える人間に感謝するのさ…そうしないと、もし、仮に、オマエになにか、あったときに、誰も、オマエの面倒を見ては、くれんさ…今は、オマエが、偉いから、みんな、オマエに仕えているだけさ…」  私が、言うと、アムンゼンが、黙り込んだ…  アラブの至宝が、黙り込んだ…  私は、心配になった…  もしや、言い過ぎた?  そんな思いが、心に浮かんだ…  だから、黙った…  これ以上、なにか、言えば、藪蛇になるかも、しれんと、思ったからだ…  すると、だ…  これまで、黙っていたアムンゼンが、口を開いた…  ゆっくりと、口を開いた…  「…矢田さんと、いうひとは、面白い…実に、面白い…」  と、口を開いた…  「…面白いだと?…」  「…そうです…」  「…どこが、面白い?…」  「…いつもは、わけのわからない話をしているとかと、思えば、突然、まともなことを、言い出す…一体、どっちが、ホントの矢田さんですか?…」  「…どっちが、ホントの矢田だと?…」  「…そうです…普通は、バカを演じていても、実は、頭がいい…それが、大半です…しかし、矢田さんは、普段、バカをしているのも、矢田さんだし、頭が、いいのも、矢田さんです…同じ人間に頭がいい矢田さんと、頭が悪い矢田さんが、いるんです…これは、一体、どういうことですか?…」  アムンゼンが、言った…  思いもかけないことを、言った…  私は、どう答えて、いいか、わからんかった…  わからんかったのだ…  そもそも、そんなことは、考えたことも、ないことだったからだ…  だから、悩んだ…  悩んだのだ…  そして、どう答えて、いいか、悩んでいると、いつのまにか、あのラーメン屋に着いた…  私たち3人が、乗ったロールス・ロイスが、止まって、ハンドルを握るオスマンが、  「…オジサン、着きました…」  と、マイク越しに告げた…  だから、わかった…  わかったのだ…  そして、オスマンの声を聴いたアムンゼンが、  「…そうか…」  と、一言、呟いた…  それから、私を見て、  「…さあ、矢田さん、食べに行きましょう…」  と、私に告げた…  つい、さっき私にした質問は、追及せず、私に言った…  だから、私も、内心、安心して、アムンゼンといっしょに、ロールス・ロイスを降りた…  降りたのだ…                <続く>
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