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1.行ってらっしゃい
慌ただしく夏物のスーツのジャケットを羽織りながら、静馬は廊下を滑るようにして玄関に至り、もどかし気にクッション性の高いサイドゴアブーツに足を入れた。
「いつものウイングチップじゃないの? 」
プラダのビジネスバッグを手に、パートナーの加津佐が追いかけてきた。
彼はスウェットパンツの上は裸体に麻のシャツを羽織っただけで、昨晩静馬を組み敷いた白く瑞々しい胸板を見せつけている。
微かに香るワンダーウッドが、静馬に昨晩のベッドでの痺れるような快感を思い出させ、呆けたような顔のまま動きを停止させてしまった。
「し・ず・ま・さーん……大丈夫? 」
「あ、いや、今日は大捕物になりそうだからな。この方が脱げにくいし膝に優しい」
「もう、オジさんみたいなこと言って……」
「オッさんだもん」
「はい出ましたオッさん卑屈病」
年齢の事になるとどうも卑屈になり易い静馬を揶揄うと、グッと子供のように口を尖らせるから堪らない。
「ウソ。貴方は本当に綺麗、とてつもなく優しくて、世界一エロくて……ほら、耳の後ろからピーチなフェロモンがプンプン」
気を取り直してバッグを受け取ろうと伸ばした静馬の手を引き寄せ、加津佐は熱いキスをした。
「お、遅れる」
「貴方の足なら間に合う」
今日に限って、加津佐は濃厚に舌を入れて絡みつくようなキスを仕掛けてくる。危うく腰砕けになりそうになって、慌てて静馬は顔を離した。
「おい」
「待ってるからね、店で。気をつけてね」
「……うん」
目尻に笑い皺を刻んて、静馬が微笑み返した。
ああ、何て美しくていい男だろう……夜仕事でまだ覚醒しきれていない頭だからか、余計に静馬が色っぽく見えてしまう。
「すまんな、いつも俺に合わせて起こしちまって。もう一度寝ろよ」
そう年上らしいことを言って、静馬はちょっと立て付けの悪いドアを蹴り破るようにして慌ただしく出て行った。
年上としての威厳を何とかして保とうとするところも、猛烈に可愛い。
ベランダから見下ろすと、新宿御苑とマンションの合間に走る旧甲州街道に飛び出して駆けていく長身の後ろ姿が見えた。
もっと早く起きればいいのに……つい夜に愛を重ね過ぎて寝過ごして、ああしていつもジャケットをはためかせて駆けていく。引き締まったあのお尻が悩ましく揺れて、45とは思えないストロークで……あの後ろ姿を見るのが、朝の一番の楽しみと言っても過言ではない。
「行ってらっしゃい、僕の美人さん」
彼は果たして、今日が何の日かを覚えているのだろうか……。
昨晩恋人に激しく愛され過ぎて腰が痛い……などとは微塵も言えるわけがなく、静馬は無理をせずに途中でタクシーを拾って新宿東署に着いた。
「お早う」
涼しい顔を装って声をかけると、すっかり全員揃っている課の部下たちが一斉に返礼をした。
「お早うございますっ」
今日は、朝はごみ収集のタイミングでの脱法ドラッグを扱う違法風俗店のガサ入れ、夜は公園前の立ちんぼの一斉補導とケツ持ちの炙り出しを予定している。
「課長、お早うございます……ちょっと、まだピーチの香りがしてますけど」
ああ? と睨み付けると、悠太はニヤニヤと耳の後ろを指した。
「う、うるせぇぞ」
「はいはい。これ、張り込み位置です。確認願います」
本店時代から付き従い、本店の連中からは『稚児』と揶揄されてきた加川悠太が、目当ての店の周辺地図を差し出した。
「よし。歌舞伎町ビルの東側には少年課を配備。莉子、行けるか」
「いつでも」
二児の母でもある少年係の佐々木莉子係長が、既に捕物仕度をして威勢良く返事をした。30代半ばの中堅選手だが、高齢のホームレスには『お嬢さん』と呼ばれる程若々しい外見である。
「家出の未成年に接待させて、粗悪なドラッグを垂れ流す連中だ、一網打尽にするぞ。全員防弾ベスト着用、拳銃所持を許可する」
脱法ドラッグの流通には、大抵落ち目のヤクザか半グレが絡んでいる。悪ければ外国マフィアだ。ただし今回のヤマは組対ともよく連携の上で、成田組の直参のそのまた下の下に位置するはぐれヤクザと判明している。銃撃戦になるほどの弾数を持っているとは思えないが、用心に越したことはない。
「行こう!! 」
「おおう!! 」
静馬の掛け声に、威勢の良い咆哮が部屋中に響き渡った。
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