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ただいまは、愛言葉
明かりのついていない部屋に入った瞬間、美琴は靴を脱ぎながら「ただいま」と言った。しかし、その声は反響することなく闇の中に消えた。時計の音だけが静かに響いている。大吾の車は駐車場にあったから、彼が家にいることは間違いない。それでも応答はない。
美琴はため息をつき、リビングに足を踏み入れると、そこにはソファで横になっている大吾の姿があった。彼はテレビを見ているのかと思いきや、画面は真っ暗なまま、リモコンを手に持ち、まるで映像のない無音の映画に見入っているようだった。
「ねぇ、大吾、帰ったんだよ」と美琴がもう一度声をかける。
「ああ…ただいま」大吾が低い声で返す。
美琴の眉がピクリと動いた。「それ、私のセリフなんだけど?」
「何で?俺も今さっき帰ったばかりなんだ」
「だからって、私が言う前に返さなくていいでしょ?」
「別にいいだろ、早いもん勝ちだ」
「そういう問題じゃないの!」
美琴はソファの前に立ち、大吾を見下ろす形で腕を組んだ。大吾はため息をついて立ち上がり、美琴と向き合った。
「そんなに大事か?『ただいま』って言うのが」
「大事だよ!それがないと一日が終わった気がしない」
大吾は頭をかきながら苦笑いを浮かべた。「美琴、お前、細かすぎるって」
「細かいかもしれないけど、それが私のルールだから。お互いに『ただいま』って言い合うことが、私たちのルーティンでしょ?それを守らないのは、なんか許せないんだよ」
大吾は少し黙り込み、その後、ふっと美琴に向かって歩み寄る。そして、彼女の肩に手を置き、まるで何かを悟ったように頷いた。
「ごめん、美琴。じゃあ、もう一回やり直そう」
大吾は一度玄関に戻り、再び扉を開けて「ただいま!」と元気よく言った。美琴は一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔を浮かべて「おかえりなさい」と返した。
だが、大吾が再び玄関を閉めた瞬間、彼は振り返って言った。「次は絶対、俺が先に『ただいま』って言うからな」
美琴は目を細めて微笑んだ。「負けないから」
その夜、二人の間に静かな競争心が芽生えた。それは些細な「ただいま」をめぐるバトルだったが、互いの存在を確かめ合うための大事な儀式だった。
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美琴と大吾はそれぞれ喜寿を迎えた老夫婦。結婚して、はや五十年。
いまだに、二人の日常にちょっとした攻防が繰り広げられていた。
お互いの声を聞くこと、それだけで安心するのだ。
永遠の、愛。
若いときから年を経て
変わらぬ、愛。
老夫婦の日常は、これからも変わらない。
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