2.待ち人

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2.待ち人

 ゴールデン街の入り口にある小料理屋『かづさ』  青線時代の名残で、小さな敷地面積ながらメゾネットになっている。棟続きに他の店が並んでいるが、ここは下界とゴールデン街の境界線に位置し、端の店舗でもあるため、道の交差に沿うように三角に少し飛び出している。故に、清々しい木目調に統一された店内には、逆さL字の7人がけカウンターの他に、小振りのテーブル席が2セット置けるだけの広さがあった。  平凡な平日。客の入りもまた平凡で、特に忙しいほどでもなく、かと言って暇なわけでもなかった。  着物姿に襷掛けで、前掛けをして一人で料理と客あしらいをする。  185センチと長身の加津佐が天井に頭が付きそうになりながら丁寧に調理する姿がSNSで取り上げられてから、女性客が増えた。  区役所が近いこともあり、酒が苦手でも、美味い夕食を食べたいという常連も付いてくれている。  事業に失敗した親に13歳でヤクザに売られ、闇のSMクラブで見世物にされ、常連客に救われてやっと学校に行かせてもらい、二丁目でウリ専の傍らレストランで働きつつ20歳の時に調理師免許を取り、銀座の割烹料亭で本格的に料理人として働き始めた。追い回しからの厳しい修行にも耐えて必死に働いて金を貯め、ようやく手に入れたのがこの店だ。  その銀座の割烹で知り合った先輩から教わった『チキン南蛮』が縁で、静馬との人生が見事に交差した。  メニューにはないチキン南蛮を目当てに静馬は通うようになり、メニューにないチキン南蛮を仕込んで、加津佐は静馬を待つようになった。  そして、店主と客として時を経て、ゆっくりと、しかし事が成就するときは性急に……気がつけば、かけがえのないパートナーとなっていた。  後で知るのだが、先輩が若い頃に修行していたという店こそが、静馬の母方の祖母が女将をしていた向島の料亭だったのだ。  チキン南蛮のレシピは、女将が賄い料理に振舞ってくれた時に教わったというのだ。  静馬にとっては、祖母の味を受け継いだ母の味であり、母が再嫁した先での苦しい日々の記憶の中にただ一つ残る、幸せな思い出の味なのであった。    恋人同士になった後、チキン南蛮が取り持つ奇縁を知った時、二人して驚愕したものである。 「静馬さん……」  客が切れた時に、加津佐は手早くチキンの下ごしらえを済ませた。  こんな風に、誰かを思いながら下ごしらえをするようになるとは、静馬に会うまでは思ってもみなかった。  誰かを思いながら……早く会いたいと願いながら……。  7人がけカウンターの最も奥の席には、今日も『予約席』のプレートが置かれている。常連客はとっくに、それが加津佐の大切な人の席だと知っていて、荷物を置いたりもせず、満席の時でさえ座ろうとはしなかった。   「ねぇ、まだ良い?! 」 「善さん! もちろんですよ。いらっしゃいませ」  区役所勤めの壮年の男が、友人を連れて引き戸を開けた。 「あ、チキン南蛮? ……そっか」  ジャケットをもどかしげに脱ぎながら、常連客は加津佐の手元を見て意味深に微笑んだ。  冷蔵庫にチキンをしまい、加津佐は急いでおしぼりを差し出すと、キッチンから出てジャケットを受け取り、長押に掛けておいたハンガーに吊るした。連れの上着も同じようにハンガーに掛けて吊るした。 「善さんは生ですよね。お連れ様はどうされますか」 「あ、僕も生で。今日、すごく蒸し暑くて……次長、良い店ですね」 「だろ。このマスターの料理、何食っても美味いぞ」 「有難うございます」  加津佐はそう受けて生ビールをジョッキに注ぎ、丁寧に差し出した。 「善さん、マグロの頭肉の甘辛煮、ご用意しましょうか」 「あるの?! 嬉しいなぁ」  二人が乾杯している間に、手早くマグロの頭肉を大根と甘辛く煮たものを盛り付け、提供した。と、善さんがビジネスバッグの中から小さな箱を取り出し、加津佐に差し出した。 「これ、良かったら。マスター、いつも一人で頑張ってるから」  それは、有名パティシェが手掛ける高級チョコレートであった。 「有難うございます! 大事に、大事にいただきます」  加津佐はチョコレートを両手で包み、胸に押し抱いた。    この街で店を営み始めた事で、人生が暖かく、色彩に溢れた日々となった。  親に裏切られ、人に捨てられて拾われる、そんな繰り返しの荒波のような人生だった加津佐に、初めて人の情を教えてくれた場所。  諦めずに生きてきて良かった……そう思わせてくれるのが、この街なのだ。    そうここは、幸運の城なのだ。 「ご馳走さん、頭肉、美味かったよ……彼と、素敵な夜を」  連れがトイレを使っている間に、善さんは精算を済ませ、加津佐に小声でそう囁いた。 「あの予約席の人、これから来るんでしょ。マスター、ちゃんと仕込んでるじゃない、チキン南蛮」 「お見通しですね、参ったな」  加津佐は照れたように目を伏せて微笑み、釣銭を善さんの手に乗せた。 「……またお待ちしています。今日は本当に、どうも有難うございました」  二人の背中が見えなくなるまで店の外で見送ると、加津佐はそのまま暖簾をしまった。  今日は、この暖かく満ち足りた心のまま、静馬を迎えたい。  丁寧に、加津佐はカウンターを磨いた。  自分に素晴らしい人々を引き合わせてくれたこの幸せの城に、何より静馬を繋ぎ止めてくれたこの白木のカウンターに、感謝を込めて。
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