4.ただいま

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4.ただいま

 少女達の送致の手続きの目処が立った時には、とっくに22時を回っていた。大きく溜息をついて壁時計を見た瞬間、静馬はガタッと立ち上がった。 「やばい……」  加津佐の店は、ゴールデン街の他の店より早仕舞いだ。  酒も良酒を取り揃えてはいるが、決してダラダラ飲ませる店ではない。  もうとっくに、清掃もレジ締めも終わっている頃だろう。    ジャケットを椅子の背もたれから引き剥がし、静馬は部屋を後にした。 「ス、スミマセン、コノホテルノバショ、ワカリマスカ? 」  靖国通りを爆走し、新宿区役所まで辿り着いた時、静馬は外国人の観光客に道を聞かれて足を止めた。  放って置けずに目的のホテルまで送り、また猛ダッシュで来た道を戻ってきた。  ゴールデン街の灯りが見える遊歩道を突っ切るだけと言うところで、今度はサラリーマン同士のケンカに出くわした。 「ったく、それ以上ケンカするなら応援呼ぶけど、どうするの? 」  流石に苛立ちながら静馬が身分証を見せると、サラリーマン達は愛想笑いをして三々五々、散って行った。 「くそう……」  こんな日に限って、何故こうも家が遠いのだ……静馬はネクタイを外してシャツのボタンを外し、襟を大きくくつろげて、また走り出した。  今度こそ……と、ようやく辿り着いた小料理『かづさ』の引き戸を開けたら……店の中は暗かった。  誰かがいる気配もなく、無論、加津佐もいない。  暖簾はしっかり仕舞われてしまっているではないか。 「も、最早これまでか……」  今日ほど刑事という仕事の際限のなさを忌々しいと思ったことはない。  公務員と言いながら何なのだ、この超が100個は下らない数を冠にしたブラックぶりは!! 「すまん、加津佐……」  カウンターの端に額を押しつけるようにして、静馬は詫びた。  実は加津佐は、常連の善さんがハンカチを忘れていったことに気づいて慌てて追いかけ、何とか渡し終えた後、花園神社で静馬の無事を願ってから帰ってきたのだった。 「あ、やば……」  鍵もかけずに飛び出して行ったことを思い出し、加津佐は引き戸に手をかけた。中から人の気配がする……。  合気道の有段者でもある加津佐は、音を立てずに引き戸を開けた。  カウンターの端に、こちらに背中を向けるようにして蹲る影……。  加津佐はパチっと店の電気をつけた。 「静馬さん? 」  地面に膝をつき、カウンターの端に額をつけて小さくなっているのは、間違いなく静馬であった。 「加津佐……」 「ごめん、常連さんの忘れ物を渡そうと飛び出したもんだから……」  かつて伝説の女形と言われた日舞の名手が、撫で肩を艶めかしく狭め、加津佐に横顔を向けた。  ネクタイを解き、シャツを大きくくつろげて露わになっている首筋に汗が光っている。昨日加津佐が刻んだ証も、赤みを帯びて淫靡に光っている。  まるで情事の後の女優のような儚気な色気に、加津佐は心を奪われていた。 「すまん加津佐、今日は俺達の、一周年記念なのに……」 「……え、覚えていてくれたんだ」 「当たり前だろ、大切な日なんだから……」  そう、一年前の今日、二人はこの二階で初めて一つになったのだ。  ゆっくりと距離を縮め、心の覆いを剥がし……大胆に互いの敷居を跨いで性急に求め合った。  あれから、ちょうど一年目の、二人の記念日。 「すまん、何も、用意できなかった……」  申し訳なさそうに、静馬が目を伏せた。 「お帰り、静馬さん」  加津佐が笑って両手を広げると、静馬はよろよろと立ち上がり、疲れ切った顔でしがみついてきた。    静馬の耳の後ろから、甘々なピーチの香りが立ち上る。彼が甘えている時に発する、ぞくぞくするようなフェロモンの香りである。  汗ばむ髪に手を入れて撫でると、静馬が加津佐の肩に顔を乗せて呟いた。 「ただいま……」 「お帰り、お帰り静馬さん……あなたが無事に僕の元に帰ってきてさえくれたら、それでいいんだよ。そんな顔をしないで」  そう、無事に、今日も無事にこの体温を腕に収めることができた。  それでいい。  うん、と子供のように返事をする静馬の腹から、派手な音がした。 「え、何も食べてないの……」 「……昼も食べ損ねた」 「嘘でしょー!! 」  加津佐は思い切り静馬を突き放し、カウンターに飛び込んだ。 「すぐ支度するから、チキン南蛮」 「マジ?! やったぁ!! 」 「ほら、手を洗ってお利口に座る」  すると、静馬は手を叩いてはしゃぐなり、奥の洗面台に手を洗いに行った。 「あのさぁ、僕の前でだけキャラ崩壊してない? 」  そう言いつつ、自分の前でだけは、甘えたり子供っぽい仕草をしたりする年上の美人が、猛烈に可愛くてならない。    お互い、13の頃に癒えぬ傷を心に刻んだ者同士だからこそ、心に蓋をすることなく真情を見せ合えるのだ。  最後の恋で、最後の愛だと、言葉に出さずとも互いにそう決めている。 「いただきます」  指先まで神経の行き届いた美しい所作で手を合わせたのも束の間、一口目を頬張った静馬が、その艶やかな瞼を閉じて堪能した。 「ああ……今日は特に、このチキン南蛮が食いたかったんだ……」  静馬の好きなワカメと長ネギの味噌汁を手渡すと、加津佐が調理場から出てきた。 「辛い事件だった? 」 「ん……無力さを思い知らされた。差し伸べた手も、役には立たなかった」  それだけで、どう辛かったのか、今の加津佐にはよくわかる。 「あなたは優しいから……」  ご飯をかき込む静馬の横に座り、加津佐はその口の端についた飯粒をペロリと舐めた。 「俺、加津佐のチキン南蛮、世界で一番好き」 「そう言って食べてくれるあなたが世界で一番好き……そう言えば、男が女に服を贈るのは脱がせる楽しみがあるから、なーんて言うけどさ、ご飯を出すのも、後で食べちゃう楽しみがあるからだったりして」  ピタッと咀嚼を止めた静馬が横目で加津佐を見据えた。  期待と恥ずかしさが混じったような、何とも言えぬ表情。  目の端を少し赤く染め、静馬はまた夢中で頬張り始めてしまった。 「どこから食べようかなぁ……」  むせながらも黙々と食べ続ける静馬を、今夜はどんな風に料理して食べようかと、あの魅惑の姿態を想像してほくそ笑む加津佐であった……。         遠い我が家  〜了〜      
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